CLUB OFFICIAL 
TOP PARTNERS
  • ホーム
  • F-SPOT
  • ピックアッププレイヤー 2019-vol.04 / SPECIAL ISSUE 板倉滉

KAWASAKI FRONTALE FAN ZONEF-SPOT

PICKUP PLAYERS

告白

SPECIAL ISSUE 板倉滉

告白

テキスト&写真:杉山 孝 写真:大堀 優(オフィシャル)
text & photo by Sugiyama,Takashi photo by Ohori,Suguru (Official)

「フロンターレって、『あったかい』ですよね。何て言ったらいいんだろう、常に一緒に進んできたというか、家族というか。人生の半分以上をフロンターレと一緒に過ごしてきたから、今でも家族みたいな感じがします」

日本最北端の北海道稚内市より、さらに北。まだ日本でも桜が咲かない頃、北緯53度にあるオランダのフローニンゲンという街で、板倉滉は“我が家”の温かみを思い出していた。

 

 世界最高峰の力を誇るイングランド・プレミアリーグ王者、マンチェスター・シティへの移籍。その突然のニュースに、日本中が驚いた。ただし現在の板倉はイングランドでプレーするために必要な労働許可証取得には至っておらず、まずは期限付き移籍したオランダのフローニンゲンで自分を磨いている。

 多くのサッカーファンにも寝耳に水の話だったが、少なくともフロンターレファンには板倉が今年は水色のユニフォームを着ないのではないかとの「予感」があったかもしれない。ニュースを伝えるウェブメディアのコメント欄には、期限付き移籍からの帰還がなかなか発表されないことを心配していた、との声が散見された。

「届いています。頑張ってくれという言葉は、川崎からも、仙台からも、(自分自身のもとに)届いています」。世界最高峰を争うクラブへの移籍の重みを、ニュースに対する周囲の反応で認識したというだけに、自分を思ってくれる人たちの声には敏感だ。

 昨季お世話になったベガルタ仙台も大好きになった。そう笑顔で話す22歳は、自分を愛してくれた人たちに、申し訳ない気持ちもあるという。

「両方のクラブの人たちに、自分の口から挨拶して、話をしたかった。特にフロンターレは、ずっとお世話になってきたクラブですから。フロンターレの視点で考えてみれば、本来ならば一旦(期限付き移籍から)帰ってきてから海外に行くのがベストだったかもしれません。それなのに、挨拶する間もなく慌ててこっち(ヨーロッパ)に来ちゃったので…。でも、フロンターレと仙台のファンの皆さんからの期待は、僕に伝わっています」

 フロンターレ愛を語りながら仙台への思いも強調するところが板倉らしく、それがまた、どちらのクラブのファンからも愛される理由だろう。それでも、と板倉は続ける。

「等々力でもっと試合に出て活躍した姿を見せたかったなという気持ちは、もちろんあります。活躍したかったのに、フロンターレでは自分が納得できるようなプレーができず、あまり試合にも出られなかった悔しさもあります。でも、こっちに来た以上はやるしかないんです。自分の中では、挑戦だという思いでこっちに来ています。だから、とにかく、やるだけだと思っています」

これまで打ち明けることはなかったが、ひとりのフロンターレファンだった少年時代、人知れず苦しんでいた時期、そして今抱える思いの「告白」は、きっと自分を愛してくれた人たちの心に響くはずだ。

 フロンターレのファン・サポーターのほとんどが、板倉は自分たちの一部だったことを知っている。

 クラブのプロフィール欄によると、出身地はお隣の横浜市青葉区。Jクラブが2つある街で、町田だって遠くない。最初に所属した名門あざみ野FCから羽ばたいたプロ選手の中には、東京ヴェルディなどの下部組織に進む選手も多かった。「でも僕、川崎に住んでいたんですよ。だから僕の中では、Jリーグを見にいくと言えば等々力、フロンターレでした」。

 当時の板倉少年のアイドルと言えば、「ジュニーニョじゃないですかね」。長らく背番号10を背負った偉大な先達に「さん付け」しないあたりが、まさにファン目線だ。「小学校2-3年生の頃で、J1昇格も見ていました。オニさん(鬼木達・現トップチーム監督)がいて、(中村)憲剛さんが入りたての頃で。U-18の時の監督だった今野(章)さんやベティさん(久野智昭・現トップチームコーチ)、ガミさん(浦上壮史・現U-18 GKコーチ)もいました」。おそらく当時は「さん付け」せずに、ヒーローたちの名を叫んでいたはずだ。

 大好きだから。そのユニフォームを着たいと願う気持ちに、多くの理由はいらない。

「特にどこかのジュニアチームに行きたいという強い思いは全然なくて。でも、応援していたフロンターレがセレクションをやるらしいと聞いて、フロンターレにならば、もちろん入りたいという気持ちはあって。サポーターでしたから(笑)。『それならば』と、セレクションを受けてみた、という感じですね」

当時は、ボールを持てば相手を全員抜いてシュートにまで持ち込むようなFWだったという。「あの時期が一番うまかったですね。一番、自分に自信を持ってやっていました」と、振り返る表情に自然と笑みが浮かぶ。そんなサッカー小僧に、合格通知は届いた。

「うれしかったですね。トップの選手と同じフロンターレのユニフォームを初めて着た時のことは、今でも覚えていますよ。多摩川の河川敷だったんですけど、選手としてあのユニフォームを着られることが、すごくうれしくて。『あ、かっこいい』って」

憧れのユニフォームを自分のものにした少年は、いろいろなポジションも経験して成長しながら、サッカーとクラブへの愛情とともに別の思いも育んでいった。

「小学校5年生、6年生と進んでいくにつれて、夢が明確になったというか、プロになりたいなという思いを感じ始めました。フロンターレの選手として、等々力のピッチに立ちたいな、って」

板倉 滉

 09年、膨んだ夢とともにU-15へ進んだが、気持ちはしぼんでいった。成長の度合いに応じて、U-15の選手たちは1つ上の学年の練習に混ざることもあった。板倉には、その機会は訪れなかった。周囲と比べて体の成長が遅く、焦りと裏腹にプレーがついていかなかった。

「中学校の時には、サッカーに対して気持ちが全然入っていませんでした。楽しくなくて。周りの仲間には成長期が来て、どんどんでかくなって、僕の身長を抜いていく。僕はスピードでもついていけなくて。あの時にもっと何か考えてサッカーをしていれば良かったなと今は感じるんですけど、当時は全然サッカーに対して気持ちも入らなかったし、練習にも行きたくなかった。そういう状態が、ずっと続いていましたね」

 クラブ愛が冷めたわけではなかった。トップの試合は、U-15の仲間たちと一緒に見に行っていた。それでも、悩める中学生の心が晴れることはなかった。

「フロンターレを嫌いになったりはしませんでしたが、サッカー自体は『もういいや、辞めたい』という思いでした。親には何も言わず、自分でコーチのところに行って、『もう、フロンターレを辞めたい』と話したこともあります。そんなことを言ったのに、次の日には普通に練習に行ったりしていたんですけど(笑)。そういうことがずっと続いていましたね。『やらなきゃ』という気持ちにもなることもできなくて、行きたくないのに、練習には行って。だから、中学時代は難しかったですね」」

 子どもから大人になろうとする時期には、きっと誰にでも大なり小なり似たような思い出があるはず。そして、そんな思い出にはおそらく、そっと見守る家族との思い出も付随することだろう。板倉の“家族”は甘やかさず、それでいて、決して目が届かない位置に置かなかった。

 最終学年になっても、後輩のプレーをベンチで見る時間が続いた。「悔しいけど、『別にいいや』くらいの気持ちになっていました。だから、絶対に(U-18に)上がれないだろうなと思っていたんですけど」。クラブは、「今」だけを見るようなことはしなかった。

 無理だと思ったU-18昇格がかなうと、状況は変わっていった。

 ようやくやって来た成長期は、板倉にサッカーの楽しさを思い出させた。今、板倉は「サッカーってメンタルスポーツなんだなって、すごく感じます」と話す。無意識ながら心のどこかには、アカデミー時代の思い出が引っかかっているのかもしれない。余裕がプレーに幅を与え、プレーの喜びが質を引き上げる。

 高校3年時にはトップチームへの昇格も決定したが、その進路にも自信があったわけではない。「上がれるかは分からなかったので、大学進学も考えていました。もちろん昇格できるというならば迷いはありませんでしたし、上がらせてくれたことには感謝の気持ちしかありませんでした」。

 ただし、サッカーも、プロの世界も甘くはない。すでにJ1上位を争うようになっていたチームで、最前線にルーキーが割って入ることは簡単ではなかった。それどころか、居場所を見つけ出すことさえ難しかったという。

「プロ1年目から『レベル高すぎだろ!』と驚いて。もちろんU-18とはレベルが全然違ったし、緊張しているつもりはないのに、普段はしないようなミスをしたり。常に緊張感を持って練習をしていました」

「正直に言うと、試合に出たいとは言うものの、その気持ちは本物なのかというと、全然そうではありませんでした。出ても何もできないだろうし、それ以上に『足を引っ張ってしまうだけだ』という怖さがありました。マイナス思考というわけではないけれど、出ても無理だろうと、勝手に思い込んでいました」

 どこか、既視感を伴う感覚。だが、決定的に違ったのは、前を向くことをやめなかった点だ。「頑張れたというより、やるしかなかった。練習があったらやるしかなくて、その練習の中でやるしかない。必死でした」。日々がサバイバルだった。

 それでも、決して無駄な1年間ではなかった。今ならば、そう言える。

「1年やってみると、慣れるんですよね。チームとプロのスピード感に慣れてきて、練習試合を積み重ねて、良いプレーができると気持ちにも余裕ができてくる。今になって分かるのは、そういうことを1年目はすごい緊張感を持ってやっていたんだな、周りが見えていなかったんだな、ということですね」

 プロ1年目に訪れたベンチに入りの機会は、負傷者が続いた末の「最後の人数合わせ」だったと自覚している。その裏返しとして、2年目に入っての出場機会の増加には、自分なりの手応えがあった。

 転機はヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)のグループステージ最終節に訪れた。

「急にチャンスが来ました。決勝トーナメントに上がれるかどうかが懸かった試合で、急に風間(八宏)監督がポンとメンバーに入れてくれたんです。いざ試合に出ると、最初はメッチャ怖いんです。1年くらい公式戦に出ていなかったから怖いんですけど、始まってみると、うまくというか、周りもよく見える。余裕を持ってプレーできると、それが自信に変わっていきました。さらに天皇杯やチャンピオンシップにも出してもらって。勢いでやっていて、もちろん修正点はあるものの、調子悪い試合はなかったな、って思うんです」

 勢いに乗れた2年目だったとすれば、プロ3年目は手応えを確信に変える年だった。「自分としても、『勝負だな』と思っていた3年目でした」。

 勝負どころだととらえていたシーズンの中でも、絶対に逃せないチャンスがめぐってきた。少なくとも、自分ではそう見極めていた。AFCチャンピオンズリーグ(ACL)第3節、アウェイでの広州恒大戦だった。

「ここでしっかりやったら、マジでポジションを取れると思って挑んだ試合でした。でも、前半のうちに交代することになって…」

 自分への期待に比例して、ショックは重みを増した。そして、また昔の苦い思いがよみがえる。

「2年目にあれだけ勢いを持ってできていたのに、できなくなってしまって。そうなるといろいろと考えてしまうし、考えるほどうまくいかなくなるということが続いて。代表に呼ばれてU-20W杯でもメンバーに入れてもらいましたが、クラブに帰ってきたら、また試合に出られない。また自分の中で、気持ちがちょっと…、練習に身が入らなくて」

「自分でも気づいているんですよ。ヤバイ、気持ちが入っていないな、もっとしっかりやらないといけないなと思いつつ、出られていないことを、どこかで自分以外の何かのせいにしていたり。自分でも気づいているんです。ダメだぞ、と自分で言い聞かせるんですけど、心がついてこなくて」

 U-15時代は、率直な思いをコーチに伝えた。プロ1年目は、「本当の思いは、なかなか周囲には話せなかった」という。今度は、周囲が寄り添ってくれた。

「練習に身が入っていないのは、見ていたら分かるものです。そういう状況で、先輩が食事に誘ってくれました。もう一回しっかりやれよ、といった話をたくさんしてくれました。いろいろなベテランの先輩が話をしてくれましたし、特に憲剛さんは普段からプレーのことなどいろいろと話してくれました。しかも、説得力がすごいんですよ。聞いていて『なるほど』と思うことは多いし、すごいことを考えているなと感じたし。練習で怒られても、終わった後に説明してくれました。もともと憲剛さんのファンだったから、その憧れの人にアドバイスをもらえるというのは、すごくありがたいことだなと思いました。本当にチームメイトに助けてもらったな、というプロ3年目でした」

 そしてプロ4年目、一つの決断を下した。

「とにかく試合に出ないとダメだという気持ちが、自分の中にありました。1年仙台に行った後でどうするかということまで考えず、まずは充実した2018年にしないといけないと思っていました。もちろん、フロンターレに残るという選択肢もありだったかもしれませんが、『今、試合に出たらやれる』という気持ちがありました。それなのに試合に出られない悔しさがあったので、環境を変えてみようと思い、仙台行きを選びました」

 決断が吉と出たことは、仙台への感謝の思いが物語っている。

 トップチームに昇格したスクール1期生で、年代別の日本代表にも入っている。さらには世界最高峰のクラブから招かれた。エリートそのもののような経歴の影には、なかなか周囲には明かせなかったという苦しみがあった。「フロンターレ後援会の最高傑作」は間違いなく、クラブとファン・サポーターによって育まれた。

「フロンターレのユニフォームを着て、もう13年くらい経つんですね。学校が終わったらフロンターレに行くのが当たり前で、そうするうちに、こうしてプロになって」

離れることで、あらためて感じるものがある。

「温かいですよね。選手もサポーターも温かい。そういうところは、フロンターレならではの色だと思います。サポーターだからこそ感じていたことでもあるし、こうしてプロになっても、それが好きだと感じています」

 ベンチ入りにまではたどり着いたが、次の一歩を踏み出せないまま、ヨーロッパでの初のシーズンが終了した。

「試合に出ていないことが一番悔しい。使ってくれたらやれるという自信はあったのに、なかなか試してくれなかったので、もちろんいろいろな思いがあります。でも、もっと必要とされるようにアピールしなければいけなかったということですね」

 英語も学び、街にも慣れた。自炊にも挑戦している。間違いなく、板倉は前進している。

「ヨーロッパのスピードや体の強さを練習で毎日体感できて、この半年で慣れました。さらに上のレベルでやるには、もっと強くならないといけないんだと感じられたことは、良かったと思います」

 様々な思いを抱えながらも、ひとまず1年目の挑戦を終えた板倉に朗報が届いた。コパ・アメリカに臨むメンバーとして、初めて日本代表に選出されたのだ。

 ただし、手放しで喜んでいるわけではない。「(クラブで)結果を出して入れたわけではないので、しっかりやらないと。うれしい気持ちも少しありつつ、しっかりやらないと次はなさそうだな、と感じています」と、一層気持ちを引き締める。

 帰国していた板倉は今月1日、もう一つの願いを叶えた。浦和レッズ戦の前に、ホームへ応援に駆け付けたサポーターへ挨拶する機会を得た。

「うれしかったですね。できていなかった挨拶をしたいという思いは強かったので。皆さんの前で話せて良かったし、サポーターの方々も快く受け入れてくれたので、すごくうれしかったですね」

 6日からは “帰省”した。慣れ親しんだ練習場で、コパ・アメリカに向けて汗を流したのだ。

「久々に来ましたが、居心地が良いですね。良い人たちばかりなので、素直にうれしいです。できればずっとここでやりたいと思っちゃうくらいに(笑)」

 その言葉のとおり麻生グラウンドには、家長昭博らと言葉を交わしながら、ピッチから離れがたい様子の板倉の姿があった。ファンも長い列をつくり、送り出した「最高傑作」との交流を楽しんだ。

「ファンの方には、頑張ってとか、いつか帰ってきてねなどと言葉をかけてもらいました。まずはしっかり活躍して、良いニュースを届けたいなと思いました」

 現状では、まだイングランドは遠いかもしれない。「今の力じゃ絶対無理だと自分でも分かっているので、試合に出て経験を積むことが今は大事だと思っています」。自分のためにも、すでに新シーズンへ向けて気持ちは高まっている。

 いつかイングランドで、もう一つの水色のユニフォームに袖を通して──。子供の頃に多摩川の河川敷で浮かべたあの笑顔を、家族へと届けるつもりだ。

profile
[いたくら・こう]

川崎フロンターレ・アカデミー出身。上背を生かした空中戦の強さと足下の技術で勝負する大型DF。2019年6月、プレミアリーグのマンチェスター・シティFCに完全移籍することが電撃発表されるも、期限付き移籍でオランダのフローニンゲンへ。

1997年1月27日
神奈川県横浜市 生まれ
ニックネーム:コウ

板倉滉選手在籍時の
プロフィールページへ

2017シーズン

2016シーズン

2015シーズン

2014シーズン

PAGE TOP

サイトマップ