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  • ピックアッププレイヤー 2020-vol.07 / 白沢敬典 通訳

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何色でもない

自分だけの道を歩んで

白沢敬典 通訳

文/林 遼平 写真/大堀 優(オフィシャル)text by Hayashi Ryohei photo by Ohori Suguru (Official)

どうしても聞きたいことがあった。
その見た目、風貌が”インド独立の父”として知られるマハトマ・ガンディーに似ていることから、「ガンジーさん」の愛称で呼ばれ親しまれている白沢敬典通訳。
そんな彼が、いつから「ガンジーさん」と呼ばれるようになったのか。
「レールに乗った人生を歩むのは絶対に嫌だった」と笑う彼の波乱万丈の半生を振り返った時、その答えは自ずと明らかになった。

(*本稿では白沢さんではなく、親しみをこめて「ガンジーさん」と表記させていただきます)

 ガンジーさんが、サッカーに出会ったのは中学生の時だ。もともとは「日曜は稲刈りの後に朝から晩まで田んぼで野球をやっていた」と言うほどの野球少年だったが、2つ上の兄がサッカー部に入ってどんどんのめり込んでいく姿を見てサッカーに興味を持つようになった。

そして、中学進学とともにサッカーを始めると、「やればやるほど面白くなった。ゲーム性を含めてサッカーそのものが面白かったのが大きい」と振り返るように一気にサッカーの虜になっていく。

高校は親元を離れて米子市の高校に通うことになる。強豪校でプレーしたかったことが実家を離れた理由の一つだが、その時から自分の中で一つのポリシーが生まれていた。

「高校の進学を決めた頃から”人と違うことをやりたい”という思いがすごくありました。レールに乗った人生を歩むのは絶対に嫌だなと。逆に『誰も歩いていないところを歩いてやる、作ってないものを作ってやる』みたいな感じでしたね」

トップレベルのプレイヤーになりたいという思いはあったが、高校サッカーを経験して「自分のレベルは到底そこではない」と実感した。ただ、サッカーの虜になっていた男にサッカーから離れる選択肢はなかった。

「サッカーは好きだったので、何かサッカーに関わる仕事はやりたいなと。それで大学を選ぶときに考えたのは、大学4年間を遊んで何も身に付かずに卒業してしまうのが一番嫌だと。自信を持って”これを身につけた”と言えるものが絶対に欲しいと思っていた。そこで外国語を学べば4年終わったときに『これだけ外国語を喋れるようになりました』と言えるようになるかもしれないし、それでサッカーの通訳の仕事ができるかもしれないと思えた。だから外国語学部のポルトガル語学科を選びました」

サッカーに携わる仕事と言えば、様々なものがある。用具係であったり、グラウンドキーパーであったり、クラブスタッフであったり。その中からブラジル人通訳を選んだ理由は興味深い。

「まず、ブラジルに興味を持っていました。サッカーを始めた時に1982年のスペインワールドカップがあって、兄貴に叩き起こされては『ブラジルがすごい』と言われ続けていて(笑)。それもあってサッカー=ブラジルだったんですよね。だからブラジル人と喋れるようになりたいという思いがあって、それならば通訳の仕事があるなと。それで高校の担任の先生に話をしたら、こんなことを言われました。『言葉というのは目的じゃない』と。これは今でもすごく覚えていて、要は『言葉は目的ではなく手段だから、この言葉を覚えて何ができるかを考えておくことが大事だ』と言われました。先生はポルトガル語なんて先がないと心配してくださって言ったと思うんですけどね(笑)。でも、自分の中では、ポルトガル語を覚えたら通訳をやると決めていたのでより思いが強くなりました」

1年の浪人を経て大学に進学してからは、親からの仕送りを受け取らずに新聞配達の仕事をすることで得られる奨学金制度を利用しながら学業に勤しんだ。そして、3年生を終えたタイミングでブラジル日本交流協会の研修に参加。1年間大学を休学し、ついに念願だったブラジル行きが決まった。

白沢 敬典 通訳

派遣先は「今まで誰も行ったことがないところで、暖かいところで、出来たらスポーツに関わる仕事ができるところ」と希望を出し、その願いが叶った総合型スポーツクラブのスポルチ・レシフェ。午前はクラブのオフィスで事務作業に励み、午後はサッカーだけでなく他のスポーツ部門に顔を出しては様々な人々と話をすることで知見を広めた。

この1年は、これまでの人生においても非常に濃い時間だったと、ガンジーさんは振り返っている。

「大学4年間、一生懸命勉強したつもりでしたけど、言葉を覚えた量で言うとブラジルに行った1年間の方が何十倍も多い。それに単語一つひとつに思い出があって忘れないんですよね。もう一つは、やはり価値観が本当に違うことを知ることができた。日本で当たり前とされる価値観の正反対の価値観があって、えって思うこともあるけど、ちゃんと聞くと理にかなっている。そういう意味では自分の物差しが変わりましたし、本当に若いときに行ってよかったと思います」

また、ブラジルでは今後につながる大きな出会いがあった。現在札幌大学の名誉教授となっている柴田勗氏と、会話をする機会を得ることができた。

「当時、柴田先生は札幌でSSS(札幌サッカースクール)というクラブチームを立ち上げていらっしゃって、そこでブラジルのサッカーを教えていたんです。そんな方とブラジルで話す機会があって『うちのクラブチームで働いてみないか』と言われました。そのときにはもちろん、『行きます』と答えました」

ブラジルでの濃厚な1年間を過ごし、日本に帰ってからはSSSでコーチとして活動した。主な仕事は監督のサポートで「自分が誰々を育てたみたいなものはなくて、子供たちと楽しくサッカーをやっていた」と振り返る。ちなみに当時、川崎フロンターレに在籍した経験を持つ山瀬功治が小学校6年生、弟の山瀬幸宏が3年生で所属していたようだ。

コーチ業は楽しい日々だった。ただ、4年近くコーチとして仕事を続けたものの、心のどこかに引っかかるものがあった。

「その時にはすでにJリーグが始まっていて、自分の中にはサッカーの通訳をやりたいとの思いがずっとありました。だけど、それと同時に今の自分の語学レベルでは通訳はまだまだ難しいなと。それでなんとかもう一度ブラジルにいけないかと考えて、JICA(国際協力機構)の日系社会青年ボランティアの制度を使って、再びブラジルに2年間行くことになりました」

研修中に靭帯を切る大怪我やブラジルに渡った後に椎間板ヘルニアを患うなどアクシデントに襲われたが、この2年間を有意義に使うことで語学力が向上。帰国する前には、Jリーグのブラジル人が所属しているクラブに履歴書を送って自分を雇って欲しいとアピールした。

ただ、なかなか返事は届かなかった。サッカー界とのコネクションがあったわけでもなく、唐突に送られてきた履歴書にOKを出すほど甘い世界でもない。そんな状況を察し、ガンジーさんは「ならばブラジルで仕事をしよう」と思考を転換。社会事業の仕事に携わっている仲の良い友達を頼り、三たびブラジルへ足を運んだ。

そんな時だった。ガンジーさんにサッカー界から一報が届く。ブラジル日本交流協会のOBだった山道守彦氏(現・京都サンガF.C.強化部長)から、浦和レッズの通訳の話が舞い込んだのだ。

この話に乗らない理由はなかった。すぐに飛行機に飛び乗り、ガンジーさんは2001年の8月から通訳として浦和に加入。ついに高校時代から夢に描いていた念願の仕事に就くことになった。

しかし、である。

浦和での挑戦は、意外な形で幕を閉じる。8月に加入したのだが、シーズンが終わる前に自分から辞める決断をすることになった。

これは失敗の歴史である。だが、ガンジーさんは自戒を込めて当時を振り返ってくれた。

「当時、選手はエメルソン、トゥット、アドリアーノがいて、監督・コーチもブラジル体制の1年でした。その中で、基本的には僕が選手をフォローし、もう一人の通訳が監督とコーチをフォローする。そういった形で念願のサッカーの通訳に就きました。僕としては、自分もブラジルの方にお世話になっていたので、直接的に恩返しすることはできないけど、日本に来ている彼らに恩返しをしようと思っていたんです。彼らのサポートをすることが間接的に現地でお世話になった方への恩返しになるだろうと。だから、選手たちのためにできることをやろうと思っていました。ただ、いま思えば自分の経験の無さというか、完全に選手との距離を誤ってしまいました」

ブラジル人選手をサポートしてあげたい。しかし、その思いが強過ぎるあまり選手を甘やかしてしまった。

「当時、距離が近すぎてなんでもやってあげていた。それなのに裏切られるようなことをされて、すごく落ち込む時がありました。いま思えば、自分の経験の無さの一言です。あの時、本当にレッズの皆さんには迷惑をかけたと思います。11月の頭くらいですね。僕は『もうこの仕事はできません。辞めさせてください』と言いに行きました。その時、この仕事は2度とやるかと思いましたね。絶対にこんな仕事はもうやらないと。でも、いま思えば、その時の大失敗から始まったことで、サポートする気持ちは大事だけど、決してなあなあな関係になってはいけないと思うことができたと思います」

悔しい経験として思い出に残る浦和での日々。ただ、あの愛称がスタートしたのも浦和だった。

「ガンジーと呼ばれるようになったのは、その時からです(笑)。レッズの土田尚史さんに『なんて呼んだらいい』と言われて、以前にJICAで初めてお会いした日本人の方で奈良育英高校のサッカー部の監督で上間(政彦)先生という方がいたんですが、上間先生とブラジルで初めて会った時に『今日から君はガンジーくんや』と。その時に初めてガンジーと言われたのを思い出して『ガンジーでお願いします』と言ったら、土田さんが『ええな。それで行こう』と一気に広めてくれたのが始まりです」

浦和での仕事を終え、2度と通訳の仕事をやらないと心に決めたガンジーさん。だが、もう一度通訳への道に戻ったきっかけはなんだったのか。その理由には、自分をサッカーにのめり込ませてくれた兄の存在があった。

「もう一回ブラジルに帰ろうと準備をしていた時に、セレッソ大阪が通訳を探しているぞと情報を教えてもらいました。気持ち的にはもう絶対やらないと思っていたんですけど、うちの兄貴が『何を言ってんねん』と怒ってくれた時があった。『あれだけやりたいと言っていて、そんなことでこのチャンスを逃すのか。声がかかって行けるところがあるのなら、こんなところで辞めるな』と。それで考え直してもう一回やってみようと思いました。それでセレッソで仕事をすることになりました。あの言葉があったから今があるなと思います」

兄の一声で再び通訳の仕事に就くことになったガンジーさんは、その後、セレッソ大阪やヴィッセル神戸、アビスパ福岡、ガンバ大阪で通訳の仕事を担うことに。とりわけC大阪やG大阪で監督を務めたレヴィー・クルピ氏との深い絆は有名である。

そんなガンジーさんが、川崎フロンターレにきたのは2019年のこと。連覇中のクラブに来られたことは驚きだと表現している。

「G大阪を出るとなった時に、当然どこのチームでも行くつもりで準備をしていた。その中でまさか2連覇していたフロンターレが探していると聞いて、ここに来られたことはまさかのまさかでした。フロンターレは攻撃的でカラーがはっきりしているし、見ていて面白いチームでしたし、それに連覇した後だったので優勝したチームの雰囲気はどうなんだろうと。選手もそうだし、スタッフ、クラブの雰囲気もそう。それが見られるのは貴重な経験だなと思っていました」

現在は2009年からポルトガル語通訳を務める中山和也通訳とともに仕事をしている。ゴンちゃんの愛称で親しまれる中山通訳とは、うまく仕事を分担しながら行っているのだと言う。

「基本的にゴンちゃんが現場、ピッチ上のところをメインでやってもらって、僕は家族のサポートのところになる。もちろん練習にも出るけど、例えば子供が病院にいかないといけないとなったら、家族のサポートを優先してそっちに行くと。家族のサポートはすごく大事で、そこがしっかりできる、できないかで、すごく選手のパフォーマンスは変わってくる。そういう体制をフロンターレが作り、そこに呼んでもらったことはすごく大事なことだと思いますし、そこをやらせてもらっているのはすごく責任のあることだと思います」

家族のサポートと聞くとあまり馴染みのない仕事に感じるが、この重要性はガンジーさんの言葉を聞けば理解できる。

「もちろんピッチやミーティングで正確に通訳し、コミュニケーションを円滑にするのは大事です。ただ、それと同じか、それ以上に家族のサポートをしていくことも大事だと思います。例えば、奥さんが体調悪い、子供が日本に馴染めていないとなると、それが気になってパフォーマンスにすごく影響する選手がいます。練習前に『子供が昨日からちょっと熱を出しているんだけど』と連絡があった時に、『練習終わってから病院連れて行こうか』となると選手は練習に集中できない。だけど、そういう時に『今から連れて行くね』と言えるのは通訳が二人いるからできることなんです。そういうフォローができるのは重要なこと。これは非常にやりがいがあります」

もちろん病院だけでなく、時には学校のことで相談を受けることも。昨年はブラジル人選手たちのお子さんが幼稚園児3人、中学生1人の状況の中、彼らは皆インターナショナルスクールではなく、日本の幼稚園・中学校に通っていたため、ほぼ毎日のように学校の先生方と連絡を取り合っていたと言う。

「昨年、一番力を注いだことは選手たちの子供のサポートです。子供たちが日本の学校、幼稚園に馴染めるよう何度もその場所に通って先生方と話し合いを重ねました」

この話を聞くだけでも、サポートの内容が多岐に渡ることが想像できるだろう。

ただ、かつて失敗を経験したからこそ、やはり選手たちとの距離感も重要視している。

「家族や選手のタイプにもよるところがあって、一概にこうするみたいなものはないんです。とある通訳さんの本で“コミュニケーションに言葉はいらない”と書いてありました。“その人を好きになる、そしてそこにいる”、この二つですと。本当にそうだと思います。この人たちを好きになったら仕事もすごくうまくいくし、だからと言って全てをやってあげるのがいいのではなく、彼らが必要とした時にいつでもフォローできる距離感。そこの距離感をしっかり考えて常にフォローできるのが一番いい。これはいい言葉だなと思って心に留めています」

今季、川崎フロンターレには3人のブラジル人選手が所属している。レアンドロ ダミアン、ジェジエウ、ジオゴ マテウス。「人間性や彼らの家族を含めて、すごくいい選手たち」と語るガンジーさんは、過密な日程が待つ大変なシーズンに向けてチームへのサポートを強調した。

「通訳として3人のブラジル人とその家族の面倒を見るのがサポートになると思いますが、自分としてはチームの裏方の一人だという意識は常に持っています。だからこそ、3人にも活躍して欲しいし、もちろん日本人の選手たちにも活躍して欲しい。ブラジル人3人を見るというよりも、選手全体を見て声かけをしたい。そういうところでフロンターレを見ていると思うのは本当に一体感があるチームだなと。そういう意味で自分も裏方の一人として、ブラジル人選手だけでなく、日本人選手、スタッフと協力して今年の1年の躍進につながればいいかなと思います」

「ガンジーさん」としていじられているイメージが強いが、彼が望んで歩んできた「人とは違う」半生は実に興味深いものだった。

しかし、この物語にはまだまだ続きがある。川崎フロンターレでの新たな歩みの中で、ガンジーさんはどんなことを経験していくのか。ポルトガル語通訳としてチームを支える男は、気さくな振る舞いで周りに笑顔を届け、選手たちをサポートすることで勝利の一端を担っていく。

profile
[しらさわ・たかのり]

2019シーズンよりポルトガル語通訳を務める。中山通訳とタッグを組み、ブラジル人選手、その家族をサポート。趣味はヨガとカレー食べ歩き。愛称はガンジーさん。家ではじぃじぃ。孫が5人。

1969年7月26日、鳥取県倉吉市生まれ
ニックネーム:ガンジーさん

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