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  • ピックアッププレイヤー 2020-vol.14 / 神谷 凱士選手

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恵みある人生を

DF26/神谷 凱士選手

パスサッカーに導かれた凱士の挑戦

テキスト/高澤真輝(エルゴラッソ) 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Takazawa Shinki photo by Ohori Suguru (Official)

「左足1本でここまで来た」。新体制発表会見でそう話していたレフティーの神谷凱士がフロンターレに加入して11カ月。同期の三笘薫や旗手怜央が公式戦のピッチで躍動している中、まだピッチに立つことはできていないが、麻生グラウンドでトレーニングに取り組む真摯な姿勢で確かな成長の歩みを進めている。

 そんな神谷凱士がサッカーに出会ったのは小学4年生のとき。双子の弟・椋士(現カマタマーレ讃岐)が所属していた少年団の練習を見学しにグラウンドに足を運んだ日だった。

「小学校低学年のときはソフトボールをやっていました。ボールを投げるのはあんまり好きじゃなかったけどバットでボールを打つのが好きでした(笑)。当時はサッカーをやるつもりはなかったんですけど、そのときの体験練習に参加したら、すごく楽しかったんです」

一瞬でサッカーの虜になった神谷凱士はすぐに少年団に入団。学校が終われば公園へと向かい来る日も来る日もサッカーボールを蹴って弟や友達と遊んだ。当時のプレースタイルは俊足と高身長を生かしてプレーするゴリゴリ系で、現在とは異なりFWで得点を量産するストライカー。弟の椋士も同じポジションだったため毎試合のように喧嘩をして「今では言えないようなことを言い合っていた(笑)」のは懐かしい思い出だ。これが22年間もの間、続く椋士とのプレーの始まりだった。

中学生になるとホペイロ刈谷に入団。実は中学校のサッカー部に入ろうと考えていたのだが、クラブチームのスタッフに熱いラブコールを受けて再び弟と同じチームでプレーすることに。この選択は後に神谷凱士のストロングとなる左足が磨かれるキッカケとなった。当時の監督である元Jリーガーの矢野隼人さんが志向していたのはポゼッションサッカー。練習も足元の技術を高めるためのメニュー中心だった。

「フロンターレみたいにボールを大事にするチームでした。よくバルセロナの試合を見せられたりしていましたね。練習も始まって1時間くらいはずっとドリブルして、パス練習、ポゼッションなどをやっていました。本当に中学校は楽しかったです」

この練習で足元の技術が向上。特徴である左足を磨く原点となり、ボールをつなぐ新たなサッカーの楽しさを感じていく。そして弟が愛知県のトレセンに選ばれ、人生で初めて先を越されてしまう悔しさを味わい「もっと上手くなりたい」と必死に練習から向上心を持ってプレーするようにもなった。振り返れば中学校での3年間は神谷凱士のサッカーキャリアの中で大きな分岐点となった時間だった。

そして中学3年生時には高校サッカーの名門の四日市中央工業高校から声が掛かるほどの選手にまで知名度を上げていった。しかし、県外に出ることへの抵抗もあり選択したのは地元・東海学園大学高校への進学。また弟と2人での特待生待遇ということもあり、これ以上ない形で入学を決意した。ここでの経験は神谷が苦笑いを浮かべるほど精神力が鍛えられるものになった。

「本当に高校は厳しかったですよ(笑)。上下関係もあるし遅刻したら連帯責任でした。あと一番キツかったのは走りだけの合宿。心が折れますよ(笑)。朝の5時半にスタートして、めちゃくちゃ長い100段くらいある階段のダッシュ10本とか。すっごいキツかった(笑)。でも、すごく鍛えられましたね」

東海学園高校もポゼッションサッカーを軸に戦うスタイルであり神谷はボランチでプレー。椋士、光崎伸(元清水)と切磋琢磨をしながら技術面を向上させるために努力を続けていった。その中には苦い記憶もある。高校3年生のときに出場したインターハイの1回戦でPK戦となり、自らが外して敗退するという悔しさだ。一時はトラウマになるほどショックだったが、それを乗り越えて自分自身と向き合って練習に励んでいった。

「高校サッカーは人間としても成長できると改めて感じさせられました。監督も人間性を重視する方だったのもあって、人間的に成長することができました。サッカーは、サッカーですごく辛いこともありましたが、メンタル面で成長できた3年間でした」

まだ、この頃の神谷は技術的にも全国レベルというわけではなく「サッカー選手になれる感覚はなかった」。大学も強豪校には行かなくてもいいかなとも思っていたという。だが、東海学園大学の試合を見たら一気に考えが変わった。「すごく自分に合っているサッカーをしていたんです。自分がやりたいサッカーをやっていたところに魅力を感じました」。それは、今まで最大の楽しさを感じていたポゼッションサッカーだった。

「やっぱり自分たちでボールを回しているときが一番楽しい。前に蹴るサッカーではなくて、ボールをつないで見ている人たちを魅了するサッカーが好きだったんです」

そして大学に進学するとポジションがSB、CBにコンバートされて神谷の才能が開花される。当初こそは高校とのプレー強度の違いから「判断の早さを考えさせられました。大学1年のときにトップチームに入ってやらせてもらったけど、4年生と一緒にプレーするとゲームスピードに違いがあって最初は戸惑いもあって全然プレーできなかった」が、次第に左足で最終ラインから一気にチャンスを創り出すパスなどを駆使し、ピッチ上で輝きを放っていく。

「ボールを持ったときに相手と相手の間に付けるパスをよく練習していました。ボランチをやっていたときは長い距離の縦パスとかはなかったけどCBは長い距離の縦パスが多くなってくる。そこで僕からのパスでトップ下やFWに付けて状況を一転させたり、一気に攻撃のスイッチが入れるようなプレーが快感ですごく楽しかった。あの当時はゴールよりもアシストのほうが嬉しかったです(笑)。僕の1本のパスで勝負を決めるというか、ずっとアシストを狙うようになっていました」

そんなハイパフォーマンスが向島建スカウトの目に留まったのは19年にベストイレブンに選出されたデンソーカップ。3試合中3試合すべて異なるポジションをこなせるユーティリティ性を示して全国でも通用することを証明した大会だ。

「これまで個人タイトルを一回ももらったことがなかったのですが、この大会で建さん(向島スカウト)に声を掛けてもらいました。1試合目は左SBで2試合目がCBで3試合目がボランチをやって、普通に3つのポジションを思った以上にできちゃいました(笑)。複数ポジションができたのはデカかったのかなと。あと、自分としては全国の舞台で自分らしいプレーができたのは自信になりましたね」

神谷 凱士選手

中でもチームの武器となっていたのが神谷凱士のフィードからFWの椋士が決める“神谷ツインズ”最大の十八番だ。

「椋士だから、ここに走っているという感覚でパスを出していました。そしたら実際に走っているみたいなのが結構ありました。他の人とは違う感覚があって、椋士に出したパスは無意識なんです。あまり考えていなくて、自分でもなんでここに出したのか分からない、みたいな不思議な感じでしたね」

大学生活最後の試合となった19年の大学選手権・2回戦で敗れはしたものの同様の形から椋士が見事にゴールを決めて最高の思い出となった。言葉を交わさなくても意思疎通ができる最高の相棒だった弟の椋士とプレーした思い出は神谷凱士にとって忘れられないものである。

「椋士に誘われなければサッカーはやっていませんでした。振り返ると自分の分岐点に必ず椋士がいましたし、感謝したいです。それに小学校から大学までずっとサッカーをしてきて、いろいろ喧嘩をしたりもしたけど、本当に一緒にいてすごく安心する感覚もありました。いまは一緒にサッカーはやっていないけど、いずれはまた一緒のチームでサッカーができたらいいなと思っています」

そして椋士はカマタマーレ讃岐へ、凱士は大学時代から「このチームに行きたいと思っていた」クラブであるフロンターレへ入団し、それぞれがJリーガーの道へと進んだ。

 「色々なチームから声を掛けてもらったけど、フロンターレから声を掛けてもらったときの嬉しさは格別でした。日本を代表するチームだし、自分のプレースタイルにも合っている。そういうチームに行きたいと大学の頃から思っていたので、まさかフロンターレから声が掛かるとは思っていなかったので本当に嬉しかったです」

そんな最高のテンションで、フロンターレに踏み込むと待っていたのは「絶望だった……」。キャンプのときから周りのレベルに付いていけずミスを連発。ボールを“止める・蹴る”という基本技術も圧倒的レベルの高さを突きつけられた。今まで目の前に立ちはだかったことのない高い壁にぶち当たり、身を持ってプロの厳しさを感じさせられたのだ。

「いざ入ってみると全然ダメでしたね…。初めてサッカーでこんなにも悩んだと思う。ここまで色々上手くいきすぎたというか、そんなにサッカーで悩まされることはなかったけどプロの世界は違うなと痛感しました。大学のときの判断では遅かったですし、逆に(旗手)怜央とか(三笘)薫は普通にできているのが本当にすごい。2人は1年目から試合に出ているのに、同期の俺が試合に出られなくて悔しい。でもそこで焦って色々と疎かにしてしまうのは絶対にダメ。大学のときと同じように足りない部分を補いながらやっていきたいです」

だからこそ、神谷は必ず居残り練習に励む。「まだ僕は若いし、歳を重ねるとできなくなることもあると思う。だから今できることをしっかり詰めて色々な経験をして頑張っていきたい」と今までやってこなかったワンタッチパスや一つひとつのトラップ、苦手だった右足も積極的に磨いて前向きに自分自身と向き合っている。そして分からないことがあれば、先輩の谷口彰悟や山村和也からアドバイスを聞いて噛み砕いて結論を出す。それを繰り返し、どうすればレベルアップできるのか試行錯誤をして日々自分と向き合っている。

その成果もあって、最近は練習中も好プレーを見せている。周りがよく見えていて冷静にビルドアップに加われるようになったし、守備の対応も向上した。練習試合後には鬼木達監督から「良くなってきてるよ」と褒められるほどのパフォーマンスを披露出来るようになった。ただ、「まだスタートラインにも立っていない。成長している感覚は少しあるけど、できない部分がたくさんあります」。自分のやっていることは間違っていない。試合に出るために今までどおり準備を続けるのみだ。

「フロンターレはJリーグの歴史を塗り替えています。その流れを僕が出るときに壊してはいけないし、普段出ている人たちと実力が変わらないようなプレーをしないといけない。いま僕がチームの力になれている感覚はないので、本当に少しでも力になりたいです。今はまだ試合に出場することが出来なくて、試合を見ている人たちからすると僕は今シーズン印象に残らないと思うので、サポーターの方々の目の前でプレーしないといけない」

中学時代からボールをつなぐことを重視するチームでサッカーを続けて、今季からJリーグで最高峰のポゼッションサッカーをするフロンターレに入団した神谷凱士。いま、ぶつかっている壁はとてつもなく高い。だが、乗り越えるための歩みは一歩一歩確実に進めている。いつか必ず公式戦のピッチに立つ瞬間が訪れ、フロンターレのユニフォームに袖を通して自分のプレーを披露する姿が見られるはずだ。

profile
[かみや・かいと]

東海学園大学(愛知県)よりフロンターレに加入したルーキー。大学時代は主にセンターバックを務め、守備だけではなく左足のキック正確なフィードを武器にゲームメイクにも加わりチームの攻守をつなぐ。ボランチや左サイドバックでのプレー経験もあり、テクニックは折り紙つき。1日も早くプロとしての力強さを身につけ、公式戦のピッチでプレーする姿を見せてもらいたい。

1997年6月16日、愛知県西尾市生まれ
ニックネーム:かいと

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