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  • ピックアッププレイヤー 2020-vol.11 / イサカ ゼイン選手

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恵みある人生を

DF15/イサカ ゼイン選手

恵ある人生を

テキスト/隠岐麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Oki Marina photo by Ohori Suguru (Official)

真面目で優しいと周囲が声を揃える人柄は、彼を支えてきた周囲の人たちの中で育まれてきた。
ゼインが生まれ育ったこれまで、サッカー選手になるまでの物語と右サイドでチャレンジする今──。
躍動感溢れるダイナミックなプレーが、等々力でサポーターを魅了する日はもう間もなくだろう。

ファミリーヒストリー

  東京都町田市生まれ、町田市育ち。日本国籍のイサカ・ゼイン。ゼインの父は、ガーナの首都アクラの隣にあるマディーナという町で生まれ育った。高校時代には、「ドクターになりたい」という夢を持ち、エジプトへ留学。結果的にアメリカ系企業に就職し、それがキッカケで日本に勤務することになる。

 ゼインの母は高校時代から英語の勉強に励んでいたこともあり、後に、ふたりは縁あって日本で出会い、結婚することになる。

 

 2002年の日韓ワールドカップで、日本中がサッカーで盛り上がるなか、当時、5歳だったゼインに「サッカーをやってみたら?」と母が誘ったことがキッカケで、ゼインは町田JFCでサッカーを始めることになる。

 幼稚園の頃の記憶はそこまでハッキリした自分の意志まで思い出すことはできないが、小学生になると、学校の昼休みやクラブでサッカー中心の生活を送るようになった。そのため、年に一度、ガーナに里帰りをする父に、妹はたまに同行することはあったが、ゼイン自身はガーナに行くことがなく、一度だけ後に行った時の記憶が今も鮮明に焼き付いている。

 小学5年生の夏休み、所属するサッカークラブに許可を得て、1ヶ月間、ガーナへ行くことになった。それまでのゼインは、父も来日してから長い年数が経っており、母の英語での通訳が必要な場面もあったが、父もたいていは日本語でコミュニケーションが取れていたし、自分にガーナの血が流れていることに対しての実感がまだあいまいとしていたところもあった。

 ところが、ガーナへ行き、初めて自分の祖母に会い、文化を知り、人と接することで、いい意味でのカルチャーショックを受けることとなったのだという。

「お父さんの実家は平屋でおばあちゃんやお父さんの姉妹も住んでいて、割と大きなところだったんですけど、隣の町に行けば貧しい地域もあり、そういう貧富の差というものを目の当たりにして衝撃的だったので今でも鮮明に覚えています。車に乗っていて、信号で止まると路上販売の人が近づいてくるんですね。僕は言葉もわからないし、お父さんから断ればいいからと言われて、何を言われても『No』と言っていたんです。でも、ある時、キャンディを売っている人が、タダであげると言っているのに、それすらも『No』と言ってしまい、とても残念そうな、切ない表情をされたことがあって。自分が言葉や文化を理解できずそうなってしまったとはいえ、自分に対してすごく悔しくて、その気持ちは今でも覚えています」

 もしかしたら、ゼインが持つ「優しさ」のバックボーンのひとつには、その1ヶ月の体験がベースにあるのではないかな、とふと思った。

「向こうで感じたのは、人の優しさですかね。国でくくったりするものではないし、みんながみんなそうというわけじゃもちろんないですけど、ガーナの人は他の人に対しての無関心なところがなくて、コミュニケーションを取ってくれたり、子供に対しても優しいなという実感はありました。僕はその時に初めておばあちゃんにも会いましたが、すごく優しくしてもらいました。あとは、今でもそうですけど、貧富の差とかどうしたらいいのかなということはずっと考えています」

 ゼインのなかで、ふんわりと実態がなかった自分のルーツが明確に輪郭をもつようになった濃密な1ヶ月だったのかもしれない。

「それまでは、子ども同士で喧嘩になると、最後は『外人』とか言われることもあって、それは、子どもならではの話なんですけど、そう言われると僕も怒ったり悔しい思いをしたこともありましたけど、ガーナに行ってからは、ガーナの血を持っていることに誇りが持てるようになりました」

 そして、こう結んだ。

「もし、生まれ変わってもまたハーフで生まれたいですね」

失望から、前へ進む力

 身体能力にも恵まれ、短距離も長距離もダントツで速かったゼインは、町田JFCで与えられた最初のポジションはセンターバックだった。キック力もあり、スピードもあったので、ボールを後ろからボーンと前線へ送り込めるためである。小学5年からは前線にコンバートされ、得点を決める楽しさも覚えるようになった。

「前になってから、自分が考えてやるというか、点を取るという役目がやっとハッキリしたという感じでしたね」

 そのまま中学時代も同クラブで過ごしたゼインだが、中学時代はクラブの方針もあり技術に磨きをかけた3年間だった。

「ドリブル主体のチームで、中学生の最初の頃は、パス禁止だったぐらい。フォワードだけじゃなくいろんなポジションをやりました。もちろん試合は勝利をめざしていましたが、それよりも内容やスキルアップを大事にするクラブでした」

 部活と違ってグラウンドを使える時間も限られた中、1時間30分、練習に集中した日々。コーンを繰り返しドリブルし、狭いエリア内でボールタッチ、最後はドリブルだけでキープするゲーム形式の練習を積み重ねた。学年が上がると、最後にパスをしてもよい、というルールも付加されたという。

「それまでスピード勝負でしたけど、それだけでは認められないチームだったので、ドリブルのテクニックを磨くためにひたすら練習しました」

 “プロ”を初めて意識したのも中学生の時だった。試合や練習についてサッカーノートを書いて提出するようになり、メンタルトレーニングでは、自分では叶えられないぐらいの大きな夢や目標を設定することを教わった。

「海外で活躍するようなサッカー選手になる」とゼインは書いた。

 町田JFCから桐光学園というのは、いわゆる“王道”の進路で、ゼインも目標にしていたが、簡単に叶ったわけではなかったという。

「中学3年の時に、桐光との練習試合があって、そこがチャンスだと思っていたのですが、前半の途中で交代させられてしまって…。これは無理だなと思いました」

 相手は全国大会でベスト4に行くぐらい力がある高校生のトップクラスである。中学3年のゼインは「手も足も出ない」と絶望すら感じたという。

「その試合の前からパフォーマンスが悪くて、たぶん監督は僕にもっとチャレンジすべきだと思っていたのだと思います。その日は凹みましたし、目標が叶えられないと思いました」

 ところがその後、練習試合などで評価され、結果的には、桐光でゼインの高校生活がスタートする。

 第94回全国高校サッカー選手権大会、桐光学園高校は、キャプテンでエースのFW小川航基(現ジュビロ磐田)を擁し、青森山田と対戦していた。

 自信を持ってやること。強気でやることがゼインの一番の強みだから──。

 鈴木(勝大)監督に言われた言葉を胸に、ゼインは、全国大会の舞台に立っていた。

 この日、桐光学園高校の2点目は、副キャプテンだったゼインのクロスから小川が頭で押し込んだ。勝利は目前だったはずが、終了間際にまさかの2点を決められ、PK戦へ。そこで、エース小川がPKを外し、桐光学園の選手権は終わった。この出来事は、ゼインの心に大きな変化をもたらした。

「それまでは小川が点を取って勝って、自分はその脇でアシストをする、という役割で勝ってきました。あの試合でも、小川が活躍したけれど、PKのこともあってあいつのせいで負けたみたいになってしまって、そういう責任を負わせて、2番手で支えているという立場に甘んじている自分がすごい情けなかった」

 ゼインは悔いていた。

「あいつが上で自分はその下で支える活躍をする……。という役割を自分で決めてしまっていた。エースはあいつだって。もちろん、あいつが点を取って自分が何もできない試合は悔しかったりしたけれど、それをちょっと受け入れてしまっていた自分がいた、と思います。そんなことをしている自分は、ひどいなと失望感がありました」

 試合に負けてそう苛まれていたゼインだったが、同時に先を見る力も捨ててはいなかった。

「大学では、一番になってやる」

イサカ ゼイン選手

父の励ましと責任感

 実は、高校時代にサガン鳥栖の練習にも参加していたゼインだったが、最終的にプロ入りは叶わず、熱心に練習も観に来てくれていた八城修(総監督)に誘われ、桐蔭横浜大学への進学が決まっていた。八城から言われた「関東でやることでスカウトの目にも留まる」という言葉や、八城に感じた熱意、ゼインの実家から通えることもプラスに働き、気持ちは決まった。

 桐蔭横浜大学は、ゼインが4年の時に、リーグ戦で2位になり、最後のインカレで決勝進出を果たすなど、快進撃をみせた。ゼインも注目されたひとりだったが、それまでが順調だったかというと決してそうではなかったという。

 入学当初ゼインが掲げていた課題は「判断のスピードと守備の改善」。「これがラストチャンス。4年間積み上げて、プロになる」という目標を定めた。

 ところが、である。

 「1、2年生の頃は、苦しかったです。試合に使ってもらっても、結果が残せなくて、後期には試合に出られなかったり、ベンチを温める日々が続いたこともありました。学年があがるにつれて、この先自分はどうなるんだろうという不安な気持ちは抱えていました」

 とはいえ、根が真面目なゼインは、そうした自分が置かれた状況に落ち込むことはあっても「やり続ける」ことは決して怠らなかった。

「やっぱり絶対にプロになりたいという目標があったので、出られないから練習で手を抜いたり練習後に大学生らしい生活をしていたら、絶対に夢は叶わないと思ったので、プロになることはあきらめず、毎日過ごしていました。自分が罪悪感を持たないように、やるべきことはきちんとやっていました」

 大学時代、実家の自分の部屋にはテレビをあえて置かなかったという。ストイックというか、真面目に、コツコツと続けることだけが夢へ遠回りでも近づく唯一の手掛かりだった。

 学生時代、実家で過ごせたことは、ゼインにとってプラスに働いた。

 落ち込むゼインを見ると、察した父は決まってポジティブな言葉をかけてくれた。

「自信をもって」

「できるよ」

 そう明るく父に言われると、自信が萎んでいても「やるしかない」という気持ちになった。

 とにかく、コツコツと、できることをやる。そんな日々を送っていた。

 大学3年で選抜に選ばれイタリア遠征でゴールやアシストを決めた経験は、ゼインに「こういう場所で結果を出せたということは、夢が叶えられるんじゃないか」という自信を少し与えてくれた。

 

 そうして迎えた大学4年の年、副キャプテンに就任したゼインは「チームを勝たせるために貢献したい。インカレで優勝して歴史を変えたい」という発言をするようになっていた。

「イタリア遠征の後、大学の中心選手として、自分はやるんだって言い聞かせてやれるようになったように思います。あとは、4年の時は僕だけの力じゃなくて、他の選手たちも就職活動があるなかでチームにかけてくれた。全員が残ったのは初めてのことでした。僕は早い段階で(フロンターレに)内定していましたが、次が決まっていないなかで頑張っているやつのためにも、チームが上に行くことでプロに行ける選手が増えると思って、そうやって恩返しをしたかった」

 関東大学1部リーグでは同校史上最高の2位という成績を残し、ゼインは9アシストでアシスト王を獲得。この時も、「一個下の代とか技術がある選手たちもいて、本当に僕は最後の1プレー、2プレーでクロスやシュートのところをやって結果を残せたところがあったので、そこまではチームメイトのおかげ」と周囲に感謝の言葉を述べた。

「それは、本当に僕にいいボールをまわしてくれた周りのおかげで、その通りだったからそう言ったんです」とゼインは素直にそう振り返った。

 そして、12月、4年生にとって最後であり、初となるインカレが始まった。

 インカレが始まる前日、4年生の呼びかけで選手だけでミーティングをした。試合に出られるのは、一握り。4年生はその結束力から全員がチームに残ったが、レギュラーはほんの3、4人。出られない選手たちもそこで、自分の熱い思いをぶつけ、いつしか、涙、涙のミーティングになった。

「最初は、半分あきらめながらも、“日本一になろう”って言っていたんです。シンプルに仲がよかった代でしたし、残ってくれたみんなには感謝です」

 2回戦から出場し、準々決勝、準決勝を快進撃で突破すると、決勝は、3冠を狙う明治大学との対戦となった。90分引き分け延長に入り、先制したのは桐蔭横浜大学だったが、結果的に1対3で完敗だった。

 試合後の集合写真を見ると、大学最後の試合が終わり、吹っ切れて笑顔でおさまっている記念写真で、ゼインひとりだけ、悔しそうな真顔でうつっている。

「インカレ自体、ずっとアシストもゴールもなく、チームを勝たせるための貢献ができず、明治には絶対に負けたくなかったんですけど、最後もパフォーマンスが出せず悔しかったです。4年間やってきて最後負けてしまって応援してくれた4年生にも申し訳なかった。同期のために戦ってきた1年間でした。大学時代に学んだことは、結局は自分の気持ち次第で変わること。自信をもってやること。コツコツやることをやめないこと。写真で笑えなかったのは、その時、次、フロンターレが決まっていた自分はこのままではいけないっていう思いがあったからだと記憶しています」

 

 高校の時も、大学の時も、節目で自分を見つめ、このままじゃいけない、と自分を奮い立たせてきた。

サイドバックの挑戦

 大学サッカー界を席巻していた順天堂大学の旗手怜央とフロンターレU-18出身で筑波大学の三笘薫のアタッカー2名のフロンターレ内定は、すでに2018年7月に発表されていた。

 フロンターレのスカウト担当向島 建は、引き続きスカウティング活動をしていた。そんななか、大学選抜やリーグ戦で3年生から結果を残し始めてきたゼインの躍動感溢れるプレーを見ていくなかで、心のなかでふとよぎったのが、チームとして探していたポジションのひとつである右サイドバックでもやれるのではないか、という思いだった。それは、向島の心の中でだけ、留めておいた。

 ゼインが所属する桐蔭横浜大学は、度々フロンターレと練習試合をする機会もあったし、また、フロンターレ側のメンバーに選手が加わることもあった。そうしたなか、2018年12月14日のこと、FC岐阜との練習試合がゼインの将来を決める転機になることをまだこの時、本人は全く気づいていなかった。この練習試合で、ゼインはフロンターレ側のメンバーとして右サイドバックで出場することになる。向島、そしてフロンターレは、トライアルの意味合いで起用したが、ゼインは、そのようなチャンスであることは知らず、新鮮な気持ちでプレーに集中することができた。

「当時は、まったくわからなかったのですが、それで過度な緊張をすることなくプレーができて、それが今につながっているので、知らずにプレーできてよかったです。何度かフロンターレには参加させてもらう機会がありましたが、当時はただただ、シンプルにすごいなと思って選手たちを見ていました。ケンゴさんのスルーパス、アキさんの右手のブロックする力、2年の時は大久保選手もいましたが、要求とか点をとにかく取るところ、すごいなと。刺激ではありましたが、それよりもひとつ上のレベルの人たちだなと思っていました」

 フロンターレは、ゼインのサイドバックでのプレーの可能性についても残そうというなかで、スカウティング活動を継続することとなった。

「前の選手は人数的にも豊富でしたし、前年に同期のカオルとレオがすでに決まっていたなかで、僕としてはゼインのポテンシャルは感じていましたし、高校時代から順調に成長している姿も見てきたし、身体能力、ハーフならではの躍動感にはいいイメージがありました。もちろん中盤や前で力があることは十分にわかっていましたが、それに加えて、サイドバックでもチャレンジしてみることもできるんじゃないか? という思いはずっと持っていました。ただ、本人がそれについてどう思うかという部分は大切にしたいと思っていたので、そのあたりは慎重に本人とコミュニケーションを取ろうと思っていましたね」(向島)

 2019年3月17日、第16回デンソーカップサッカー大学日韓定期戦、この年は韓国開催で行われ、ゼインもその遠征に参加していた。後半終了間際に先制点を決めていた旗手怜央に代わってゼインは出場したが、結果的に1対2で韓国に敗戦。日本に帰るなか、ゼインは自分のパフォーマンスにダメ出しをし、「このままじゃまずい」と落ち込んでいた。落ち込むゼインに父は、いつものように「自信をもってやりなさい」と笑顔で励ましてくれた。

 3月20日、桐蔭横浜大学のサッカー部の部室に八城総監督、安武亨監督とゼイン、向島が顔を揃えた。そこでフロンターレは正式にオファーを出した。

 ゼインは、その日、家に帰って両親に報告をした。落ち込むゼインを励ましたばかりだった父は、「だから言ったでしょ」と、してやったりの笑顔をみせ、そんな父を見て、ゼインも笑ってしまった。

「まさかオファーが来るとは思っていなかったので、びっくりしましたし、もちろんうれしかった。でも、相当な努力をしないといけないと思いました。ちょうど自分の調子を落としていた時期でもあったので」

 また、気持ちを引き締めた。

 2019年4月、イサカ・ゼインのフロンターレ加入内定が発表された。

 ゼインに声をかけ育ててきた桐蔭横浜大学サッカー部総監督の八城も当時を振り返り「(フロンターレからの)オファーは、私としてもものすごく嬉しかったですよ」と振り返る。高校3年の頃に知り合ったゼインが大学で成長して、プロ選手としてフロンターレに入ることになったことは感慨深いと、ゼインの大学時代について話してくれた。

「最初に見たのは高校3年の時でしたが、プレーは粗削りで正直まだまだだなと思いましたが、真面目でチームを引っ張るメンタルを見て、彼なら間違いなく伸びるだろうと思い声を掛けました。大学1、2年の頃は、試合に出るチャンスはありましたが、確固たるレギュラーではなく、能力はあったけれど、ミスもあって、ムラがありました。変化があったのは3年の時で、攻撃がクローズアップされがちですが、守備のハードワークができるようになり、それと連動するようにプレーの質も変わって4年になって本来の持ち味のダイナミックさ、一瞬のスピードも磨きがかり、攻撃の判断もよくなって、持っていた能力が開花した印象です」

 その理由は、ゼインのメンタルからくるものだと八城が明かしてくれた。

「1、2年の頃は試合に出て活躍したい、という思いで悩んでいたと思いますが、責任感が強いタイプなので、4年になりチームを引っ張ることが必要になり、プロ入りも決まり、チームのために何をすべきかが明確になって、悩みも吹っ切れたんだと思います。チームを勝たせたいという思いがゼイン自身の殻を破ったんですよね」

 「やり続けることを大学時代に学んだ」と大学時代を振り返ったゼインだったが、そういうゼインの姿が八城の言葉から浮き彫りになる。

「本当にまじめすぎるぐらいまじめでしたね。残って練習もしていたし、ウエイトトレーニングなどにも取り組んでいたようです。チームのために普通は言うのが嫌だなと思うようなことも言えるようなやつでした。なかなかそれができる人はいないと思いますが、よくしたいという信念が彼にはありましたね。チームメイトも、そういうゼインの性格を理解していたし、彼が試合ではものすごくハードワークしてチームのために戦っていたのもみんな知っていました」

 そういうゼインの成長を見守ってきた八城にとって、フロンターレ入りの吉報が、どれだけ嬉しかったか想像できるだろう。

「最初はどうなるかわからない“素材”が、素材のままで終わるのではなく、しっかりサッカー選手になった。3年生ぐらいまでは、J1でやれる実力にまだなかったと思いますし、才能があっても開花しないで終わってしまう選手もいるなかで、よく伸びてくれたなと思います。だから、フロンターレからオファーが来たとき、ちゃんと見てもらっていて評価されたんだなとうれしかったですね」(八城)

 フロンターレスカウトの向島が学生を採用する際に一番大事にしているのは、「人間力」の部分であり、フロンターレに行きたいと自分自身で決断する気持ちを尊重している。だからこそ、前述した新たなポジションにもチャレンジする気持ちがあるか、という部分も、本人の意思確認を慎重に行ったのだと話してくれた。

「ポジションが変わる可能性があることは誰しも不安はあるだろうし、たくさん吸収しなければいけないこともでてきます。フロンターレの選手層を考えると、すぐにチャンスが来ないかもしれないですが、それでも自分でちゃんと決めて入った選手は踏ん張れる力がある。ゼインは真面目さ、人間性、信頼性などは申し分ない。だからきっとこれから先も頑張るだろうし、本来持っているゼインならではの躍動感溢れるプレーでどんな風にピッチで輝くか、私も楽しみです」(向島)

 ゼインは今、新しいポジションに向き合って、日々がむしゃらに、コツコツと取り組み、周りから様々なものを吸収し、1日1日を大切に過ごしている。もちろん同期の活躍には刺激や悔しさもある。それでも自分に与えられた場所で、やるべきことを実直にやり続けることが自分にできることだとわかっている。

「フロンターレでサイドバックでチャレンジする可能性があるという話を加入前に最初に聞いた時から、頂いたお話にはチャレンジしたいという前向きな気持ちでした。その気持ちは今でもずっと変わらないです。自分の引き出しとしてサイドバックもできれば強みになるだろうし、加入当初よりもわかることも増えてきました。自分の強みである突破や速さに加えて、技術面でも長けた選手になりたくてフロンターレに来ました。大変だし、難しいこともありますけど、全部自分のためになると思っています。
ノボリくんのプレーは自分の理想に近いです。突破力も、戦術眼もあって、見習ってよく話をさせてもらっています。今、僕はまだ試合に絡めていない状況だし、力の差や上手さの差があると思います。でも、これを乗り越えれられれば絶対に自分がまた成長できると思っています。カオルやレオの活躍は悔しいですけど、自分は自分だし、自分を磨いて大切に過ごしていきたい」

 ゼインの名前は、ガーナで「Grace(恵)」を意味する言葉が由来となっている。家族だけでなく、ゼインと関わってきた人たちが温かく彼のこれからを案じているのは、彼と歩んだ道程において、その人間性に触れてきたゆえだろう。その眼差しは、ゼインの未来が「恵」多きものになるよう、祈っているようだ。

profile
[いさか・ぜいん]

スピードを生かした突破力が武器のサイドプレーヤー。フロンターレとの練習試合でフロントの目に留まり加入の運びとなったラッキーボーイでもある。大学時代は主にサイドハーフでプレーしていたが、フロンターレではDFとして育成予定。攻撃的サイドバックとしての潜在能力を開花させてもらいたい。

1997年5月29日、東京都町田市生まれ
ニックネーム:ゼイン

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