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  • ピックアッププレイヤー 2020-vol.10 / 旗手 怜央選手

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FW30/旗手怜央選手

テキスト/林 遼平 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Hayashi Ryohei photo by Ohori Suguru (Official)

目の前にいくつもの選択肢が並べられた時、あなたはどうするだろうか。
簡単な方を選ぶことだってできるし、より難しい方を選択することもできる。時と場合によって、その選択肢は変わってくるが、簡単な方を選べば楽ができるし、難しい方を選べば苦労を味わうことになる。
ただ、難しい方を選べば選ぶほど、つらく、苦しい日々が待っている分、達成した充実感は計り知れないものになる。

  かつて『高ければ高い壁の方が登った時、気持ちいいもんだ』という歌詞があった。どちらが正解という話ではない。だが、今回話を聞いて思ったのは、大卒ルーキーの旗手怜央は、常に難しい方を選んできた男だということだ。

 三重県の鈴鹿市で生まれた旗手は、父親がかつて甲子園に出たほどの野球エリートだったこともあって小さい頃は野球っ子だった。本人も「絶対にお父さんの影響」と笑うように、外へ遊びに行っては野球をしていたと言う。

 ただ、小学校に入ると、周りの友達の多くがサッカーで遊び始めた。そうなれば「あまりゲームもやらないし、本当に外で遊ぶのが好きだった」少年が、その中に加わらないわけがない。

「最初は野球をやったり、サッカーをやったり、どっちもやっていましたね。そしたら、いつの間にかサッカーをやっていました(笑)」

 のめり込むのは早かった。「小さい時から一つのことをずっとやることができる性格だった」旗手少年は、サッカーを初めてすぐにクラブチームのFC四日市ジュニアに入団。「最初は4人しかいなかったんです(笑)。試合をやるといっても他のチームに混ぜてもらってやっていたぐらいだった」という環境の中、向上心を持ってサッカーに真摯に取り組んだ。

 ちなみに当時、憧れていたサッカー選手は「(元ブラジル代表FW)ロビーニョや(元ブラジル代表FW)ロナウジーニョ」。細かいドリブルで交わしていく選手が好きで「コーンなどを置いてずっとドリブルの練習」に励んだことは、今のドリブルにもつながっている。

 中学に上がると四日市の巧い子たちが集まってきて一気にチームのレベルがアップした。ただ、どんな状況になろうが旗手の頭にはサッカーしかなかった。学園生活を思い出そうにも「小中はもうサッカーのことだけしか出てこない」と笑うように、サッカー漬けの毎日。それだけサッカーに時間を費やしてきた。

 そんな旗手を支えていたのが両親の存在だ。

「小さい時から二人ともすごく厳しかった。ただ、意味もなく怒ることはなくて、ちょっと外に遊びに行って『18時に帰ってくる』と言っていたのに、それを過ぎて帰ってくると家に入れてくれないとか。中学の時はお弁当を作ってもらっていたんですけど、お弁当箱は自分で洗うことになっていて、それを自分で洗わなかったら次の日、弁当がないなんてこともありました。だから、自分のやるべきことをしっかりやらなかったら怒られる感じでしたね。そういったこともあって、小さい時から自分の身の回りのことは自然とちゃんとやるようになっていました。それは今にもずっとつながっていると思います」

 中学校から高校に上がる時には一つの夢があった。それは全国高等学校サッカー選手権大会に出ること。高校でサッカーをやるなら誰もが持つ夢を、旗手も等しく持っていた。

 だからこそ、考えた。高校をどこにするのか。旗手の中には二つの選択肢があった。

「それこそ近くには四中工(四日市中央工業高校)がありました。最初は選手権に出たいと思っていたので、四中工に行こうと思っていましたね。でも、自分が中学1年の時に二つ上の先輩で一人すごいドリブラーの選手がいて、その人が静学(静岡学園高校)に行ったんです。その時から静学はすごく巧い選手がいる高校で行ってみたいなと思っていました。それと、自分はプロになりたくて、もっと巧い選手になりたいと思っていたので静学かなと思って決断しました」

 地元の三重県から離れることに戸惑いはなかったのかと聞くと、「確かに」と頷きつつ続けた。

「いま振り返ったら、親元を離れることをよく決断したと思います。ただ、両親からも反対はなかった。その時は親父にもお母さんにもしっかり相談しました。そう思うと、高校や大学の時もそうですけど、節目の時にはいつも両親に相談してますね」

 サッカーの強豪校に入るため地元を離れる。決して簡単な決断ではなかったが、この頃からより難易度の高い方を選択する旗手のスタイルが確立していくことになる。

車屋 紳太郎選手

 静岡学園高校に入学すると、これまでとの違いに驚きを隠せなかった。特に強烈だったのは、想像以上に走るチームだったことだ。

「最初はヤバかったですね(笑)。当時そんなに走るのが得意じゃなかったんですけど、とにかく走ってました。例えば、四中工もすごく走るチームと聞いていましたけど、それより走ったんじゃないかなと思います。それに加えて、みんな足元の技術がある。走るし、足元もあるしで、最初は『オレ、すごいところ選んだな』と衝撃を受けました。だから、振り落とされないように、ひたすら個人技を磨かないとダメだなと思ってドリブルとリフティングをずっとやっていました。あと走りも最初は後ろから数えた方が早い方だったので、頑張って食らいついていくことだけは考えてましたね。最初の2ヶ月は練習についていくのでやっとでした」

 ただ、小さい頃からそうだったように、一つのことを決めてずっとやり続けることは得意だった。毎日、必死に練習に取り組むと「ある程度、技術もついてきて、食らいついて走れるようになった」ことで、1年生の夏を過ぎたあたりから試合にも出られるようになった。ポジションも以前のボランチではなく、アタッカーのポジションにコンバート。「そこから徐々に自分の良さというか、今のようなゴールに向かっていくプレーができてきた」と振り返るように、ここから旗手の土台が築き上がっていく。

 高校2年時、旗手は夢だった全国高校サッカー選手権大会への出場が叶うことになる。ポジションは左のWB。高校に入ってアタッカーのポジションを務めることが増えていたのに、なぜこの時はWBだったのか。旗手は回顧する。

「自分が2年生の時、インターハイで負けた後、監督に『この代は今までで一番技術が無い時代だ』と言われて夏を越すまでにめちゃくちゃ走ったんですよ。だいたい朝練と午後練あるんですけど、朝練走って午後練走ってみたいにずっと走っていました。たぶん世間から見ると、“静学は巧い”という感じだと思うんですけど、今までいろいろな選手を見てきた監督は一番技術がない世代として見ていた。それで守れないから3バックにして、WBのポジションが生まれた。その時には自分も走れるようになっていたし、ずっとドリブルで仕掛けてもいたので、そこを評価されて左のWBで使ってもらった感じです。

 個人的にはインターハイが終わるまでは全然試合に出られてなくて、夏の走りや紅白戦があった中でアピールして、ようやく掴めたポジションだった。どのポジションであろうが、頑張ってやるとしか考えていなかったですね」

 この大会で旗手は優秀選手賞に選ばれるほどのパフォーマンスを披露する。ただ、本人としては、この賞をもらうほどの手応えは掴めていなかったようだ。

「本当にゴールを決めたくらいで、その時は先輩に鹿島(アントラーズ)に行った名古(新太郎)さんもいて、そういう人の方が活躍している印象があった。優秀選手に選ばれた時は『なんでオレなんだろう』と思っていましたね」

 高校ラストイヤーは、あと一歩のところでインターハイにも選手権にも出られなかった。高校3年間は挫折や悔しい思いばかりだったと振り返る。

「それこそ高校に入った時に周りがうまくて、みんな走れて、その時点で挫折したところもあった。それに高2の時、プリンスリーグの試合に出る際は10番をつけさせてもらったんですけど、最初の3試合くらいが全然ダメで、結局10番を確か名古さんに取られてしまった。高3のインターハイ予選の時も、直前の自分が出た試合で負けて、それまで10番をずっとつけていたのに取り上げられたり。そういう悔しい思いをすることは多かったですね」

 それでも「もうやるしかないな、みたいな感じで毎日のように練習していましたね」と笑う旗手は、高校での日々を「何より今の自分につながっている3年間」と表現している。

「足元の技術や走る部分、メンタル面も強くなりましたし、そういう一つひとつがこうやって今につながっていると思う。それと親元を離れて、いろいろわかったことがありました。もちろん今もそうですけど、親には今までいろいろな苦労をかけてきた中で、自分がこうやって毎日サッカーができているのは、常に自分の好きなことをやらしてくれたおかげだと思っています。それまでサッカー以外の部分でもすごく面倒を見てくれていて、いざ自分が親元離れた瞬間に何もできないなと思った。親の偉大さというか、それは高校3年間で感じましたね」

 様々なことを経験し、一人の選手としても、一人の人間としても成長を果たした旗手は、プロを目指して大学進学を選択することにした。そして、大学に入る前、ここで大きな目標を立てた。

「プロになるためにはこの4年間しかない。4年間でプロにならないとダメだと発破をかけました」

 選んだのは、静岡学園高校の先輩で川崎フロンターレの先輩でもある長谷川竜也と同じ順天堂大学。「代々、静学のエースだった人がみんな行っていて活躍していた。自分もそういうところでプロになりたいと思っていました」。プロになるためのステップとして先輩たちの後を追う決意を固めた。

 大学1年生の時から試合に出場し、一気に名前を聞くようになった旗手だが、決して入った当初はそこまでうまくいっていたわけではない。プレーしていた左サイドハーフのポジションには、高校の先輩でもある米田隼也(現V・ファーレン長崎)が絶対的な存在として君臨しており、「米田さんが卒業してから試合に出られるかなくらいしか考えていなかった」。

 そんな旗手がブレイクする契機となったのが、左サイドハーフからFWにポジションをコンバートされたこと。新たなポジションを与えられると、そこで出場するために何をすればいいのかを考え、突き詰めた。すると、徐々にゴールが奪えるようになり、自然とポジションも手にしていた。

 これまでもそうだった。より難しい道を選ぶ方が前に進めた。今まで慣れ親しんだポジションではなかったが、そういう時ほど成長できるのは分かっていた。

「試合に出られるか出られないかは本当に一か八かですけど、そこでもがいて出られるためにどうしたらいいかをすごく考えてやるタイプ。逆に、入ってすぐにスタメンになってしまうと、天狗になりがちなところもあって(笑)。実際、高校3年生の時は天狗になっていたところがあった。やはり自分は厳しい環境やレベルが高い環境に自分の身を置くことで成長してきた。だから、今もそうですけど、自分の中では厳しい環境に身を置くことがすごく大事だと思っています」

 関東大学サッカーリーグでは1年生ながら9得点をあげて新人王を獲得。2年になると全日本大学選抜や世代別代表にも呼ばれるようになった。ここまでトントン拍子に進むと浮かれてしまいそうな気もするが、それでも進化し続けられたのは、見据える先がやはり高いところにあったからだ。

「実際、大学1年の大臣杯が終わった時、『オレ、プロにいけるな』と思ってました。でも、ふと考えた時にどこまでのレベルなのかはわからないなと思ったんです。それでトップトップは無理だなと。だから、もっとやらないと上にはいけないと思いましたし、それこそプロで試合に出るために何をしないといけないみたいに、だんだんと目標設定を高くして行った感じです。そうすることでこれじゃあダメだと思って、またやっていけたところはあります。それに大学選抜やアンダーの代表に呼んでもらって、レベルの高い選手がいっぱいいるのを見てもっとやらないといけないとも思いました。そういうチーム外の活動でも刺激をもらっていました」

  成長を求めて日々サッカーに打ち込んだ男は、大学3年時、川崎フロンターレとプロ契約を結ぶことになる。フロンターレを選んだのは、これまでと同じように、いま考えられる一番厳しい環境に身を置きたかったことが大きい。

「シンプルにサッカーがもっとうまくなりたいという思いがありました。サッカーがうまくなりたいという強い思いと、日本代表に入れるような選手になりたいという思いがあってフロンターレを選びました。その時、ちょうど連覇もしていて一番強いと言われているチームにあえて身を置いて、そこで試合に出られれば、それが1番わかりやすい結果になると思っていました」

 他のチームは考えなかったのかと聞く前に、間髪入れず次の言葉が出てきた。

 

「他のチームをどうこう言うつもりはないですけど、このチームが一番攻撃的なサッカーをしている。いまのメンバーを見ても、攻撃陣で一番層が厚いと思っている。その中で出るのはすごく大変なこと。そこに身を置くことが自分にとっていいことかなと思いました」

 その時、その時、自分にとって一番難しい道を選ぶ。そして、それを越えていく。そうして“旗手怜央”という選手は作られてきたのだ。

 高校、大学。プロを目指すエリートたちが集まる場所で必死に自分を磨き、自らの価値を高めてきた。その全てが今の自分につながっていると旗手は強調する。

「高校3年間はサッカーの部分で今につながっている。大学4年間は、サッカー以外の部分で自分にはどんな価値があるのかだったり、いろいろな考えを持つことだったり、そういう結局サッカーに繋がる部分だけど、サッカーではない部分をたくさん知れたし、感じられた4年間でした」

 そして迎えた2020年。フロンターレの選手として初めて臨んだ今年のキャンプ。沖縄の地で話を聞いた際、すでに旗手の目にはピッチで戦う自分の姿が浮かんでいた。

「今年からプロ生活が始まって1年目はすごく大事だと思っている。何よりしっかりアピールをして試合に出ることを考えないといけない。そこにフォーカスを当てて頑張っていきたいのと、やっぱり試合に出ることができるなら結果が求められると思う。試合に出るだけでなく、結果を求めて、自分の課題をクリアしていければと思います」

 そこからの躍進は、見ての通りと言っていいだろう。今年最初の試合となったルヴァンカップグループステージ第1節・清水エスパルス戦で途中出場を果たすと、「あの時は等々力で初めての試合でしたけど、すごく自分らしさが出せた試合だったと思います」とさっそくアシストを記録。サガン鳥栖とのリーグ開幕戦も途中出場でピッチに立った。

 新型コロナウイルスの中断が明けて以降もコンスタントに出場を重ね、今では数多くのゴールに関わり、攻守に走りまわることで勝利に貢献している。

 ただ、それだけのパフォーマンスを披露しても先発の座が常に用意されているわけではない。「本当に試合に出た時には結果を残さないといけないという思いがすごく強い」と語るように、気を抜いたらいつでも試合に出られなくなることを理解している。

「練習から誰が出てもおかしくないと思うほどレベルが高いんです。みんな試合に出たいので練習から絶対に手を抜いてやらないし、試合に出ているからといって何かがあるわけではない。出ている時こそやらないといけないという思いが強いです」

 そんな旗手はフロンターレで何を成し遂げたいのか。答えは簡単だ。

「リーグのタイトルを取ること。ルヴァンの連覇。やっぱりタイトルですね」

 タイトルにこだわる選手は多くいる。だが、次の言葉を聞けば、旗手のタイトルにかける思いが誰よりも強いことがわかる。

「自分は所属チームでタイトルを取ったことがないんです。高校の時も県予選の優勝はありますけど、それだけ。ユニバーシアードでも優勝したことがあるんですけど、それもチームではなく選抜でした。ただ、ユニバーシアードで初めて優勝した時にすごく嬉しかった。その時に、これをもし所属チームで、1年間みんなで頑張ってやってタイトル取ったらどんな気持ちなんだろうと。それを経験してから、やはり日頃から一生懸命一緒に頑張っている人たちとタイトルを取りたいという思いはすごくあります」

 彼らしい“ゴールに向かうプレー”に磨きがかかり、最近ではゴールの数も増えてきた。それだけでなく守備の貢献度も日に日に高まっている。一つひとつハードルを越えながら、着実に成長を遂げる背番号30は、改めて今年の目標を口にした。

「やはりタイトルを取るためにチームとしても個人としても結果を残すこと。タイトル奪取に少しでも貢献するためにゴールだったりアシストだったり、1試合でも多く出て自分の良さを出すことが大事だと思います。それに自分が試合に出て、貢献して、タイトルを取りたいという思いがすごく強い。もっと結果にこだわってやっていかないといけないと思います」

 今年、最も重要な目標として設定したタイトル獲得。

 それを悠々と越えていくのか。それともまだ足りないと阻まれるのか。

 一番厳しい環境に身を置いた1年目のシーズン。大卒ルーキーながらすでにチームの中でも大きな存在となろうとしている男は、これまでと変わらず、真摯にサッカーに打ち込むことで高い壁を登ろうとしている。

profile
[はたて・れお]

スピード、テクニック、フィジカル、そして決定力と、すべてにおいてハイレベルなアタッカー。点取り屋としてもチャンスメーカーとしても機能し、フィニッシュワークに絡むポジションであればどこでもプレーできるユーティリティ性も魅力のひとつ。東京五輪に出場するU-23日本代表にも選出。

1997年11月21日、三重県鈴鹿市生まれ
ニックネーム:レオ

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