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マネージャーの仕事って?

MF22/下田 北斗選手

終わらない旅

テキスト/林 遼平 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Hayashi,Ryohei photo by Ohori,Suguru (Official)

 プロ5年目の下田北斗が川崎フロンターレに移籍してから約半年が経った。ここまでリーグ戦の出場機会はゼロ。AFCチャンピオンズリーグと天皇杯では出場を果たしたが、決して順風満帆な時間を過ごせているわけではない。
 それでも下田の表情は明るかった。もちろん試合に出られない悔しさや歯がゆさはある。だが、ことサッカーに関しては"諦める"という気持ちは持ち合わせておらず、常に前を向いているからだ。

「確かにリーグ戦で1試合も出られていないし、メンバーにも全然入れなくて苦しいところはあります。でも、諦めたら終わりですし、周りと比べてすべてが負けているとも思っていない。自分の良さを出しつつ、高いレベルでプレーできるようにしたいと思っている。まだ半年、ポジティブに考えればまだ半年ですよ」

 言葉の節々に垣間見える芯の強さ。それはこれまでに歩んできた道のりが証明している。

 下田は1991年11月7日、3兄弟の末っ子として神奈川県の平塚市内で生まれた。3つ上の兄がサッカーをやっていたことで幼稚園の年長からサッカーを始めると、小学校に上がって地元のチームに入団。歩いていける距離に平塚競技場があったため、湘南ベルマーレ(当時はベルマーレ平塚)の試合を観戦してはどんどんサッカーの魅力に引き込まれていった。

「普通の少年だったと思います。元気な子だったとは思うけど、特別悪ガキでもない。塾も行っていたけど、その中でサッカーが特別という感じでした。サッカーを休みたいと思ったこともないし、サッカーに行くのは当然みたいな感じでしたね」

 自由気ままに過ごした小学校を終え、地元の中学校に進学すると小さな挫折が待っていた。もともと身長が高くなく、小柄な体格だった下田少年は、周りの成長スピードについていけなかった。

「中学時代は地区の選抜に入れなかったこともあったし、そんなに特別良い思い出がないですかね。周りが大きくなっていく中で、俺は大きくならなくて、ちょっと取り残されている感じがありました。振り返れば小学校は楽しかったけど、中学校は苦しかったという感じです」

 高校は県立大清水高校(現・藤沢清流高校)を選んだ。「周りに強い高校に行きたいと言う人もいなかったし、そういう世界をあまり知らなかった」と振り返る下田は、ユースや強い高校に行くという考えを持つことなく、家から近く、サッカーがある程度強かった学校に進学した。

 それでも高校3年間は充実した毎日だった。厳しい練習をこなしながらもチームメイトと刺激し合う日々。全国大会にはあと一歩届かなかったが、同じ目標に向かって全員で戦うことの意味を、身を以て経験することができた。

 また3年生時に出場した関東大会が、大学サッカーに進む一つのきっかけとなった。それまでは周りに高校から大学に行ってサッカーを続ける人が少なく、下田も「大学サッカーを本気でやろうかは迷っていた」という。ただ、関東大会で優秀選手賞に選ばれたことでスポーツ推薦での進学の道が開くと、自身のサッカーへの思いと向き合った末に大学サッカーに挑戦する決断に至った。

 いくつかの候補があった中で、大学サッカーにも精通していた高校のサッカー部のコーチと相談し、自分に合ったパスサッカーを標榜する学校を紹介された。そのうちの一つが専修大学だった。すぐに監督に連絡してもらいスポーツ推薦のセレクションを受けると、厳しい競争を勝ち抜き、専修大学への進学が決まったのである。

MF22/下田 北斗選手

 大学では何もかもが新鮮だった。サッカーをする環境や先輩たちのサッカーに打ち込む姿勢、そして同期の面々。この場所に身を置くことで、これまでは漠然としかなかった"プロ"の世界も近づいた気がした。

「これまで周りにプロになる選手がいなかったし、そういう世界を知らなかった。そういうものを感じることができないから意識することもなかったですね。だから、高校からプロになりたいという思考はゼロでした。ただ、大学1年の時に(高山)薫くん(現・湘南)が4年にいたり、その代が結局4人ぐらいプロになったんですけど、そういう人たちを見て、こういう人たちがプロになるんだと知ることができた。それは大きかったですね」

 入学当初は驚きこそあったが、時間が経てば錚々たる同期のメンバーのことも気にならなくなっていた。何より自分が周りに劣っていないという自信があったからだ。

「最初は名前負けではないけど、同期のみんながユースや有名な高校から来ていて『なんだこいつら』と思いました。でも、同い歳に限って言えば、とてつもなく差があるわけではないなと思ったんです。個人個人でフォーカスすれば、そんなに俺も負けていないなと。チームでやったら絶対に勝てない感じはしたけど、個人でやればそこまで負けている感じはしなかった」

 専修大学のシステムも下田にとってプラスに働いた。無名の存在ではあったが、スポーツ推薦だったことでAチームに入ることができると、開幕戦でいきなり途中出場。その後はメンバー外の試合こそ多かったが、振り落とされずにしっかりと上にしがみ付くことができたのである。

 ターニングポイントは2年生の前期にあった。Aチームに所属しているものの、プレー内容に対して監督からこっぴどく怒られるなどスッキリしない日々が続くと、ある試合で一つの出来事が起こる。

「ある時、全然プレーがダメだと言われて、俺は全部が全部俺のせいではないじゃないかと正直思っていたんですよね。サッカーは一人でやるものではないし、なんでそんなに俺ばかり言われないといけないのかと。それで交代させられて逆から出ようとしたら監督に怒られて、その後のミーティングで、みんなの前で『おまえのユニフォームを返せ』と言われてユニフォームを取り上げられました。それを1年生に渡して『おまえが付けろ』という感じです。あれは恥ずかしかったというか、悔しかったですね。すごく悔しくて、ちょっとサッカーが嫌になっていたかな。どうすればいいんだろと思って、サッカー自体は嫌いじゃなかったけど、すごく悩みました」

 何が正解なのか、どうすれば答えが出るのか。いろいろと自問自答した。しかし、ことサッカーに向き合えば、いつも浮かんでくる答えは同じだったという。

「どうせ辞められないし、他にやることもない。サッカーが好きだから、辞めるという思考にはならなかったですね」

 再び前を向いた下田は前期終わりの2試合にスタメンで出場すると、その試合で連勝。その勝利でチームが勢いに乗ると、とんとん拍子に勝利を重ね、結果的に関東大学サッカーリーグ1部の優勝を飾ることになる。そこから専修大学は3連覇を果たし、下田自身も3年生になった2013年に関東大学サッカーリーグ1部のMVPに選ばれるなど、輝かしい大学生活を送ることになった。

 そんな下田が大学生活を振り返る上で、何よりも大きかったと答えたのが先輩や同期の存在だった。特に現在浦和レッズに所属している長澤和輝は「刺激し合える仲間だった」と盟友の存在を嬉しそうに話している。

「先輩や同い年のサッカーに対する姿勢を見ながら、考え方を学ぶことができたのが一番大きかったと思います。その中でやっぱり和輝が一番大きいかな。先にあいつが大学選抜などに選ばれて、やっぱりそういうところに行って刺激をもらって、自信を持って帰ってきてプレーが良くなるのを見ていた。結構あいつ天然なんですけど、考え方は立派というか、しっかりしているところもあってすごく勉強になった。そういう話をすることで刺激をもらっていましたね」

 数々の成績を残した大学生活を終え、プロキャリアはヴァンフォーレ甲府でスタートした。いくつかのチームからオファーをもらい、環境やスタイル、J1かどうかなど、いろいろなことを取捨選択した結果、大学4年生の12月に決めた。

 ただ、プロの世界は想像以上に厳しい世界だった。甲府での1年目はリーグ戦11試合の出場に止まり、個人としても満足のいく数字を残すことはできなかった。

「いろいろとわかっていなかったですね。期待して使ってくれましたけど、それに応えられる実力がまだなかったと感じましたし、"プロ"というものをわかっていなかった。プロはやはりお金をもらってプレーしていますし、遠いところまでサポーターが見に来てくれる中でプレーする責任感というか、そういうところを当時は今よりもっと理解できていなかった。

 そして、その感じが1年目は続いてしまった。自分の中ではっきりしないまま、毎日必死というわけではないけど、そういう感じで試合に出ていたイメージです。目的を持って今日はこういうプレーをしたいとか、こういうことにトライしようというよりは、与えられたことをこなすので精一杯という感じでした」

 2年目は出場試合数こそ伸びたが、1年目とは違う不安が下田を襲った。

「勝てないもどかしさですね。自分が出ている時もそうですけど、出ていない時に勝てない状況を見て、それでも試合に出られない自分をすごく不安に思った時もありました。全然チームの力にもなれていないと思ったし、このままではクビになるかもと思っていました」

 シーズン中に監督が代わるなど、チームが勝てない中で悪戦苦闘する時間が続いた。ただ、そんな時、自分の心を落ち着かせるために高校時代から続けてきたことがある。不安な時はシュート練習を行う。それが下田のルーティンだった。

「練習するしかないと思いましたね。練習が始まる前にもシュート練習をしてもやもやを晴らすというか、どうにかして自分の中で処理するという感じです。こういうのをやり始めたのは高校ぐらいの時ですね。人一倍ボールを蹴った記憶がありますし、休みの日に後輩のGKを呼び出してシュート練習をひたすらやっていました。結構キックが得意な方だと思いますけど、それがつながっているのかなと。体を動かさないと不安なんですよね。やってダメなら仕方ないけど、やらないでそのままも嫌だ。とりあえずやってみようという感じでした」

 後半戦に出場機会を増やした下田は、そのオフに地元・湘南からオファーをもらい「単純に新しいことにチャレンジしたい」と移籍を決断。カリスマ性ある監督と同世代の選手たちに多くの刺激を受けながら、在籍した2年間でJ2降格とJ2優勝を経験し、プレイヤーとして大きく成長した。

「いろいろと考えるようになりました。曺貴裁監督は深いところを突いてくるので。表面的なところというより、内面というか、メンタル的なところ。このプレーこうだったよねというよりは、そのプレーに対してのアプローチを話してくる。そういうのは新鮮でしたし、一人の人間として成長させてもらったと思っています」

 そして2018年、プロ5年目を迎えた下田は3度目の移籍を果たした。移籍先は昨季のチャンピオンチームである川崎フロンターレ。湘南で出場機会を減らしていたことを考えれば、この移籍に驚きを持った人もいただろう。それでも下田は、非常に悩みながら決断に至った経緯を明かしてくれた。

「もともと試合にあまり出ていなかったのでオファーはないと思っていました。そんな時にチャンピオンチームから話をいただいた。もちろん地元のチームを離れるのも寂しかったです。でも個人の成長を考えた時に、チャンピオンチームで試合に出られる保証はないけど、そういったところで巧い選手と触れ合って、考え方を学んで、試合に出られれば最高だなと思いました。より刺激をもらえて成長できると思いましたね」

 刺激、チャレンジ、成長。下田の歩んできた道には常にそういった言葉が付随されている。

「寂しさやいろいろなものを振り払ってでもチャレンジしたいという気持ちがあったし、成長したいという気持ちがあったんです。どっちが正解かはわからない。だけど成長したいから移籍するんだと思うんですよね。いろいろな選手やチームを感じられるのは、サッカー選手というよりは人としてすごく面白いことだと思います」

 フロンターレではまだまだ出番を得ることができていない。ただ、そういった時にはすぐに練習場に向かい、シュート練習を行うことでもやもやを振り払いながら前に進もうとする下田の姿がある。残りのシーズンでチャンスをつかむために、何よりもまずは自身の成長が大事だと声を大にして言う。

「もっと成長しないといけないことはわかっている。そのためにやらなければいけないことを自分で考えながら日々やっています。11人ではシーズンを通して戦えないと思うし、しっかりチームに貢献できるように普段からいい準備をしていないといけない。全然ここからでもやれると思うし、頑張って試合に出て貢献しないとクラブにいる意味もない。やっぱり結果というか、目に見えるところで貢献しないとダメだと思うので頑張っていきたいですね」

 またさらなる成長のために、これまで自分が歩んできた道とフロンターレのスタイルをマッチさせることを目指している。

「湘南や甲府でやってきたことを、ここでもやらなければ所属した意味がない。フロンターレにいながらも今までの経験を無くさないように意識したい。全部が全部染まる必要はない。フロンターレの良さを理解してやる上で、それぞれのカラーがあると思うので、そういったところを残しつつ自分の良さプラス、フロンターレの良さをうまくミックスできればと思います」

 これまでの数々の出会いと経験は下田にとってかけがえのないものだ。苦しい時も辛い時もあったが、それを乗り越えて、成長してきた自負がある。試合に出られていないと言ったってまだ半年。挽回のチャンスはまだまだある。刺激を求め、成長するためにやってきた男は、フロンターレでの旅を簡単に終わらせるつもりはない。

profile
[しもだ・ほくと]

湘南ベルマーレから完全移籍で加入。左足のテクニックと攻守にハードワークする献身的なプレーが持ち味のMF。強烈なミドルシュートも併せ持つ。主戦場はボランチのポジションだが、前チームではウイングバックにもトライ。ボールを受けてはたき、また動き直すフロンターレの基本スタイルは得意とするところ。中盤のコントローラーとしての活躍が期待される。

1991年11月7日、神奈川県平塚市生まれ
ニックネーム:ほくと

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