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  • ピックアッププレイヤー 2018-vol.11 / 二階堂 悠コーチ

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マネージャーの仕事って?

「追求者」〜二階堂 悠コーチ

テキスト/林 遼平 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Hayashi,Ryohei photo by Ohori,Suguru (Official)

 「チームの勝利・優勝のために監督や選手のサポートを全力で取り組んでいきます。僕が持っているデータでは2017年は川崎フロンターレが優勝する年です。一緒に闘いましょう」
昨年の新体制発表会見。新たにトップチームのコーチに就任した二階堂悠は、会場に足を運んだサポーターに向けたメッセージで高らかに優勝を宣言していた。迎えた17年シーズン、川崎フロンターレは最終節で鹿島を追い抜き逆転優勝。まさに有言実行の結果を残したのである。

開幕前のメッセージを振り返り、二階堂は笑顔で発言の真意を答えた。

「相手や自分たちの分析を含めて、そういう細部のところをちゃんとしたら絶対優勝できると思ったからああいう発言になったんです。分析をちゃんとして、セットプレーの失点を抑えたら絶対に優勝できると思っていたんですよね」

 宮城県柴田郡で3兄弟の末っ子として生まれた二階堂は、高校を卒業するまでの18年間を地元・宮城で過ごした。一番上の兄がサッカーをやっていた影響で興味を持つと、10歳の時にテレビで見た94年のアメリカW杯がさらにサッカーへの思いを加速させた。

「ロベルト・バッジョやストイチコフを見ていましたね。シニョーリやディノ・バッジョ、ロマーリオ、ベベットなど、当時は名前を覚えるのがすごく好きで。それでいてバッジョのPKの外し方の真似をしてました(笑)」

 

 本格的に中学からサッカーを始めると、高校では宮城県内で「勉強とスポーツがどちらも出来るNo.1の学校だった」東北学院に進学。その後、大学進学を機に上京し、学習院大学に入った。ただ、ここでコーチ業を志す転機となった出来事が起こる。大学2年生時に右膝の前十字靭帯断裂という大きな怪我を負ってしまったのである。

 この怪我が二階堂のサッカー人生を大きく変える。もともと学習院大自体が、基本的にキャプテンが練習メニューを考えるという学校だったことも大きかった。怪我でチームに貢献できない分、自分から率先して練習メニューを考案。松葉杖をつきながらコーチングのようなことをすることで、指導者の道に関心を持つようになった。

 それでも最初は、大学卒業後に就職をする考えを持っていたと言う。現に就職活動を行い、最終試験まで残っていた会社もあった。ただ、サッカーへの未練を捨て切れなかった二階堂は、大学とつながりがあった企業の社長面接で思い切って自分の思いの丈を話すことにした。

「『実はコーチングを学べる筑波の大学院を受験するのと、一般企業に就職するのを迷っています』と素直に言ったんですよね。普通言わないだろとみんなに言われましたけど(笑)。でも、その人が相談に乗ってくれたんです。『少しでもサッカーやりたいなら行ったほうがいいよ』と。その社長に背中を押されたみたいな感じになりましたけど、それで決心が固まりました」

 目標が決まれば、やることは決まっていた。大学では文学を専攻していたこともあり、スポーツ分野の勉強はゼロ。何が何でも受かってやると寝る間も惜しんで猛勉強に励んだ。普段やらないことを徹底的に行うことは簡単ではない。だが、「何か一つやることを決めたら、そこにバーッと行きたい人間」と自分を表するように、一つのことに集中することは全く苦ではなかった。ここに二階堂に備わる探究心が隠れている。

「格好良く言えば追求するのが好きなんです。こだわりがあると言えばいいんですかね。ただ、それは今にも生きているかもしれない。例えば、(アメリカのキャラクターである)ポテトヘッドが大好きなんですよね。これも集めるのが大好きで、『こんなの日本で持っているのは俺ぐらいだろ』というところまで求めたいというか(笑)。

サッカーでも、例えば2002年の日韓W杯なんかは全試合ビデオに撮っていました。普通の試合だけでなく、スカパーでやっていたタクティカル映像の試合も撮る。今でも実家にありますよ。とにかく集めるのが好きなんです。そういう意味ではマニアックな人間ですね」

 筑波大学の大学院に入ると、すぐに仲良くなった先輩がいた。その人が日本サッカー協会で映像分析の仕事に携わっていることもあって、協会で映像を使った分析の手伝いを始めることになる。コーチングの勉強をしながら、日本サッカー界の中心で世界のトレンドを勉強する。二足の草鞋の日々が分析コーチへの道に大きくつながることになった。

「どういうことをしていたかと言うと説明するのは難しいのですが、例えば、この前のW杯がありましたよね。あれは終わったら試合の分析をするために映像を作るんですけど、そういうのを作る際にこのシーンを集めてくれみたいなことを言われるわけです。それでその言葉にあったシーンを抽出して一本の映像を作る。そういう感じです。だから、めちゃめちゃ膨大な試合を見なければいけない。それで途中で諦める人もいますけど、僕は一番続きましたね(笑)」

二階堂 悠コーチ

 膨大な量の仕事に、コーチングの勉強。寝る暇はあったのかと聞くと、笑って「一回、自分でやるって決めたら辞めたくないじゃないですか。あの時は食事の時間も削りたかったですよ」と言ってのける。

「例えば、時間を指定してくれたら問題ないんですよ。この試合のこのシーンとか。ただ、ちょっとハードル上がると、前からプレスに行ったシーンを集めてくれというのもあるし、それで見せると『なんか違うんだよな』と言われると。それの繰り返しみたいなのがあったから、こっちも負けたくないし、言われたシーンを出したいとなっていました。だから協会に行って仕事するときもあれば、移動中のつくばエクスプレスで映像を編集していましたよ。それで家帰ってからも間に合ってなかったらやらないといけない。でも、それをやったから信頼を得たというのもあると思いますね」

 そんな日々を続けた二階堂に大きな仕事がやってきたのは、大学を卒業し、1年間のメキシコ留学を経て、迎えた2012年のことだった。大学入学時から仲良くしてもらい、協会の手伝いにも誘ってくれた先輩に呼び出されると、二階堂にとって「まさかと思った」という出来事が待っていた。

「先輩の仕事を手伝っていたら、そこに小野剛さんが来たんですよ。先輩と仲が良いのは知っていたし、『久しぶりだから昼飯行く?』みたいになったので、僕は『どうぞ行ってきてください』という感じにしようとしたら『二階堂も一緒に行こうよ』と。それで普通に3人で話していたんですけど、帰る際に小野さんが『それで二階堂くんフリーなんだよね?』と。ちょうど小野さんと岡田さん(岡田武史氏)が中国に行くこと(杭州緑城足球倶楽部の監督就任)を発表した後だったんですけど、そこで『中国行く?』と誘われました」

 そこからはとんとん拍子だった。夕方に岡田武史氏と面会すると、その日のうちに正式決定。中国行きが決まったのである。

 ただ、分析コーチという立場での仕事は初めて。右も左も分からない状況で入り込んだ世界は、大変な日々だったと振り返る。

「日本のJクラブで働いていなくて、突然中国でしたからビビるところもありました。仕事をどうやっていいかもわからないし、基本的に僕みたいな分析はスケジュールやミーティングもそうだけど監督に合わせるのがほとんど。でも全てがゼロからだから全然わからなかった」

 それでも岡田武史氏と小野剛氏、2年目にU-18のチームを率いるためにやってきた石崎信弘氏。それぞれ色の違う偉大な3人の指揮官の下で働いた経験は大きいと二階堂は言う。

「岡田さんも小野さんも石さんも全然違いましたね。求めているものもそうだし、人としてのタイプも違った。3人とも違う考えを持っているし、いろいろな意見が入ることでそういう考えもあるんだと幅が広がりました。3人の下で働けたのは良かったと思います」

 その後、中国メンバーが解散となると、紆余曲折を経て石崎信弘氏が就任することが決まった山形にコーチとして招聘されることになった。「実家に近いこともあって親近感が湧いた」という山形では3年間を過ごし、初年度にはJ1昇格と天皇杯決勝に進出。翌年にはJ2降格も経験したが、充実した日々を過ごした。

 3年目を終えた時、石崎信弘氏が退任することが決まっていたこともあって「石さんに連れてきてもらったのに僕だけ残るのはあれだなと。そう思って離れることを決めた」二階堂は次なる仕事先を探していた。そこで声をかけてくれたのが、監督が変わることが決まっていた川崎フロンターレだった。

 もともと「フロンターレはとてもうまいチームで、他のチームからしたら別次元の存在だった」と語るように川崎フロンターレのサッカーに魅力を感じていた二階堂は、自分の力を最大限生かせる場だと考え、筑波大学の先輩でもある清水泰博マネージャーにも相談に乗ってもらい、最終的にコーチに就任することが決まった。

「J2の山形にいた時には、フロンターレの攻撃がすごいという理由もあって、攻撃のいいシーンなどを編集して見せていました。どういう風に崩して、どういう風に動くのか、などですね。その後、他のチームにも派生はしていきましたけど、フロンターレはそういう見本になるようなチームだなと思って見ていました」

 また川崎フロンターレに対しては以前からある思いを抱えていた。それが「分析の人材を置いたら絶対に優勝できる」だった。

「これは僕を置いたらという意味ではなく、分析をちゃんとしたら絶対に優勝できるチームだと思っていました。だってチームとして絶対に一番うまいですからね。その上で、相手を見て、相手がこうきたらこうしようというサッカーをしているのに、分析で相手を見てなかった。だからそこをやったら絶対勝てるのではないかと思っていました」

 とはいえ、シーズンが始まった当初は難しさもあった。分析に対しては「ある意味、まっさらな状態だったのでやりやすかった」と言うが、信頼を勝ち取るまでには時間がかかった。

「まずは信頼関係だと思っている。結局、僕がミーティングでこうだからとすごく論理的に話したり、すごく的を得て喋ったりしても信頼関係がなければ全然入ってこないと思うんですよね。だから、最初はそこに苦労しました。やっぱり、ちょっとした信頼関係ができるまではゼロからのスタートなので。選手たちもこの人どんな人だろうとなっていたし、こっちとしてもどう話していけばいいかは悩みました」

 それでも鬼木達監督や中村憲剛が「若干ふざけてる(笑)」と同様の印象を語ったように、明るいキャラクターが功を奏して徐々にチームに溶け込んでいった。試合後のリカバリーの日には、多くの選手と一緒にジョギングをしながらコミュニケーションを取り、信頼を深めていった。

「最初はある意味、ボールを持って相手の嫌なところを突いていくのがうまいチームなので、言い方が難しいですけど、相手をバカにしているような感じなのかなと思っていました。だけど、入ったら全然違うなと。そういう選手などいないし、すごく真面目な選手が多い。外から見てつなぎまくっているように見えるサッカーと、中に入って“つなぐことの意味”を知ると、見え方が全然違いました。何のためにつないでいるのか、何のためにこれをやっているかをわかれば、じゃあこうやるよねと。結局、ここに入って、いろいろなことを知ったらちょっとでも中が空いていれば行っていいと思うし、中が開けば外が開く。その理論がわかって見方が変わりました」

 こうなればあとは自分の仕事をどれだけ徹底できるか。試合前に行われるミーティングに向けて、どんな映像で相手の特徴を選手に伝えればいいのか。どこまで教えて、どこからは話す必要もないのか。そういったことを精査していく戦いが始まる。

 次の対戦相手の分析のために直近の6、7試合を見るのは基本で、そこから10分程度の映像にまとめるのだから大変過ぎて言葉も出ない。見せたいシーンは多くあるものの、見せ過ぎると意識し過ぎてしまう要因となることから、削る作業が一番大変なのだと言う。

「自分の伝えたいことを映像にしてバーっと並べて喋ったら1時間、2時間だっていける。だけど、そんなのは無理。なるべく15分以内というのは決めている。だから伝えないといけないものは伝えて、あとは個人的にちょっと相手はこんな感じだからと伝える時もある。でも、あくまで分析なので、分析だけにならないようにしている。考えすぎても困るところもあるんです」

 また個人的に分析をやる上で大事にしていることは何かと聞くと、やはり追求という言葉が出てきた。昔から変わらないこだわりが仕事に生きている。

「わからない選手を徹底的に調べるのが好きなんですよ。追求のところになりますけど、そこは大事にしているかな。例えばですけど、GKの某選手がいたとしてPKの時にどっちに飛ぶのかなどは自分の中で持っておきたいんです。それを選手に伝える、伝えないは、その状況によります。でも、その選手がプロに入ってから行ったPKを全部調べたりしますね。そうしないと自分の中で100%というか、確信が持てない。だから上っ面だけで言いたくないというのは、大事にしているところ。疑問に思ったことは解消しないと試合に向かえないし、自分の中でモヤっとしているものは無くしておきたい。3試合ぐらいなら誰でも見れるんですよ。それなら自分がいる意味がない。この仕事をやっているんだから誰よりも見ないといけないし、誰よりも知っておかないといけないんです」

 そんな二階堂の仕事ぶりは、監督や選手にとって心強いのは明らかだ。指揮官となる鬼木監督に話を聞いても信頼の高さが伺える。

「仕事が早いし、分析もしっかりしていて的確。だいたい俺が休み明けに次のチームのことを聞いても、すぐにちゃんと会話が返ってくる。そこであれどう思うと聞いて、まだ見てないと言われると聞きづらくなる。でも、それはドゥーに関してはない。自分も試合は見ているけど、本職の分析の量と比べたら当然見てないから。自分の見方だけではない見方ができるし、それはすごくいいことかなと。一人しかいない仕事だし、責任感という意味でもよくやってくれていると思う」

 またリカバリーの際によく一緒に走っている姿が見られる中村憲剛は、二階堂のことをこう表現している。

「鬼さんとの間に立ってくれているのもあるし、ほぼ右腕みたいなものだと思う。そこで俺らとコミュニケーションをとって、同じ目線を持てるように働きかけてくれている。引き出しも多いし、ちゃんと説明しなくても一個二個言えば、こういうことだと返してくれる。サッカーをよく知っているし、そこは信頼している。マニアックだから俺とは合うかなと。ガリ勉タイプというか、勉強してないよと言ってめっちゃ勉強しているタイプ。サッカーに熱心で、好きなんだなというのは見える。スカウティングに関してもドゥー(二階堂)が言うならというのはあると思う」

 分析のスペシャリストというポジションは、あまり表立って紹介されない部分でもある。しかし、縁の下の力持ちとしてチームに貢献していることは間違いなく、その存在がチームを勝利に導くことだってあるのだ。まだまだ続く、残りのシーズン。優勝を目指して突き進むチームに、二階堂の力は無くてはならないものである。

「前半戦は負け試合を引き分けにする、引き分けの試合を勝ちに持っていくなど、そういうところの積み重ねが出来なかったところもありました。ただ、後半戦はしっかりとした戦い方が出来てきていると思います。優勝争いもまだまだわからないですし、チームの頑張りと共に相手をしっかり分析して隙を突けるようなところを僕が示していけたら、なおいいかなと思います。またチームとして大事なところで勝てないというのはなくしたいですね。もちろんやるのは選手なんですけど、結局大一番で力を出せていないのは、それに対する準備のところもあります。そこまでの準備のアプローチというか、そういうところを詰めていければ、もっと違う戦い方ができるのかなと。これから大事な試合がどんどんやってくるので、準備の面でチームをサポートしていければと思っています」

profile
[にかいどう・ゆう]

2017シーズンからトップチームコーチに就任。筑波大学大学院の在学中に杭州緑城(中国)のコーチ、2014年よりモンテディオ山形のコーチを務めたスカウティングのスペシャリスト。

1984年5月17日、宮城県柴田郡生まれ
ニックネーム:ドゥ

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