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  • ピックアッププレイヤー 2017-vol.06 /三好 康児選手

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Chinen,Kei

“最高傑作”の挑戦

三好 康児選手

テキスト/竹中玲央奈 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Takenaka,Reona photo by Ohori,Suguru (Official)

その名を出せば誰もが惜しみなく賞賛の言葉を口にする。
「最強の逸材と言われていましたからね」
「もう、天才ですよ」
彼と同世代の選手に話を聞いたときに発せられた言葉の一例である。フロンターレの下部組織で共にプレーをし、
現在は名門・阪南大学の主将を務める脇坂泰斗もこう言う。
「康児は本当に、天才ですよ。頼っていましたから」
多くの選手の口からは本当に、こういった言葉しか出てこない。ただ、その短い言葉の中に詰められた尊敬の念は非常に大きい。
“アカデミー史上最高傑作”
この言葉は、三好康児のためにある。

天才のルーツ

「保育園のときにはもうボールを蹴るのが好きで、そのときの夢がサッカー選手でした。ただ、そのときはクラブとかには入っていなかったので、ただボールを蹴っているだけでしたね」

 そこから本格的にサッカーを始めたのは小学校1年生のとき。兄も所属し、父親がコーチを務めていた中野島FCに入ったのは必然だった。 「けっこう強かったですよ。僕は1個上のチームでほとんどやらせてもらっていたのですが、1個上は川崎市で優勝をしていましたし、神奈川県でも3位くらいまで行きました」

 そんな強豪の中でいつから三好は存在感を示すようになってきたのか?この疑問が浮かぶのも必然的だろう。しかし、本人はいつから自身が中心選手となったのか、明確に覚えていないと語る。 「入った時からずっと自分が中心でした。あんまり覚えてないんですけど、常に中心でやらせてもらっていましたね。ポジションはトップ下。ど真ん中で居座っていました。味方を走らせて、王様みたいなツラをして。指示しまくって、勝てないとキレるみたいな。今考えると何も分かっていないガキですね(笑)」

 良くも悪くもチームの中で悪い局面を打開できる選手は彼しかいなかったようだ。1つ2つも頭が抜けていた存在であった彼はいわゆる街クラブレベルの選手ではなかった。その後、活躍する場所をフロンターレへと移すことになる。ただ、当時の三好は「Jリーグの存在も知らなかったし、フロンターレも全然、知らなかった。サッカーをやること(プレーすること)しか興味がなかった」というほど。

 そんな彼が地元Jクラブの下部組織に入ることになった経緯は、地元の友人の紹介を受けたからだった。 「小学5年生のときに、隣のクラブに岡田(優希 川崎F U-18→早稲田大学ア式蹴球部)がいて。あいつの親もクラブのコーチをやっていたこともあって、親同士が仲良かったんですよ。岡田が1年早くセレクションを受けてフロンターレに入ったんです。その次の年に『康児もセレクション受けてみろよ』と勧められたんです。力試しで受けてみようかなと思って受けたら、合格することが出来ました」

 当時、三好が受けたセレクションは300人ほど。その中で合格を勝ち取ったのはなんと2人という狭き門だった。

 その狭き門を通り抜けてフロンターレU-13の一員となった三好は、ここで様々な角度から成長をすることになる。チームを率いていた髙﨑康嗣氏(現グルージャ盛岡 コーチ)から、サッカープレーヤーとして様々なことを叩き込まれた。

「髙﨑さんは厳しかったですね。やっぱりみんな、小学生のときって僕も含めて世間知らずなところがあるじゃないですか。みんなで揃って電車で移動するようになったので、そこでのマナーを始めとして、サッカー以外の私生活のところは全部教えてもらいましたね。それに、移動時にはチームのウエアをずっと着ていますし、ずっとエンブレムを背負っている。だから、『常に見られているんだぞ』『フロンターレの一員なんだぞ』というようなことも言われ続けていました」

 髙﨑氏の元で自身がプロの予備軍であることを強く自覚した三好だったが、オンザピッチ面でも明確な目標を掲げることになる。 それが、“世界”である。

 

MF16/三好康児選手

契機はダノンネーションズカップ

 フロンターレがジュニアを立ち上げた1期生のメンバーの一員となった三好は小学5年生からのスタートになった。当然ながら1学年上の6年生が混じった大会に出ることも多かった。この年代での1学年の差は、特に体格面で如実に生まれる。「けっこう(体つきが)違いましたから。地元の中野島FCの1学年上のチームに3-0で普通に負けましたし、本当に勝てない時が続いていた時もありました」

 ただ、そういった厳しい環境下で揉まれた経験は、自分たちが最上級生(6年生)になったときに大いに生きた。「最初は頼る人がいなかったですし、1つ上の学年と対戦する場数が多かったのは本当に良かったし、2年目に生きましたね」

 その成果として挙げられるのがダノンネーションズカップの出場権獲得だ。2008年、川崎フロンターレU-12は10歳から12歳までの小学生年代が世界一の座を争うこの大会に初出場を果たす。そこで三好は初めて世界各国の相手と対峙し、衝撃を受けた。

「ロシアや南アフリカと戦ったんですけど、南アフリカが衝撃でした。めっちゃ速くて体が大きい。5-0くらいで負けて、ぼこぼこにされました。『世界、こんなんなのか』って思って大会を終えた感じです。将来的には世界に出て活躍したいというのは僕も含めてみんな思っていたんですけど、個人として戦っていくにはこのままでは難しいなというのも肌で感じました」

 このとき、小学生ながらに生まれた危機感は今でも変わっていない。

 世界での衝撃を受けて帰国した後、中心選手だった三好は既定路線でジュニアユースへ昇格した。ただし、本人はこの時期、このカテゴリで戦った記憶が「あまりない」と語る。それもそのはずだ。彼は中学2年生から飛び級でU-18に参加をしていたのである。「サッカーのレベルが高いほうが楽しかった」と語るように、既にこのときの三好は同世代では抜きん出た存在となっており、同じフィールドでプレーをすることに物足りなさを感じていた。

 プロを見据える中、チームの仲間と等々力陸上競技場に足を運び、トップチームの攻撃的な選手のプレーを見続けてノートに記録していたという。いつか自分がここでプレーをするために、という思いと共に。

 中学3年生になったとき、三好康児の名を広く知らしめる出来事が起きる。いや、正確に言うと自らが“起こした”と言えるだろうか。

 トップチームとU-18が麻生グラウンドで練習試合を行い、結果的には1-2でU-18が敗戦したのだが、その1点を取ったのが三好だったのだ。小柄な体格の少年が見せたそのインパクトは絶大だった。

「自分達はそのゴールシーンまでボールを触ってないんじゃないかってくらいトップチームにボールを持たれていて、偶然奪ったボールが1本、カウンターのような感じで自分のところまできたんです。何人だったか覚えていないのですが、上手くかわすことが出来てゴールを決めることが出来たって感じです」

 当時の事をさらりと話をしてくれたが、見ていた者にとっての衝撃は計り知れないものだった。

 当時のトップチームでコーチを務めており、現在はU-18の監督を率いる今野章はその試合、そして彼のプレーを鮮明に覚えているという。 「3人か4人をすっと抜いて、ズドンと。あのときが一番良かったんじゃないかと思ったくらい衝撃でした」

 そして、試合後には記者陣が彼を引き止めることになる。

「かわし方が細かくて左利きだったので、『メッシみたいだ』と言われて。『将来バルサとか、行きたいんですか?』と言われたんですけど、行けるのならいいですよね、と言ったら次の日の新聞で『将来はバルサに行く!川崎のメッシ』みたいなこと書かれたんですよ。新聞ってこういう風に書くんだな、というのを中学生ながらに思い知りました(笑)。学校でみんなに散々イジられましたから(笑)」

初の大怪我、そしてプロの舞台へ

高校生となった後もフロンターレU-18の中心選手にしっかりと定着した三好は、U-17日本代表にも選出されU-17W杯に出場。その大会ではベスト16進出の結果を出す。着実に、そして停滞することなくステップアップをしていったのだが、高校2年生の終わりに悲劇が襲う。膝の前十字靭帯を断裂するという大怪我を負ってしまった。

「リーグ戦の試合で普通にボールを取りにいったら”バキッ”と。そのときは折れたと思ったのですけど、検査してみたら靭帯で。それまでは怪我しても長くて1ヶ月くらい。肉離れも1回くらいしかしたことがなかったので、正直やっちゃったなって思いましたね」

人生初の大怪我に直面した三好は、U-18の最終学年の10ヶ月近くをリハビリに費やし、ラストシーズンをまともにプレーすることが出来なかった。ただ、そこに大きな絶望感は無かったようだ。

「U-17のW杯が終わってから少しずつトップチームに参加させてもらっていましたけど、大きな怪我もしてしまったし、(トップに)上がれなかったらしょうがないなって思っていました。もちろん、上がるのが目標だったのですが、怪我があったのでいい意味で割り切ってリハビリをしながらシーズンを過ごしていました。最終的に昇格できたときは本当に嬉しかったですね」

U-15から日本代表に選ばれ続けて得た世界を含めたトップレベルでの経験や、前述した中学3年時のプレーを含め、三好の中で“トップ昇格”というものは夢ではなく現実的なものとなった。

 そして、実際にプロへの一歩を踏み出した三好だが、1年目の2015年シーズンはリーグ戦の出場はわずか3試合で32分に終わった。世界に出るためには入団初年度から活躍する必要性があると自身の口から発していたのもの、それを叶えることは出来なかったのである。

 しかし、本人の中で焦りは大きくなかった。

「高3のときに1年間満足にサッカーできなかったこともあったし、プロに入って1年目は膝にも不安がありました。テーピングを巻きながらやっていたし、自分としてもなかなか本調子ではないなという感じもあったんです。自分より上手い選手がいっぱいいる中でなかなか自分を出せずに苦労したという印象はありますけど、でも自分の特徴が通用するという自信をもってやっていました」

 そう考えると、結果的にプロ入り前年度の大怪我は彼にとっては良い過程だったのかもしれない。プロ1年目は前年度の怪我の影響もあってなかなか思うようなプレー、思うような結果は出せなかった。しかし焦燥感にさいなまれることもなく、2年目に向けて切り替えることができたと言う。そして、その2年目である2016年に三好は本領を発揮する。

 ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)では主軸として活躍して存在感を大いに発揮し、1stステージ第11節の柏戦でリーグ戦初スタメンを記録。その試合は前半のみで交代となり苦さが残ったが「自分を出しきれずに不完全燃焼だったし、悪ければ(風間)監督はすぐに変えるというのも知っていた。だからそれも覚悟の上でプレーしていましたし、力を出しきれてなければ替えられて当然。ただ、そういう世界だというのもやっぱり、試合に出ないと感じられないので」と、もどかしさもありつつ前向きに捉えていた。

 この経験から向上心を持って日々の練習に取り組み続けた三好はコンディションを落とすことなく、出場機会がくることを待ち続けた。そして、2ndステージ初戦の仙台戦で、ついに1つの壁を乗り越える。87分、右サイドでボールを受けて中に切れ込み、相手の股下を抜く技アリのシュートを放つと、これがネットに吸い込まれた。待望のプロ初ゴールである。

「あの形になったときは絶対に自分で行ってやろうと思っていましたし。ずーっと狙っていましたから」

 1年目の2015年、思うようなスタートは切れなかったが、自身の強みはこのプロの世界でも通用するということを確信していた。そして、迎えた2年目のシーズンの折り返し地点でそれをゴールという最高の形で、証明したのである。

 そこからの彼の輝きは目覚しかった。タレントが揃う攻撃陣の中でレギュラーを完全に奪取することはできなかったものの、ピッチに立てば必ず観客を沸かすプレーを生み、最終的にはシーズン4ゴールを記録。10月にはU-19日本代表にも招集され、AFC U-19選手権では史上初の大会制覇にも貢献した。

 様々な経験を経て、三好は3年目のシーズンを迎えたが、U-20W杯という1つの大きな目標としていた大会を迎える年に、もう1つの大きな変化があった。それが、背番号である。

 エースストライカーとして大久保嘉人が背負い続けてきた13番を、三好が受け継ぐことになったのだ。「去年の年末くらいにチームから打診をもらって。嘉人さんがいなくなるし、それならと思って着けることにしました。嘉人さんの印象が強いですけど、それを覆せるくらいにならないといけないなと思って今年はのぞんでいます」

 1月に行われる新体制発表会ではその年の背番号を発表する。13番・三好康児がモニター上に発表されたときの歓声は一際大きかった印象がある。昨年までのエースが背負っていた意味のある番号を、生え抜きの選手が受け継ぐということへの歓びと期待の現れだった。

「13番を付けさせてもらうということは、今まで以上にこだわりや責任感を持たなければいけないなとは思っています」
本人の中でも、覚悟は大きかった。

再び訪れた試練

「今年は全試合出られるくらいの力はつけたいなと思っています。去年経験してきた分、今年はチームを引っ張るくらいの気持ちでやっていきたい、代表の方もW杯というすごく大事なものがあるので、そこに出るためにはチームで試合に出ていることが1番。得点も去年は4点取れているので、今年は2桁をいけるくらいの力を出していきたいなと」

プロ初ゴールを記録し、出場機会も増やした2016年の成功体験、そして注目が集まる番号を背にしたことで、彼の目指す目標は1つ、高みを出すことになった。

変わらず目指している世界の舞台には「早急に」進みたいとも語っていた。そういう意味でも重要な3年目の年である訳だが、シーズンの半分が終わった今、彼の思ったようにことが進んでいない現状がある。16試合を消化して先発出場は2試合のみで、出場時間も200分ほど。得点は、まだない。

「U-20W杯に出るためにはチームで結果を出さなければいけない」とことあるごとに口にしてきた一方で、その“結果”を出すには至らなかった。最終的にU-20W杯に臨む代表に選ばれて3試合に出場したものの、大きなインパクトは残せなかった。

「個人的には正直、何もできなかったというか…そういう思いが強いです。決して通用しないわけではないと思いますけど、最後の決定力の差。そこはすごく小さいようで大きな差だと思いますし、世界は結果を確実に取りに来るというところも感じた。日本もチャンスは作れてはいましたけど、最後の精度やその回数もそうですし、迫力の部分が全く足らないなという感じでした。自分みたいな選手がこれから先に世界に出ていけるかどうかは、もっともっと突き詰めていかないといけないなと思いましたし、自分が世界で認めてもらえるようなプレーはどういうところなのかというのはもっと考えなければいけない」

大会を通じて大きく打ちのめされた訳ではないが、大きな手応えを掴んだ訳でもない。ただ、世界を目指す三好にとっては、苦さが残る大会だったと言えるだろう。

「(世界との差は)縮まっているかとは思わないし、かといって全く追いつけないほど開いているかと言われるとそうでもない」と本人は言うが、重要になってくるのは”この後”だと言う。

「(W杯へ)行く前に中村俊輔さん(磐田)が全員の前で話をしてくれる機会があって。俊輔さんはU-20W杯のときはそんなに世界との差を感じなかったと言っていたんですけど、次にオリンピック、A代表でやったときに差を感じたと。この2〜3年で一気に差が出るという話を聞かせてもらって。そういう経験をされた方が言っていることは本当だと思いますし、今の現時点で差を感じるということでは、2〜3年経ったらそれがもっと広がってしまう」

経験者の言葉を受けて、危機感はより一層強まったようだ。だからこそ、三好は言う。

「ここで経験したことを必ず自分のプロセスにしなければいけないですし、なおさら国内では差をつけなければいけない」

下を向いている時間はない。世界の舞台で感じた経験を糧にして、今はひたすらに国内でその存在価値を磨くことに目線を向けるだけである。

三好康児の良さは、ここにある。先の大怪我も、1年目に結果を出せなかったこともそうだが、そういった挫折的な経験に打ちひしがれることはない。そのマイナスな体験に引きずられることなく、前進することができるのである。

「昔からひょうひょうとやりながらも『俺はそこ(世界)を目指すぞ』という部分をちらちらと見せてくてれいたし、間違いなく戦えるだけの素質はありますからね」

U-18の今野章監督も、こう評す。

奇しくも、同じ舞台を戦ったG大阪の堂安律や鳥栖に所属する鎌田大地という、同世代の選手たちの海外移籍が発表された。

「羨ましい、というか。でも、彼らは結果を残していっているので。結果が大事だなというのはすごく感じましたし、負けてられないなという思いもありますよね」

親しい存在が別の道を歩む姿が、三好をさらに成長させるきっかけになることを強く望む。

 先の話にはなるが、2020年には東京五輪がある。この年に最上級学年となるのは1997年生まれの選手なのだが、同年の早生まれである三好は出場の権利を持っている。もちろん、自国で開催される歴史的な大会に出場を果たすことは1つの目標だ。ただ、彼がそれよりも前に狙うのは、来年に控えた2018年のW杯である。

「やっぱり、ロシアが1番近いじゃないですか。十分、狙えるチャンスはあると思っています。もちろん難しいのはわかっていますけど、チャンスはどこにあるかわからないですからね。それを意識してやっていきたいなと思っています」

 世界との差を痛感した。ただ、身近な仲間でありライバルが海外へ行くことで、“チャンスはある”という確信を得た。だからこそ、このチームで活躍すれば道は開ける。三好はそう考えている。だからこそ、2018年のW杯も、手の届かない舞台ではないとも考えているのだ。

 正真正銘“川崎育ち”の逸材が世界最高峰のスポーツの祭典であるW杯とオリンピックで輝きを放つ可能性は大いにあるし、本人はそのつもりでいる。そんな瞬間が訪れることを考えると…フロンターレに関わって来た者として、これ以上の喜びは無いだろう。

“最高傑作”の旅はまだ始まったばかり。日本を背負い、代表する存在になるために、三好康児は歩みを続けていく。

profile
[みよし・こうじ]

川崎フロンターレ・アカデミー出身。巧みなドリブル突破を駆使したゴール前に入り込む動き、そして強烈な左足のシュート力が武器のMF。フロンターレでも攻撃にアクセントを加えるジョーカーとして台頭。川崎生まれの将来性豊かなアタッカーとして大きな期待が寄せられている。

1997年3月26日
神奈川県川崎市生まれ
ニックネーム:コージ

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