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  • ピックアッププレイヤー 2019-vol.08 / DF26 マギーニョ

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MF34 山村和也

DF26 マギーニョ

あの頃の君へ

テキスト:隠岐麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Oki,Marina photo by Ohori,Suguru (Official)

ブラジルから今季やってきたマギーニョは、前向きな人間性で、
日々フロンターレのサッカーに向き合い、努力を続けている。
マギーニョ少年の生い立ち、そして日本来日のキッカケ、など本人が語り尽くす──。

 僕は、ブラジルのミナスジェライス州の、酪農が盛んな小さな田舎町に生まれ育ちました。

 僕は、8人兄弟の下から二番目。そんなに裕福ではなかったから、自給自足の生活を送るために、学校が終わると、兄弟で農作物を育てることを毎日手伝っていました。

 お母さんは、8人の子どもを育てるのはかなり大変だったと思うけれど、言葉にできないぐらいに努力家で、彼女の人生を全部僕たちに捧げてくれていたと思います。

 お父さんは、アスファルトを造る会社に勤めていたけれど、週末になると、家族全員で農作物の収穫をしていました。毎週土曜日は、僕だけサッカーの試合があったから、行かなくていいということがありました。お父さんはそれを許してくれたけれど、歳が近くてサッカーをしていない兄弟たちからは、かなり不評でした(笑)。マギーニョだけ、ずるいって言われたなぁ。

 僕がプロサッカー選手になれたのは、神様の力を借りることができたからだと思います。なぜなら、こんな小さな田舎町で生まれ育った僕は、子どもの頃から地元のサッカーチームでしかサッカーをしていなかったから。まさか、という展開だったと自分でも思うのです。

 8歳ぐらいから、近所の友だちや大人たちと一緒にいわゆる草サッカーをやるようになりました。10歳ぐらいのときに町クラブに入ったけれど、近所の子どもたちを集めてサッカーをやるという感じでした。その頃から、スピードは一番速くて、ポジションはフォワード。ボールを大きく蹴りだして、あとはドリブルしてシュート! 「マギーニョ、うまいね」って褒めてもらえると嬉しかったです。

 13歳の頃は、大人に混ざってフットサルの試合に出ていて、34ゴールを決めて得点王になりました。

 そんなある日、僕に最初の転機が訪れました。

 14歳の頃、町の選抜チームの一員としてある大会に出たのですが、僕のプレーを見たフルミネンセから練習に参加してほしいという話をもらったのです。

 僕にとっては、サプライズでした。

 その頃の僕は、プロ選手は夢には思ったことがありますが、現実の夢とは思えませんでしたし、どうやったらそこにたどり着くのか、距離が遠すぎて、夢にも思わなかったことでした。

 とはいえ、そんなに甘い世界ではなく、フルミネンセでの約3ヵ月は、とても難しい日々になりました。

 まず初めて実家を出て、寮での生活では一ヶ月に一回、電話がかけられればいいほうだったので、寂しい思いもしました。15歳から20歳ぐらいまでの年代の選手が100人ぐらい練習に参加し、そこからプロまで上り詰めることができる選手は、ほんの一握りです。そうして、一ヶ月が過ぎ、さらに一ヶ月が経ち、最終的には「フォワードの人数が多いから契約には至らない」という結論が出ました。

「夢は終わった」と思いながら、4時間かけてリオからバスにひとり揺られて家に帰りました。

 ところが、神様はまた僕を救ってくれました。

 トゥビというクラブに紹介してもらえるという話が舞い込んできたのです。

 そして、僕は、トゥビで選手生活をスタートし、約5年間所属することとなりました。

 下のカテゴリーからのスタートでしたが、大会に出て、すぐに16歳でプロ契約を結ぶことになりました。初めて給料がもらえるようになりました。プロとして練習に参加しながら、週末になると下のカテゴリーで試合に出る、というような日々でした。

 1年目は、そうしていい時間を過ごすことができましたが、それ以降は3年ぐらい試合に出られなくなってしまいました。たまに実家に帰って、なんで試合に出ていないのかと家族に聞かれても、説明することができませんでした。

 そんな時に現在の妻との出会いがあり、妻が僕を支えてくれて、相談することもできました。

 ある日、僕が20歳の時に、妻が妊娠をしました。

 正直に言うと、僕はまだ若かったし、サプライズな出来事でもありました。それは、サッカー選手としても大きなキッカケとなりました。

 生まれてくる子どものために頑張らなければいけない。もっと試合に出て活躍して養っていかなければいけない。妻は、それまでイタリアンジェラート屋さんでディレクターの仕事もしていたのですが、妊娠中に体調が少し悪くなり仕事をやめることになったので、僕が頑張らなければいけない。ある意味ではプレッシャーでもありましたが、責任感が生まれたのです。

 もし、妻と出会っていなかったらプロ選手を続けられていたかわかりません。

 試合に出られなかった時期、初めてお金を手にして、友だちに誘われたら、遊びに出かけたりしていました。実家からやってきた時、服もお金もなかった僕が16歳でプロ契約をし、お給料をもらうようになって、舞い上がってしまったのです。しかし、奥さんと出会い、子どもができて、サッカーに集中しなければいけないと気付くことができました。そのおかげで、遊びはキッパリやめてサッカーに集中できるようになり、“プロサッカー選手”になれたのです。

 21歳で長男が生まれて、アメリカというクラブに移籍することになりました。ただ、遠かったし、奥さんが仕事をやめて、家族を連れていくことに責任も感じました。ここでの1年はプレーするために最大の努力を払おうと思い臨みました。それなりに活躍ができて、その後、ヴィラノーバに移籍することになりました。

 ヴィラノーバでの1年目もいい活躍ができて、他のチームからのオファーもありましたが、奥さんと話し合い、複数年契約を結ぶことになりました。2016年から半年はサンパウロのカップバリアーノというクラブで大会に出ましたが、2年半、2018年までヴィラノーバで過ごしました。

 ヴィラノーバはJリーグでいうJ2のようなカテゴリーでしたが、実家にいるお父さんがテレビで僕のプレーを観ることができて、やっと親孝行ができて、自分の生活が安定してきたのはこの頃でした。

DF26 マギーニョ

 とはいえ、選手としては、プレッシャーのある日々でした。サポーターからの要求も強く、毎試合絶対に勝たなければいけないというプレッシャーを感じていました。

ここで過ごした2年半には感謝しているけれど、自分ができることは全てやったのではないかという気持ちになっていました。他のクラブからの話も聞いていましたが、まずは仁義としてヴィラノーバでの契約を全うしようと思い、その後に、他のクラブとの交渉に臨もうと思っていました。

 そのため、途中、ヴィラノーバのライバルチームであるゴイアスからも声をかけてもらいましたが、家族の人生も考え、ヴィラノーバとの関係も大事にしたかったので、まずは契約を全うしたいと伝え話は進めませんでした。

 そんな時に、ある人から電話がかかってきました。

 ビスマルクでした。最初は電話で何度か話して、それから食事を一緒にすることになりました。代理人になりたいと言ってくれたのです。

 ビスマルクからはブラジルの一部のクラブからの話などもありましたが、そのうちに、日本の話をしてくれるようになりました。

 僕にとっては日本は遠い場所で、考えもしていなかったのですが、彼の話を聞いているうちにそういうチャンスがあるなら日本に行くのもいいのではないかと思えるようになりました。そうしたら、フロンターレの話が決まったのです。

 僕がとても嬉しく感じるのは、長年ビスマルクが活躍した日本で、彼が今度は代理人として、初めてブラジル人選手を日本に連れてきたのが、僕だということ。

 彼は、日本が大好きだし、自分の名前を日本で汚したくないという思いがあると思うので、僕のことをサッカー選手としてだけでなく、人間性も知ってくれて、日本に連れてきてくれたのかなと感じています。

「マグ、僕は長年日本でプレーできてすごく幸せな時間を過ごせたよ。だから絶対に君も同じ経験ができると思うし、家族も同じように感じるはずだよ」

 ビスマルクは、本当はずっと日本で人生を過ごしたかったとも言っていたし、今回代理人として久しぶりに来日して喜んでいたし、カズさんと再会したり、現役時代過ごしたヴェルディや鹿島の仲間たちに会うことが出来て、そういうビスマルクの喜ぶ姿も見られて僕も嬉しかった。

 今、来日して、フロンターレで過ごしている日々のなかで、家族も幸せに過ごせています。子どもたちは長男は日本語の読み書きも勉強していて、今は僕の方が少し上ですが、年末ぐらいまでには、息子に日本語能力も抜かれてしまうかもしれません。

 余談ですが、僕、日本語を勉強するのが好きなんです。言葉がわかるとうれしい。最近は、サッカーの試合をテレビで観ていて「スバラシイ」という言葉を覚えました。解説の方が、いいプレーをすると「スバラシイ」と言っていることがわかって、全てはわからなくても、「スバラシイ」がわかれば、理解できる。そういうことがわかることがとってもうれしいのです。

 日本での日々は、最初はやはりブラジルとはサッカーのやり方も違うので戸惑うことも多かったです。

 特に、最初の公式戦でスタメンで出ることができた後に、メンバー外になってしまった時のことです。

 ブラジルだと試合に出ていた選手が出られなくなったら、それは、この選手は使わないという場合も多くあります。しかし、日本ではそうではないんだと、後々にわかることとなりました。

 監督のオプションとして選手を組み替えることもあるんだな、と。そこからは切り替えて、試合に出たいのは僕も僕以外の選手も当然ですが、監督の考えもリスペクトすることができました。大事なことは結果であるし、その過程を皆が努力しているということです。

 もちろん練習で頑張っていてもなかなかチャンスがない時は難しく感じることもありました。でも、それは自分だけじゃなくて、他の選手も同じです。

 自分は新しく加入した選手なのでフロンターレのやり方に長年いる選手に比べたらまだ慣れていないところもあります。だから人並み以上に頑張って監督の信頼を得ないといけない。そういうなかで、日々できることをちゃんとやろうという気持ちになりました。

 フロンターレのサポーターには、受け入れてもらい感謝しています。まだまだ自分ではサポーターからもらっているパワーに対して、ピッチの中で恩返しができていないと感じています。日々自分ができることは精一杯やることなので、結果として試合の中でチームの役に立ち、サポーターにもその姿を見せられたらと思っています。

 今日、こうして僕のお話を聞いてもらいましたが、全てはお伝えできていませんが、今ここに辿り着くまでにいろんなことを勝ち得てきました。もちろん全て勝ち得てきたわけではありませんが、少なくとも成長をすることはできました。日々、もっとやらなければいけないことはあるし、父親として、子どもたちによりよい環境を与えてあげたい。一日一日が過去になっていくので、未来の僕は過去よりも成長していたい。もちろんミスをしてしまうこともあるでしょう。でも、それを改善していきたい。

 選手として、今の目標はタイトルを獲ることです。それを成し得るためには、様々な困難があるでしょう。ひとりでタイトルは獲れないし、みんなが努力した先に必ずしもその目標に辿り着けるかはわからないけれど、僕はその目標に向かってみんなで団結して精一杯頑張りたい。

 改めて振り返ると、今僕がここにいられることは奇跡のように思います。

 ブラジルの生まれ育った田舎町の人たちには、僕がプロサッカー選手になったことで、人間の可能性を伝えることができたのではないかと思います。地元に帰り、近くのスーパーに出かけると、10分程度の距離を帰るのに4、5時間かかることがあります。でも、僕は田舎町の子どもたちがサッカー選手を直接見たり話したりできることが、どれだけ感動があるのか理解しています。だから、たくさんの人が喜んでくれることに自分も喜びを感じるし、返してあげなければいけないと思っています。

 実は、最近、ふと考えたんです。

 僕は、神のご加護があってここまで来られたのだろうか? もしくは、自分自身が持っていたチャンスを掴むことができたのだろうか? いろんなことを考えたけれど、答えは、今いるこの生活と向き合って、日々学び、日々楽しみ、努力する。それが大事なのかなと考えています。

 どんな環境の人でも、何者かになれるんじゃないかと夢を見ます。

 その夢を叶えられるかどうかは誰にもわからないけれど、ひとりの人間として、目の前に頑張るべきものがあれば頑張る。プロサッカー選手になる前に人としても素晴らしい人間でいなければいけない。目の前のことを一生懸命やることが大切。

 何があっても自分が目指すところへの努力だったり、戦う姿勢というものを続けていけば、もしかしたらそこに辿り着けるかもしれない。そんな風に僕は考えています。

 あの頃、小さかった僕は、毎日の農作業は大変でした。でも、今になれば、いい思い出です。だから、あの頃の僕に言ってあげたいです。

 マギーニョ、君は大人になって、プロサッカー選手になったんだよ。

profile
[まぎーにょ]

ヴィラ・ノヴァFC(ブラジル)より完全移籍にて加入したブラジル人サイドバック。攻守にハードワークしながらライン際を上下動し、スピードに乗ったオーバーラップで攻撃のリズムにアクセントをつける。

1992年1月6日、ブラジル、ミナスジェライス州生まれ
ニックネーム:マギーニョ

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