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  • ピックアッププレイヤー 2020-vol.04 / 山根 視来選手

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希望

山根 視来選手

雨のち晴れ

テキスト/林 遼平 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Hayashi Ryohei photo by Ohori Suguru (Official)

 インタビュー中に何度も出てきた言葉がある。
「僕は運とタイミングで、ここまで来られたと思います(笑)」

その半生はまさに“波乱万丈”と形容することができる。人と人とのつながり、そしてタイミング。話を聞いていくに連れて、その言葉は嘘偽りない言葉だと感じた。ドラマのようでいてノンフィクション。何度も挫折を味わいながら真っ直ぐにサッカーに向き合ってきた男は、いまフロンターレで新たな一歩を踏み出そうとしている。

 山根がサッカーを始めたのは幼稚園の年中の時だった。兄の影響で近所の仲の良い友達とボールを蹴り始め、すぐに少年団のあざみ野FCに入ることを決めた。ここで一人の男の存在が、山根をよりサッカーにのめり込ませた。それが現在、アルビレックス新潟でプレーする高木三兄弟の次男・高木善朗だ。

「上手い人たちが周りにいる環境でやっていたので、自然と目標がプロサッカー選手になっていましたね。それに1個上のよっちゃん(高木善朗)は、ずっとそういう志を持ってやっていたのを覚えている。ライバルというより、常に前を行っている人、みたいな感じでした」

 もともと2個上の兄が高木三兄弟の長男である高木俊幸(C大阪)と仲が良かったことから、学校が終わった後に一緒にサッカーをする機会も多かった。その仲の良さは「山根家対高木家みたいなことになって、お互い負けたくないから思い切りユニフォーム引っ張りあって父に全員が怒られる、なんてこともありましたね」と笑うほどだ。

 そんな幼稚園時代を過ぎ、山根少年は小学4年生時に東京ヴェルディジュニアの扉を叩くことになる。

「本当にプロを目指す人だけが集まるところに行きたかった。ただ、覚えているのは母にヴェルディを受けるならあざみ野は辞めなさいと言われたことです。あざみ野FCの仲間を裏切ることになるのだから、後ろを断ってからセレクションを受けなさいと言われた。自分が上に行くためにセレクションを受けるのに、落ちたら『また戻ってきます』は違うなと。だから、ちゃんと辞めてから受けに行きました」

 ただ、ヴェルディジュニアのレベルは高かった。何より周りの少年たちの意識の高さが段違いに違った。

「本当にみんながプロを目指している環境でした。練習に早く来てボール回しをする。その後にちゃんとした練習をして、練習が終わったら今度はまたボール回しをする。それが当たり前だった。そういうのは、いま考えると凄く良い文化だったなと思います」

 レベルの高い選手たちと切磋琢磨しながら、ジュニアからすんなりとジュニアユースに昇格。そこまでは良かった。しかし、ジュニアユースに上がると、初めての「大挫折」を味わうことになる。

「小学校までは足が速かった方でしたけど、中学になって自分より遅いと思っていたやつに負けだした。そこからはやばかったですね。中学3年間は全然楽しくなかった。あまり試合に出られなくなって、基本ベンチかベンチ外みたいな感じでした」

 身体の成長スピードが遅かったことで、周りに付いていけない自分がいた。また、「強烈だった」と称する同学年の杉本竜士(横浜FM)を筆頭に差がどんどん開いていくことを感じて「辞めようと思った」こともあった。

「ヴェルディを辞める=プロ選手を諦めることになるのかなと思っていました。当時の指導者は、僕がプロになると1ミリも思っていなかったと思いますよ。絶対無理な子だと思っていたと思います。あの時は何をしてもダメでした」

そんな日々が続けば、ユースへの昇格が叶うわけがない。「当然だと思っていたので悔しさは1ミリもなかった」と言うように、昇格を絶たれた山根は岐路に立つことになる。

山根 視来選手

 それでも“サッカーを辞める”という選択肢はなかった。嫌いなものは嫌い、好きなものは好き、とハッキリ分ける性格の持ち主は、好きなサッカーを続けることを選択。湘南ユースのセレクションには落ちてしまったものの、「近所の公立の高校でサッカーを続けるか、ちょっと力を入れているところでやるか」を悩んだ末に、茨城県にあるウィザス高校(現・第一学院高等学校)への進学を決め、県外に出て寮生活をしながらサッカーに打ち込むことにした。

高校生活は壮絶な3年間が待っていた。まず当時のウィザス高校は決して強豪校ではなく、プリンスリーグや県リーグより下の地域リーグに在籍。これまでとは全く違う環境が待ち受けていた。

「結構やんちゃな人が多くて、試合中にいきなり座り出したりする選手が相手にいるようなリーグでした。それまでヴェルディというプロを目指している集団にいたのに、とんでもないところにきたなと思いましたね(笑)。ただ、リーグ戦は3年間優勝し続け、最後にはプリンスリーグに上げて卒業することができたのは良かったです」

 山根がチームの中で台頭し始めたのは、2年の高校サッカー選手権予選前のこと。そのきっかけの一つとなったのが、スポーツ貧血だと言うのだから驚きだ。スポーツ貧血とは激しい運動をすることで起きる貧血で、要するに全身の臓器に酸素が十分に行き渡らず、疲れやすさや息切れを引き起こす症状のことを言う。この状態が高校1年の終わりから高校2年の頭まで続き、その間「酸素が体に行き渡らない高所でプレーしている感覚の中、みんなと一緒の練習をやっていた」。

 だが、これが災い転じて福となす。検査の末、鉄分を摂るようにして酸素を体に行き渡らせる状態に戻すと、厳しい状況下で練習をやっていた成果もあって体に大きな変化が起きていることに気づいた。

「酸素を身体中に運んでくれる能力がついた時に、とてつもないスタミナが手に入っていたんですよね。そのおかげで戦術眼は全くなかったけど、動き回るボランチとして開花しました(笑)。永遠に走り回れるボランチとして、そこから試合に出始めました」

 やっとの思いでピッチに立ち始めた。しかし、今度はそんな山根に天災が襲う。2011年3月11日、東日本大震災である。

 福島県のすぐ下にある茨城県高萩市。高校の練習場で、その時はやってきた。大きな揺れと共に「杉の木が多く茂っていた山が花粉で全部見えなくなった」と当時を回顧。寮に戻ってみると建物が歪んでおり、体育館での生活を余儀なくされることになった。電気は付かず、水も出ない。親とも連絡を取れない日々を過ごした。

 ただ、常にポジティブに考えられるのは山根のいいところだ。「全部が遮断されていて情報がないから何が起こっているかわからなかった」ため、不思議と恐怖感は無かったと説明する。そして食事配給の手伝いや施設に預けられた子供たちの世話をしながら数日が経つと、高速道路が通ったことで実家に帰れることになった。

 実家に戻ってからは次なる問題が待っていた。数ヶ月後に待つ関東大会の予選が始まるまでに体を動かさなければならず、被災した影響で学校が使えないため高校の先生から「近所の高校や大学に自分で連絡をとって、練習させてもらえるなら練習させてもらえと言われていた」という。

 ここで不思議な縁が山根を救う。

 幼稚園から小学校4年まで過ごしたあざみ野FC。そこの父兄が行う草サッカーチームでプレーしていた父親が、仲の良かった高木豊さんのつながりで当時桐蔭横浜大の監督だった風間八宏氏と面識があり、その時のコーチを務めていた八城修氏とも仲が良かったのだ。

「父が連絡先を知っていて、八城さんも僕のことを覚えていてくれていたんです。それで『お願いします』と言ったら、サッカー部の活動に入れてもらえることになりました」

 八城氏が指導する桐蔭横浜大の練習に参加するようになると、大学生との練習中に新たな発見があった。

「3週間くらい練習をさせてもらったと思いますけど、最初は絶対に通用しないと思っていました。ただ、意外とやれる自分がいたんです。その時に、気づかないうちに高校生活ですごく成長させてもらっているんだなと思いましたね。それが自信になったのは覚えています」

 練習参加を終えて学校に戻ると、プレースピードの違うところでやっていたため、一気に周りが見えるようになってプレーの質が向上。一気にチームの中心となっていった。

 結果、全国出場は叶わなかったものの、様々なことがあった高校生活を終えて山根は一人の人間として大きく成長を遂げたのである。

 そして、高校を卒業した山根は働くか大学でサッカーを続けるかの2択を迫られる。それでも「サッカーをやりきっていない感じがあった」として高校時代の縁もあって桐蔭横浜大に進学。プロを目指して最後のチャレンジに挑むことになった。

 大学に入って転機となったのは、サイドハーフにコンバートされたこと。「自分がドリブルできることも知らなかった」と笑う山根は、八城監督の一言によって新たなポジションを得ると持ち前の運動量を武器にサイドを駆け回るようになる。すると、1年の開幕戦からスタメン出場。関東1部に昇格するチームの中で1年生ながらさっそく存在感を発揮していった。

 しかし、2年生になって関東1部に上がると、急に周りのレベルが上がったのを肌で感じた。

「1部に上がった時に全然レベルが違うと思いました。初戦で専修大と試合をして仲川輝人選手(横浜FM)や長澤和輝選手(浦和)、下田北斗選手たちを見て、これは絶対勝てないなと。『下田北斗って誰?めちゃ巧いんだけど』みたいな(笑)。それで2年生の時は全く何もできなかった。レベルの差をすごく感じました」

 だが、心機一転3年生になって調子を取り戻すと、全日本大学選抜などにも呼ばれることに。「そこから改めてプロを目指そうと真剣に思うようになった」。そして4年生になって迎えた天皇杯。「僕のすべてを変えた」一戦がやってきた。

 15年9月5日天皇杯2回戦。対戦相手はJ1の湘南ベルマーレ。

「めちゃめちゃ気合いが入っていました。すごく良い精神状態だったと思います。当時、湘南は凄く魅力的なサッカーをしていましたし、それに大学生が多くのサポーターの前でプレーすることはあまりないのですごく興奮しました」

 試合は4-3の激闘の末に敗れたが、山根はJ1相手にゴールを奪取。この日のパフォーマンスが相手の指揮官である曺貴裁監督(当時)の目に止まった。

「試合が終わった後、ロッカーから着替えて出ようと思った時に八城さんに呼ばれて、湘南の当時の強化部長だった田村雄三さんに『明日の練習試合に来られるか』と言われました。ただ、覚えているのは『明日は無理ですよ』と言ったこと(笑)。こんなに疲れている状態で悪いプレーしたら評価されないなと。それで数回に分けて練習参加に行くようになりました」

 一度、二度と練習参加を続けると、どんどん湘南への思いが強くなった。他のクラブからも問い合わせはあったが、自分の胸の内では“オファーが来れば湘南”と決めていた。

「練習の雰囲気も好きだったし、チョウさん(曺貴裁監督)の下で成長できる確信もありました。それにもう一回もっと走れるようになりたいと思ったんです、当時の自分はメンタルが弱かったので、そういう環境に身を置かないとやっていけないと。それにユースのセレクションに落ちていて、その時の監督もチョウさんだった。そういうところを含めて湘南に行きたかった」

 本当に縁のある男である。最終的に年が明ける前に、正式に声をかけられて契約することが決定。一度は湘南ユースの試験に落ちた男が、数年の時を経て湘南でプロの世界に飛び込むことになったのだ。

 湘南に入ってからは紆余曲折の日々だった。1年目はシーズン開始前に怪我を負って出遅れると、最後まで周りに追いつけないままリーグ戦の出場はゼロ。悔しい1年を味わった。

 存在感を発揮するようになったきっかけは、2年目のキャンプで3バックの右CBとしてのポテンシャルを見出されたこと。攻撃的なアタッカーだった男は、守備の要の一人となると主軸として37試合に出場し、チームのJ2優勝に貢献した。

 そして18年、19年とJ1での経験を重ねて大きく成長。「湘南での日々が現在につながっているのは間違いない」と強調するように、4年の月日をかけてJ1のトップでプレーできる力を身につけたのである。

 迎えた2020年。愛着のある湘南を離れ、山根は川崎フロンターレを新天地に選んだ。その思いの根底には“成長”の二文字がある。

「移籍を考えた時に、絶対にもっと大きく成長してやる、成功してやるという気持ちが大きかったですね。自分の成長への思いが本当に強かった。それにフロンターレが右サイドバックを探しているタイミングと、僕がJ1でそれなりにやれると自信を持てたタイミングが一緒だったのも運が良かった。移籍をするのならば、誰が見てもステップアップと思われるようなところに行きたかったですし、代表にも入りたいという思いでやっていました。そこでフロンターレからオファーが来たことは、自分の地元の近くでもありますし、自分が思い描くクラブの中で第一候補くらいのクラブだったので嬉しかったですね」

 チームに加わってからは驚きの連続だった。もともと「うまいチームだと思っていた」が、一緒にプレーしてみるとその凄みを改めて身を以て感じているのだと言う。

「この人たちすごいなと思うシーンが結構あります。総合力がすごく高い。パスセンスや戦術眼、テクニックなど、どれもレベルが高いなと。だからトレーニング中に、この人はこれもできるんだと思うことが多くてプレーしていて楽しいです。みんないろいろなことができるんだなと思いましたし、だからこそ自分もできることをもっと増やしていきたい。もし1年目でここにきていたらやばかったなと思います(笑)。僕が4年かけて少しずつできるようになったことが、ここのみんなはできる。すごく楽しい日々を送れています」

 そんなフロンターレに自分が加わることでもたらせるものは何なのか。

「チームを助けるプレーがしたいですね。僕のようなディフェンスの選手でドリブルする選手も世の中にあまりいないと思いますけど、一緒にやっている11人からしたら『あそこで剥がしてくれたらすごく助かる』みたいなプレーをどんどんやっていきたい。ピッチ上の味方からすると『助かる』と思うようなプレーで、相手からしたら『すごく面倒』だと思うようなプレーですね。それとSBとしては数字にこだわりたいなと思います。得点でもアシストでもゴールに絡むことにこだわっていきたいです」

 最初の2試合は決して満足出来るパフォーマンスではなかった。「自己評価は5点」と辛口になるほど納得していない。とはいえ、これまでも最初からうまくいった試しなんてない。壁にぶつかるのは「嫌いです」と苦笑いを浮かべたが、「でも、思い返すといつもそれをちゃんと乗り越えている」と話し出した男は、真っ直ぐ前を見据えて言葉を紡いだ。

「挫折というか、うまくいかないことが続いた時に、それができるようになるのが大きく成長できる時。そう思って自分はやっています。だから今回も根気強くやります。自分から投げ出すことはない。サッカーをするのが生活みたいなものなので」

 小さい頃からの半生を聞いてきたからこそ、この言葉はすっと受け入れることができた。何度もプロを諦めてもおかしくなかった男が、様々なものを経験してこの場所までたどり着いた。だからこそ、山根の言葉はシンプルでいてストレートなのだろう。

「中学校の3年間が自分の中ではすごく濃い。ダメな3年間があったからステージが上がるごとに劣等感を持つところがある。その中で、できることを少しずつ掴んでいく感じです。サッカーに関しては、自分は本当に下手くそだと思っているので。それでも自信をつけるたびに、前に進んで来られているなと思っています」

 どんな時でも、何があっても、サッカーに対して真摯に向き合ってきたからこそ、いまの山根がある。

 新型コロナウイルスという未曾有の危機を乗り越え、再びピッチで「自分のチャントを歌ってもらえるように頑張りたい」と笑う背番号13は、これまで以上にサッカーに向き合い、いついかなる時でもフロンターレの勝利に貢献できるように静かに準備を進めている。

profile
[やまね・みき]

対人戦の強さと積極果敢な攻め上がりが武器のDF。スピードが武器のサイドアタッカーとしてプロ入りしたが、3バックのストッパーにコンバートされ新たな才能が開花。最終ラインで泥臭く体を張り、チャンスと見れば持ち前のドリブルテクニックで自陣からボールを運び攻撃にアクセントをつける。

1993年12月22日
神奈川県横浜市生まれ
ニックネーム:ミキ

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