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  • ピックアッププレイヤー 2019-vol.02 / 馬渡 和彰選手

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馬渡 和彰選手

自分次第で人生は変えられる。

構成/原田大輔 写真:大堀 優(オフィシャル)edited by Harada,Daisuke photo by Ohori,Suguru (Official)

点と点がつながり、線になっていく。
細かった線は、多くの点が重なることで、強く、太い道になった。
彼にとって、点とは人との出会いである。ただ、ひとつ言えるのは、
その点を引き寄せ、線を歩いてきたのは、間違いなく自分自身である──。

 

 2013年12月7日 リーグ最終節の横浜F・マリノス戦、大学生だった馬渡和彰は、等々力陸上競技場にいた。客席からピッチに目を向ければ、川崎フロンターレの選手たちが躍動している。馬渡は、隣りに座る女性に向かって、こう投げかけた。

「ねぇ、Jリーグって、サッカーって、面白いでしょ? 日本にもこんなに攻撃的で魅力的なサッカーをするチームがあるんだよ」

 はじめてのサッカー観戦に、彼女は興奮気味に試合を眺めている。それを見た馬渡は、さらに続けた。

「いつか自分も、こんなスタジアムでプレーできたらいいなあ」

 その女性は、馬渡の言葉に深くうなずいた。

 

 サッカーをはじめたのは小学2年生のとき。本人の意思というよりも、幼稚園からの友人たちが、こぞってサッカーをやると言い出したことが、きっかけだった。それが地元の小学校で活動していた三宿サッカー少年団だった。

「当時はポジション関係なく、自由に動き回っていました。身体能力はあるほうだったので、対戦相手が強ければDFもやったし、トップ下でもプレーしました。それこそ、PK戦のときにはGKを任されていましたよ」

 その友人たちと一緒にプレーしたいから迷うことなく、進学した世田谷区立三宿中学校のサッカー部に入った。

「新人戦では区で優勝したこともあって、強いとは言われていましたが、最後の大会では、完全に相手に引いて守られて(世田谷区の大会で)2回戦負け。一応、僕自身は、東京都の選抜チームに選ばれてはいましたけど、有名なクラブチームの選手たちばかり。友だちもいなければ、みんなうまくて、選抜チームの練習に行くのは嫌でした。正直、ずる休みとかしていましたもん。それくらい行くのが嫌だったんです」

 学生時代の弱気な一面を明かしてくれたが、幼いころから向上心は強かった。そこには恩師の言葉であり、働きかけがあった。

「小学生のときのコーチから、常に『満足するな』って言われていたんです。中学生のときもコーチに会えば、その言葉をいつも言われていた。それもあって、今も『満足しない』というのは、自分のテーマになっています。それくらい、この言葉は忘れたことがないですね」

 馬渡を導いた点が、ここでひとつ。高校に進学を決めるときにも点はあった。

「それほど知識もなかったので、最初は都内の高校に行こうと思っていたんですけど、中学時代のコーチが、人脈をつたってくれて、『イチフナ(市立船橋高校)の練習会に行ってみないか?』と声を掛けてくれたんです。それで、他の選手を見るタイミングで、自分も一緒に練習参加させてもらったら、たまたま自分だけが受かったんです」

 知識がないとはいえ、さすがの馬渡も“イチフナ”が高校サッカーの名門であることは知っていた。だから、「どん底からのスタートになるだろうな」とは覚悟していた。

 だが、中学校ではFWやトップ下の選手だったという馬渡は、高校1年生のときから評価されると、2年生になり主に右サイドハーフとして出場機会を増やしていった。

「2年生のときには、インターハイで流通経済大学付属柏と同校優勝して、高校サッカー選手権にも出場しました。でも、選手権では、ノボリくん(登里享平)のいる香川西に1-2で負けてしまったんですけどね」

 全国大会を経験し、広い世界を知ったことで、朧気ながらプロサッカー選手になることを考えたときもあったという。

「高校時代は主に右サイドハーフでしたけど、左SBでもプレーすることもあったんです。石波靖之監督(当時)や朝岡隆蔵コーチ(当時)にも、『後ろからの攻撃の推進力を期待している』と言われていたところもありましたし、もし自分がプロになるのであれば、SBかもしれないなって、そのとき思ったんですよね。そこから少しSBを意識するようにはなりました」

 ただ、プロになることは現実的ではなく、その可能性を模索することもなかった。

「正直、高校時代の3年間は、“イチフナ”というブランドを背負って、サッカーをやっていたように思います。当時から、朝岡コーチには、『サッカーはファッションじゃないんだぞ!』って言われていたんですよね。今、振り返るとですけど、当時はイチフナに入ることによって、イチフナというブランドを背負って、ファッションみたいにかっこつけてサッカーをやっていたように思います。そのことに高校時代は気がつくことができなかった。その意味が分かったのは、たぶんプロになってから。だから、朝岡さんは、『まじめに、謙虚に、ひたむきに』という言葉をよく言っていたんだと思います。朝岡コーチに、卒業アルバムに書いてもらったメッセージにも、その言葉が書かれていましたから」

馬渡和彰選手

 馬渡はいくつかあった選択肢の中から東洋大学に進むが、ここにもやはり点はあった。

「イチフナ時代に信頼していたコーチが、当時、東洋大学の監督をしていた西脇徹也さんは素晴らしい人だぞということを言っていたんですよね。その人の指導を受けてみたいなと思って、当時2部リーグでしたけど、東洋大学に行くことを決めました」

 大学1〜2年生のときに指導を受けた西脇について、馬渡は「最高の出会いになりました」と話す。

「サッカー選手の前に、人としてどうあるべきかを教わりました。考え方であり、集団行動や人と人とのつながり。人間性を学びましたね。今も、自分が迷ったり、悩んだりすれば、西脇さんに連絡して、アドバイスをもらうこともあります。自分にとってはまさに恩師のひとり。もし、西脇さんに出会っていなければ、自分はサッカーをやめていたと思います」

 さらに、大学3〜4年生のときに指導を受けた古川毅との出会いも転機になった。

「1〜2年生のときは人として成長させてもらって、3〜4年生の2年間では、サッカー選手として技術的にかなり向上させてもらったと思います。古川さんからは、サッカーが奥深いスポーツだということを教わったんです。古川さんがバルセロナを好きだったこともあって、当時4-1-4-1システムを採用して、僕は右もしくは左のSBとしてプレーするようになりました。当時のバルセロナのようなサッカーを目指していく中で、SBはただ上下動するだけでなく、攻撃の起点になることも求められた。SBが相手をはがせるのか、はがせないのか。もしくは攻撃を組み立てられるのか、組み立てられないのかで、チームの安定感は大きく変わってくる。それまでは攻撃的なポジションでプレーして、得点することが気持ちがいいというタイプでしたけど、このときはじめて、SBって面白いなって思うようになったんですよね」

 3年生のときには、関東大学2部リーグで優勝。選手としても成長を実感した馬渡は、プロになりたいと思うようになっていた。4年生のときは1部リーグのレベルに苦しみ、再び2部降格の憂き目に遭ったが、プロになる夢は抱き続けていた。

「東洋大学が提携していた大宮アルディージャをはじめ、いくつかのチームの練習に参加することもできました。でも、加入は決まらなくて……。他にも京都サンガの練習にも参加させてもらいました。ここでも自分としては手応えを感じていたんですけど、決まらず。一つひとつ選択肢は消えていきましたね。最後の最後に練習参加させてもらったチームもあったんですけど、そこで僕、ケガをしてしまって……年明けにもう一度、練習に来てくれとは言われていたんですけど……それ以上に僕には、早くプロにならなければいけない理由があったんです」

 明るい性格の馬渡だけに、少しだけと付け足すが、意を決して話してくれた。

「実は僕、そのときには結婚もしていて、子どもがいたんです。僕……学生結婚しているんですよね」

 そう言うと、穏やかな表情から一変し、真剣な顔つきで語りはじめた。

「当時、妻は大学を辞めて本気でモデル業で上を目指していました。それなのに、僕は学生という立場でありながら、妊娠させてしまったわけです。向こうの親に会いに行くと、当たり前ですけど、『私の大事な娘を幸せにできるの?』『産まれてくる子どもを養えるの?』と言われました。でも、そのとき、僕はサッカー選手になりたいとも思っていたので、サッカーも諦めたくなかった。それで相手の親に『1年だけ待ってください! 絶対にプロになるので!』と言って、待ってもらっていたんです」

 愛する妻であり、子ども、さらには相手の親と交わした約束のためにも、馬渡はプロにならなければならなかった。だから、焦ってもいた。そんなときだった。馬渡のもとに連絡があったのは……。

「京都の練習に参加したときに、イチフナのOBでもあった髙木理己さんがコーチにいたんです。でも、シーズンが終わって京都は監督やコーチが代わることになって、髙木さんはJ3への降格が決まったガイナーレ鳥取のコーチに就任することになった。そのとき、京都で練習参加した僕のことを評価してくれていたみたいで、連絡をくれたんですよね。J3に降格したこともあって、給料は高くないかもしれないけど、聞けば何とか生活していけるのではないかと思ったんです」

 彼女、いや妻も背中を押してくれた。

「迷いましたよ。でも、奥さんが『ここでサッカーをやめたら、きっと後悔する』って言ってくれたんです。妻は、自分がやりたかったモデルという夢を諦めて、2人の子どもを産むという決断をして、自分をサポートするという道を選んでくれた。それなのにお金を理由に、サッカーを諦めてほしくないって言ってくれたんです。もらえるお金は少ないかもしれないけど、私からすれば、好きな仕事をしていられることは、すごくうらやましいことなんだよって……」

 馬渡の夢は、妻の、家族の夢にもなっていた。

「何て言えばいいんですかね。僕は、自分と奥さん、ふたり分の夢を背負っていたんです。自分の夢と奥さんの夢。奥さんの夢を諦めさせてまで、僕はサッカーをやっている。そのサッカーでは、たいした収入も得られないのに、それでも妻は僕を支えようとしてくれている。……本当にここまでやってこられたのは、妻と産まれてきてくれた子どもたちのおかげだと思います」

 妻の後押しもあり、馬渡は鳥取でプレーすることを決めた。実際、鳥取では当初聞いていた以上に給与は少なく、生活は苦しかった。妻も、産まれたばかりの子どもを保育園に預けて、働いてくれたと、馬渡は感謝する。

「だから、中途半端な気持ちでサッカーをしてはいけないって、ずっと思っていました。家族のためにも自分の夢は実らせなければいけない。だって、僕はふたり分の夢を背負っているわけですからね。夫として、父親として、おそらく他の人とは覚悟が違ったと思います」

 等々力で川崎フロンターレの試合を見て、馬渡が一生懸命にサッカーの魅力を伝えたのも彼女だった。この点こそが、出会いこそが、馬渡の人生にとって最も大きく、そして彼自身を大きく変えていったのだ。

 生活は楽ではなかったが、鳥取では出会いもあった。

「京都の練習に参加したときにも会っていたんですけど、倉貫一毅さんと鳥取でチームメイトになったんです。僕にとって、この出会いがめちゃめちゃ大きかった。鳥取ではプロとしての姿勢はもちろん、まだまだ足りなかった人間性の部分を学びました」

 J3元年でもあった2014年、開幕からスタメンで出場した馬渡は、その倉貫から「なぜ、自分がJ3でプレーしているかを考えろ」と問いかけられた。

「何かが足りないからお前は今、J3でプレーしているんだと言われました。ただ、上に行く素質は持っているからと、僕のポテンシャルにも期待してくれていて。倉貫さんのおかげで、考え方はもちろん、練習や日々の取り組みにいたるまで、すべてを見直しました。本当に倉貫さんは、僕の人生における重要な登場人物なんです」

 ただ、シーズン半ばに右膝半月板を損傷して、プロ1年目の2014年は21試合5得点。チームも4位に終わりJ2昇格は叶わなかった。どこからも声は掛からなかったが、それでも馬渡の気持ちは途切れなかった。

「根っ子には、妻のため、子どものためという思いが常にありました。このままでは家族みんなが路頭に迷うことになるかもしれない。サッカーをやめて東京に戻ったところで、きっと今と変わらない生活が待っているんだろうなと。だから、もう、僕はやるしかなかったんです」

 今でこそJ3からJ2へ、J3からJ1へと移籍するケースも増えたが、当時は稀だった。

それでも、誰かが見ているかもしれないと思っていた馬渡は、ピッチに立てば常に全力を尽くした。2年目の2015年は、J3で31試合に出場。チームは6位に終わったが、1年目の2014年に対戦した際に活躍していた姿を見て、J2に昇格していたツエーゲン金沢からオファーが届いた。

「オファーが来たと聞いたときには、『よっしゃー!』って、その場でガッツポーズしましたよね。奥さんも、めちゃめちゃ喜んでくれました。年俸はそれほど変わらず、生活はそれほど楽にはならなかったですけど、J2でプレーしていれば、見てもらえる機会は格段に増えますからね」

 印象深い試合がある。それは2016年J2第5節の対セレッソ大阪戦だった。

「J3と比較すれば、まずJ2は観客の人数が全然違ったんですよ。キンチョウスタジアムでは1万人以上もお客さんが入っていた。CKでは自分がキッカーを務めていたんですけど、ものすごいブーイングを浴びたんです。J3のときは、それほどのブーイングを浴びたことはなかったので、逆にワクワクしましたよね。試合前は会場の雰囲気に飲まれて、緊張もしましたけど、CKからアシストしたときに、相手サポーターが静まり返った瞬間は、本当に気持ちよかったです」

 ただ、アクシデントにも見舞われた。J2第9節のFC岐阜戦の前半20分頃に、相手選手と接触した馬渡は、左膝蓋骨骨折の重傷を負う。その状態で前半45分までプレーしたというのだから、その精神力には驚かされる。リハビリの間には、肉体改造にも取り組んだという馬渡は、J2第19節で途中出場ながら復帰。続く第20節は、アウェイでの徳島ヴォルティス戦だったが、これがまた彼にとっての転機となった。

 馬渡が、人生における重要な登場人物と話す倉貫が働きかけてくれていたのである。

「倉貫さんは2014年で現役を引退して、徳島の普及コーチになっていたんですよね。それで徳島の強化部の方に、『馬渡という選手がいるから、見ておいてくれ』と言ってくれていたみたいなんです。それを倉貫さんから聞いていた僕は、この試合も途中出場だったんですけど、絶対にアピールのチャンスになると思って、思い切りシュートを打ったり、上げたり、ギラギラしたプレーをしたんです。そのプレーが認められて、徳島の網に引っ掛かった。だから、僕にとって倉貫さんとの出会いは本当に大きいんです。京都の練習に行って、そこで高木さんに認められ、鳥取に引っ張ってもらい、倉貫さんに出会って、鳥取でチームメイトになって食らいついていって、認められたからこそ、徳島からオファーをもらうことができた」

 点と点がつながり、線になる瞬間だった。それは、京都の練習に参加したときも含めて、常に馬渡が「まじめに、謙虚に、ひたむきに」、そして「貪欲」に取り組んできたからこそ、勝ち取った切符でもあった。

 金沢ではケガもあり、15試合1得点の結果に終わったが、2017年に徳島へと移籍すると、リカルド・ロドリゲス監督に見出され、J2で39試合4得点と活躍した。

「ちょうどリカルド・ロドリゲス監督が就任することになり、これもチャンスだと思いました。チームには不動の両SBがいたんですけど、指揮官が代われば、序列を覆すチャンスだなと。監督が掲げたサッカーが、自分たちが常に主導権を握るという攻撃的なスタイルだったことも、自分には合っていたんですよね。何て言うんだろう。そこには僕が輝ける場所があったんです」

 SBながら、常に高いポジションを取り、ドリブルで打開すれば、スペースに走り込んで攻撃に顔を出す。守備時は懸命に戻らなければならなかったが、大学時代を思い出させるそのサッカーは楽しくもあった。J2第10節のジェフ千葉戦では、ボールパーソンに対して非紳士的な行為を働いたとして退場処分を受け、スポーツニュースだけでなく、ワイドショーでも取り沙汰される事態になった。

「妻は泣いていましたね。ここまでがんばってきている姿も見てくれていましたし、躍動しているところも近くで見てくれていたから、昼も夜も問わず、悪いニュースとして流れて、自分以上に傷ついていた。当事者はもちろん、周りの人たちには、本当に申し訳ないことをしました。あの経験は、さらに自分が大人になるきっかけになりました」

 その話題を避けることなく、話してくれる強さであり、逞しさもある。これまでもそうだったように、這い上がろうと常にプレーで示し、常に全力を尽くしてきたからこそ、J1からのオファーが届いたのだろう。

「徳島で活躍できた実感はあったので、J1のチームから声が掛かるかもしれないな、とは思っていたんです。いくつかのチームからの話があった中で、そんなときにサンフレッチェ広島から打診があったので、うれしかったですよね」

 ようやく辿り着いたJ1の舞台。キャンプでは練習試合から結果を残し、精力的にアピールした。ただ、攻撃的なサッカーを標榜していた徳島とは異なり、堅守速攻をベースとする広島に、彼が輝ける場所はなかった。

「壁にぶつかりましたね。ぶつかりました。そんなとき、森﨑和幸さんや丹羽大輝さんや千葉和彦さん、青山敏弘さんに支えてもらった。丹羽さんには『プロである以上、試合に出ていようが、出てなかろうが、常にやることは変わらない。常にいい準備ができていなければ、チャンスが巡ってきたときに活躍できないぞ』と教えてもらいました。千葉さんは『お前のは挫折じゃない、左折だ!』って笑わせてくれて。自分も試合に出られていなかったので、悔しいはずなのに、誰よりも練習を楽しんでいたんです。腐りそうなときもありましたけど、先輩たちのそんな立ち居振る舞いを見て、考えさせられましたよね。だから、そのときにFKの練習とかも、めちゃめちゃしました。たった半年でJ2に出戻りしたくないと思っていたので、歯を食いしばって、向上心を持ってやり続けようと思うことができたんです」

 2018年、広島でJ1に出場したのは4試合のみ。ただ、最終節で1得点を挙げて爪跡を残した試合後、川崎フロンターレからオファーが届いた。

「うれしかったですよね。J1で4試合しか出ていない僕にオファーをくれて、その攻撃力を生かしてほしいと話をもらいました」

 より厳しいポジション争いが待っているとは考えなかったのかと聞けば、「連覇している日本一のチームですよ。チャレンジしないわけにはいかないですよね。ポジション争いも当然、望むところですよ」と、答えてくれた。

 迎えた2019年、J1連覇を達成して2つ目の星が刻まれたユニフォームに袖を通した馬渡は、シーズン開幕を告げるゼロックススーパーカップで、川崎フロンターレの選手として途中出場した。

「僕のチャントを歌ってもらったときは震えましたよね。5万人以上の観客の前でプレーするのもはじめて。自分のキャリアを振り返ると、涙が出そうになりました」

J1第1節のFC東京戦でも途中出場し、持ち前の攻撃力を示した馬渡は、続く第2節の鹿島アントラーズ戦で、初の先発出場を果たした。

 試合では、ふたりの子どもを連れて、等々力陸上競技場のピッチへと足を踏み入れた。タッチライン沿いでは、愛する妻がその光景を見つめていた。試合後、馬渡は、こう妻に声を掛けたという。

「ねえ、すごくない! あのとき、スタンドから見ていたスタジアムのピッチの中に自分たちがいるんだよ。今はふたりの子どもに恵まれて、そのふたりを連れて入場して、その姿を写真に撮れるなんて」

 そして、愛する妻へ感謝を伝えた。

「人生って自分たち次第で、どうにでも変われるんだね。これまで、がんばって支えてくれてありがとう。おかげさまで、ここまでくることができたよ」

 点と点は幾つも重なり、強く、太い線になり、未来を照らす道になった。

「ここまではステップアップしたい、這い上がりたいと思ってプレーしてきましたけど、国内ではもうこれ以上、上はないですよね。フロンターレは、クラブの伝統として攻撃的なスタイルを持っているチーム。これまでの自分のキャリアが物語っているように、攻撃的なサッカーをするチームで、自分はプレーしたいし、自分の力も発揮できると思う。だから、僕は、ここに骨を埋めるくらいのつもりでいます。エウシーニョへのリスペクトはもちろんありますし、比べられることが多いですが、僕はエウシーニョじゃないし、僕は僕なんです。周りの選手のサポートも速いし、質も高いので、川崎で僕は、両サイドできて、周りに使われるだけでなく、周りを活かすこともできて、得点もアシストもできるSBになりたいんです」

 満足しない── それこそが馬渡の原点である。そして、道は続いていく。

profile
[まわたり・かずあき]

サンフレッチェ広島から完全移籍で加入。左右のサイドバックをはじめ、複数のポジションをこなすユーティリティープレーヤー。サイドから積極的に勝負をしかけ、正確なキックでラストパスを送り込む攻撃的なプレーが最大の武器。

1991年6月23日
東京都世田谷区 生まれ
ニックネーム:かず

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