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  • ピックアッププレイヤー 2020-vol.05 / 原田 虹輝選手

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何色でもない

原田 虹輝選手

何色でもない

テキスト/いしかわごう 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Ishikawa Go photo by Ohori Suguru (Official)

高卒1年目の2019年シーズンは、プロの壁を痛感したシーズンとなった。
公式戦の出場機会はなし。苦いルーキーイヤーだったと言えるかもしれない。
しかし麻生グラウンドでの練習を通じて、確かな成長も感じている。プロの身体作りに地道に取り組み、
自身の武器でもある足元の技術も根本から見つめ直した。その効果は徐々に現れ、
2年目の今季は、1日でも早くプロのピッチに立ちたい気持ちが日に日に強くなっている。

まだ表情にあどけなさが残る新鋭の、これまでとこれから──。

  原田虹輝がサッカーを始めたのは、小学校1年生だ。

 幼稚園の頃から遊びでボールは蹴っていたが、小一のときに地元・さいたま市の岩槻ジャガーズサッカースポーツ少年団に入ったことで、毎週サッカーに親しむようになった。

「ドリブルが好きで、スルスルと相手を抜いてシュートを打つプレーをよくやっていましたね。ボールタッチの部分では、小学生の頃にやっていた感覚が生きていると思います。土日にその少年団でサッカーをして、普段の放課後は外で遊んでましたよ。公園でよく鬼ごっことかドロケイをしてました」

 サッカーにのめり込んだ原田少年は、当然のように6年生まで少年団を続けた。サイズは小柄だったが、足元の技術を生かしたドリブルからのシュートは相変わらず得意な形である。ただ上級生になると、練習もややハードだ。当時のことを聞くと「わりとスパルタだったと思います」と苦笑いを浮かべた。

「少年団は厳しかったですね。走りの練習をよくやりました。戦術どうこうよりも、わりと気持ち系だったかもしれません。『相手より走れ!』という感じで(笑)」

 技術的な部分に関しては、父親からアドバイスもよくもらったという。

 実は原田虹輝の父・智宏さんは、1992年から98年まで東京ガスサッカー部(現在のFC東京)でプレーしていたプレイヤーである。2000年生まれの原田少年は、現役時代の父親のプレーをしっかりと見たことはない。ただ父は少年団のコーチも務めており、例えばお風呂に入った時などに日常的にレクチャーを受ける機会も多かった。

 中学になると、同じ埼玉県にあるJrユースサッカークラブ与野に通い始めている。県リーグの一部でやっている強豪だ。県内だが地元からは遠く、週5日、自宅から1時間半ほどかけて練習に通っていたという。

「5年生の時の先輩がクラブ与野に行って、そこで一緒にやりたいなと思って行くことにしました。小学生の時に有名な選手がいたり、レベルは高かったですね。自転車で地元の駅まで行って、電車に乗って練習グラウンドがある最寄り駅までいきますよね。そこから駐輪場に置いてある別の自転車に乗ってグラウンドまで行くんです。今思うと、めちゃめちゃ大変でしたね(笑)。定期券もあったしお金も結構かかっていたので、親には迷惑かけたと思います」

 クラブ与野のトレーニングはメニューも豊富で、ボールコントロールを大事にし、足元の技術が上手くなるポゼッションの練習も多かった。中1の頃はFW志望で入っていたが、中2からはボランチをやり始め、そこからこのポジションでプレーするようになっている。

「ボランチは、ボールに触れることが多いので好きになりました。一時期、パスにはまっていた時期があって、ラストパスにこだわっていたこともありましたね。あとはボランチのポジションからドリブルで上がっていくプレーも好きでよくやっていました」

 原田がボランチをやり始めるようになった中2時代は、2014年になる。

 当時の川崎フロンターレを指揮していたのは、風間八宏監督である。というのも、クラブ与野で指導をしている中森翔太監督は、筑波大時代から風間監督の指導法に強い影響を受けており、日頃から麻生グラウンドまで足を運んで練習を見学していたほどだったという。

「コーチが川崎フロンターレのことが好きで、練習をよく見に行っていたんです。風間監督がやっていたパスの練習メニューを組んでくれたりしてました。フロンターレの試合映像も見せてくれましたよ。例えば悠さん(小林悠)の動き出しを映像で見せて、その動き出しの練習をするというのもありました。だから、僚太くんの存在も知っていましたね」

 2014年といえば、大島僚太がボランチの主軸としてチームで強烈に輝き始めた時期でもある。ポジションやプレースタイルが近いこともあり、コーチから川崎フロンターレの大島僚太、そして当時FCバルセロナのイニエスタを真似るように勧められ、動画で彼らのプレー集を見てはイメージを膨らませたという。

 今や大島僚太のプレーを見ていた少年がプロになっている時代なのかと驚いてしまったが、重心が低く、繊細なボールタッチとコントロール技術に定評のある原田の原点は、この時期にあると言っても過言ではないだろう。こうして大島やイニエスタを意識していた中学時代の原田少年は、自分のプレーの方向性を徐々に掴み始めていた。そこで高校は、自分のスタイルを活かせるチームでサッカーをしようと考えた。

原田虹輝選手

 いくつか声がかかったというが、原田が選んだのは地元・埼玉県の昌平高校。

 14年度の高校選手権で全国初出場。16年度に初出場となったインターハイでは、史上初の3連覇を目指した東福岡高校を2回戦で撃破し、ベスト4入り。ここ数年は全国大会出場の常連となり、激戦区の埼玉県においてサッカー関係者から注目を集める存在となっている高校だ。

 昌平のサッカーといえば、ボールを扱う技術と判断を大切にしているスタイルで、最終ラインから丁寧にショートパスをつなぎ、サイド攻撃や中央のパスワークなど多彩な攻撃も特徴だ。練習もポゼッションやゲーム形式が多かった。自分のプレーを磨くには良い選択だったと言えるだろう。

 ただ強豪校なので、そう簡単には試合には絡めない。部員は一年生だけで70人弱。さらに自身のケガもあり、1年生の試合でもほとんど出る機会がなかった。ボランチで生きていきたいと思っていても、チームでは激戦区のポジションだ。出番が巡ってきてもサイドハーフに回されていた。

「ケガがあったというのもありますが、自分にとっては苦しんだ時期ですね。有名なチームからきた選手はボランチが多かったし、この人たちに勝たないといけないので、正直、きついなと思いました。トップチームには絡めないなと思っていたし、サイドもやりたくなかったので、腐りかけていた時期ですね(苦笑)。自分がトップチームに関われるとは思ってなかった。もちろん、プロになれるなんて全然思ってなかったです」

 原田が1年生の時、3年生として活躍していたのが針谷岳晃(ジュビロ磐田)と松本泰志(サンフレッチェ広島)だった。同校にとって初のJリーガーとなる両者は「神みたいな憧れの存在でした」と話す。そうした先輩の背中を追いかけようと、必死に練習に食らいついていくことで原田自身も少しずつチャンスを掴んでいくことになる。転機は新チームに切り替わる2年生になった時だった。

「チーム始動の合宿があって、そこでトップに入ることができたんです。チームとしても色々と試す時期でもあったので、2年生も参加してトップチームの人たちと一緒にやる機会があった。もちろんずっとベンチでしたが、最終日のカップ戦で初めて試合に出ました。周りもすごい人たちだったので、意外とプレーが上手くいったんです」

 最初はサイドハーフでの出場だったが、次第にボランチとして定着。コンビを組むもう1人のボランチが攻撃的なタイプだったこともあり、原田がパスをさばきながら、中盤のかじ取り役を担った。チーム全体の機能させていくことで、次第に原田の評価は高まっていった。

「一年の時に見ていた針谷くんだったり、一個上にも上手い先輩がいて、一緒にやった時にはプレーを参考にしていました。監督(藤島崇之監督)には『ボランチは、絶対にボールを失うな』と言われてましたね。試合中では、味方が焦っている時間はなるべく落ち着かせたり、少しずつ頭を使うようにはなっていったと思います」

 2年生の時、昌平高校は埼玉県内におけるタイトルを総ナメしている。原田はそのチームのレギュラーとして貢献。プロのスカウトが試合に来るようになり、一年前には考えてもみなかったプロの道を少しだけ意識しだしたのもこの頃である。

「自分たちが2年の時に、県内の大会で全部優勝して五冠を獲ったんです。2年生が6人ぐらい出ていたので、いけるだろという雰囲気になっていました。でも、そこで過信してしまい、新人戦と関東大会で負けてしまったんです。流石に『このままじゃやばいぞ』っていう雰囲気になりましたし、インターハイには絶対に出ないといけないという危機感も強かった。もちろん、監督からはものすごく怒られてました。結果が出ないこともそうですが、戦う姿勢も足りないと。だから、みんな気持ちは入ってましたし、インターハイの出場が決まった時は、ものすごくホッとしました」

 そして、ベスト4まで進んだこの3年のインターハイが原田の人生を変える夏となる。

 言うまでもなく、川崎フロンターレのスカウト陣の目に止まることになった大会だからである。スカウトの向島建は、原田虹輝に注目するようになったきっかけを含め、当時をこう振り返る。

「インターハイの青森山田との試合で活躍したのが彼でした。強い相手に、夏の暑い試合でこういうプレーができるのかと驚きましたね。それまでは飛び抜けた存在ではなかったと思います。ヒロキ(伊藤宏樹スカウト:当時)と見ていたんですけど、『あいつ、面白いな』と話したのを覚えています。まだ完璧ではないけれど、育てるという意味では、可能性があるんじゃないかなと思いました。その後に、原田を獲得するかどうかで、何試合か見ることにしましたが、見ている中で、ヒロキとも『やっぱり面白いね』と」

 向島スカウトといえば、大島僚太を発掘したエピソードはあまりに有名だ。原田のプレーを見た時、直感的に大島と似ていることを感じたことも明かしている。

「ドリブル、パス、そしてゴール前の意外性。特に攻撃で相手を崩していくとか、ここにボールを出すんだという感覚は、僚太を見た時を思い出しました。それぐらいインパクトがありましたね。プレーは攻撃に特化していたし、まだまだ完璧ではなく、守備のところは身体的なところも含めて課題です。ただ意外性であったり、感覚的に面白い存在だと思いました」

 実は3年生になってから、原田はプレースタイルを少し変化させていた。チームの成績を受けて、ボランチからサイドハーフに本人曰く「降格」させられ、インターハイ予選はほとんどの試合をサイドハーフで出場している。ただし、これが思わぬ効果を生んだ。

 これまではさほど貪欲さを見せていなかったゴールに対するこだわりが生まれ始めたのである。インターハイ本戦でボランチで出場すると、サイドハーフで磨いた得点嗅覚が生きるようになっていた。

 インターハイ準々決勝の大津高校戦では、約60mをドリブル突破してPKを獲得するという観客を驚かせるビッグプレーを披露。獲得したPKを自分で決め、1-1に追いつかれた中でのアディショナルタイムには勝利を決定づけるゴールも決めた。現在も語り継がれているという圧巻のプレーを、原田本人も懐かしそうに話す。

「0-0で自陣のペナルティエリア前ぐらいでボールを持って、ドリブルで上がって行ったんです。まずは1人かわして・・・・かわす感覚で進んでいったら、『空いてる、空いてる』と思って、相手のゴール前までいきました。特にイメージしていたプレーではなかったですね。多分、味方もびっくりしたと思います(笑)」

 そうした攻撃的な姿勢がスカウト陣の目を引いたのは間違いないだろう。

 ただ全てがスムーズに進んだわけではなく、川崎が獲得するまでのハードルはあった。実はヴィッセル神戸のスカウトがいち早く強い興味を示しており、夏には練習参加の声をかけていたのだ。

 しかも2018年の夏といえば、FCバルセロナからイニエスタの加入が決まった時期でもある。

 Jリーグ史上に残るであろう超一流選手の移籍が世界的ニュースとして大々的にも報じられたのはまだ記憶にも新しい。原田にとっても、小さい頃から食い入るようにプレー集を見続けてきた雲の上のスターである。これには向島も「イニエスタと練習で一緒にやっているなら、ウチは太刀打ちできないなと。そのぐらいイニエスタの加入はインパクトがありましたから」と当時を思い出して苦笑する。イニエスタと一緒にサッカーできる環境に心が揺らがないプレーヤーなどいないはずだ。

 一方で、原田本人はフロンターレから打診があることを、監督からしっかりとは知らされていなかったようだ。そのため、夏は練習参加の声がかかった神戸に足を運んでいるのだが、実はここから風向きが少し変わり始めている。

「フロンターレの話は全然聞いていなかったんです。あるときに監督から『フロンターレに行けるってなったらどうするの?』って冗談交じりに聞かれたことはあったんですよ。その時は『いや、無理ですよ』って笑って答えた記憶があります。神戸の練習には、インターハイが終わってから二回ぐらい参加しました。イニエスタがいて、ちょっとだけ一緒に練習もできました。その経験はすごく大きかったのですが、J1のレベルを肌で感じて、『これは・・・プロは自分には無理だ』とも思ってしまったんです。監督にも答えを濁すというか、ちょっと大学のことも考えていました」

──このプロ集団の中で自分がやっていくのは難しいのではないか。

 実際に練習参加したことで、自分の未来を思い悩み始めたという。さらにこの時期のヴィッセル神戸は、監督やコーチ陣が交代し、チーム体制が変わったタイミングでもあった。そうしたクラブ事情の影響もあったのかはわからないが、結果的に原田に対する正式なオファーには至らなかったという。夏が過ぎ、9月になっても原田の進路は決まらず、未来に暗雲が立ち込めてきた。

 「神戸からのオファーがなくて、大学も待ってくれないですし、進路がなくなっていったんです。すると、9月後半ぐらいだったと思いますが、職員室に呼び出されて『フロンターレからオファーをもらったぞ』って監督に言われたんです」

 先に声をかけていた神戸側との事情がクリアになったことで、川崎は晴れて正式オファーを原田虹輝へ出すことになったのだ。藤島監督との当時のやりとりを、向島はこんな風に振り返る。

「結局、神戸が決まらなかったんですね。そこで、『フロンターレがオファーしたらフロンターレを選ぶと思いますよ、本人は』という感じでした。あくまで監督によれば、ですが(笑)」

 もっとも、原田本人は川崎からのオファーに即決できたわけではない。ここでプロに挑戦するのか。それとも大学進学への道を探るのか。どちらを選ぶべきか、これまでにないほど悩みに悩んだ。それもそうだろう。人生を左右しかねない選択なのだから。

 数日間、悩んだ末に原田が下した決断は、プロの世界に飛び込むというものだった。

「めちゃくちゃ悩みましたよ。まず大学に行ってからプロを目指そうという考えはなかったですね。それに、ここでプロを断って、また4年後にプロになれる保証もないじゃないですか。だったら、チャレンジしようと思いました。やってやろう、と。最後は、チャレンジの気持ちでしたね。フロンターレに行きたいと監督に伝えました」

 イニエスタのいる神戸ではなく、大島僚太のいる川崎へ。

 まるでどこか不思議な運命に導かれていた物語のようだが、こうして原田虹輝は川崎フロンターレの一員となることが決まった。

 3年生の10月初旬には練習参加もしている。リーグ戦が佳境だった時期で、主力はフォーメーション確認や紅白戦などのトレーニングが中心だったため、一緒にトレーニングできたのは限られた時間だったが、一人一人の技術力の高さはやはり驚きだった。

「(入団が)決まった状況で行きましたが、めちゃくちゃ緊張しました。最初はノボリくん(登里享平)が話しかけてくれて、悠さんとかも話してくれたんですけど、もうビクビクしてましたよ。練習では、僚太くんや憲剛さん、アキさんとか、もうひとりひとりがうまくて…… 自分が高校でやってきたのとは全然レベルが違うなと。ゲームには参加できなくて端の方でパス練習だったのですが、そこで、一緒に組んだヤスくん(脇坂泰斗)もめちゃくちゃ上手いなと思いましたね」

 たくさんの刺激を受けた練習参加を終えて高校に戻ると、そこからはより技術を磨くことに力を注いだ。藤島監督も、ワンタッチ、ツータッチ以内でプレーするよう原田専用の特別メニューをゲームに盛り込んでくれるなど、川崎に入った先のことを意識したトレーニングを組んでくれた。

 そして迎えた高校最後の大会となる高校サッカー選手権。県内予選での昌平高校は他校に厳しくマークされる存在となり、どの対戦相手も徹底的に引いて守りを固めてきた。さらにプロが決まっている原田には、かつてないほど厳しいマークが集中した。それでも勝ち抜きたいという思いは強く、自分がどうにかしないといけないと思っていたが、決勝で敗戦。何もできず、負けた時は何も頭が真っ白になった。悔いの残る試合として、自分の中ではいまだに刻まれている。

 そして2019年。

高校を卒業してからいきなり入ったプロのチームは、リーグ2連覇している王者である。練習参加でもその凄さは感じていたつもりだったが、いざチームの一員になって日常を過ごすと、さらに次元の違う世界だった。

 日々の練習で目の当たりにしたのが、選手個々の技術の高さだった。

「高校との差をすごく差を感じました。最初はプロのスピードにもついていけず、自分の技術の無さも感じました。特に止めて蹴るという、基本的な技術のところです。すごく大変でした」

 特に原田が主戦場とするボランチは、大島僚太、下田北斗、守田英正、田中碧がおり、ハイレベルな争いが繰り広げられているポジションである。彼らに混じると、自分がずっと磨いてきたはずの足元の技術がまるで武器にならない。プロの世界での自分の不甲斐なさに、ボールを受けるのが怖くなり、プレーに関わりたくないぐらい消極的になった時期もあったという。ただそれでも心は折れず、全体練習後は地道に自主練習を続けることにした。ボールを止める技術をイチから取り組んでいる。

「ちょっとボールを止める位置がズレただけでも、寄せられて取られてしまう。トラップ一つにこだわらないと、やっていけない世界だなと。自分は身長が小さいので、ボールを失わないということを一番に考えました。それをするには止めて、蹴るをしっかりしないといけない。一歩だけ寄って、相手を引きつけてからトラップしたり、相手が来ていない方向にトラップするには、相手を見ておかないといけない。だから相手を見ながらも、自分の良い位置にボールを止めること。これが難しくて頭がパンクしそうになりましたが、感覚を掴んでからは少しずつ変わってきました」

 自主練を続けた甲斐もあり、技術も自信がつき、徐々にプロのスピードにも慣れてきた。ただ、それはようやくスタートラインに立てるようになったに過ぎず、それで新人に出番は巡ってくるほど甘い世界ではない。ここはJリーグでもトップのチームなのである。自分とレギュラー陣との差は歴然としており、試合に出れないのも当然だった。ルーキーイヤーは全ての試合を外から見守ることとなったが、それでも得た刺激は多い。

「練習でも公式戦でもみんなすごいので、盗めるものはたくさんありました。例えば僚太くんは、最後まで相手のことを見ることができる。直前でトラップを変えても、次のプレーがスムーズにできる。自分はまだまだ慌てているので、あれは本当にすごいなと。どこを見ているとか、このプレーの時はどう考えたのかを本人に聞くこともできますからね。一緒に自主練を付き合ってくれる先輩もいますし、その時にアドバイスもくれる。試合には出れませんでしたが、去年一年で色々な経験を積めたと思っています。去年は、シーズン最後にかけて、自分なりにやれる自信はつきました」

 中でも忘れらない光景はやはりルヴァンカップの優勝だ。スタンドから戦況を見守り、最後の最後まで手に汗握る劇的な展開で、チームは初めてとなるカップ戦のタイトルを獲得。優勝後にはピッチで先輩たちと喜びを分け合うことができた。

「ああいう試合展開で、延長で10人になっても追いつくメンタルの強さですよね。自分は高校時代、県予選で逆転負けして出れなかったことがあったんです。先制して逆転されると、メンタルが弱くて勝ち切れなかった。プロはそういう状況でも1人少なくても勝ちきれる。そういう強さは本当にすごいなと。最後はピッチに降りたので、スタジアムの雰囲気も感じられました。普段からサポーターからのこういう声援を受けて、いつも通りのプレーができるようになりたい。何より、このピッチに立ちたい。そう思いました」

 迎えた2020年。

 今季はチームのフォーメーションが変わり、ボランチではなく、一つ前の位置であるインサイドハーフで試される機会が増えていた。ボランチに比べると、ゴールやアシストにも直結する仕事も求められるポジションだ。当然ながら、自分の役割も微調整している。

「去年まではボランチが2枚だったので、練習試合でもそこをやる機会が多かったです。その時もゴールやアシストにはこだわっていましたが、どんどんボールに関わることでさばいていくイメージがありました。今年はポジションが前になったので、去年よりもゴールにこだわるようになっています」

 そしてグループリーグから参加するルヴァンカップでは、「全ての試合において21 歳以下の日本国籍選手を1名以上先発に含める」というU-21歳枠ルールがある。今年は宮代大聖と原田虹輝が対象者になっており、原田にとっては大きなチャンスになるはずだった。

 ところが、新型コロナウイルスの影響で第2節以降は延期に。変更が発表された大会方式では「U-21先発ルール」は適用されないことになった。原田にとっては不運とも言える変更だが、自分自身のスタンスは変わらない。

「日程的には連戦になると思うので、確実にチャンスは増えると思ってます。そのチャンスを生かせるかどうかは自分次第ですね」


 7月からJ1の再開が発表され、チームも6月から全体練習を開始した。それはチーム内の競争が再び始まったことを意味している。2年目の原田が目指すのは、Jリーグデビューになる。

彼の「虹輝(こうき)」という名前には、「色々な色に輝いてほしい」という両親の思いが込められている。

 まだ何色でもない原田虹輝がプロのピッチに立ったとき、川崎フロンターレのサッカーにどんな彩りを添えてくれるのか。その日を待ちたい。

profile
[はらだ・こうき]

対巧みなボールコントロールやパスセンス、緩急をつけたドリブル突破が武器のMF。ルーキーイヤーの昨シーズンは、日々のトレーニングを通じてトップレベルのスピードやパワーを肌で感じながら、プロとしての土台を作り上げる1年となった。

2000年8月6日、埼玉県さいたま市生まれ
ニックネーム:コウキ

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