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  • ピックアッププレイヤー 2019-vol.07 / MF34 山村和也

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MF34 山村和也

MF34 山村和也

もっと、もっと──。

テキスト:原田大輔 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Harada,Daisuke photo by Ohori,Suguru (Official)

本人にとっても、サポーターにとっても待ち望んでいたゴールだっただろう。
その瞬間は、2019年9月14日、J1第26節のジュビロ磐田戦で訪れた。
前半35分、セットプレーの流れから、相手ゴール前に残っていた山村和也は、こぼれ球に素早く反応すると、
右足でシュートを決めた。それはCBで出場していた選手とは思えない、ストライカーのような動き出しと、
コースを突いた思い切りのいいシュートだった。

「得点の場面は、自分もフリーだったのでボールが出てくればいいなと思っていたし、ニアゾーンが見えていたので、そこに打てればと思っていた。ただ、最初はどこにボールが飛んだのかが分からなかったので入ってよかった。移籍してから、ようやく初ゴールを決められてうれしかったですね」

 山村を中心に歓喜の輪ができる。チームメイトが祝福する光景と、熱い抱擁を受け入れる本人の姿に、今日までの苦悩と葛藤、また、その努力が報われた瞬間に思えた。

 山村は、今シーズン、川崎フロンターレに加入した決意をこう語る。

「移籍するに当たっては、もちろん悩みました。でも、いろいろと検討した中で、新しいサッカーに触れてみたい、自分の可能性を知りたいという思いもありました。それと、ここに来れば、もうワンランク、自分が成長できるのではないかと思ったんですよね」

 昨シーズン、所属していたセレッソ大阪では、リーグ戦24試合に出場していた。うち12試合に先発出場。3年間在籍したセレッソ大阪では、主に2列目でプレーし、ポジションを確立していた。それでもなお、J1連覇中の川崎フロンターレに新天地を求めたのは、自分自身への挑戦があった。

「チャレンジしてみようと思ったんです。それまで所属していたセレッソ大阪も、居心地はよかったというか、感謝しているところはたくさんあるんですけど、J1の優勝チームでプレーできる機会はそう簡単にない。せっかく、選手としてプレーしているのなら、その環境にチャレンジしてみたいなって思ったんです」

 目の奥には、はっきりと強い意志と決意が宿っているものの、淡々と、粛々と語る姿は、どこかあっさりとしていて、どこかさらりとしているようにも見えた。

 だが、話をしていけば、その理由はすぐに分かった。

 山村は、サッカーをはじめてから今日に至るまで、常に挑戦し、自分自身の可能性を追い求めてきた。それが彼にとって、あまりに当たり前だったから、平静に見えたし、感じられもしたのだ。

 4人兄弟の次男として、長崎県長崎市に生まれた山村は、通っていた長崎市立桜が丘小学校で活動していたチームで、サッカーをはじめた。

「正式に、サッカーをはじめたのは8歳、小学3年生のときでしたね。その前から、兄や近所に住む友人がサッカーをしていたので、ボールは蹴っていたんです。それこそ、ふたつ年上の兄の試合について行ったこともあります」

 小学校で活動していたそのチームは、主に先生がコーチをしていたため、1年ごとに指導者が変わるような環境だったが、長崎県内では強豪チームだった。

「僕たちの年代は、県大会に優勝して、全国大会にも出場することができた。だから、小学6年生のときは、全日本少年サッカー大会にも出ています。当時はFWでした。足も速かったですし、体力にも自信があったので、よくいるような身体能力を活かして得点を取りまくるタイプの選手って感じでしたね」

 印象に残っているエピソードを聞けば、こんな話を教えてくれた。

「覚えているのは、ある公式戦で、めちゃくちゃシュートを外しまくって、ゴールを決められなかったことですかね。あまりに悔しくて、試合後に泣いたんです。本当に悔しくて、泣きじゃくったんですよね」

 チームの勝利に貢献できず、子どもながらに悔しくて嗚咽したのだろうと思ったが、山村は「いや、試合には勝ちました」と笑う。流した涙は、試合には勝ったが、自分が結果を残せなかったことが悔しくて、自分が許せなかったからだという。それを聞いて、山村の内に秘める負けず嫌いな一面と、自分自身に対する厳しさを窺い知ることができた。

 かつて川崎フロンターレに在籍したFW大久保嘉人がそうだったように、国見高校に憧れた山村も、中学生になると国見中学校へと進学した。ともに公立のため提携しているわけではないが、国見中もサッカーの強豪校だったことから、よりレベルの高い環境を求めて、山村も国見中でサッカーを続けることを決めた。

「実家は長崎市内だったので国見中は学区外。家からだと車でも1時間以上は掛かる。だから、中学生になると下宿をしていたんです」

 下宿先では、自分の他にふたりの同級生と生活をともにしたという。

「最初は心細かったですけど、すぐに慣れましたね。家の方に食事は用意してもらえていたんですけど、掃除や洗濯は全部、自分でやっていました。下宿先の環境も、それほど厳しいということもなかったですし、自由なところもあったので反抗期もありませんでしたよ。比較的、のびのびと生活できていたかもしれない」

 

MF34 山村和也

 中学生にして親元を離れての生活は、苦労もあれば、不安もあったのではないかと想像したが、ここでも山村は淡々としていた。

 国見中では、FWやMFとしてプレーし、中学3年生のときには全国中学校サッカー大会に出場して3位になった。順調に思い描いた道を歩んだ山村は、憧れの国見高校へ進学。ただ、ここで壁にぶつかった。

「高校1年の最初のほうからトップ下で試合に出ていたんですけど、1年の終わりごろから、うまくいかなくなったんです。2年生になると、トップチームには全く絡めなくなってしまって。トップ下で試合に出るのは難しいなと思っていたので、そこでセンターバックをやるようになったんです。そうしたら、3年生になって試合にも出られるようになって、(世代別の)日本代表にも呼ばれるようになったんです」

 試合に出られない日々では、さすがに悩み、葛藤したという。

「自分でもうまくいっていないことは分かっていた。だから、仕方がないと思う部分もあったので、もがいていたと言えば、もがいていましたよね。一度、サッカーから離れたいなって思ったこともありました」

 山村は続けた。

「自信がなくなったというか、サッカーをやめたくなったこともありました」

 それでも親には弱音をこぼさなかった。そこにまた、山村の意志の強さを見る。

「親元を離れて生活させてもらっていたこともあって、中途半端な状態で終われないって思ったんです。親からは、中学への進学も、高校への進学も、ダメと言われたことはなかったですし、いつも僕の意志を尊重して考えてくれていた。だから、高校では、うまくいかないことも多くて、苦しんだと言えば苦しみましたけど、時間が経つにつれて、またサッカーへの意欲を取り戻した。2年生の終わりごろに、新チームになったことをきっかけに、また頑張ろうと思えたんです」

 CB転向の経緯については、はっきりと覚えていないという。「身長が高かったからじゃないですかね」と言って、また笑った。

「でも、CBをやるようになって、視野が広がったことは大きかったですね。違う景色が見えたことで、新鮮な気持ちでサッカーに取り組めるようになった。CBをやるようになった経緯を覚えていないのも、それほどポジションへのこだわりが強くなかったからかもしれない。それ以上に、試合に出たい、試合に出たいという思いのほうが強かったので」

 その言葉を聞いて、ここに山村の原点があるような気がした。高校3年生になると、山村はU−18日本代表に招集される。2007年6月のことだった。

「いやぁ、最初はびっくりしましたよ。学校で急に先生に呼ばれて、今からお前、『急いでパスポートを作りに行ってこい』って言われて。そこで世代別の日本代表に選ばれたって教えられたんです。県選抜には選ばれたこともありましたけど、日本代表ですからね。ひとりで長崎市内までパスポートを作りに行ったんですけど、代表に選ばれたことにドキドキしていたのか、電車の中で喉がカラッカラに渇いていたのを覚えています。それがドイツ遠征だったんですけど、自分にとって初めての海外。すごく緊張しましたよね」

 そのときU-18日本代表で一緒だったのが、現在、トップチームのコーチを務める吉田勇樹だというから、不思議な縁を感じてしまう。

「(世代別の日本代表は)自分にとっては、ずっと遠い存在だと思っていた。Jリーグのユースでプレーしている選手やプロになるような選手と一緒にプレーしたことで、ちょっとだけ上が見えてきたところはありました。ドイツ遠征では、現地の18歳以下の選手たちと試合をして、勝つことができたんです。『あいつはバイエルン・ミュンヘンに入ることが決まっているらしいよ』とか言われている選手と対戦したりもして。当時の自分からしてみたら架空のチームみたいな次元。そういう選手と試合をやることで、自分の可能性というか、手応えを感じることができた」

 具体的にプロを意識したのは、この時期からだという。それだけ、国内における同世代のトップレベルの選手たちと一緒にプレーしたこと、世界を知ったことは刺激になった。

 追記しておけば、山村は高校3年生のときに悔しさも味わった。最後の全国高校サッカー選手権大会への出場を逃したのである。

「県大会のベスト16で負けてしまったんですよね。それもPK戦負け。終わってしまったという喪失感というか絶望感。身体に力が入らなくなることって、本当にあるんだなって思いました。それまで先輩たち続けてきた20年以上もの連続出場記録が、僕たちの代で途切れてしまったんです。それが申し訳なかったし、本当に悔しかったですね。そこからしばらくの間、思い出してしまうから、選手権自体を見られなくなりましたから」

 高校を卒業して、流通経済大学に進んだ山村は、継続して世代別の日本代表に選ばれるようになった。

「大学では、同世代だけではなく、Jリーグのチームと練習試合をする経験も多く、それがまた大きかったですよね。大学選抜に選ばれて、海外遠征にも行きましたし、世代別代の活動でもものすごい大きな経験をさせてもらいました。大学では4年間、主にセンターバックとしてプレーしてきたんですけど、代表ではボランチで起用されることもあって。センターバックのほうが長くプレーしていたから、自信はあったんですけどね。でも、もともと、自分は絶対にこのポジションでなければ嫌だという感覚があんまりなくて。攻撃するのも楽しいじゃないですか。セレッソ大阪でトップ下としてプレーするようになったときも、前のポジションでプレーすることの楽しさみたいなものを再認識しましたから」

 試合に出場したい。自分の可能性を知りたい。このふたつは、山村のキャリアを突き動かしていく。

「大学時代に一度、A代表に選ばれたことがあったんです」

 2010年1月6日に行われたAFCアジアカップ予選だった。アウェイでイエメンと戦ったその試合、若手主体で臨んだ日本代表に、山村は大学生ながら招集されると、先発出場した。

「初のA代表ということで、いろいろなことに気を取られてしまって、堂々とプレーできなかったんですよね。(イエメンは)標高が高かったこともあって、息があがってしまうから、ペース配分もしなければなとか、余計なことばっかり考えていたら、足にボールがつかなかった。自分はそんな状態だったのに、周りは堂々とプレーしていて……」

 その試合、山村はハーフタイムで途中交代を命じられている。ちなみに前半に2点を許した日本代表は、後半に入り巻き返すと3−2で辛勝した。

「そのイエメン戦も含めて、世代別の代表に行くたびに、このままではダメだなって思ってましたね。大学3年だった2010年には、南アフリカ・ワールドカップのサポートメンバーに選ばれて。そこでもA代表の選手たちを見て、もっと自分はやらなければ、もっとがんばらなければと思うようになりました。スピードも速ければ、球際も強い。大学とは違う、これが日本のトップレベルなんだなって」

 そこで芽生えたのは、さらなる向上心だった。

 世代別代表に選ばれ、1試合ではあったが、大学生ながらA代表に選ばれた山村のもとには、かなりの数のクラブからオファーが届いた。

 その中から鹿島アントラーズを選んだのは「日本代表に選ばれている選手も多かったので、自分のプラスになるかなと思った」からだという。

 加入に際して、鹿島からは、「ポジションは確約されていない」と念を押されていた。当時でいえば、中田浩二や岩政大樹、青木剛といった錚々たるメンバーとの競争が待っていた。それでも山村が、鹿島を選んだのは、「チャレンジしたかった」からだ。

 2012年から4年間、在籍した鹿島では、すべてが順風満帆だったわけではなかった。

「(2012年の)序盤から試合には出られましたけど、他の選手がケガをしていたという運もありました。デビュー戦は、ボランチでの出場で、対戦相手がフロンターレ。そう考えると、フロンターレとの試合では得点したこともありますし、何かしらの縁がありますね。その後は、CBで、大樹さんとコンビを組んで試合に出る機会もありました」

 その2012年には、ロンドン五輪に出場した。韓国に敗れて4位に終わった大会では、あまり出場機会を得られず「悔しさのほうが残った」という。大会を終えて、すぐの試合で肩を負傷した山村は、シーズン後半を棒に振ったが、プロ2年目は途中からポジションを奪い返すと、24試合に出場した。

「鹿島では、選手たちが試合の勝ち方、戦い方を知っているとは聞いていましたけど、チームに加入してみて球際の激しさや大事な局面での強さを学ばせてもらいました。特に、大樹さんからは、ポジショニング、ヘディングの仕方、カバーリング、足の運び方、足の出し方まで細かく教えてもらいました」

 ところが、である。ここから山村は苦しむことになる。振り返れば、出場機会を失ったのは、高校以来だった。

「プロ3年目は、全く試合に絡んでいない状態でしたね。練習は全力で取り組んでいたつもりだったんですけど、抱えている思いを消化しきれていなかったところもあったとは思います。ずっとモヤモヤしているところはあったので。そうした思いだったから、たまに試合に出られたときも、本来の自分のプレーができなかった。結果的にアピールにもつながらず、自分を見失いそうになっていたかもしれない」

 プロになって初めてとも言える壁だった。ただ、山村は、高校時代も決して腐ることがなかったように、自分の可能性を信じ、自分を高めようと、前へと突き進んだ。

「あるとき妻が、『ちょっと違うことをやってみれば』って言ってくれたんですよね。それで、体幹トレーニングをやるようにしたら、自分の中でしっくりきたというか。パフォーマンスも少しずつ上がっていって、そのタイミングで監督が石井(正忠)さんに代わると、ボランチとして試合に出られるようになったんです。今思えば、苦しい1年半でしたけど、自分自身を見つめ直す良い時間になったかもしれない。それまで自分の身体について真剣に考える機会というのも、あまりなかったので……」

 意識したのは体幹だけではない。身体の使い方や動かし方まで細部にこだわった。再び出場機会を得るようになったときはボランチだったが、CBとして取り組んできたことも、決して無駄にはなっていなかった。

「CBからボランチになって、また視点や景色も変わって、新鮮な気持ちでサッカーに向き合えた。何よりDFとしてプレーしてきただけに、後ろから見ていて前の選手にこうしてほしいとか、こう動いてほしいというのが分かっていたところも大きかった」

 2016年には、出場機会を求めて、当時J2だったセレッソ大阪に移籍を決断した。J1昇格に貢献すると、2017年からはトップ下を務めるようになった。ここでも、大いにCBとしてプレーしていた経験は活きた。

「加入1年目でJ1昇格に貢献できたこともうれしかったですけど、ルヴァンカップ、天皇杯で優勝できたこともうれしかったですね。特に天皇杯では、自分が得点を決めて、タイトルを取ることができたので」

 一方で、攻撃的なポジションを務めるようになったことで、自分自身の考え方もシフトチェンジする必要があった。

「CBはプレーの正確性が求められますけど、攻撃的なポジションでは、チャレンジしなければならない場面もある。CBのときはミスをしないことが最優先でしたけど、前のポジションでは多少、強引にでもチャンスと感じればトライする必要もある」

 そのトライは、J1で3連覇を目指す川崎フロンターレに加入してからも続いている。

「チームに加入してみたら、難しさを感じるところはありましたよね。特にフロンターレは、テンポが早い。今まではスペースに出すことが多かったけど、ここでは足下に出すことを求められるので。そうしたちょっとした動きやタイミングが、最初のころはずれてしまうところが多かった。ボランチではターンして前を向くことが求められますし、少しずつチャレンジしていますけど、まだまだ、できるときとできないときがある。何より、フロンターレのサッカーは、ボランチが関わる場面と回数が圧倒的に多い。そこで少しでも遅れてしまうと、攻撃のリズムを損ねてしまうので、難しさは感じています」

「初めての経験だったので難しさもあった」と話してくれたように、J1第22節の名古屋グランパス戦では、ウォーミングアップ中に大島僚太が負傷したこともあり、急遽、ボランチで先発出場した。そうかと思えば、谷口彰悟、ジェジエウが揃って出場停止となった第23節のベガルタ仙台戦ではCBとしてスタメンを飾った。トップ下、ボランチ、CBとセンターラインすべてでプレーできる山村の存在はチームを大きく助けている。

 ただ、本人はそこで満足することもなければ、甘んじるつもりもない。

「悔しいですよ。悔しい。もっと試合に絡みたいという気持ちはあります。でも、チームが求めていることに対して、今の自分ができているかと言われれば、まだまだ、できていないところも多いというのは感じているんです。また、自分を出せているかと言ったら、そこも疑問符がつくところもある。チームと自分。そこで葛藤しているところも少なからずありますし、うまくそのバランスを調整できればと思います」

 独特、独自とまで言われるほどスタイルを確立させてきた川崎フロンターレのサッカーに慣れよう、理解しようと、山村は前を向いている。一方で、その中で自分にしかできないこと、自分だからできることがあるのではないかとも模索している。

「ボランチだったら、攻撃に入っていくところのダイナミックさは持ち続けたいなと思っています。クロスに入っていく迫力、シュートへの迫力。パスだけでなく、ゴール前に絡んでいくプレーや走り込む動きはなくさずにいたい」

 そして、山村はこうも言う。

「等々力はチケットが完売の試合も多いですし、スタジアムはいつも満席で雰囲気がすごくいいじゃないですか。あれだけの人数のサポーターが応援してくれて、最高の雰囲気を作ってくれている。それなのに、今年はホームでなかなか結果を残せていないところもある。だから、(今シーズン)移籍してきて時間は掛かっていますけど、チームに貢献したい、結果を残したいという思いは強いんですよね」

 そこには、川崎フロンターレとの不思議な巡り合わせを感じているからでもある。

「実は、川崎フロンターレからオファーをもらったのは、今回で3回目だったんです。大学のときが1回目。プロになってからも1回。ずっと、そうやって自分に関心を持ち続けてもらっていて、今回、自分は挑戦しようというタイミングで話しをもらうことができた。それだけに、川崎フロンターレに縁を感じているんです」

 挑戦し続けてきた山村が、自分のさらなる可能性を引き出してくれる環境がここにはある。

「せっかくのサッカー人生なので、いろいろなことを経験したいじゃないですか。それがここにはあると思ったし、それを求めてフロンターレに来たところもあるんです」

 もっと、もっと——。ポジションにこだわることなく、チャレンジするのも、そうした向上心であり、探究心であり、追求心があるからだ。

「自分は常に楽しさを求めているところはあるかもしれません。そこはすごく求めているところでもある。プレーしている選手たちが楽しそうにサッカーをしているように見えたんですよね。だから、フロンターレでプレーしてみたいと思ったんです」

 山村が川崎フロンターレでプレーすることを決めた最大の理由は、きっと、そこにある。

そして、彼が等々力で、楽しそうにプレーしたとき、チームは新たなる可能性を見せてくれるはずだ。CBを経験しているから、守備陣の心情が分かる。トップ下やボランチでプレーできるから攻撃陣の意図が理解できる。きっと、ここにしかないサッカーがあると同時に、山村にしかできないことがある。

profile
[やまむら・かずや]

セレッソ大阪から完全移籍で加入。恵まれた体と足下の技術が武器のサッカーセンスにすぐれたMF。もともとボランチやセンターバックを務めるユーティリティプレーヤーだが、前所属のC大阪でFWやトップ下で起用され新たな才能が開花。前線でボールを収め、自らゴール前に入り込みフィニッシュに絡む。センターラインのオールラウンダーとして期待が寄せられている。

1989年12月2日、長崎県長崎市生まれ
ニックネーム:ヤマ

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