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SEASON 2013 / 
vol.11

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FW27/An,Byong Jun

一心不乱

安 柄俊 FW27/An,Byong Jun

テキスト/飯尾篤史 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Iio,Atsushi photo by Ohori,Suguru (Official)

高校時代に全国制覇を達成し、ユース代表の常連だった。しかし、プロ入り後は幾多の困難に見舞われて、
決して順風満帆なプロ生活を送ってきたわけではない。一時は選手生命の危機にも晒されている。
だが、中澤聡太は知っている。どんな困難にも立ち向かい、必死にもがき、それを乗り越えたとき、
ひと回り成長した新しい自分と出会えることを──。

築き上げたものを捨てて、もう一度チャレンジ

 今シーズン、川崎フロンターレに加入してからここまで、自分にとって最も意味を持つゲームは何か──。

 中澤聡太が挙げたのは、初の完封勝利を飾った浦和レッズ戦でも、接戦を制して勝ち上がったナビスコカップ準々決勝のベガルタ仙台戦でもなかった。

 彼が迷わず答えたのは、サガン鳥栖戦だった。一時は4点差までリードを広げられ、最終的に4-5で敗れた第3節のゲームである。

「あの鳥栖戦は、もうこれ以上ないってところまで自分が落ちてしまった試合。獲得は失敗だったと思われても仕方ないパフォーマンスで、チームスタッフ、サポーター、みんなを失望させてしまったと思います。もう、悔しくて、情けなくて、不甲斐なくて……」

 だが、試合後、彼を待っていたのは、サポーターからの叱責ではなく、惜しみない拍手と温かい声援だった。

 どんなときでも闘争心を欠かさないことを信条とする男である。そうした優しさに触れたとき、本来なら「この人たちを二度と悲しませてはならない」と、心を燃えあがらせるタイプの人間だった。

 しかし、このときは違った。奮い立つのとは反対の気持ちが芽生えていた。
 本当に、すいません……。

 なぜ、謝罪の気持ちしか生まれてこなかったのか。それは、自分が何を求められ、このクラブから声を掛けられたのか、理解していたからだった。

 中澤は過去、二度の移籍を経験している。いずれも20代前半のことであり、出場機会を求めてのものだった。どうすれば試合に出られるかを考え、また、それだけを考えていても許される年齢だった。

 だが、30歳になった今は、違う。
 交渉の席では、フロンターレが自分をいかに高く評価してくれているかが感じられた。「うちにはタイトル経験のある選手がひとりもいない。だから、キミの経験を活かしてほしい」とも告げられた。それにやりがいを感じたからこそオファーに応じ、新体制発表の場で「初タイトル獲得に貢献して、クラブの歴史に名を残したい」と宣言したのだ。そんな自分がチームの足を引っ張ってしまったことに、中澤はひどく落胆した。

 遠路はるばるやって来て、裏切られてもなお温かい声援を送ってくれるサポーターに対し、顔を向けることができなかった。そのとき、彼が最も大切にしていたもの──闘争心が陰り始めていった……。

DF3 YUSUKE 田中祐介

 中澤は昨シーズンまで、ガンバ大阪に在籍していた。

 サッカー選手として最も脂の乗る時期である25歳から30歳までの6年間を過ごしたガンバでは、レギュラーとして数々のタイトル獲得に貢献した。「本当に幸せな6年間でした」と中澤は言う。

 ガンバは昨シーズン、西野朗元監督の後任人事に失敗したうえに、守備も崩壊し、J2降格の憂き目に遭った。守備が最後まで安定しなかったのは、ディフェンスリーダーの山口智が移籍したことに加え、そのパートナーを務めてきた中澤までも、ケガのために長期離脱したことと無関係ではないだろう。

 新シーズンはJ2で迎えることになったが、ケガから復帰さえすれば、中澤のポジションはおそらく約束されていた。チームメイトやスタッフのことを熟知していたし、彼らも中澤のプレーや性格を理解してくれていた。そして何よりガンバというクラブに愛着があったし、降格させた以上、J1に復帰させるのは落とした者の務めだとの想いもあった。
 だが、最終的に彼は、移籍という決断を下す。

「もちろん、簡単な選択ではなかったです。ガンバのことが好きだったし、ガンバをJ1に復帰させなければ、っていう思いもあった。でも、30歳という節目を迎えて、このままでいいのかっていう気持ちも芽生えてきた。そんなとき、フロンターレという魅力的なクラブが声を掛けてくれた。安定を求めるなら、ガンバに残ったほうがいい。でも、安定を求めた瞬間から成長って止まるし、これまでのサッカー人生を振り返ったとき、俺はいつもチャレンジしてきたつもり。だから、ここでも挑戦すべきなんじゃないかって。移籍は困難が伴うものだっていうのは分かってたけど、困難を乗り越えたときに出会える新たな自分に期待して、フロンターレにお世話になることにしたんです」

 新シーズンは、中澤が想定していたとおり、簡単に事は運ばなかった。

 ケガの完治が遅れ、一次キャンプのスタートに間に合わなかった。風間監督のスタイルに慣れるのにも時間が掛かった。そんな状況にもかかわらず、「タイトルをもたらすためにやって来たんだ」と気負っているから、心技体がバラバラで、空回りしてしまう。どうもしっくりこないまま開幕を迎え、鳥栖戦を境にベンチを温めることになる。

「自分の力不足なのは間違いないんですけど、なんか変だな、なんか上手くいかないな、って思っているうちに鳥栖戦を迎え、ひとつの地獄を見た。レギュラーから外され、ショックを受けているって周りに思わせないように、その頃は務めて明るく振舞ってましたけど、チームも結果を出せていなかったから、本当に辛かったし、苦しかった」

 もし、フロンターレが今シーズン、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)に出ていたら、中澤は今も悩んでいたかもしれない。

「リーグ戦ではサブでしたけど、ナビスコでは起用してもらえた。それが大きかったですね。おかげでコンディションも上がっていったし、自分を見つめ直せたし、風間さんのスタイルに慣れることもできた。鳥栖戦の出来を考えれば、ACLだったら使ってもらえなかったと思うんですよ。ナビスコだったからチャンスをくれたのかなって」

 6月にリーグが中断したのも、中澤にとって大きかった。

「ここでひと息つけて、改めてじっくり考えたんです、自分は何のためにフロンターレにやって来たのかって。これまでの俺はもっと闘争心を剥き出しにするタイプだったんじゃないのか、チャレンジしに来たのに何を弱気になっているんだって自問自答したら、心に余裕が生まれてきた。そこからですね、吹っ切れたのは。それで初心に戻って北海道キャンプに臨んだんです」

 中断が明けたあとの試合では、ここまで9試合すべてに先発し、フル出場を飾っている。一時帰国していたジェシもチームに復帰し、ポジション争いはますます熾烈になるが、それこそ望んでいたものだと中澤は言う。

「(伊藤)宏樹さん、井川、サネ(實藤)、それにジェシ……。ライバルは多いですけど、分かっていたことだし、切磋琢磨することで成長できるから、むしろ大歓迎。自分自身、まだまだミスが多いし、風間監督のもと、もっともっと成長して、絶対にタイトルを獲得したいですね。鳥栖戦で声援を送ってくれたサポーターに恩返しするためにも、ね」

いつだって高いレベルに飛び込んで成長してきた

 小学校6年の中澤は、周りの友だちよりも頭ひとつ分以上、抜けていた。

「身長は169センチぐらいだったかな。ポジションはもちろんFWで、身体能力だけでやってる、今の自分が一番許せないタイプでした(笑)。7つ上の兄貴もサッカーやっていて、アニキのお古のユニホームを着てたんですよ。でも、サッカーを始めた頃って、みんな体育着で、ユニホームを着てるのは俺だけ。背もデカいわ、ユニホームも着てるわで、もう目立っちゃって、対戦相手の親から『何よ、あの子、上級生が混じってるじゃない』って、抗議されたこともあった(笑)」

 所属していた埼玉県朝霞市の朝志ヶ丘SCは、市内でも強豪チームの一つであった。しかし、ひとたび県内に出れば、新座片山FCや浦和SCといった名門チームにまったく歯が立たなかった。

 悔しさを味わい、もっと上手くなるにはどうすればいいかと考えたサッカー少年が、よりレベルの高いチームで練習すればいいという結論に達するのは、ごくごく自然な流れだった。中学に進学するにあたって中澤は、一大決心をする。浦和レッズのジュニアユースに挑戦することにしたのだ。

「セレクションには無事、合格したんですけど、そこで衝撃を受けました。レベルが高いのは分かっていたし、それを期待してもいたんですけど、もう想像以上。同じ埼玉に、こんな上手い人たちがいたのかって。最初はサブどころかBチームにも入れなかったですもん。ここで身体能力任せのサッカーじゃ通用しないことに気付かされた。そこからですね、ものすごく考えるようになったのは。どうしたら上手くトラップできるか、どうやったら良いパスが出せるか……。いつも工夫しながら、考えながらやってました」

 子どもの成長の速度には、個人差がある。ほかの子よりも成長が早く、小学生や中学生の頃にすでに人並み外れた足の速さや身長の高さを誇る早熟の子がいる一方で、高校に入ってから成長期を迎え、ようやく身長が伸び始める晩成の子どももいる。

 サッカーにおいて厄介なのは、早熟の子どもたちだ。ほかの子よりも身体能力に優れているから、圧倒的なスピードや高さを武器に早くから頭角を現し、脚光を浴びることになる。ところが、年齢を重ね、周りも成長していくにつれ、身体能力におけるアドバンテージは次第に薄れる。そのとき明らかになるのは、身体能力に頼ってプレーしてきた分、磨くことを怠ってきた基本技術の拙さである。その差を埋められないまま壁にぶつかり、バーンアウトしてしまう。こうして、これまで「和製ロナウド」「和製ファンバステン」ともてはやされた子どもたちの多くが現れては消えていった。
 だが、中澤は違った。

 高身長という自分の武器がいつまでも通用するものでないことに早い時点で気づかされた。それに頼っていれば、むしろ、弱点になることに早くから気がついた。

「だから、めちゃめちゃ練習しましたね。中1の頃はレッズの練習が週3〜4回しかなかったから、練習がない日は中学のサッカー部の練習に入れてもらって、毎日サッカーですよ。こんなんじゃダメだって思いながら、ずっとボールを蹴ってましたね。おかげで中2の終わり頃、レッズでレギュラーになれたんです」


 中学3年になると、ユースの練習に呼ばれるようにもなった。翌年のユース昇格は事実上、決まったようなもの。先輩たちに混じってするサッカーが楽しくないはずがない。想像以上にレベルが高く、実に刺激的だった。当然のことながら、この頃、翌年からのユースでのプレー、その先のトップチームでのプレーを夢見ていたという。
 ところが──。

「たしか、高円宮(全日本ユース)だったかな。西が丘でレッズユースが東福岡と試合をしたんです。それを親父がビデオに撮ってきてくれて、家で映像を見たんですけど、なんと0-7ぐらいで大敗したんです」

 当時の東福岡高には、本山雅志、古賀誠史、宮原裕司、金古聖司、手島和希、千代反田充ら、のちにJリーガーになる選手が多数在籍していた。この全日本ユースのみならず、インターハイ、高校選手権をも制し、史上初の高校三冠を達成するスーパーチームが相手だったとはいえ、憧れていた先輩たちが見るも無残にチンチンにやられる様を目の当たりにしたのである。天地がひっくり返る思いだったことだろう。

「えぇ、高校王者ってこんなに強いのかって、もの凄い衝撃でした。それで、考え直したんです。自分がもっとレベルアップするには、高校サッカーで揉まれたほうがいいんじゃないかって」

 小学生のときにレッズのジュニアユースの門を叩いたのと同じ理由で、高校サッカーに飛び込む決意をした中澤の前に、ひとりのサッカー青年が現れた。市立船橋高の2年生、のちにジュビロ磐田に入団する西紀寛(現東京ヴェルディ)である。

「中3のときに関東トレセンに選ばれたんです。そこには中3、高1、高2が呼ばれていて、阿部ちゃん(阿部勇樹)なんかもいたんですけど、そこに西くんがいて、この人、ただもんじゃないな、っていうぐらい、上手かった。それにすごく優しくて、まあ、言ってみれば、西くんの人柄とプレーに惚れちゃったんです(笑)。そうしたら、西くんが俺のことを市船の人に伝えてくれたみたいで、後日、スカウトの人が来た。それで、お世話になりますって」

 こうして、高校サッカー界屈指の名門チームで3年間を過ごすことになる。

 サッカーにおいても、生活面においても、「徹底的に鍛えられましたね」と振り返るこの時期に、中澤は選手として大きく大成した。2年のときにセンターバックのレギュラーの座を掴むと、その年の高校選手権で全国制覇を成し遂げる。2年前、東福岡の強さに衝撃を受け、高校サッカーに飛び込むことにした際に掲げた目標の一つを実現した瞬間だった。

 ユース代表にも選ばれ、3年時の00年にはひとつ上の先輩たちに混じって、イランで行われたアジアユースにレギュラーとして出場。ストッパーでありながら3ゴールを奪い、準優勝に大きく貢献した。

 ちょうどオリンピック代表で中澤佑二が台頭してきた頃で、中澤は「もうひとりの中澤」として注目を浴びる。Jクラブのスカウトたちは、将来の日本代表を背負う逸材として、彼の名を獲得リストに書き込んだ。それでも中澤はいたって冷静だった。

「ユース代表と言っても、市船から6〜7人ぐらい選ばれるわけですよ。市船ってそんな人ばかりでしたから。なので、プロにはなれるかもしれないって思いましたけど、まだ何も成し遂げていないっていう想いのほうが強かった。高校から僕一人だけが選ばれたっていうなら調子に乗ったかもしれませんけど、調子に乗るような余裕はなかったですね」

 01年、柏レイソルに入団し、「充実してました」と振り返るプロ1年目には、アルゼンチンで行われたワールドユースに出場している。チームはグループステージで敗退したが、中澤自身は3試合すべてに出場し、自信を深めていた。レイソルでは1試合しか出られなかったが、それでも代表で留守にしたとき以外は、ほとんどのゲームでベンチに入り、翌年のレギュラー奪取を確かな目標としていた。

 彼には、輝かしい未来が待っているはずだった──。

DF3 YUSUKE 田中祐介

選手生命の危機、予期せぬオファー、完全復活

「もう、あの頃は地獄でしたね……。今、振り返るのも辛い……」

 クラブハウスの一室、瞳に遠いものを見るような色を浮かべ、中澤はぽつりと呟いた。

「2年目、シーズンが開幕して間もない頃、ジェフとのサテライトリーグで第5(中足骨)を折ってしまったんです。秋に復帰したんですけど、すぐシーズンが終わって、3年目の春、練習中にまた同じ箇所を折ってしまった。シーズンの始めに骨折して、復帰したらすぐにオフ、っていうのを2年続けて、その間、まったくサッカーができなかった。4年目から5年目に掛けて、ようやく試合に出られるようになったら、今度は逆足を折ってしまって……」

 プロのサッカー選手とは、プレーする対価として給料を得られるものだと中澤は考えていた。だとすれば、サッカーをしていない自分はいったい何なのか。給料をもらう資格があるのか──。次第に彼はそんな思いに駆られ、自分を追い込んでいく。チームに貢献できない自分が不甲斐なく、それ以上に、クラブやチームメイト、そして、サポーターに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 3度に渡る骨折は、いつしか彼からトレードマークである笑顔を奪う。

「チームメイトにも会いたくなかったし、スタッフとも顔を合わせたくない。ましてやサポーターには、合わせる顔もない。だから、誰も来てないうちにリハビリしに来て、隠れるようにこそこそ帰ってました。リハビリも1回目はまだ良かったんです。でも、2度目、3度目になると、孤独で、辛くて……。このままサッカー人生が終わっちゃうんじゃないかっていう不安は、いつもありました。クビ切られるんじゃないかっていう不安も。でも、最終的に戻って来られたのは、このまま終わってたまるかっていう思いですね。こんなサッカー人生、絶対に嫌だ。もう一度、サッカーがしたいって。今思えば、クビにせず、待っていてくれたレイソルには、感謝しかないですね」

 06年、復帰した中澤は半年間、レイソルに在籍したのち、FC東京に期限付き移籍する。この年の出場機会はレイソルで2試合、FC東京でも2試合に留まった。
 そんな中澤のもとに、思いもしなかったオファーが届く。

 オファーの主は、05年にリーグ初制覇を成し遂げ、当時、浦和レッズとともにJリーグを牽引する存在だった浪速の雄、ガンバである。西野監督の希望によるオファーだった。

「実は僕、西野さんとは因縁があるんですよ。高校のとき、いくつかオファーをいただいていて、最終的にはレイソルとレッズに絞ったんですけど、レッズに行くつもりだったんです。それで、先にレイソルに断りの連絡を入れて、レッズに連絡しようと思っていたら、電話が鳴って、(当時、柏の監督だった)西野さんからだった。監督自ら電話してきて、『お前、レッズに行くのか、本当にそれでいいのか』って言うんです」

 元々、浦和ジュニアユース出身の人間である。いつか育ててもらった恩を返したいという想いがあった。それに、地元のクラブに入団すれば、両親も喜ぶはずだという気持ちもあった。その一方で、当時のレッズのDF陣の顔ぶれを考え、「早い段階で出場機会を得られるんじゃないか」との算段が、中澤にあったのも事実だった。

 そんな気持ちを見透かされたような西野の言葉が、中澤を激しく揺さぶった。

「西野さんが畳み掛けるわけですよ。『たしかにレイソルに来ても、すぐには出られないと思う。でも、うちで頑張れば、お前は必ず一流の選手になれるぞ』って」

 このとき、レッズはJ2からJ1に復帰したばかり。一方、レイソルは99年にヤマザキナビスコカップを制して初タイトルを獲得すると、00年にはステージ優勝こそ果たせなかったが、年間の勝ち点で堂々のリーグ1位になっていた。目指すはリーグ初制覇。センターバックの顔ぶれを見ても、渡辺毅、ホン・ミョンボ、薩川了洋、萩村滋則ら実力者が揃っていた。これまで常に、自分の実力よりも上のレベルのチームを選び、そこで揉まれて成長してきた中澤である。答えは自ずと定まった。

「確かにそうかもしれないなって。それでレイソルに決めた。そうしたら翌年、残念なことに西野さんが半年で解任されてしまい、僕もケガばかりで……。そんな自分に、あのガンバからオファーが来るなんて……。代理人によると、西野さんが推してくれたそうで、『考える必要なんてない。行かなきゃいけない』と思って、西野さんと心中するつもりで大阪に向かいました。合流したとき、過去の湿っぽい話は一切しませんでした。ただ、『おめぇ、最近、見ねぇな』って言われたんで、『あれ、知りません? トーチュー(東京中日スポーツ)賑わせていたんスけど』って、渾身のひとボケをかましたのは、覚えてます(笑)」


 監督から呼び寄せられた形での移籍だったが、ポジションまで用意されているほど、プロの世界は甘くない。当時のガンバのセンターバックには山口智とシジクレイが不動の存在として君臨していた。

 シジクレイはその年限りで退団したが、翌08年にはブラジルからミネイロ、さらに現役日本代表の水本裕貴を獲得した。

「えぇ、俺、何番手なんだよって思いました。でも、人間、すべてを懸けて何かを成し遂げなければならないときって必ずある。それが今年なんだと思って、ライバルを殺すぐらいの気持ちで練習から全力でやりました」

 幸い、ケガは完治していた。移籍1年目は2試合しか出られなかったが、シーズンを通してベンチに入り、紅白戦でガンバの攻撃陣と渡り合ったことは自信になっていた。

 錚々たるガンバのメンバーにあって、足もとの技術は劣るかもしれないが、常に声を出し、気持ちを前面に押し出す中澤のプレーが結果としてチームを救うことになる。ミネイロがポジションをサイドに移し、不調に陥った水本が突如、退団するアクシデントに見舞われるなか、中澤は山口のパートナーを務め上げた。

 この年、ガンバはアジア王者に輝き、クラブワールドカップにも出場。天皇杯でも優勝し、公式戦の試合数は61試合にも及んだ。中澤の出場試合数も56試合に達したが、ちょっと前まで選手生命の危機に立たされていた男にとって、これは考えられない数字である。

「疲れましたねぇ。もう勘弁してくれって(苦笑)。でも、そう思えるほどサッカーができて充実感を味わいました。これぞサッカー選手。これが、まさに自分がかつて思い描いていたサッカー選手の姿だって思いましたね」

アジアの頂点に立った気分は最高だった。クリスチアーノ・ロナウドと1対1の勝負ができたのは貴重な体験になった。ボロボロになりながら天皇杯を制したチームに対して、誇りを感じた。

 だが、中澤にとってこの年、最高の喜びは、サポーターが選ぶシーズンMVPに輝いたことだった。

「もう泣きましたね。最高に嬉しかったです。誰もがヤットさん(遠藤保仁)だと思いますよね。アジア最優秀選手にノミネートしたほどなんですから。でも、サポーターは僕を選んでくれた。前の年、2試合しか出られなかったけど、何人かのサポーターが『その頃からの頑張りも見てきたから投票した』って言ってくれたんです。それが嬉しかった。賞品としてBMWを貰ったんですけど、受賞した日付をナンバープレートにして、今も妻が大事に乗ってます」

 このMVPは中澤にとって、大きな勲章になっている。

背番号に託された思いとかつての盟友と戦える幸せ

 中澤は今シーズン、フロンターレで「背番号7」を身に付けている。

 7番と言えば、オールドファンは右ウイングを想起するかもしれない。世界的に有名なのは、デイビッド・ベッカムであり、ラウール・ゴンサレス、あるいは、クリスチアーノ・ロナウドといったところだろうか。

 日本代表では長らく中田英寿が、その後は遠藤保仁が担ってきた番号である。いずれにせよ、およそディフェンダーには似つかわしくないナンバーなのは間違いない。
 だが、7番を背負いたいと思う理由が、中澤にはあった。しんみりとした口調で言う。

「サッカー選手にとって一番悔しいのは、ケガしているときに契約満了を迎え、チームを離れることだと思うんですよ。試合に出て構想外を言い渡されたなら、まだ諦めもつく。でも、出られないときに宣告されるのは、何よりも悔しいはず。聞くところによると、彼は去年、グロインペインかなんかで全然プレーできなかったっていうし、ここ数年、ケガに悩まされていたっていうので……」

 それは似た境遇を経験した人間にしか言えない言葉だった。

 去年まで7番を背負っていた彼──黒津勝とマッチアップし、まんまとやられた瞬間のことを、中澤は鮮明に覚えていた。

 09年、万博記念競技場で行われたACLのラウンド16。2-2で迎えた84分、ディフェンスラインの裏に飛び出し、中村憲剛のパスから決勝ゴールを決めたのが、黒津だった。このゴールがガンバのアジア2連覇の野望を砕く。

「同じ年だし、彼は埼玉の高校だし。別に話をしたわけじゃないですけど、ケガに苦しんでいたっていうのを聞いて、代わりに俺がこの番号を披露できたらなって思ったし、躍動させられればなって思って。ホント、勝手なんですけど、いろんな思いでこの番号をもらったつもりです」

 今シーズンからフロンターレに加わった大久保嘉人も、中澤と同じ82年生まれの同級生だ。ふたりはユース代表時代からの盟友で、ともに高校生ながらU-19日本代表に選ばれ、アジアユースを戦った。当時の合宿では同部屋になることも多かったという。

「代表の練習が国見よりも楽だっていうんで、合宿中、嘉人がどんどん太っていっちゃって(笑)。アイツは何にも変わらないですね。ホント、なんも変わらない。嘉人は俺にとって一度、遠くに行っちゃった人間なんです。アイツはユース代表のあと、五輪に出て、A代表にも選ばれて、羽ばたいていった。一方、俺は、ケガをして燻っていた。だから、当時は嘉人を見かけても、話し掛けられなかった。軽々しく話せるレベルじゃないと思いましたから。だから、ガンバで試合に出られるようになって、ピッチで嘉人と戦えるようになったのが、嬉しくて仕方なかったんです。うわ、嘉人とバトれるわって。それがこうして再びチームメイトになって、一緒にタイトルを目指して戦える。嬉しいですね」

 ガンバ大阪で試合に出られるようになった08年夏、雑誌のインタビューで中澤は、自身のサッカー人生を例えて、こんなことを言っていた。

「一度は枯れそうになってしまったけれど、それでも必死に栄養を与え、水をやって、今ようやくもう一度、芽が出始めたところです」

 あれ、覚えていますか──と訊ねると、ハイ、ハイ、ハイといった感じで三度頷きながら、彼は穏やかな笑みをたたえて言った。

「覚えてます。だって、あれ、名言だったでしょ(笑)。今も栄養を与え、水をやって、大事に育てているつもりです。この先、大きな花を咲かせられるかどうかは分からないけど、監督やスタッフ、チームメイト、そして何よりもいつも熱く温かく応援してくれるサポーターの皆さんと一緒にタイトル獲得という形で結実すると、最高ですよね」

マッチデー

   

profile
[なかざわ・そうた]

ガンバ大阪から完全移籍で加入したDF。市立船橋高校時代には高校選手権で優勝を経験。柏レイソル、FC東京を経てガンバ大阪に加入しリーグ優勝やACL、天皇杯を制覇するなど、一時代を築き上げた。熱いプレーと勝者のメンタリティを若い選手たちに伝えてもらいたい。

1982年10月26日/東京都
三鷹市生まれ
188cm/79kg
ニックネーム:そうた

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