フロンターレのフィロソフィー
篠田洋介フィジカルコーチ
テキスト/隠岐麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Oki,Marina photo by Ohori,Suguru (Official)
今年、鬼木達監督率いる新生フロンターレが発足するとともに、コーチングスタッフにも新たな顔ぶれが揃った。その中のひとりがフィジカルコーチの篠田洋介氏である。長年横浜F・マリノスのフィジカルコーチを務め、経験豊かな篠田の加入は今年のフロンターレのトピックスのひとつになった。
怪我と進路とアメリカと
篠田洋介が現職であるフィジカルコーチを目指すに至った理由には、学生時代の自身の経験が色濃く影響している。小学生時代は、まだサッカーとは出会っていなく、選手コースに通うほど水泳一筋で頑張っていた。キッカケは、「キャプテン翼」だった。小学校高学年の時に始まったサッカー漫画は、他の小学生たちと変わらず篠田少年の心をも虜にした。小学生時代に打ち込んだ水泳も選手コースまで行きそこそこの成績を残してきたが、全国レベルの壁はあり徐々にサッカーに心が傾いていった。
実際にサッカーを始めたのは、中学生の部活に入ってからである。ポジションは、ひょんなことからGKをやることになった。
「当時、サッカーはまったくメジャーではなく圧倒的に野球のほうが人気がありました。なんとなく野球はまじめな雰囲気、サッカーはちょっと不良っぽい雰囲気というイメージに思われているようなところがありました。サッカーがメジャーではなかったとはいえ、実際に部活に入ってみたら、選抜経験があり上手い選手たちがけっこういました。僕はまったくのド素人。でも、身長が入学時に160cmぐらいあって、比較的大きいほうだったんですね。そしたら、ある時試合でGKが怪我をしてしまい、たまたまですけど先生が僕をみて、『背も大きいし、お前やってみるか?』って。『はい、やります』って答えて、いきなり1年で試合に出てGKをやることになりました。がむしゃらにやっただけでしたが、水泳で飛び込みをしていたせいか、ボールに対してダイブする行為があまり怖くなかったんです。そんなキッカケでGKをずっとやることになりました」
こうして始まった篠田のサッカー人生は、すぐに夢中になり、部活が休みでも学校に集まってボールを蹴ったり、夜遅くまで先生が照らしてくれた車のヘッドライトを頼りにボールが見えなくなるまで追いかけた。
「人より遅く始めて下手だと思っていたし、楽しかったんですよね」
そんな篠田にとって、最大の転機となる出来事はサッカー人生の早い段階に訪れた。中学3年の卒業式前、すでにサッカー部は引退していたが、練習していた時に、左ひざを接触プレーで強く打ってしまった。膝が違う方向に曲がった感じがして、痛くはあったが、当時、地元の病院に行っても、「骨には異常はないし、捻挫だろう」という診断で、湿布をもらって自宅に帰った。実際は、前十字靭帯、内側靭帯、内側半月版損傷という大怪我だった。今で言えば、全治6〜8ヵ月というところだろう。しかしながら、トップレベルのカテゴリーならまた違っただろうが、MRIもほぼ日本に普及していなかった時代である。事実として分かったことは骨が折れていないということだけだった。
「二箇所ほど医者には行きましたが、捻挫だといわれていたので、高校に入ってからもそのまま痛みはありましたが、サッカーを続けていました。結局、高1の夏にあまりにも痛いし、膝が亜脱臼のように外れてしまうことがあったので、何回も病院に通い、それならばカメラを入れてみましょうということになりました。当時は今のようにカメラを入れる時に同時に手術はできなかったので、カメラをまず入れて、やっと怪我の状態が分かり、また後日に膝の手術をすることになりました」
こうしてやっと原因がわかり手術に踏み切ったのだが、怪我がわかるまでに苦労したように、当時はスポーツリハビリもまだ普及していないような時代である。想像に難くないが、手術をしてからもまた大変だったという。
「大変というか、わからないという感じですよね。当時は、膝にメスをいれた選手がまた普通にサッカーに戻れる時代じゃなかったんですよね。唯一、日本代表でも活躍された古河電工の宮内聡選手が半月版を手術して、ぐるぐる巻きにテーピングをして試合に出ていた記憶があります。リハビリの仕方もわからず、手術後、筋肉が萎縮して硬くなっていましたが、自分なりに合っているかわからないけれど、弱いところを鍛えようというぐらいな気持ちで、やっていました。筋トレマシンなんて当然ないですから、階段の上り下りをひたすらやったり、片足でケンケンしたり、自分で考えられるレベルで知識もないなかやっていましたね」
そんな状態でも、高校時代もずっとサッカーは続けていた。卒業する頃、将来のことを漠然と考えていた時に、出身地の栃木県に当時流行の奔りだった、日本で行けるアメリカの大学というものが出来ると父親から聞いた。
「これも何かの縁なんでしょうけど、たまたまそこには普通の科目だけでなく、スポーツのインストラクターやトレーナーが学べる学部があったんですね」
こうして、篠田は、高校を卒業して、まずはグリーンリバーコミュニティカレッジに入学することになる。そして、縁はまたつながっていく。篠田の学校の先生が、どうせなら日本ではなくアメリカに環境をうつして勉強したほうがいいんじゃないかと背中を押してくれた。
「おそらく、僕が日本にいたままじゃ英語も身に付けられないと思ったんでしょうね。言われたら僕もその気になってきて、先生の紹介で、オクラホマシティユニバーシティに行くために渡米したんです」
篠田青年のアメリカ生活がスタートした。最初の半年はホームステイしながら外国人のための英語教育を受け、ノースダコタ州のジェームスタウンカレッジに入学し、体育学部に進んだ。副専攻ではスポーツ心理学など興味のあるものもチョイスし、試験をクリアしながら5年かけて卒業にこぎつけた。
「卒業するためには教育実習に4ヵ月行かなければならず、その前に英語の小論文テストに受からなくちゃいけないんですね。これをパスしないと卒業証書がもらえない。僕は4回落ちてやっとパスすることができました」
大学生活は勉強だけでなく、スポーツの現場にも携わることができた。男子サッカー部がなかったため、アメフト部に所属し、そこでフィジカルトレーナーなどの職業のことも知ることになる。そういう生活を送りながら、スポーツ医学が進んでいるアメリカで、アスレチックトレーナーやストレングス&コンディショニングコーチなど様々な職種の中で、一体自分はどちらの方向に行くべきなのかという悩みも生まれてきた。アメフトをやりながら、選手のコンディショニングを整えるスペシャリストの存在も知り、怪我をしてそこから復帰が必要だった自分とも重ね合わせて、もう少し勉強を続けようという決意をする。その後、篠田は、ネブラスカ大学院に進み、運動生理学を専門に勉強を続けた。3年かけて大学院を卒業し、日本に帰国したのは30歳になる直前の29歳の時。約10年ぶりの日本だった。
キッカケはフロンターレだった
2017年、篠田とフロンターレの出会いは、実は初めてではなかった。
時は遡って2000年のこと。まだ、フロンターレの事務所が武蔵小杉駅前に会った時、当時の松本育夫社長に篠田は会いに行った。
「父親が同郷であり、大学も一緒だった育夫さんとこれもたまたま知り合いで、サッカー界にまったく縁がなかった僕が、最初に会った日本のサッカー界の方が当時フロターレの社長だった松本育夫さんだったんですよね」そうした縁がキッカケとなり、Jクラブと話がつながり、2002年に東京ヴェルディ1969(当時)の育成チームでフィジカルコーチを務めることとなる。
「これもまた偶然ですが、新吉さんもこの年にGKコーチに就任されて一緒にやらせていただくことになりました。最初はすべてが初めてですから、教科書どおりにはいかなかったですね。アメリカで子どもたちや高校生をみたりしていましたが、日本のやり方も違うし、フィジカルコンディションをあげることを目的としつつも、クラブとして長年積み重ねてきたやり方もあり、ヴェルディの最初の時は、どう対応すればいいか考えながら手探りでやっていましたね」
そして、その翌年に横浜F・マリノスに所属し、最初は育成とトップを行き来しながら、そこから2016年に至るまで横浜F・マリノスのフィジカルコーチとして長年に渡り、務め上げることになった。篠田がマリノスに入った時は2003年。ちょうど横浜F・マリノスは岡田武史監督が率いJリーグ2連覇など輝かしい成績を残していた時期だった。
「最初はアシスタントから始まって学ばせてもらいながら、岡田さんとは監督との連携なども勉強させてもらいましたね。マリノスの選手たちは年齢も高めの選手も多かったので、チームとしてのアプローチというよりどちらかというと個々にアプローチする場面が多かったですけど、ルーティンをやりつつ、個別にこういうことをやったらどうか?と目的などをすり合わせて、やってもらうようにしていましたね。若くてもベテランでも、やっとけよっていうようなやり方は気持ちよくないものですから、ひとつひとつ話してお互いに納得してやっていくような形でしたね」
2016年末、篠田は新たなチャレンジの決断をする。2017年、新天地として川崎フロターレのフィジカルコーチに就任することになったのである。
「フロンターレといえば、上手くてパスサッカーをするということはもちろん知っていました。でも、例えば、中村憲剛選手や小林悠選手のプレーがわかっても、どういうフィジカルなのかはまったくわからない。選手のフィジカルの状態もわからないなかで、タイトルを目指すチームの中で、僕が入って何ができるだろうか、というチャレンジの気持ちが一番大きかったかもしれないですね。とにかく、ほぼ何もわからない状態でスタートを切りました」
キャンプからのスタートで、まずは鬼木監督はじめコーチングスタッフと打合せをし、フィジカルデータを取得し、まずは選手たちの身体能力をデータに取ることをはじめた。
「ジャンプとかダッシュなどはみんな楽にやるでしょうけど、何本も走らなくてはいけないものなんかは、イヤだなぁと思われていたと思いますよ。新鮮さはあったかもしれませんけどね」と篠田は笑う。実際にデータを取ってみると、瞬発力やパワーはまったく劣るところはなかった。しかし、何本も走らなければいけないメニューとなると、メンタル面の要素も大きくなり、あまり数値はチームとしてよくなかったという。追い込むことにまだ慣れていない部分もあるのだろうな、と篠田は感じた。そして、そうしたデータを踏まえて、トレーニングの中でフィジカルをプラスするものを取り入れていきたいとコーチングスタッフとも話し合った。フロンターレの篠田フィジコのトレーニングがこうして始まった。
フロンターレのフィロソフィー
篠田の朝は8時にクラブハウスに来ることから始まる。雑用を済ませたり、選手の体重などのデータをチェックして、9時からスタッフミーティングに参加。その後、選手たちと顔を合わせて、「お前、今日誕生日だな」「調子どうだ?」などと軽口をたたいて篠田流コミュニケーションをはかってから、練習の準備に入るのが日課だ。何よりも篠田はフィジコとして一番大切なことは「コミュニケーションを取ること」と断言する。
「ちょっと表情が暗いな、とか。昨日何食べた?って話から、もしかしたら体調崩していないか探ったり、とにかくくだらない会話をすることにしています。アップ中などは、くだらない会話から選手が笑顔になることもあるのでね。今でこそ、僕がこういうキャラクターなんだって選手たちも認識してくれて返してくれますけど、フロンターレに来たばかりの頃は、フィジコって何する気なんだ?!って思われていたのかもしれないですけど、僕のくだらない冗談に返しがなく、どうしよう…と正直思いました。フロンターレの選手はマジメですね。一生懸命こちらが伝えたことをやってくれますね。あとはよく言われているように選手の仲がいいですし、一体感がありますね」
チームといえど、所属する一人ひとりは個人個人のサッカー人生がある。塊で見ず、「個」を見ることを篠田は大切にしている。そのため恒例となっている若手選手中心の筋トレなどのトレーニングでも、必要であれば同じメニューを複数人でやることもあるが、個別に必要なものは何かを見極めて対応するようにしている。
「今年僕が入って、トレーニングの中でフィジカルな要素を落とし込んで、それを選手たちも理解して慣れてきたところだと思います。まだやりたくても手がまわっていないこともあるので、これからは食事の要素や筋力のところ、パフォーマンスを活かすための体作りやコンディション調整という部分をさらに突き詰めていきたいです。切り替えが早く相手を圧倒するサッカーをするためにはただ試合の中で走る距離が長いだけでは意味がなく、どれだけ強度が高く効果的な運動ができるかが重要。そこをどれだけ僕の立場で選手たちをサポートできるか、というところですね」
篠田にはフロンターレでやってみたい夢であり目標があるという。
「今フロンターレはパスサッカーが確立されて、これがフロンターレのサッカーだとイメージがありますよね。そして、そのサッカーをやるために育成でもトップ昇格をするために日々取り組んでいる。フィジカルの面でもそうしたものがあったらいいなと思うんですね。トップチームのサッカーを体現するためには、小学生、中学生、高校生と育成年代でも必要なトレーニングやコンディション調整をしっかり取り組むことができれば、フロンターレのフィジカルのフィソロフィーが出来上がるんじゃないかと思っているんです」
学生時代、大怪我と分からず怪我を負って、リハビリとは名ばかりの自己流トレーニングを積んできた。そういうキッカケがつながって、アメリカで修行して、日本のJリーグで縁をつないでフィジカルコーチとしてフロンターレの一員になった。やっぱりそうした過去があるからか、選手が復帰する時の喜びは格別なものがあるのだと篠田は言っていた。
「もちろんチームが勝ったらうれしいですよね。選手の笑顔が見られるのもうれしいです。でも、もう一方で怪我をした選手がチームにやっと合流できた時。その選手がピッチに立ててプレーできた時っていうのはトレーナーもそうでしょうけど、僕にとってもやっぱりうれしい瞬間ですよね」
チームが勝つこと。その一方で苦しい時期を過ごした選手が笑顔になってチームに貢献できるサポートが出来ることは本当にやりがいと感じます──。
プロクラブは、勝つことを目標にしており、フロンターレも当然タイトルを目指してその目標を達成するためにクラブとして最善を尽くそうとしている。その中には監督がいて、コーチがいて、選手がいて、クラブスタッフがいて、支えてくれるサポーターやスポンサー、様々な立場の人がクラブに関わっている。
フィジカルコーチという職業は、もちろんクラブが勝つために試合で選手が万全のコンディションで臨めるようにサポートをするのが責務である。その一方で、所属する一人ひとりのプロサッカー選手が少しでも長く現役選手として輝けるように、サポートをする存在でもあるのだ。フロンターレというクラブに、一人ひとりそれぞれのサッカー人生を背負った選手たちがいるからだ。
だから篠田のベクトルもチームの勝利と選手の怪我からの復帰という両面に喜びが向くのだろう。
profile
[しのだ・ようすけ]
アメリカの大学、大学院でコンディショニングを学び、横浜F・マリノスでフィジカルコーチを務めた。長年の実務で培った経験を生かし、選手のフィジカルコンディションをサポートする。
1971年9月19日
栃木県宇都宮市生まれ
ニックネーム:シノ