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KAWASAKI FRONTALE FAN ZONEF-SPOT

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SEASON 2017 / 
vol.04

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Chinen,Kei

夢ではなくプロセス。

FW22/ハイネル選手

テキスト/原田 大輔 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Harada,Daisuke photo by Ohori,Suguru (Official)

 友だちが家に来るやいなや大声で叫んだ。

「ナニ!行こうぜ!!」

 少年はビーチサンダルのまま、条件反射のように勢いよく玄関を飛び出して行く。走って向かった先には同じ年頃の子どもたちが集まっていた。頃合いの石が見当たらなければ、誰かのビーチサンダルをちょうどいい距離に置き、ゴールを作る。それだけで瞬く間に、自分たちだけのピッチが完成した。そこには緑色のふかふかとしたものが敷かれているわけでもなければ、石灰で白い線が引かれているわけでもない。地面はごつごつとしていて、どこまでがサイドラインかも分からなかったが、そんなことはどうでも良かった。みんながビーチサンダルを脱げば、それがキックオフの合図だった。

「小さい頃は、もうずっと道路でストリートサッカーをやっていましたね。基本的にビーチサンダルを履いて過ごしているから、それを脱いでボールを蹴るときは裸足。子どもの頃はサッカーをするか、凧揚げをするか。遊びといえば、そのどちらかでした」

 仲間うちから「ナニ」と呼ばれていた少年こそが、川崎フロンターレの背番号22をまとうことになるハイネルである。

 幼い記憶を辿った彼はにこやかに笑うと、真正面に座るこちらを真っ直ぐに見つめた。その大きな瞳を覗けば、まるで生まれ故郷であるセーハの情景が浮かんでくる。

「セーハはエスピリトサント州の中で一番大きな都市の隣りに位置していたので、それなりに人口は多かったとは思うんですけど、僕が生まれ育ったエリアは本当に危険な地域というか……正直、バイオレンス(暴力)もありました。でも、外から来る人にとっては危ないところでも、そこで生まれ育った自分にとっては、全然、そんなこともなかったんですけどね」

 ハイネルが生まれて間もなく、両親は離婚した。母・ニウザは看護師をしながら、兄とハイネルを育ててくれていたが、ほどなくして母親に新しいパートナーができた。そして継父となるパドラス・アメリコと、その娘(ハイネルにとっては義理の姉)も含めた5人で暮らす生活がはじまった。おそらく母・ニウザにとってパドラス・アメリコは運命の人だったであろうが、それは「ナニ」と呼ばれていた少年にとっても同じだった。ハイネルは継父によって人生を導かれ、誘(いざな)われていったのだから……。

「兄とは2つ歳が離れているんですけど、正直、サッカーはうまくなかったから、一緒にやることはほとんどなかったですね(笑)。だから、サッカーを教えてくれたのは継父。彼には右足で蹴れとか、左足で蹴れとかって言われて、一緒に練習してくれました。家の中でもね(笑)」 ストリートサッカーに明け暮れていたハイネルが、本格的にサッカーを始めるきっかけを与えてくれたのは、他でもないパドラス・アメリコだった。

「たぶん5〜6歳のときだったと思います。継父が、スクールに連れて行ってくれたんですよね。でも、そのときはストリートサッカーのほうが楽しかったから、スクールになんて全く通いたくなくて。だから、行ったり、行かなかったり。行ったとしても、そこで何かを学ぼうという意識はなくて、楽しむことしか考えていなかった」

 ただただ、友だちとボールを蹴っているのが楽しかった。みんなが揃って同じメニューをこなすトレーニングは退屈だったし、型にはまった基礎練習も好きではなかった。ハイネルは、自分たちが作ったピッチで、自由にドリブルして、自らゴールを決めるほうが好きだったのだ。

「ただ、11歳のときに継父がスパイクを買ってくれたんですよね。そのとき、『ちゃんとサッカーをやった方がいい』って言われたんです」

 おそらくパドラス・アメリコは、ハイネルの才能に期待していたのであろう。だから、スパイクを買い与えてまで、サッカーに向き合わせようとしたのだ。継父であるパドラス・アメリコは、当時・電話会社に勤めていたというが、「決して裕福ではなかった」とハイネルも話すように、スクールに通わせる費用もばかにならなければ、スパイクも安い買い物ではなかったはずだ。

「そこからですかね。何となくですけど、プロのサッカー選手になりたいなっていう夢を抱きはじめたのは……」

FW22/ハイネル選手

 ただし、“フェノーメノ”(怪物)の異名を持ち、カナリア色のユニフォームに身を包んで活躍したロナウドに憧れていた「ナニ」が、それだけで変わるはずはなかった。

「子どもの頃は、かなりのロナウドファンでした。それだけで分かるでしょ?(笑)。当時はゴール前にいて守備もせず、得点することだけを考えていた。今よりも、もっと、もっとドリブルばっかりしていたんです。誰にもパスを出さずにドリブル、ドリブルって……まあ、いわゆる王様ってやつですよね(笑)」

 そんな自由奔放な選手をクラブがいつまでも置いておくはずはなく、「追い出されそうになった」と、ハイネルは苦笑いを浮かべる。「このままではプレーする環境がなくなる」と危機感を抱いた彼は、16歳になるとアトレチコ・ミネイロやヴァスコ・ダ・ガマといった強豪クラブのテストを受けた。だが、独りよがりな選手を獲得するほど、サッカー王国の土壌は甘くなく、結果は不合格だった。

「それが最初の挫折と言えば、挫折かもしれない。さすがにテストを受けて軒並み落ちたときには、プロサッカー選手になることを諦めかけました。でも、そのときも僕を励ましてくれたのが継父だったんです」

 陽気で明るい性格のハイネルも、さすがにプレーする環境がなくなり落胆した。家で悶々とした日々を過ごしていると、見かねたパドラス・アメリコが声を掛けてくれた。

「まだお前は若い。これから学ばなければならないことはたくさんあるし、やらなければいけないこともたくさんある中で、テストを受けているんだから、落ちることもあるだろう。ただ、だからといってそこで諦めたら終わりだ。自分の可能性を信じて、やり続けるんだ。何より、お前は才能があるんだから」

 継父の言葉に奮起したハイネルは、地元にあるイジェウというクラブのテストを受けると合格する。18歳になる2008年、ようやくプロとしての一歩を踏み出した。翌2009年には、親元を離れてグレミオ・バルエリというチームでプレーするようになるが、それがまた、大きな転機となった。試合に出られず腐りかけていたとき、またしてもパドラス・アメリコが背中を押してくれたのである。

「監督はお前より、たくさんのことを知っていて、たくさんのことが見えているんだから、まずはその監督の意見を聞いてみたらどうなんだ」

 継父に言われ、当時の指揮官だったファビオ・ジュンチーニョの言葉に耳を傾けてみようと考えた。指示に従ってみると、徐々にだが目の前が開けていった。ハイネルが当時を懐かしむ。

「自分では分かっているつもりだったんですよね。でも全然、分かっていなかった。プロになってからもしばらくは、自分が楽しくて、自分がやりたいことだけをやっていただけだった。継父に言われ、『そうだな』と自分でも考えるようになり、初めて人の意見を聞いたり、戦術を意識したり、いろいろと学ばなければいけないとういうことに自分でも気づかされた」

 それからは嫌いだった守備もするようになった。ドリブルだけでなく、チャンスではパスも選択するようになった。

「2009年にいろいろなことを学んで吸収できたこともあって、翌2010年から試合に出られるようになった。そこが自分にとって本当に大きなターニングポイントだったと思います」

 自らの過去を振り返ることで見えてくることもある。思い起こせば、いつも分岐点で手を差し伸べてくれたのはパドラス・アメリコだった。苦しいとき、心が折れそうになったとき、いつもそこには継父がいて、適切な言葉を掛けてくれていた。自分自身もそのことに気づいたのか、うれしそうにハイネルは語りはじめた。

「看護師をしていた母親はいつも一生懸命に仕事をしていて、あまり家にいなかったんですよね。だから、僕は外ではやんちゃなこともしてましたけど、母親が家に帰ってきたときくらいはゆっくりさせてあげようと思って、家では大人しくしていたんです。継父は口に出す前に、まずは考えてから行動するようなタイプの人で、自分もプロのサッカー選手になってからは、いろいろと勉強するようになりましたし、そこは継父から学んだところかなと……いつも兄と自分を正しい道に導いてくれたのは継父でした」

 そう言って微笑んだハイネルは、さらに満面の笑みを浮かべると、こう言った。

「だから、母親にもよく冗談で言われるんですよ。血もつながっていないのに、あなたたちはそっくりねって(笑)」

 それまで一歩ずつしか登れなかった階段を一気に駆け上がるのに時間は掛からなかった。ハイネルは2012年に移籍したナウチコで大きく弾ける。

「自分としても、かなり『ボン!』って感じでブレイクしたんですよね。ナウチコはいわゆる2部のチームだったんですが、そのときの監督にはかなりアドバイスしてもらったし、サポートもしてもらった。2トップの一角として信頼して使い続けてくれて、ものすごい自信を得ることができました。38試合中34試合に出場して、ほぼ交代もなし。その年、アシスト王になったんですよ」

 それを聞いただけで、明らかにハイネルが変わったことが分かるだろう。かつてはボールを持てば選択肢はドリブルしかなく、傲慢なプレーばかりが目立っていたが、それではアシスト王になることはできない。ハイネルは周囲を活かしつつ、自らが活きる道を見つけたのである。

「そこで大きな自信を得て、一気に道が開けましたよね。だから、2013年に加入したフルミネンセには、かなりの自信を持って移籍した。フルミネンセではコパ・リベルタドーレスにも出場できた。悔しかったのは、その大会の準々決勝でパラグアイのオリンピアに負けたこと。自分が言うのもあれですけど、その年のフルミネンセは本当に強くて、周囲からも優勝する力があると言われていたし、自分たちも勝てると信じていた。それだけに、ホームの第1戦を0-0で終え、アウェイの第2戦では自分のゴールで先制したにもかかわらず、1-2で逆転負けを喫したことが本当に悔しくて。だけど、自分としては試合にも出られていたし、移籍して“半年”くらいはかなり良い時期だったと思っています」

 ハイネルが期間を強調したのは、その後、ケガに見舞われたからだ。順風満帆に進んでいたキャリアは、ここで風向きが変わった。

「ふくらはぎのケガをして、復帰できたと思ったら、また同じところを負傷してしまって……繰り返してしまったんですよね。そのせいで、メンタル的にもかなり難しい時期を過ごしました。すごく調子も良かったし、自信もあった時期だったので、なんでこんなにも長い間、ピッチに戻れないのかって悩んだりもしました」

 すでに実家を出ていたハイネルは一人で生活していた。苦悩したとき、道に迷ったとき、必ずといっていいほど救いの手を差し伸べてくれた継父は、そこにはいない……。ただ、ハイネルが幸運だったのは、人に恵まれていることだろう。母・ニウザにとってパドラス・アメリコが運命の人だったように、ハイネルにとっての運命の人が現れたのである。

「その頃ちょうど、妻のマリエルと出会ったんです。ケガしていたときには、彼女が本当にいろいろなところで僕を支えてくれました」

 コパ・リベルタドーレスで悔しさを味わったハイネルが、自身にとって初となるタイトルを獲得したのは、翌2014年に移籍したバイーアでだった。川崎フロンターレのサポーターにとってはジュニーニョを輩出したクラブとして馴染みのあるバイーアで、彼は輝きを取り戻したのである。

「バイーアはちょうど2部から1部に昇格したばかりで、これから成長していくチームだから、その中で新しいものを作り上げていくのも良いのではないかと代理人に言われて、自分自身もそう感じた。本当に良い1年でした。出場数も多かったし、州選手権で優勝したこともあって、ベストイレブンにも選ばれたんですよ。その後もヴィトーリア、ポンチ・プレッタと、これまでかなりのチームを渡り歩いてきましたけど、そのおかげでいろいろな経験ができたとも思っています」

 ブラジル国内でもそれなりに名が知れ、次なるステップを踏む時期は間もなく訪れようとしていた。そんなタイミングだった。日本からの、フロンターレからの、オファーが届いたのは……。

「正直なことを言えば、初めての海外でのプレーになるので怖さもありました。でも、同時にまた新しい経験ができるとも思った。実は、以前にも海外のクラブからオファーをもらったことがあったけど、そのときは独身だったから、一人で海外生活をすることに抵抗があったんですよね。でも、今は違う。家族もいれば、経験もした。このふたつを得て、オファーをもらえたことは、自分にとっても最高のタイミングだった」

 背中を押してくれたのは、運命の人だった。

「日本からオファーが来たことを知って、何より妻が喜んでくれたんですよね。だから、代理人には、すぐにどこにサインすればいいんだって言いました(笑)」

 妻が反対したらどうしていたかと聞けば、「だったらノーですね」と即答する。やはり妻・マリエルの後押しが何よりも大きかったのだろう。

「妻は何より、僕自身に良い経験をしてほしいと思ってくれていて、このオファーがまさにそれだと思ってくれたんだと思います。それに、日本が安心かつ安全な国だということも聞いていたし、知っていたから、妻もすぐにOKしたんでしょうね。でも、来日した当初は一人。時差もあって家族とコミュニケーションを取るタイミングが難しくて寂しかったですね。あとは、生まれたばかりの息子ジョアンと会えなかったことも辛かった。ブラジルにいるときも、バタバタしていたので、ジョアンと一緒にいる時間が作れなかったので特に……」

 異国の地は文化も違えば、食生活も違ったが、何よりハイネルが驚いたのはサッカーだった。

「来日した最初はフィジカルトレーニングが中心だったんですけど、1週間くらいしてボールを使った練習に切り替わったんですよね。そうしたら、みんながパスを出すスピードだったり、タイミングだったりが速くて、『これは想像していたのと全然違うぞ、自分は何もできていないな』って思った。フロンターレの選手たちは本当に技術が高い。かなりの衝撃でしたよね。おかげで、ここに来てから自分の技術も成長しました(笑)」

 フロンターレでの公式戦初出場は、2月22日に行われたAFCチャンピオンズリーグのグループステージ第1節、水原三星ブルーウィングス戦だった。家長昭博に代わって85分に途中出場したが、結果を残すことはできなかった。リーグ戦にも3月5日のサガン鳥栖戦(第2節)で途中出場したが、試合は1-1の引き分けに終わり、やはりチームを勝利に導くことはできなかった。

 鬼木達監督からは、「1日も早くチームに馴染んでほしい」と言われていた。攻守の切り替えが早く、テンポも早いパスサッカーは「ブラジルでも体感したことがなかった」だけに、自分自身もフィットできていないことは分かっていた。

 それを理解してくれていたのは身近なチームメイト、やはりブラジル人の仲間だった。

「エウソン(エウシーニョ)とエドゥ(エドゥアルド)はケガをして別メニューだったから、もっとも相談していたのはネット(エドゥアルド・ネット)でしたね」

 ある日の朝だった。練習前のクラブハウスでハイネルはエドゥアルド・ネットに素直な心境を打ち明けた。苦悩するハイネルについては、エドゥアルド・ネットが教えてくれた。

「初来日した選手は生活のリズムも違えば、文化も異なるため、最初はどうしても馴染むのが難しい。自分もその経験があるからこそ、クラブのこと、川崎という町のこと、日本での生活のことと、すべてを説明してあげましたよね」

 ネット自身も経験しているだけに、それは痛いほど分かったのだろう。ネットが続ける。

「まず、ブラジルと日本ではサッカーが大きく違う。日本の、フロンターレのスタイルに馴染むには、とにかく時間が必要だと伝えた。ハイネルが焦りを感じていることも分かった。だから、最初は戸惑うかもしれないが、監督の要求に応え、辛抱強く、我慢してやっていくことが大切だと言いましたね。きっと時間がすべてを解決してくれるってね」

 それは、初めて日本でプレーするブラジル人選手の多くが経験するギャップでもあるだけに、解決する方法が“時間”だということをネットは知っていたのである。

 チームメイトに本音を吐露するほどにハイネルは苦しんでいたが、これまで何度も自分を導いてくれた継父は、遠く離れたブラジルにいる。ただ、今の彼には家族が、愛する妻がいた。

「妻のマリエルは、普段は落ち着いていて、大人しい感じなんですけど、ここぞというときは怒ってくれるというか、ビシッと言うタイプなんですよね(苦笑)。だから、サッカーでも悪いプレーをすれば、家に帰ると怒られるんです(笑)」

 少しばかりばつが悪そうな素振りを見せたが、その表情はどこかうれしそうでもある。

「チャンスでシュートを打たなかったり、シュートを外したりしたときも怒られますね。あと、イエローカードをもらったときも怒られます」

 出場記録を振り返れば、第5節のベガルタ仙台戦から3試合連続で警告を受けている。それを指摘すると、「あのときは、叩かれるんじゃないかってくらい怒られました」と、苦笑いした。

 少しばかりそのやりとりを想像して、「前は継父に、今は奥さんに支えられているんですね」と伝えると、「本当にその通り。今は妻がメンタルトレーナーです」と言って、また笑った。

 ただ、そのベガルタ戦でハイネルは手応えをもつかんでいた。

「自分としても良い準備ができて、良いプレーもできた。スタメンで出場できたし、90分間プレーすることもできた。フロンターレに来てからはあの試合が転機になったと思います」

 鬼木監督からは「スピードがあるんだから相手の裏に飛び出したり、もっと前に動き出してくれ」と、事あるごとに言われていた。まさにそのプレーが結実したのが、第10節のアルビレックス新潟戦だった。40分、阿部浩之からのスルーパスをDFの裏で受けたハイネルは、特徴であるスピードを活かして一気に抜け出すと、右足で鮮やかにシュートを決めた。

 これがハイネルにとって加入後の初ゴールだった。その話題に触れると、ハイネルは横をちらりと見やり、中山和也通訳に「言いなよ」とばかりにサインを送る。中山通訳が「仕方ないな」とばかりに、ハイネルの初ゴールにまつわるベンチワークの妙を明かしてくれた。

「あのとき、少し前からハイネルが熱くなっていてボールが欲しい、欲しいと下がって受けようとしていたんですよね」

 それを感じていた鬼木監督は、中山通訳に「DFの裏でパスをもらう動きをするように伝えてくれ」と指示を出していた。その絶妙なタイミングを中山通訳が教えてくれた。

「オニさん(鬼木監督)に言われて、ちょうどハイネルにそのことを伝えたら、1分後くらいにあのゴールが生まれたんです。ただ、僕はそれを言ったことを覚えていないんですけどね。ハイネルがそう言うんですよ(笑)」

 中山通訳はせっかくの功績を忘れていたが、ハイネルの初ゴールの裏には、ベンチからの的確な指示と、身近で支えてくれている人の適切なアシストがあったのだ。

 これで勢いに乗ったハイネルは、続くAFCチャンピオンズリーグのイースタンSC戦でもゴールを決め、ベスト16進出に貢献した。

「妻とも話したんですけど、自分のプロ生活の中でも2試合連続ゴールというのは初めてだったんですよね」

 ゴールを決め、すべてが吹っ切れたかのように、今は迷いもなければ、悩みもない。日本でプレーするブラジル人選手としては先輩であり、今や川崎フロンターレの中盤に欠かせないエドゥアルド・ネットも太鼓判を押す。

「当初は自身の動き方が分からなかったり、パススピードについていけなかったり、パスを出す、受けるタイミングに慣れていなかったけど、今はそのすべてにおいて成長している。やっぱり、ゴールしたことが大きい。自信を持ってプレーしているなって感じられますからね。これからは、さらにチャンスを活かして、もっとゴールを決めてもらいたいし、彼が活躍することでチームがタイトルを獲れるんじゃないかなって思っています」

 ネットがその変化を感じているように、ハイネル自身も、手応えをつかんでいる。

「今は練習で取り組んだことが、そのまま自然と試合に出るので、今は練習でどれだけやれるかを考えている。日本のサッカーにも、フロンターレのサッカーにも徐々に順応できてきていると感じているし、すべてにおいて、日本に来て良かったなって思えている。サッカーだけでなく、生活も含めてすごく気に入っているし、引退するまで“ここ”にいたいなって思っているくらい」

 かつては目を背けていた戦術理解や守備意識も高まっている。ただ、その根本にあるのは、裸足でボールを蹴っていた『ナニ』のままである。

「いつも守備のことは意識していますよ。チームの、監督の、戦術に合わせられるようにもしています。でも、そこには自分がボールを持つことが好きだという前提がある。自分がプレスを掛けて、ボールを奪ったほうが、たくさんボールに触ることができるし、ゴールを狙えるでしょ?(笑)だから、攻撃に出るための守備。ボールを奪って攻撃したいという思いが強いからこそ、守備もがんばれる」

 充実した表情で受け答えするハイネルに、最後に「夢は何か」と聞いてみた。すると彼は答えた。

「母親の生活を支えることと、お世話になった継父に恩返しすることが目標だったんですけど、それはもう叶えることができたし、あとは自分が家族を持つことだったけど、それもできましたからね。たぶん夢は、もうすべて叶えたんじゃないですかね」

 プロサッカー選手として大成したハイネルは、愛する母親と自分を導いてくれた継父に、農園をプレゼントしたという。その広さを聞けば、「ちょっと大きいですね」と、ハイネルははにかむが、土いじりが好きなふたりは今、自ら育てている果物や花に囲まれて生活しているという。

 今後の夢がないことに少し寂しい思いもよぎったし、フロンターレにタイトルをもたらすという答えが返ってくることを期待していただけに、それを伝えるとハイネルは即答した。

「いや、それは夢じゃないですよね。できること。フロンターレで優勝することは、すでに自分のプロセスの中に入っているので、それは夢には入らない」

 こちらを真っ直ぐに見据える大きな瞳を覗けば、その自信が伝わってくる。少し前に抱いた寂しさは、頼もしさという思いに変わっていた。

profile
[ハイネル]

ポンチ・プレッタ(ブラジル)から期限付き移籍で加入したブラジル人アタッカー。俊敏性とテクニックに優れ、相手ディフェンスの穴を突いたラストパスでチャンスを演出する。ブラジルでは1.5列目やサイドでプレーする機会が多かったが、そのスピードを生かしたカウンターからの得点力にも期待がかかる。初のチャレンジとなるJリーグで結果を残すことができるか。

1990年9月5日、ブラジル
エスピッリトサント州生まれ
ニックネーム:ハイネル

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