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  • ピックアッププレイヤー 2020-vol.12 / レアンドロ ダミアン選手

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恵みある人生を

FW9/レアンドロ ダミアン選手

ゴールの先にあるもの。

テキスト/いしかわ ごう 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Ishikawa Go photo by Ohori Suguru (Official)

188cm/90kg。恵まれた体躯を生かしたダイナミックなプレーと、ブラジルらしいテクニックを兼ね備えた大型ストライカーは、ストリートサッカーからブラジル代表に上り詰めた異色の経歴で知られている。そんな彼の歩んできた道、そして川崎で目指すものを探っていこう。

  レアンドロ ダミアンの生まれはパラナ州の田舎町だ。

 小さい頃から活発な少年で、本人曰く「子供らしい子供」だったという。サンパウロに引っ越したのは、まだ4歳の頃。ただそこは、サンパウロの貧困街であるジャルジン・アンジェラ地区だった。

「ギャングの抗争があったりと、そういう危険な地域でしたよ」と本人はあっけらかんと語る。日本で生活していると、なかなか想像できない環境である。何かデンジャラスなエピソードはないのかと尋ねてみると、幼少期の日常をユーモアを交えてこんな風に話す。

「ギャングの抗争が日常茶飯事だったので、銃弾が家まで飛んできたりするのに気をつけながら生活していました。朝、起きて学校に行くときは、死んだ方が道路に転がっていたこともありましたよ。同じようにならないように生活していましたね(笑)」

 もはや丸山ゴンザレスが潜入取材する世界である。そして幼少期の彼が進む方向を少し間違えていたら、まるで違う道に進んでいてもおかしくなかったであろうことも想像がつく。しかしダミアンは決して道を踏み間違えなかった。

 そこには、男手ひとつで兄弟3人を育ててくれた父親・ナタリーノさんの存在がある。少年は「寄り道をせずに帰ること」というシンプルな父の教えを守り続けた。

「小さい頃によく言われたのは、学校の行き帰りは道路で遊ぶのではなくて、ちゃんと学校に行ってまっすぐ帰ってくること。それはよく言われました。正しい方向性でやっていたと思います…… 学校ではよく友達とケンカをしてましたが(笑)」

 父の話題になると、ダミアンの口から感謝の言葉が尽きることはない。

「今の自分があるのは、父が正しい方向に導いてくれたお陰です。父は常に自分のことを考えてくれて尽くしてくれていました。現在は仕事も引退してますが、今は自分が父をサポートできていると思っています」

 ブラジルの多くの少年がそうであるように、ダミアンもボールで遊んでいる延長で自然とサッカーに夢中になった。次第にアマチュアの試合にも参加するようになっている。当時はFWだけではなくGKやDFも経験したが、一番好きなポジションはやはりFW。少年時代のアイドルであるロナウドに憧れて、ストライカーであり続けた。

 サッカー大国のブラジルでは、才能ある原石たちはプロクラブの下部組織に入り、そこで切磋琢磨しながらその才能を競い合っていくのが常だ。ブラジル代表にまで登りつめるような選手は、ネイマールのように下部組織からエリートとして育て上げられたタイプも珍しくない。

 しかしダミアンは、そうしたキャリアとは無縁だった。

 プロクラブの下部組織に在籍した経験はなし。サッカースクールにも通ったことがなかった。ストリートでサッカーをして、週末になれば地元のアマチュアチームでおこづかい稼ぎで助っ人をする。そして彼女として付き合っていた現在の夫人とデートする費用に充てた。そんな日常を過ごす15歳の少年だったのである。

「1日3試合、アマチュアの試合に参加してました。学生でもありましたから、少しおこづかい程度にもらう感覚でサッカーをしていましたよ。その中で、自分の価値を見出すことも出来ましたが、あくまで週末にサッカーができるんだと思って楽しんでいました」

 もちろん、プロサッカー選手は目指していた。ただ当時は体の線が細く、将来性も見込めなかったのだろう。入団のセレクションはことごとく不合格だった。少年ながらにショックはあったはずである。落ち込んだり、自分の夢を諦めたりはしなかったのだろうか。

「テストを通らなくても、次のテストは必ず受かると信じてやっていました。それにサッカー選手がダメであれば、何か他の仕事をすれば良いと思っていました。特に気にせず落ち込むこともありませんでした」

 今回のインタビューをしていて感じたのだが、ダミアンの物事の捉え方やそこで発する言葉は、ごく楽観的だ。周囲と比べて、自分に劣等感を抱いたりすることもない。「なんとかなるさ」精神とでも言えば良いのだろうか。どんな状況でも、常にポジティブである。

「そうかもしれませんね。基本的には楽観的です。いろんなことを気にしないですし、起きたことに対して考えるようにしています。小さい頃からサッカー選手になれると思って自信を持ちながらやって来ました。そして、それが今の自分のサッカー選手としてのキャリアになっていると思います」

 そんな彼にターニングポイントが訪れる。セレクションは落ち続けていたが、17歳の時、サンタ・カタリーナ州のアトレチコ・イビラマという小さなクラブと契約を果たしたのだ。ブラジルでの最低賃金の契約だったというが、サッカー選手になれた現実が、とにかく嬉しかった。

「感動した瞬間でした。ものすごく嬉しい気持ちでいっぱいでしたね。プロになるというのは、サッカーをやっている子供達にすれば夢です。そこにたどり着けた瞬間でした。嬉しすぎて、契約内容や給料もほとんど見ていません(笑)。初めての給料は父に全額渡しましたね」

 小さいクラブであり、将来を渇望されて契約したわけではない。しかしプロの指導者のもとで練習するのが初めての経験で、彼らのアドバイスを聞きながら、メキメキと力をつけていった。チーム練習が終わった後にも、自主トレーニングを怠らない。そこからドーゼ・デ・オウトゥブロ、CNマルシリオ・ジアス、CAツバランと3クラブを渡り歩く中で、キャリアをステップアップしていく。自分に対する要求も高めながら、プロサッカー選手として日々成長を遂げていった。

 そして19歳の時に、名門クラブであるSCインテルナイシオナルに移籍。ブラジル全土に名を知られるようになるダミアンのストーリーは、ここから本格的に始まっていくのである。

レアンドロ ダミアン選手

「自分にとって素晴らしいスタートでした。ビッグクラブで大きな大会に出場することもありましたし、試合数も数多くこなせました。自分にとっても最高と言っても良い場所だったと思います」

 もっとも、すぐにインテルで活躍できたわけではない。

 まだ荒削りだったダミアンは、下部組織となるインテルナシオナルBの所属となり、基礎技術を徹底的に身につけている。この時に彼を磨き上げた指導者が、元フットサルの名選手だったオルチスだった。苦手な左足のキックの改善、サイズを生かすポストワークの技術、ヘディングの正確性……

「動き方だったり、彼からは本当にたくさんのことを学びました」とダミアンは振り返る。大柄な体格なダミアンだが、実はヒールシュートなど足元を器用に利用したゴールパターンも目立つ。ストライカーとして発揮している現在のプレースタイルは、この時期に形成されたものだと言っても良い。

 インテルでのポジション競争は過酷だった。ストライカーが求められるのは常にゴールだ。いざ出番が来ても、それを結果に直結させるのは簡単ではない。それでも、ダミアンは決してめげなかった。

「インテルには有名な選手がたくさんいましたし、そういう選手たちからポジションを取るのはそこれまで以上に大変でした。ただやはりチームメートどうこうではなく、自分自身だと思っています。自分ができることを精一杯やる。そしてチャンスがあれば、そのチャンスを生かすんだと、自分の中で信じてやり続けていました。もちろん、自分のできることというのはゴールです。試合に出たらゴールという形で表現したかった」

 ゴールを決めると、多彩なパフォーマンスで観客を楽しませてくれるダミアンだが、定番といえば、やはり“髭”のゴールパフォーマンスだろう。両手の人差し指と中指を鼻の近くに持っていく日本でもおなじみのポーズは、“髭”が特徴的な父親への敬意を示しましたものである。やり始めたのはこのインテル時代からで、常にスタジアムに駆けつけてくれていた父親に向けて行ったものだ。

 そしてダミアンを一気に有名にしたのが、2010年のコパ・リベルタドーレス決勝でのゴールである。南米大陸のクラブ王者を決めるこの大会の決勝戦は、クラブ公式ホームページの「サッカー人生で一番嬉しかった試合」という質問の回答にあげている試合でもある。

「誰もが望んで出場する大きな大会の一つですし、自分も出場してゴールで歴史に名を刻めました。そこに関わられたことは嬉しかったです」

 決勝の相手は、メキシコのグアダラハラだった。第1戦を2-1で制し、本拠地で迎えたその第2戦。先制された後に同点に追いつき、1-1のスコアで途中出場したのがダミアンである。そして投入からわずか2分後に決勝ゴールを挙げたのだ。そして、インテルナシオナルは南米王者に輝く。

 この活躍によって、レアンドロ ダミアンの名前は南米中に知れ渡ることとなった。そしてそのままスターダムを駆け上がっていく。

 翌年2011年3月には、ブラジル代表の一員として国際親善試合のスコットランド代表戦に出場。入団セレクションに通らず、アマチュアでサッカーを続いていた男がセレソンにまでたどり着いたシンデレラストーリーとなった。

 サッカー大国・ブラジルで国を背負ってプレーするということ。そして、セレソンのユニフォームを着る重みは、言葉では言い表せない感情だった。自分だけではない。家族も込み上げるものがあったと話す。

「ブラジルでサッカーをやっている子供達は、皆、代表に選ばれるという夢を見ています。自分の育った環境からブラジル代表にたどり着けたことは、自分自身、とても感動した瞬間でもありました。家族もそうです。父はブラジル代表のユニフォームを着てプレーする自分の姿を見て、涙を流していました」

 では、夢を叶えるために必要なものは何なのだろうか。ダミアンの回答はシンプルだ。

「自分を信じて、自分の夢にたどり着けるんだと自分に言い続けることです。自分に対する要求をしっかりとしながら、トレーニングを積んでいったことが夢にたどり着いた一番の要因だったと思います」

 自分を信じて、努力をし続ける。

 それがどんな環境であっても、彼は常に逃げずに立ち向かってきたのだろう。

 ブラジルでは、サポーターやメディアからのプレッシャーも日本の比ではない。試合に負ければ、自宅から出られないほどだ。ブラジルでのサッカー選手は、それぐらいメンタル面でもタフでないとやっていけないとも言える。ただ、どれだけの逆境でも、それで自分がブレることも決してない。ダミアンの口調はいつも穏やかだが、その言葉には、自分を真ん中をまっすぐ貫いている信念が感じられる。きっと彼は、そうやって自分を信じてずっと突き進んできたのだ。

 2012年には、U-23ブラジル代表としてロンドン五輪に出場。

 川崎フロンターレにも在籍していたフッキや、ネイマールなどそうそうたる顔ぶれとともに金メダルを目指した。結果は準優勝となったが、6得点のダミアンは大会得点王に輝いている。この時期はA代表では18試合に出場し3得点を記録。すでにレアンドロ ダミアンといえば、ヨーロッパ市場でもビッグクラブが注目する人気銘柄となっていた。

  ところが、2013年夏。

 2014年に控えた自国のワールドカップブラジル大会を見据えたコンフェデレーションズカップ直前でのこと。そのストライカー候補としての期待もかかっていたのだが、太もも裏の重度の肉離れにより、代表からの離脱を余儀なくされてしまったのだ。この時の出来事を話すときは、さすがに表情が曇った。

「とても残念でした。コンフェデではスタメンで出るはずが、怪我をして代表からも外れてしまい、すごく悲しかったです。時間が経つにつれて気持ちを切り替えて、以前と同じようにプレーできるように復帰しようと誓いましたが、怪我した瞬間は本当に残念で、悲しい気持ちでいっぱいでした」

 そしてこの怪我を境に、順調だったはずのキャリアの歯車が狂い始めてしまう。

 代表からも外れ、徐々に表舞台からも遠ざかっている。サントスFC、クルゼイロECと移籍し、そして2016年にはスペインのレアル・ベティスでもプレーをするが、思うような結果は残せていない。特に初の海外挑戦となったベティスでは、ディフェンシブなスタイルを志向するチームの適応に苦しんだ。

「本当にいろんなことを学びました。なかなかチャンスがもらえなかったり、ディフェンスで要求されることも多いチームでした。チームとして残留争いをするシーズンを過ごしていたので、戦術のところでもディフェンスでより力を発揮しないといけませんでした。良い意味で、いろんなことを学んだ時期でした」

 その後はブラジルに戻り、フラメンゴやサントスでプレーした後、再び古巣のインテルナシオナルに。2部リーグではあったが、公式戦35試合15ゴールを記録と復調の兆しを見せる。1部昇格に貢献すると、2018年は26試合に出場し10ゴールを記録。そこには、かつての輝きをしっかりと取り戻したレアンドロ ダミアンがいた。

 日本からオファーが届いたのは、そんな完全復活を遂げた矢先のタイミングだった。シーズン後、いくつかのクラブから話があったが、日本のチャンピオンチームからの獲得の申し出は、彼の中で挑戦心を掻き立てられる内容だったようだ。

「オファーが来たのは、多分11月だと思います。川崎フロンターレを調べたところ、2年連続でチャンピオンになっているチームでした。そして素晴らしい選手がいると聞いていました。話をもらった時は、とても嬉しかったです」

 ただ即決はしていない。反対側の国でプレーする決断までには少しだけ時間がかかったという。

「家族も海外で暮らしたいという思いがありましたが、日本というのは、最初はちょっと驚いていた様子でした。やはりブラジルからは遠いですから。ただ自分も奥さんもそうですが、日本でプレーした選手の話や、奥さん同士の評判を共有していて、やはり素晴らしい国だとわかりました。金額ではなく、人としてどういう生活をしていきたいのか。それを家族と考えて決断しました」

 そしてその年の12月14日、川崎フロンターレの完全移籍が発表された。

3年連続チャンピオンを目指すチームが、元ブラジル代表FWを獲得したことは大きな話題となった。お披露目となった翌年の新体制発表会見では、バーミヤンのロゴマークである桃の中から、マカダミアナッツチョコを持って登場し、サポーターを沸かせている。

 ピッチでのデビューも上々で、富士ゼロックススーパーカップの浦和レッズ戦では、後半7分に豪快なダイレクトボレーで来日初ゴールを記録。強烈なインパクトを残し、カップ戦初タイトルに導いている。この年はリーグ3連覇こそ逃したが、ルヴァンカップを初制覇。自身のパフォーマンスを含めて満足はしていないだろうが、チームに貢献できた自負はある。

「チームの力になることができたと思ってます。シーズンに入るタイミングのカップ戦で、自分のゴールでタイトルを取ることができましたし、ルヴァンカップも含めて2冠を取ることができました。いろんなことも学びましたが、良いシーズンだったと思っています」

 そして2020年。

 チームはフォーメーションを4-3-3に変えて、新しいスタイルに着手。コロナによる中断期間はあったが、センターフォワードを務めるダミアンは、攻撃陣の柱として機能しながら得点源としても欠かせない存在だ。Jリーグの記録を塗り替えるほどの連勝記録を見せたチームは、早い時期から首位を独走。驚異的なペースで勝ち点を積み重ね続けている。

「今シーズンは異例ですが、チーム全体で団結した素晴らしいチームになっていますし、それを結果として表現できています。川崎フロンターレとして新しい歴史を塗り替えることができると思っています」

 圧倒的な得点力を見せる攻撃陣の最前列には、ダミアンの姿がある。

 自身がゴールを決めて勝利した試合後、決まって口にするのが「自分のゴールより、チームが勝利したことが嬉しいです」という言葉だ。あるときは、得点王よりもチームタイトルが欲しいと言い切っている。

「自分にとって、得点王というのはあまり意識がありません。ゴールという結果でチームに良い結果をもたらすことができるのがより良いことで、個人タイトルよりも、チームのタイトルを取りたいと思っています。もし得点王と優勝を選べるなら、自分は優勝を選びます」

 では、ダミアンにとってゴールとは、一体何なのだろうか。

「ゴールはみんなのものだと思っています」

 自分だけで噛み締めるのではなく、みんなと喜びを分かち合うためのもの。そしてゴールを決めた先にある、歓喜の景色を見ることこそ、彼のゴールへの原動力なのである。

「自分のゴールでチームに結果をもたらす。ゴールでサポーターが喜んでもらえることに、自分も喜びを感じるんです。今までずっとそうやってきました。インテルナシオナルでもたくさんのゴールとタイトルをもたらすことができて、サポーターも喜んでくれました。それが今、表現できていると思っています。フロンターレのサポーターにも喜んでもらいたいので、ピッチの中で最後まで走り続けたいと思います」

 みんなと喜ぶ景色を見るために。

 そんな思いを強く抱えながら、レアンドロ ダミアンは、今日もゴールを目指していく。

profile
[れあんどろ・だみあん]

来日2年目を迎える大型ブラジル人ストライカー。元ブラジル代表、ロンドン五輪得点王の名に違わぬ決定力が最大の武器。つねにゴールを意識した動き出しや周りを使ったコンビネーション、さらにアクロバティックなシュート、高い打点のヘディングで得点を狙う。

1989年7月22日、ブラジル、パラナ州生まれ
ニックネーム:ダミアン

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