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  • ピックアッププレイヤー 2018-vol.13 / MF32/ 田中 碧選手

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アオの魂

MF31/田中 碧選手

アオの魂

テキスト/隠岐麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Oki,Marina photo by Ohori,Suguru (Official)

1998年9月10日、川崎市生まれ、鷺沼育ち。二十歳。
小学校3年生でフロンターレに入り、フロンターレ歴は11年目を迎える。
フロンターレを知ったのもその時で、フロンターレを知ってからも11年。新世代の青年・碧が思い描く、過去、現在、そして未来。

2018年11月24日。
ピッチに32番が走っていく。
その背中は、想像していた以上に大きく、逞しく成長していた。
二十歳の青年は、この日、フロンターレで記念すべき初先発の舞台を経験した。
「緊張しないと不安になるタイプだけど、意外と平常心だな。緊張しなさすぎて不安だな」
「思い切ってやってこい!」という言葉を監督や先輩たちから受け、碧にとって初先発となる多摩川クラシコがキックオフした──。

小3でフロンターレを知って加入

 田中 碧が、サッカーを始めたのは幼稚園の時。地元の鷺沼ではなく横浜の幼稚園まで通っていたのだが、スポーツが盛んでサッカーや体操などいろんなことをやった記憶がある。おそらく、サッカーは楽しかったのだろう。公園でひとりで壁にボールを蹴っていた記憶が、人生の最初のそれだ。

 地元鷺沼の小学校に入り、そのまま小学校のサッカークラブに入った。鷺沼SCは、地域では強豪クラブだったと、碧は振り返る。

「僕はフォワードで点取り屋でした。ひとりでドリブルでいっちゃうタイプです。けっこうみんなうまくて、パスを出す役割の人もいたり、守れるやつもいたり、キックがうまいやつもいて、1年生のチームでもけっこう強かったと思います」

 さらに、碧はヴェルディのスクールにも週2回通っていたという。サッカー大好き少年、という感じがするが、本人としてはどうだったのだろうか?

「ヴェルディは、みんなうまかったですね。当時、なでしこの澤さんとか大野さんとかがコーチをやってくれていたんですよ。よくゲーム形式の練習をしたんですけど、とにかくみんなうまかった」

 という話を聞くと、後にヴェルディジュニアに入ることを目指し頑張っていたのだろうか、と想像してしまうのだが、どうやら違ったようだ。

「ヴェルディのスクール、そんなに行きたかったわけじゃないんですよ。うまかったんで。とくに2年の最後の方はそんな感じでした。うますぎました。小4からヴェルディジュニアがあるので、1、2年の頃、隣のコートでやっているジュニアの練習を見たりもしましたけど、あれはレベル高すぎて入れないだろうな、無理だなと思ってセレクションも受けませんでした」

 このまま鷺沼SCでサッカーを続けようと思っていた碧だったが、コーチから「フロンターレのセレクションがあるよ」と勧められる。フロンターレを知らなかった碧は、その話に食いついた。……わけではなく、近所のフロンタウン鷺沼を初めて見に行ってみた。でも、なんとなく友だちとセレクションを受けに行き、なんとなく受かった、というのが正直なところだ。

 こうして、フロンターレを知らなかった田中碧とフロンターレの物語が知らぬ間にスタートした。

 U-12で、碧の代はダノンカップで優勝、世界大会へと駒を進めた。当時の指導者である髙﨑康嗣監督は、幼少期の子どもたちをサッカー面だけでなく、生活面の規律も重視した指導を行っていた。当然、碧も「怒られた」記憶とともにいろいろな思い出があるという。

「タカさんは厳しかったし、やらざるを得ない状況だったけど、いつも怒られていたから練習中にボールが来るのもいやだったし、試合がいやだったこともありましたね。忘れ物とか挨拶とかもすごい厳しかった」

 とはいえ、厳しい練習がいやだなと思っても、試合になると勝利という結果が出る。だから、子どもながらに本当にいやだったわけじゃなかったのだろう。勝つ喜びも同時に知ることになったのはサッカー選手として大きな一歩を踏み出した瞬間だったかもしれない。

「ダノンカップの決勝は、ヴェルディとやってまさかの5対0だったんですよ。めちゃめちゃうれしかったです。タカさんは、今思えばわかるけど、自分たちと向き合ってくれて、練習では厳しかったけど、大会とかになると全然怒らなくて、褒めてくれる。だから勝手に子どもたちも乗るんですね。あと、練習からゴールを決めたら、『はい、喜んでいいよ』と喜ぶ時間を与えてくれました。鬼ごっこをやったりビーチサッカーをやったり、恐いだけの存在じゃなかった」

 フロンターレU-12はこの年、南アフリカで開催されたダノンカップ世界大会に出場し、5位という成績で終わった。フランスに0対2で負けた時は悔しくてみんな泣いたけれど、やれるという自信もついた。

「お祭りみたいな感じで、すごい楽しかったですね。バスで移動して食事会場も世界の子どもたちと一緒で、言葉がわからなくても盛り上がって、いろんな人と話しました」

 と、ここまでフロンターレアカデミーで充実したサッカー人生を送っていたんだなと思われただろうが、5年生までは、そんなに気持ちが乗っていなかったらしい。何度か、そんなにやる気がないなら続けるのはどうだろうか、と感じたご両親がスクールのコーチに電話をして「やめようかと思う」という申し入れをしたことがあったという。でも、そのたびにコーチが「もう少しやらせてあげてください」と引き止めてくれた。

MF32/田中 碧選手

 フロンターレを知ったのは、フロンターレアカデミーに入った小3の時。碧が小6の時は、2008年。当時のフロンターレは、Jリーグでも優勝争いをしたり、2007年2009年はヤマザキナビスコカップで準優勝をしていた時期だ。

「でも、テレビでもあんまりやっていなかったし、当時はDAZNもなかったから、たまにタカさんとみんなで試合に行く以外は、トップチームの試合も観たことがありませんでしたね。試合結果だけは、知っていた、程度です」

 好きだった選手は、「谷口博之」。トップチームの選手たちとの楽しかった思い出もある。以前の通称“プレハブ”と呼ばれていた時代のクラブハウスは、選手たちが練習が終わり、階段をのぼると、そこに人工芝のグラウンドがあり、フロンターレスクールの子どもたちがちょうど練習開始前で集まっている時間帯ということがあった。すると、階段を上ってクラブハウスに戻ってくる選手たちを子どもたちが出迎えて「サインくださーい!」と自分の練習着に書いてもらったり、一緒に遊んでもらったり、という光景がよく繰り広げられていた。その中に碧もいた。

「谷口選手にもサインをもらったし、ヒロキさんとか一緒に遊んでもらいました」

 こうして、碧少年は中学生になり、フロンターレで引き続きサッカーを続けることになる。だがしかし、中学生時代は、「サッカーがトーンダウンしていた」時代だったという。友だちと遊ぶことも楽しかったし、自由が増える時期だ。でも、サッカーをやめようとまでは思わなかった。根は真面目なのだと思うが、結果的に友だちと遊んでいても練習を休むことはしなかったし、なんとなく、最後にはサッカーなのかな、というギリギリの生命線は保っていた、という感じのようだ。

 そんな碧に転機が訪れたのは、中学3年生の終わり、フロンターレU-18の練習に参加したことがキッカケだった。

努力することを自覚する

 中学3年の12月からフロンターレU-18チームに昇格するメンバーたちは、U-18の練習に合流するようになった。そこで、碧たちU-15の選手たちはBチームの練習に合流した。それまで、主に「同級生」としかサッカーをやってこなかったという碧は、先輩たちの姿をみて衝撃を受けた。そこには、三好康児や岸晃司、三笘 薫らAチームで活躍する選手たちの姿もあった。

「全然違ったし、これはヤバイなって思いました」

 それからの碧は、すぐに気持ちを切り替えた。

「悔しい」と思ったその日から、練習後に帰宅してから、公園でサッカーボールを蹴り続けたし、休みの日もまた練習に励んだ。受験勉強をしなければ、と思いながらも、公園でボールをひたすら蹴った。

 フロンターレU-18に正式に昇格し、1年生でひとりだけベンチメンバーに抜擢されていた碧は、数ヶ月もすると、スタメンに名を連ねるようになった。

「もう緊張です。毎日緊張していました。Aチームの練習に入るだけでも、マジで緊張しますから。それこそ今プロで緊張しているのと同じぐらいの緊張です」

 ボランチだった碧は、ボールが来たら、まずは預ける、のが精一杯だったというが、前線には三好や岡田 優希(現早稲田大)ら「俺によこせ」と主張するプレイヤーが揃っていた。そんな様子を聞いて、ある選手のことを想像していると、「まさに、大久保嘉人さんのようでした」と碧。「ついていくのに必死だった」日々は、とはいえ試合に出ることで碧を急激に成長させるに十分な経験だった。

 7月になるとU-16日本代表に選出されてタイ遠征に参加し、そこでも試合に出場した。

「中3ぐらいまでそんなに正直自分でもうまくなかったと思うし、選抜も入ったこともなかったので、びっくりしました。マジかって感じです」

 代表の試合でも、「調子よくやれた」自分がいて成長を実感できたが、そこでまた新しい気づきも持ち帰ることができた。

「当時の僕は、細くてひょろひょろで、その代表で初めて体をちゃんと作らなくちゃいけないなと思いました」

 気付いたら、すぐ実践するのが碧のよいところである。日本に帰国すると、毎日代表でやっていたフィジカルメニューを自宅で始めた。“体幹”トレーニングのことも初めて知った。決めたら、毎日やり続けた。

 10月、国体の神奈川県選抜として選ばれ、碧を中心とした神奈川県選抜は見事に優勝する。決勝はイエローカード2枚で残り5分で退場することになってしまった苦い記憶もあるが、一致団結して、強さを発揮して優勝できた喜びも味わうことができた。

 こうして振り返ってみると、高校1年生の1年間で、いかに成長曲線がぐんと角度をあげたか、お分かりいただけるだろう。

「やっぱり1年の早いうちに試合に出られたのが全てだったと思います」

トップチームへの昇格

 初めてトップチームの練習試合に参加したのも高1の秋だった。

以来、碧いわく、「20回ぐらい、多分、僕、歴代アカデミーの選手で一番トップの練習試合に参加していると思う」ぐらいに練習試合に参加していた、とは本人談。

 よく、フロンターレアカデミーOBの安藤駿介選手などに話を聞くと、「最近のユース選手たちは、ガツガツしていないというか、(トップの試合に参加して)アピールが少ないと思う」という話を聞くが、実際のところ、そこでアピールをしようというギラギラした気持ちのようなものは、強くはなかったのだという。

もちろん、いわゆる「若い世代」によくありがちと、ひとくくりにする話ではないが、とはいえそういう傾向があるのではないか、と碧自身も分析する。

「シンプルに点を取りたいとかはありましたけど、アピールしようとか、表に出すようなギラギラしたものはなかったですね」

 プロにまでなった選手である。心の中にそういう気持ちは持っているだろう、とこの時想像した。

 フロンターレU-18監督の今野章は、碧のことを高1から指導していたが、どんな風に見ていただろうか?

「1年生ながら真摯にサッカーに向き合っている印象はあって、ボールに対して守備でぐっといける感じ。技術もありましたね。おそらく本人はもっと攻撃したいタイプだったんじゃないかと思うけど、だんだんとボール奪取のところの特徴にも気づけたんじゃないかと思います。1年で試合に抜擢したのは、1年生と3年生ではフィジカルの差がどうしてもあるものですが、碧は細かったけど、身長はまぁまぁあったから、そこでのギャップが少なくて、うまく合わせることができていましたね。上級生になるにつれて自分でやれることが増えていったと思うけど、1年の時はうまい先輩たちにくらいついて必死だったろうし、2年は主力として試合に出て、3年では攻撃も守備でもチームを勝たせるため、周りを動かすようになりましたね」

 3年になって碧はキャプテンに任命されたが、試合でチームを勝たせるためにキャプテンとして引っ張ることに尽力する姿があった。今野監督が振り返る。

「すごく声も出していたし、実際に碧がBチームの練習試合に累積警告の関係で出たりすると、ものすごくチームが回るようになるということもありましたね。ただ、練習や試合と関係ないところ、例えば雑用だったり自主トレとかでは、彼は自分に対しての集中力はすごくあったけど、他のメンバーに対しての働きかけはあんまりなかったかな。サッカーのところはやる。それ以外では声をかけたり、引き上げようということは関心が向かなかったから、監督としては、そのことはよく話しましたね」

「監督には、よくそういう注意を受けました」と碧。

「お前だけやっても強くならないぞって何回も言われました。確かにそうだな、と思ったけど、僕、確かに勝ちたかったんですけど、例えば3年生が全員スタメンで出よう、とかそういうのがあまりなくて、強いメンバーが出ればいいというところはありました。勝ちたいと思ったら、そのために必要だったら試合前にミーティングをしたり、勝つために必要なことはやったけど、それ以外のことはキャプテンとしてはやってなかったかもしれないですね。試合には勝ちたかった」

 碧は、3年生にあがる春の綾町キャンプでトップチームに参加した。当然、「めちゃくちゃ緊張した」というが、同部屋の登里、田坂、高木駿(現大分)らの働きかけもあり、少しだけ打ち解けることもできた。

「プロになるためには、この環境に慣れなきゃいけないんだな」という気持ちで、日々を過ごした。

 そして、トップチームに行けるかどうか、実のところはボーダーライン上にいた部分もあり、強化部も検討を重ねた結果、碧はトップチーム昇格を果たした。

「すぐに出られると思っていなかったし、1〜2年は出られないだろう。その間、自分との戦いに耐えられるかなという不安はありました」

 小学校3年生からフロンターレのユニフォームに身を包んできた。特別な感情というものもあった、という答えを期待してしまうが…。

「とくにないです」

 少し説明しよう。碧にとって、フロンターレはある意味で、当たり前にそばにある存在で、フロンターレしか知らずに過ごしてきた。だから、目の前にある階段を一段ずつ上っていったら、扉をあけたら、トップチームへの世界が広がっていた、というようなもの、だろうか。

「そうです、特別な存在というより、当たり前にずっと見てきた世界で、自然とそういう道がつながっていたっていう感じなんですよ、そっちです」

 その真意は少し掘り下げて話せばわかる。同じ事実でも表現方法が変わると逆の意味になってしまうこともあるから誤解を受けることもあるかもしれない。

 碧にとって、フロンターレはつまり、身近にある当たり前の“特別な存在”なのだ。

 2017年の元旦、高校3年生の碧は、ゴール裏のサポーター席でフロンターレ対アントラーズの対戦となった天皇杯決勝を応援した。

「次は、選手として晴らしたい」という想いが胸に込み上げていた。

継続する力

 フロンターレアシスタントコーチである吉田勇樹は、今野がS級ランセンス取得のために不在になった時など、U-18コーチングスタッフの助っ人として参加することもあり、その縁で碧のことも高校生の時から知っていた。

「高3の時から印象はそんなに変わらないですね。能力的には足がすごい速いとかいうタイプじゃないけど、ボールを奪う力があった。あとは、当時から早くきて筋トレとか準備をしていたし、真面目でしたよ」

 そういう姿勢は、今も変わらないと吉田は続ける。

「今も練習後に最後まで残って自主練をしたり、昨年からずっと筋トレを続けているから、ずいぶん身体も大きくなりましたよね。話していても客観的に自分を見ているところがあるし、海外のサッカーもよく観てる。努力できる才能が彼にはあると思います」

 トップチームに昇格して最初に感じたことは、「こんなもんだろうな、自分ができることは」というものだった。つまり最初からレベルに差はあるだろう、最初の1〜2年は試合に出られないだろうという想定内のことで、フィジカルも技術も全て足りないことを伸ばさなければいけないという目標があった。

 自分の中で通用しない部分、通用する部分があったりすると、整理をするためにサッカーノートをつけることもあった。ノートを見返すことはないが、ビデオを観て、自分が書いたことの正解を見つけたり、整理をして、さらに次の課題を取り組むというような日々を過ごしてきた。

「スタートは怪我からでしたが、焦りはなかったです。それから徐々に復帰して、最初はついていくことで精一杯だったので、練習でも練習試合でもミスせず頑張ろうという段階でした」

 でも、自分自身が通用する部分も徐々に見つかるようになってきた。

 そして、チャンスは想定よりも早く巡ってきた。

初出場、初ゴール

 2018年9月15日、二十歳になったばかりの碧は、5対0と大量リードで沸く等々力劇場に足を踏み入れた。おそらく、中村憲剛や古くから見守ってきたサポーターの中には、まだ二十歳の、アカデミー時代からフロンターレ一筋でやってきた碧のことを“親”のような心持で見守っていた方も多いだろう。「チャンスが来たら点を取ろう」と積極的にピッチで躍動する碧は、後半ロスタイムにプロデビュー戦でありながら、プロ初ゴールを決めてみせた。

 ベンチにいた選手たち、ピッチにいた選手たちに文字通り“もみくちゃ”にされた。

「今までの人生で一番楽しかった時間」が碧に訪れた。

 先輩たちも、皆が笑顔になる出来事だった。

「アオは、ただただすごい」(中村憲剛)

「普段頑張っているけど試合に出られてなかった選手がゴールを決めることでチームに笑顔が増える」(小林悠)

 フロンターレU-18チームは、翌日の試合に備えて遠征先のホテルでコーチングスタッフ一同が集まり、DAZNで試合を観ていた。寺田周平コーチは「緊張するなぁ」と言って見守っていた。そんな時、LINEメッセージが夫人から入り、「アオが点取ったよ」と、時間差で放映されるDAZNより一足先に前にその事実を知った今野監督は、喜びをひた隠して、一緒に試合の戦況を見つめた。そして、碧のゴール。

 浦上GKコーチは「やべぇ、泣きそうだ」と喜び、コーチングスタッフ一同喜びに沸いた。

「そりゃ、嬉しかったよ」と今野監督も後日、喜びを語ってくれた。

 翌日、碧に一本の電話が入り、今野監督から「おめでとう」と声をかけてもらった。

 U-18チームのメンバーたちも試合をDAZNで観ており、翌日はその話題で持ちきりとなったという。やはり、アカデミー出身選手の活躍は、アカデミー選手たちにとっては励みであり、アカデミーのコーチングスタッフ陣にとっては、最大の喜びなのである。そういう気持ちや期待を一身に受けて、饒舌ではないながらも、胸に秘めた想いが碧には、ある。

「むしろ、自分たちが活躍しないと、下の子たちが活躍できないんだっていうスタンスになってしまったり、大学に行こうとなったりするかもしれない。だから、やっぱり活躍しないといけないなと思います。アカデミー出身者として頑張ろうというよりも、フロンターレのアカデミーってそういうものなんだっていう感じになっちゃいけないと思うし、アカデミーからプロに昇格したら、絶対やれるからっていうものに自分がしていきたいんです」

 口では、淡々としているし、表現は苦手だが、心に秘めているものは、あるのだ。

「口に出すか出さないかというのはあるけど、心の底ではマジで超えてやろうと思っています。言わないけど、絶対超えてやろうと思っているし、ここだけは絶対に負けないと思うことはあります。ボランチは、リョウタくんもモリタくんも日本を代表する選手だし、ホクトくんもケンタロウくんもみんなすごいものを持っている。でも、負けたくないです。みんなそれぞれスタイルも違うし、全員のいいところを盗みたいし、超えたいという想いはあります。今は全然手も足も届かないですけど、越えていかなければいけない存在だと思う。僕自身、海外でもやりたいし、代表にもなりたいし、そういう選手になるためには絶対に超えないといけない。そういう意味で、いいお手本がいっぱいいるので、いい環境にいるなと思います」

 ほとんど外出しないのも、翌日の練習に響くのがいやだからだし、ボーッとしているのが好きだというが、その時間をともにしているのは海外のサッカーである。

「結局、サッカーだし、遊びに出かけたとしても頭のどこかにサッカーがあるし、常に考えています。例えば好きなものを食べたいと思っても、これは食べたらよくないかなとか」

 たまにつけるサッカーノートに書くことも、質が変わってきた。

「ケンゴさんに言われたこととか教えてもらった動き方やプレーのこと、忘れないように書いてます」

 根は真面目なのだろう。コツコツと続ける力もあって、今がある。

「そうやってやるしかない。今までサッカーやってきて、自分がうまいと思ったことは一回もないし、ユースでも、もっと違う世界があるんじゃないかなとずっと考え続けながらやっていたので、満足することもなかったし、誰かと競争というよりも自分に矢印が向いていました。自分が成長してやり続ければよくなるんじゃないかと思っているんです」
 

〜エピローグ〜

 

 起点となるプレーが、結果的に知念の先制ゴールにつながった。

 中村憲剛から「ナイス!」と声をかけられた。

 90分が経過し、フロンターレは多摩川クラシコを2対0で勝利した。

 90分間、碧はピッチに立ち続けた。

「試合が終わってすぐ、アキくんにゲームの進め方だったり、押し込まれた時でも守るだけじゃなくてどう陣地を挽回するかというアドバイスをもらいました」

 経験は大きな一歩となる。そこで感じたこと、先輩たちから教えてもらったこと、吸収して、突き詰めなければいけない次の課題もたくさん見えた。

フロンターレで試合に出る。
フロンターレで活躍する。
全部出来るボランチになる。
点も取れて、ボールも奪えて、パスも出せて、どこにもでも顔を出せるボランチになる。
海外でもサッカーをしたい。

   

二十歳の夢は、いっぱいある。
未来へと続いている。

profile
[たなか・あお]

守備的なポジションであればどこでもこなすトータルバランスに優れたMF。アカデミー出身、小学生の頃からフロンターレで技術を磨いた生粋の生え抜き選手でもある。ルーキーイヤーの昨シーズンは、プロとしての生活リズムに慣れながら地道にトレーニングを積んだ。今シーズン等々力で初出場、初ゴールを決める。

1998年9月10日、神奈川県川崎市生まれ
ニックネーム:アオ

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