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  • ピックアッププレイヤー 2019-vol.06 / DF4 ジェジェウ

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若手鼎談

ジェジエウ

はじまりのとき

聞き手・構成:いしかわ ごう 写真:大堀 優(オフィシャル)
interview & edit by Ishikawa,Go photo by Ohori,Suguru (Official)

2019年5月3日、明治安田生命J1リーグ第10節・ベガルタ仙台戦。
元号が「令和」となって初めて等々力陸上競技場で開催されたJリーグだった。
観客数は2万5789人。そんな満員となった等々力の観客の目は、あるブラジル人プレイヤーに釘付けとなっていた。
この試合でJリーグデビューを飾ったセンターバック・ジェジエウである。

ロングボールが飛んでくれば、仙台のエースFWであるハモン ロペスよりも高い跳躍力で競り勝って力強く弾き返す。背後のスペースを狙われたボールには、鋭く反応してピンチの芽を摘む。どこかスケールの大きさを感じさせるプレーを繰り出すたびに、観客席からはどよめきと歓声、そして拍手が湧き起こった。初めは緊張気味だった本人も、次第に手応えを掴み始めた。

「ピッチに出たら、自分のすべてを出し尽くす準備はできていたと思います。実戦からは遠ざかっていたのも事実ですし、気持ちも高ぶっていました。最初のところで良い流れで入れたので、試合を通して良さを出せたと思います。自分のやるべきことをやる喜びにも溢れていました」

 13分、川崎フロンターレが先制点を奪うことに成功する。相手陣内でボールを奪うと中盤でボールをつなぎ、脇坂泰斗のラストパスが小林悠に。左足で鮮やかにシュートを決めて、ゴールネットを揺らした。ジェジエウは喜びを爆発させた。

「先制点の場面をとてもよく覚えています。サポーターと初めて喜びを初めてわかち合った瞬間でした。感情が高ぶった瞬間ですし、サポーターのみんなと喜べて本当に嬉しかったです」

 その後も破綻のない守りを見せる。仙台の前線はハモン ロペスとジャーメイン良が組む厄介なツートップだったが、まるで隙を見せずに応戦した。試合は3対1で勝利し、堂々としたパフォーマンスでデビュー戦を飾った。

「気持ちの部分での波がなくプレー出来て、自分の持てるものは出せたかなと思います。チームメートにも助けられて勝利することができました」

 チームメートからの評価も上々だった。最終ラインで初めてコンビを組んだ谷口彰悟は、試合後、その実力に太鼓判を押した。

「能力はわかっていたので、自分としては彼を生かしつつ、カバーリングを丁寧にやれば大丈夫だろうというのはありました。でも、想像以上にどっしりプレーしていて、頼もしかったですね。スタジアムが湧いてくれたおかげで、本人もノッてきた部分があったんじゃないかと思います」

 デビュー戦の出来が偶然はなかったことは、その後のパフォーマンスで示し続けた。続く清水エスパルス戦ではJリーグ屈指のストライカーであるドウグラスと、さらに名古屋グランパス戦では元ブラジル代表FWであるジョーと互角以上に渡り合った。

 こうして、あっという間に最終ラインに欠かせない存在として確立。レギュラーを務めていた奈良竜樹が、4月26日のトレーニングで全治4ヶ月の大怪我を負ったため巡ってきた出番だったが、そのチャンスをしっかりと掴んだのである。その日々を充実した表情で振り返る。

「試合がずっとありましたから、あっという間でしたね。とにかく勝ち続けたい。試合に出れるようになって嬉しかったですし、良いプレーもできている。最初は思うようにいかない部分もありましたし、簡単ではなかったです。でも、今のレベルを維持しながら、この流れを続けていきたいと思います」

 

ジェジェウ

 ジェジエウの出身はブラジル最大都市であるサンパウロ州である。

 ただ生まれ育ったのは、サンパウロ州にある、人口が2万5千人足らずの小さい街だ。自然が多い田舎で、姉、妹、弟の四人兄弟で自由に育った。

 少年時代の遊び場は、もっぱら近所にある川だ。飛び込みをしたり、泳ぎながらの鬼ごっこ。その他にもかくれんぼや凧揚げ、ビー玉などたくさんの遊びに励んだが、一番好きな遊び道具は、やはりサッカーボールだった。

 2対2でやるストリートサッカーで、ビーチサンダルを適度な距離に置いて、即席のサッカーゴールを作る。車が通らないように場所を塞ぎ、自分たちだけのピッチの完成させた。裸足でやっていたので、アスファルトに足の指をぶつけて痛い思いもしたけれど、足の指に砂をかけるおまじないで痛みを吹き飛ばした。足が痛くても、夢中になってボールを蹴る楽しさには敵わなかったのだ。

 5歳からずっとストリートでサッカーに励んでいたブラジル人のジェジエウ少年にとって、地元のサッカーチームに入ることは、ごく自然な成り行きだった。

「とにかく楽しみながらやろうという感じでしたね。このときはまだプロになるとかは全然思わなかったです。男の子が好きでサッカーでやっているという感覚だったと思いますが、そこでスタッフから能力があると言われました」

 子供の頃からディフェンダーのポジションが好きだった。よく雨が降る地域だったこともあり、綺麗に滑るスライディングタックルができることがたまらなく気持ち良かったのだという。当時は背が高くなかったが、スピードには秀でていて、ジェジエウをドリブルで抜き去るような相手もいなかった。ある時、地元のサッカーチームで出た練習試合でのプレーぶりが相手監督の目に止まったのがきっかけで、違う街の育成組織に入ることとなる。

 そこはサンパウロ州とパラナ州との境界にある街で、ブラジルから有望な選手が集まり、寮生活をするというアカデミーだった。サッカーで上を目指すために12歳で親元を離れる決断をしているが、そのことがプロサッカー選手になる思いをより強固にさせた。

「もちろん、苦労もありましたが、そういう生活をしていくうちに、将来はサッカーをやっていきたいと思いましたね。そこからプロサッカー選手という職業を意識していくようになりました」

 寮生活でサッカーに励みながら、ブラジルのクラブチームとも練習試合を行い、そこでどこかのクラブにスカウトされていく。例えば、元ブラジル代表のリバウドがオーナーとして経営するクラブ「モジミリン」に所属している時期には、育成年代のサンパウロ州選手権に出場した。ちなみにこの時に一緒にプレーしていたのが、横浜F・マリノスでプレーしているチアゴ マルチンスだという。

「レッドブル・ブラジル」というクラブに所属している時には、U-20の伝統的な大会であるコパ・サンパウロに出場を果たす。その活躍から有望株として注目を集め、いくつかのビッグクラブから誘いが来た。そこで名門アトレチコ・ミネイロの下部組織に所属することになる。

「コパ・サンパウロに出た後は、いくつかビッグクラブから誘いはありました。そこで所属がアトレチコ・ミネイロになったんです。ただそこからレンタルという形で、以前にいたレッドブルに行き、そこではプロとしてプレーしていたんです。その後、アトレチコの方から『戻ってこい』と言われたのですが、そうなると、また(アトレチコでは)アマチュアになる。悩みましたが、ビッグクラブでもあるので、アトレチコの育成選手になって、そこで成長していきました。ユース年代の全国大会に出ましたし、オランダの国際大会にも出ましたよ」

 名門クラブで順調に成長を遂げていたジェジエウだったが、その矢先に重傷に見舞われてしまう。1日でも早くプロになりたいと願っていた自分を襲った全治8ヶ月の大怪我に、目の前が真っ暗になった。

「19歳の時にプロに上がれそうだという話になったのですが、そこで膝の前十字靭帯の怪我をしてしまいました。非常に辛かったです」

  この時期のパフォーマンスは良く、本人もプロになれるだろうと思っていた。しかし長期離脱により暗雲が立ち込めた。プロになれるチャンスが消えるのではないかと不安になったが、家族の支えもあり、気持ちを落とさずに乗り越えようと誓った。

「怪我をしてしまい、クリスマスもクラブハウスで過ごしていました。それを乗り越えるかどうか。下を向けば、自分が力を落としていくだけです。でもこれに向き合って乗り越えれば、絶対に大きくなれる。パワーアップできるという思いもありました。幸いにも怪我も治り、残された期間で試合にも出場し、プロになることができました。2015年の頃ですね」

 ちなみにこの時、アトレチコ・ミネイロで監督を務めていた人物がレビィー クルピである。セレッソ大阪で長く指揮を執り、日本のサッカーファンにもお馴染みの名伯楽だろう。「面白い人ですね。本当の良い監督でした」と、ジェジエウは表情ほころばせて語る。

「ピッチに立つと色々なアドバイスしてくれましたし、自分のことをすごく評価してくれました。育成組織からトップに上がった時というのはいろんな困難があるのですが、よく声をかけてくれた。『お前は、絶対に良い選手になるぞ』とも言ってくれましたね。そしてピッチを離れるとユニークな人でした。記者会見が面白いので、記者も何を言うんだろうという雰囲気で、いつも満員になっていたみたいです(笑)」

 そして、この時のチームメートにいたのが名古屋グランパスのストライカー・ジョーである。のちに2人はJリーグの舞台でマッチアップすることになるのだが、5月の対戦時の思い出を聞くと、彼はこうおどけた。

「試合前に僕のところに来て、『ジェジエウ、君の顔を見ただけで、足首が痛くなるんだ。今日は冷静にやってくれよ?』とジョーに言われました(笑)。僕も『あなたも冷静にね』って返したりと、冗談を言い合いました。お互いの特徴はわかっていますし、アトレティコで練習している時から、彼にとっては厄介な選手だったのかもしれませんね」

 話を戻そう。

 プロとしてデビューを飾ったものの、アトレチコ・ミネイロでは、コンスタントには試合に出れなかった。ビッグクラブは選手層が厚く、補強も積極的だ。ユースから上がってくる若手にとっては、簡単に出番も巡ってこない。そこで出場機会が得られる環境を求めた。

 2016年にCAブラガンチーノに期限付き移籍をするが、そこで活躍するとクラブから「出番があるから戻って来い」と声がかかり、3ヶ月で戻った。しかしクラブに戻ると、練習するだけの日々が続いた。フロントからは「チャンスは来るから」と言われたが、それでまた我慢できなくなり、レンタルで出してくれとお願いするシーズンが続いた。

 2018年には期限付き移籍で、ミラソウFCとパラナ・クルーベの2クラブを渡り歩いた。日本のクラブからオファーが届いたのも、この時期である。

「W杯のちょっと前に、怪我をする前だったと思います。日本のクラブからチェックをされていると聞きました。そのすぐ後に怪我をして試合に出れない時間があったのですが、その怪我が治って試合に出たら、川崎フロンターレからのオファーがありました」

 一方、川崎フロンターレは、センターバックの層を厚くすることを来季の補強ポイントに挙げていた。ジェジエウを獲得した経緯について、庄子春男・取締役強化本部長が明かす。

「谷口彰悟と奈良竜樹と競争できるようなレベルの選手が欲しかった。バックアップの選手ではなくね。そうしないと、チーム全体のレベルが上がっていかないですから。日本人選手では選択肢が限られるので、外国人にしようとなりました。うちのスカウトの竹内(竹内弘明・強化部長)と西澤(西澤淳二)がブラジルに飛んで、何人か候補はいましたが、この選手が良いのではないかとなりました。映像でも確認をして、最終的に判断しました」

 いざコンタクトを取ろうとすると、庄子強化本部長は少し驚いたという。ジェジエウの代理人が、ポルトガル代表としても活躍した、あの世界的名手・デコだったからである。

「いろいろ話をしようとなった時に、『えっ、デコ?』って(笑)。エージェントが彼だというのも興味がありましたし、実際に会って話を聞いたところ、若くて将来が有望な選手を抱えていると話していました」

 当のジェジエウは、日本という国から届いたオファーに対してすぐには決断できなかったという。だがJリーグでプレーしたことのある友人たちに相談すると、皆日本のことを褒めていた。かつてフロンターレに在籍していたレネ サントスや、仙台や新潟でプレーしているシルビーニョがそうで、彼らの話を聞くうちに興味が湧き、日本に行ってみたいと気持ちへと傾いた。

 それでもブラジルを離れる時には、母親が泣いていたという。サッカー界では移籍はつきものだが、異国でサッカーをするという道は、それほど簡単なものではないのだろう。

 「決断したのは12月ですね。最初は『日本ってどんな国なんだろう?』と不安もありました。でも、どんなことがあっても正面から向き合おうと思いましたし、来日するときには不安もありませんでした」

 この時、川崎フロンターレはレアンドロ ダミアンとマギーニョも同時に獲得していた。中でもダミアンは元ブラジル代表の大物である。一緒に来日することになっており、ジェジエウも緊張したという。

「ダミアンはブラジルでも有名な選手ですから、その話を聞いたときは嬉しかったですね。ダミアンと一緒にプレーできるんだという思いと、単純に人として知り合えるからです。ただうまくやっていけるかなと心配もありました。マギーニョも同じですよね。国際空港で三人一緒になって、その時が初めてです。最初は挨拶程度だったのですが、ドイツで乗り換える時に少し話をしました。そこから二日ぐらい過ぎたら打ち解けて、もう10年来の友達のようになっていましたよ(笑)」

 来日すると、熱烈な入団会見セレモニーに驚いた。自分がサポーターに受け入れられていることを感じ、挨拶では「本当に今、フロンターレの一員としてここに立っていることを幸せに思ってます」と率直な喜びを伝えた。

「あれだけたくさんのサポーターの前で自分を紹介してもらったのは初めてですね。自分たちのプレーぶりを動画で出してもらったり、ああいうことはブラジルではやらないですから。サポーターと選手の距離も、近くてとても感激しました」

 チームに合流し、トレーニングが始まると、ブラジルとは異なるメニューに戸惑いもあった。開幕してからしばらく出場の出番は巡って来なかったが、誠実に練習を消化し、チームのスタイルに適応しようと努めた。

「最初は難しいところもありました。メニューの中身や強度が違いましたし、味方の選手の特徴もまだわからないですから。ただ、それも日々の練習でしか改善できないことです。とにかく気持ちの強さを持ち続けて、練習をしっかりやり続けること。全員が先発で出れるわけではないですし、グループでシーズンを戦うので、それで必ずチャンスはくるという思いだけでした。王者のチームというのはグループとして強くないといけないですから」

 レアンドロ ダミアンとマギーニョの新加入選手に比べると、出遅れていた感は否めないだろう。それでも庄子強化本部長は、さほど心配はしていなかったという。

「沖縄キャンプを見ていても、ディフェンスに関しては高さもあるし、強さもある。しっかりと戻るスピードもある。ジェジエウが出場できるようになれば失点は減るだろうというのはありました。ただ足元のところで、攻撃の部分はうちのテンポであったり、後ろからの組み立てはどうなんだろうなと。でも、ウチに来るブラジル人はみな性格が真面目で、しっかりやってくれている。そこも練習していけば、上がっていくだろうと思っていました」

 そしていざ出場し始めると、その実力は圧巻だった。現在までのパフォーマンスも申し分ないものだと言える。そんなジェジエウの評価について、庄子強化本部長はこう続けた。

「ぜひ、来年以降もうちでプレーしてもらいたいと思っている」

 5月3日の仙台戦での「はじまりのとき」から約3ヶ月。 日本では、試合のたびに特徴を知らないストライカーと対峙する。だがディフェンダーは、どんなタイプの相手でも仕事をさせてはいけない。速さと高さ、そして強さを兼ね備えたジェジエウは、要塞として立ち塞がり、鉄壁の守備を築いている。その秘訣について、集中力を保ち続けることが大事だと話す。

「サッカーには我慢強く守らなくてはいけない時間帯というのがあって、逆に攻め込む時間帯もあります。その時に修正の仕方として守備のバランスを考えたり、ディフェンスラインを整えるようにしています。サッカーでは最初から最後まで相手が攻撃力をし続けることもありません。我慢強く守り続ける集中力が大切だと思っています」

 最後に。

 今季の目標を聞いてみると、ジェジエウは「タイトル」と言い切った。

「3連覇して、さらに複数のタイトルを取ることです。タイトルを取ってみんなでカップを掲げたい。1試合1試合を決勝だと思って、それを続けていくことでしか優勝はないと思います」

 川崎フロンターレのゴール前に現れた新しい壁は、輝きを増すばかりだ。

 さらにもっと高い壁となるために。

 自分の全身全霊をかけて、勝利のために、その全てを出し尽くす。

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[じぇじえう]

Jパラナ・クルーベ(ブラジル)より期限付き移籍にて加入。強さと高さ、スピードを兼ね備えたセンターバック。手足のリーチの長さを生かし、対人戦で力を発揮。とくに空中戦の競り合いの強さは、相手のロングボールをはね返すだけではなくセットプレーのターゲットマンとしても期待される。

1994年3月5日、ブラジル、サンパウロ州生まれ
ニックネーム:ジェジエウ

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