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  • ピックアッププレイヤー 2017-vol.01 / 小林 悠選手

KAWASAKI FRONTALE FAN ZONEF-SPOT

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Kobayashi,Yu

フロンターレの顔になれ

FW11/小林 悠 選手

テキスト/麻生広郷 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Aso,Hirosato photo by Ohori,Suguru (Official)

チャンピオンシップが終わり、長期オフが明けてチームに落ち着きが戻ってきた12月。
あと少しのところで届かなかったリーグ戦タイトル、 そしてチャンピオンシップに出場できなかった悔しさをにじませつつ、その表情はどこかすっきりしたようにも見えた。2016年、個人としてはプロ7年目にしてキャリアハイの数字を残し、リーグ戦終了後にはJクラブ数チームから好条件の獲得オファーが届くまでの選手になった。しかし彼が選んだのは、慣れ親しんだフロンターレのユニフォームを着てプレーすることだった。

 「2016年もいろいろな出来事がありました。すごく充実していたのであっという間でしたね。もう1年たったのかっていう感じ。肝心なところでチームが勝てなかったのは悔しいですけど、シーズンを通して見ればずっと上位にいて優勝争いをすることができました。すごく自信がつきましたし、チームが強くなっているのを実感しながらサッカーができたと思います」

 2016年の開幕戦。フロンターレは広島相手に粘り強い試合運びを見せ、小林の決勝ゴールで勝利を挙げた。その後、チームは引き分けを挟みながらも着実に勝点を積み重ね、1stステージは11勝5分1敗という好成績でシーズンを折り返した。小林個人としてもリーグ戦32試合に出場し、2ndステージ初戦からクラブ史上初となる7試合連続ゴールを記録。シーズン通算15得点11アシストと抜群の存在感を見せた。「遅咲きといえば遅咲きかもしれないですけど、逆にこれからまだ伸びていけるんじゃないかな」と、手応えをつかんだシーズンを振り返る。

「2016年は負け試合を引き分けに、引き分け濃厚な試合を勝ちに持っていける試合が多かったです。フロンターレって一度リズムを崩してしまうとそのままずるずる行ってしまうことが多かったんですが、それも少なかったと思いますし。開幕戦で後ろがしっかり守ってくれて勝つことができて、そこから徐々に攻撃でもフロンターレの良さを出すことができました」

 2016年の小林の得点を見ると、同点弾や決勝点といった勝負に直結するようなゴールが多かった印象がある。もともとDFの背後を取る動きには定評があったが、風間監督の指導を受け日本代表に選ばれるようになってからは、個の力で局面を打開することも意識するようになった。より積極的に勝負をしかけることが多くなった結果、得点だけではなくアシスト数も伸びている。ここ一番で頼りになる選手としてひと皮むけた感があるが、具体的に何が大きく変わったのだろうか。

「やっぱり一番はメンタルの部分だと思います。チームのエースはヨシトさん(大久保嘉人)だというのがあって、どこかで遠慮していた部分がありました。実際に3年連続得点王と結果も残していますし、頭の片隅でヨシトさんが決めてくれるんじゃないかって。でも、自分も責任感を持ってプレーしなきゃいけないと思っていましたし、ヨシトさんにも負けたくなかった。自分がチームを勝たせるっていう気持ちを持てるようになったのが大きかったと思います」

MF14/中村憲剛選手

 田坂祐介

 ユウにとってすごく難しい決断だったと思います。俺は一度フロンターレを出て戻って来た身ですけど、同じ移籍でも海外と国内では全然違いますから。

 プロとして何が正解だったのかはわからないですけど、ひとつ言えるのは選手っていいサイクル、悪いサイクルっていうのがあると思うんですね。ユウは2016年すごくいいサイクルだったと思うんですけど、そこで環境を変えてまた一からのスタートとなると相当大変だったんじゃないかなって。俺自身も移籍した当初、いろいろ苦労したので。

 もちろん他のクラブに行ってもっと良くなるかもしれないですけど、それは誰にもわからないです。ただ、フロンターレでプレーして良かったと思えるような、悔いのないサッカー人生にしてもらいたいですよね。自分としてもユウと一緒にサッカーができるのは純粋に楽しいですし。

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シーズンが終わると一度すべてがリセットされ、また新しいシーズンに向けた準備がはじまる。プロの世界はその繰り返しだ。2016年シーズンの開幕前、小林は自宅の寝室の壁に「得点王」「怪我をしない」といったテーマが書かれた紙を貼った。毎朝その目標を目にすることで、自分がどうしたいのか、どうなりたいのかを明確に意識するようになっていった。

「メインの目標の脇に気づいたことを足していたんですよ。『得点王』という大きな文字の横にちっちゃく『ヨシトさんにも負けない』って書いたり、怪我の予防のために何をすればいいとか細かなことも書いていました。これまでそういったことはやってなかったんですが、自分のなかで何か変えたかったんです」

 体のケアにしても細かく血液を検査して自分の体に合わないものを調べてもらい、食事や水分の摂り方にも気を遣った。マウスピースをつけたりヨガを始めるなど、体にいいと耳にするとまず試し、自分に合ったものをどんどん取り入れるようにした。そのかいがあってか、体のバランスさえ崩さなければ筋肉系の怪我の不安はないといい切れるほどのコンディションを維持できるようになった。

 またサッカー面では中村憲剛や大久保嘉人の背中を見てプレーしていたのが、今では自分が一番前に行くんだという強い意識を持つようになった。

「ケンゴさん(中村憲剛)やヨシトさんの後ろについていくだけじゃダメだなって思っていました。あの2人はチームでは別格で突き抜けた存在なので、若い選手たちが追随していくのはなかなか難しいと思うんです。だから僕が間に入ってチームを引っ張っていけるようになったら、若い選手の意識も変わるんじゃないかなって」

 小林はピッチ内外で若い選手と積極的にコミュニケーションを取った。谷口彰悟や大島僚太と寮で食事をしながら、チームのために何ができるかを話し合った。試合で失点したときには谷口や大島の顔を見て、「大丈夫。絶対に点を取るから。俺たちでぶれずにやろう」と自分にも言い聞かせるように声をかけた。

「ケンゴさんやヨシトさんに対して物を言えるのは僕だと思ったし、言うことによって自分自身を追い込むというか。自分も体を張って走らなきゃいけないし、プレーで見せなきゃいけない。言うからには責任がありますからね。ユウが頑張ってるから俺もやらなきゃって、周りに思わせるようなことができたらいいなって思っていました」

 決して順風満帆だったわけではない。大怪我を負いリハビリからのスタートでフロンターレに加入し、プロに入ってからも大きな浮き沈みを経験した。それでも我慢強く、着実に歩みを進め、日本代表にまで上り詰めた。執念を燃やしゴールに向かい、ときにはチームプレーに徹することもできる万能ストライカーとして、小林ならではの形をさらにスケールアップさせた1年だった。

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中村憲剛

 ユウが悩んでいた頃、俺も別メニューでメディカルルームやトレーニングルームで顔を合わせることが多くて、日によって気持ちが違っていたように見えたから声をかけるタイミングが相当難しかったです。

 このタイミングで生え抜きのリーダー格であるユウが抜けるのは、これまでフロンターレが培ってきた生え抜きの選手のラインが途切れることだけに収まらない大きな影響が出ると思いました。下の世代の選手にも影響し兼ねないし、クラブとしての積み上げを失うことでもあるので、『そこだけはどうにかお願いします』って強化部にも話をしました。

 本人は人生で一番悩んだんじゃないかなと思います。うちで7年やってきて自分の力でつかみ取った今回の評価だから、それに対して俺から言うことはないです。それだけの選手になったという評価ですから。

 ただ、「それでも俺のあとを継いで欲しい」と正直に伝えました。入団してから少しずつ自信をつけて代表まで行ったっていう道は、俺と似ているところがあるので。

 今回の件でサポーターの皆さんにもあいつのフロンターレへの思いが伝わったんじゃないかと思います。俺としてもユウが残ってくれて嬉しい限りです。

 その目覚ましい活躍により、リーグ戦終了後には他クラブから獲得オファーが届いた。以前にもそういった話がなかったわけではないが、今回は事情が違っていた。複数のクラブが小林の獲得に乗り出し、報道どおりであれば断るに断れないような破格の条件が提示された。もちろん小林はフロンターレにとって必要不可欠な選手であり、フロンターレとしても最大限の誠意は見せていた。だが、会社の方針やチームの編成予算といった部分を比べたときに、数字だけを見れば到底太刀打ちできない条件だったことは容易に想像できる。

 実際にチーム内では「ユウは移籍するんじゃないか」「移籍しても仕方がない」という空気が漂っていた。

「たくさんのチームからこんなに評価していただいたことにびっくりしましたし、本当に悩みました。あの頃は毎日気持ちが変わっていましたね。ここに決めよう、いや違うって。考えすぎて家でぼーっとしていて、奥さんから『大丈夫?』って声をかけられたり。家族のことも考えると、サッカーができる間に残せるものを残しておきたいとも思っていましたし」

 サッカーをしている瞬間はすべてのことを忘れて没頭できる。しかし、ちょうどその時期、小林はクラブハウスで別メニュー調整を行っており、その都度いろいろな考えが頭を巡っていた。気持ちが揺れている頃、中村憲剛や田坂祐介といったプライベートでも仲の良い選手たちといろいろな話をしたという。

「ケンゴさんからはこれからもユウとサッカーがやりたいし、次にフロンターレを引っ張っていくのはユウだと思うって言ってくれました。ただ、他クラブからあまりにもすごい評価をしてもらったので、そのときは即答できなかったんですけど…」

 1日1日と時間だけが過ぎてゆく。小林の気持ちはなかなか決まらなかった。そんなとき、背中を押したのが妻・直子さんの言葉だった。子どもが寝静まった夜、小林は妻に「正直、どう思う?」と問いかけた。すると直子さんは「もちろん子どものことを考えたら…」と答えたが、こう続けたという。

「でも、ユウくんが一番楽しくサッカーできる場所に行くのがいいんじゃない」

 このひと言が小林の胸に大きく響いた。

 また小林の幼なじみで小中高大と同じチームでプレーし、何でも言い合える間柄という小野寺達也(2016年・長崎)からはこんなことをいわれたという。

「達也に『ユウはフロンターレのサッカーが好きなんでしょ?』って聞かれて、『好きだし、毎日が楽しいよ』って答えたんです。そしたら達也は『毎日楽しくサッカーができるって、本当に幸せなことだよ』って。その言葉にもハッとさせられました。サッカーに限らず毎日が楽しいって思いながら仕事ができるって本当に幸せなことだし、そう思える人が日本中にどれだけいるんだろうって。すごく考えさせられましたね」

 プロサッカー選手は誰もが一度は憧れるような職業だが、夢を仕事にした時点から併せて苦悩もはじまる。もしかしたら大半のサッカー選手が理想と現実の狭間でもがきながら、どうにか折り合いをつけてサッカーと向き合っているのかもしれない。そういった意味でも、小林はプロとしてどうあるべきかという岐路に立たされていた。

鬼木 達(2017年から川崎フロンターレ監督に就任)

 条件的にはなかなか難しいかもしれないけれど、ユウにはお前の残留が一番の補強だということを伝えました。

 気持ちの部分でしか訴えかけられなかったですけど、グラウンドで一緒にランニングしながら話をしたり。天皇杯の浦和戦もそうでしたけど、「やっぱりユウの姿がピッチにないと寂しいよね」って。

 あと話したのは「川崎の顔になれ」ということです。本人もチームを引っ張っていこうという意識がありますから。

 他クラブからの評価は素晴らしいものだと思うし、2016年のパフォーマンスを見ればどこも欲しいと思います。点が取れて、アシストもできて、ボールを追うこともできる。日本人でああいうタイプの選手はなかなかいないです。

  フロンターレとしても、うちはこういうサッカーなんだよっていうのを見せることができて、周りの見本にもなるような選手が必要でした。
 ただ結局のところ、フロンターレに残ってくれた最後の決め手はユウの男気なんですけどね。

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 また報道や噂を聞いて居ても立ってもいられず、熱烈なサポーターが麻生グラウンドに足を運び小林に声をかけた。ブログやSNSにもたくさんのコメントの書き込みがあったという。

「わざわざグラウンドに来てくれて、サポーター1人ひとりが僕に声をかけてくれたんです。自分のことをずっと応援してくれている口数が少ない人が泣いて声を震わせながら絞り出すように声をかけてくれたとき、思わずもらい泣きしてしまいました。普段全然しゃべらない人というのを知っていたから、その言葉にすごく重みがありました。泣くつもりはなかったんですけど、早い段階でその人の話を聞いちゃったもんだから涙腺がゆるくなってしまって。それから何か言われるたびに涙を流しながら、ありがとうございます、ありがとうございますって言ってた気がします。そういう人たちの存在も僕にとってすごく大きかったです」

 そして最終的な決め手となったのが、チャンピオンシップ準決勝、鹿島との一発勝負だった。

 小林はリーグ戦終盤の鹿島戦で負傷しチャンピオンシップに間に合わせることができず、スタジアム上層の関係者席から大一番を観ていた。試合は鹿島の勝利。フロンターレの選手たちがピッチでうなだれるなか、小林は試合に出られなかった無念を押し殺すように手を合わせうつむいていた。

「試合が終わった瞬間、このままチームから出て行くことなんてできない、フロンターレでタイトルを獲らなきゃ絶対にダメだ、この状況で出ていったら僕は本当にかっこ悪い男だって思いました。そのときにここでプレーすることを決めたんです。その日の帰りに代理人に電話して『フロンターレにします』と伝えて、奥さんにも電話をしました。フロンターレに決めたって話をしたら、『ユウくんがそう決めたなら私たちはついていくよ』って言ってくれました」

 プロサッカー選手として大きな決断を下し、迎える2017年。もう気持ちが揺らぐことはない。コンディションを整え、サッカーに集中するのみだ。大きな怪我さえなければ年間を通してコンスタントに活躍できることは、すでにピッチで証明した。そのパフォーマンスを維持し、さらに進化させていくことが新シーズンの小林のテーマだ。

「2017年もいいコンディションを保つためにいろいろな調整法を試していきたいと思っていますし、いいものがあったらチームに還元できるようにしたいです。もしそれで怪我人が減ったり、選手1人ひとりのパフォーマンスが上がっていけば、チームとしてもうひとつ強くなれるので。周りの人たちの助けをもらいながら、また飛躍の年にできたらいいなと思っています」

 川崎フロンターレが創立されて20周年の月日が過ぎ、紆余曲折がありながらもクラブとしての歴史が作り上げられてきた。練習グラウンドやクラブハウス、スタジアムといった施設が新築、改築され、現場を取り巻く環境も少しずつ変わっている。選手やコーチングスタッフも年々入れ替わっていくなかで、クラブのスタイルを確立し、維持していくのはそう簡単なことではない。だからこそ、川崎フロンターレのアイデンティティから生まれた選手の1人である小林の残留は、クラブにとって非常に大きな意味があるのではないだろうか。

「ショウゴやリョウタなんかも責任感が増してきていると思うし、アカデミーから上がってきた三好(三好康児)やコウ(板倉滉)も出てきました。すごく楽しみですよね。2017年は新しい選手も入ってきて、また違った強さを見せられるチームになれるんじゃないかと思っています。ACLもあって最初からタフな勝負になるかもしれないですけど、メンバーが揃えば相手によっていろいろな戦い方ができると思いますし、すべてのタイトル争いに絡むぐらいのチームになれるんじゃないかなって」

2017年から長年クラブに携わってきた鬼木達が監督に就任する。どのようなチームになっていくのかはわからないが、2016年まで監督を務めた風間八宏氏の攻撃的なサッカーを継承しつつ、新しい色を出してくれるだろう。風間氏は卓越した指導力と強いメッセージで選手個々の力を引き上げるタイプだったが、若き新指揮官は川崎フロンターレというクラブで培ってきた経験をもとに、選手と近い距離を保ちながらともに成長していけるのではないかと小林も期待を寄せている。

「オニさんはずっとフロンターレを見てきた人なので、選手の立場からの意見を肌で感じ取ってくれるでしょうし、このチームに足りないものも分かっていると思います。それがプラスに働いて良いシーズンになるんじゃないかなって。オニさんも初めての監督なので色々大変でしょうけど、一緒になって上っていけたらと思っています」

 川崎フロンターレの顔になれ。

 新たにチームの指揮を執ることになった鬼木監督は小林にそう伝えた。

 そのバックボーンにはチームメイト、コーチ、スタッフ、そしてサポーターの思いが宿っている。

 エースとして名実ともに認められる大きな存在になる。
 
 その思いを胸に、小林は2017年を迎える。

「相手ゴール前にいて、最後にしっかり決める役割を果たしたいです。何だか考えただけでわくわくしますね。すごく楽しみです。もちろん長いシーズン、苦しい時期もあるかもしれないですけど、お互いにいい声をかけ合いながらもっと強いチームになっていきたいです」

マッチデー

   

profile
[こばやし・ゆう]

細かな動き直しで対峙するDFと駆け引きをしながら相手の逆を取り、絶妙のタイミングで裏のスペースに抜け出すプレーが最大の武器。日本代表を経験し、パサーと呼吸を合わせるプレーだけではなく個の力で局面を打開する意識も高まっている。

1987年9月23日、東京都
町田市生まれ
ニックネーム:ユウ

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