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  • ピックアッププレイヤー 2021-vol.04 / FW26 宮城 天選手

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ピックアッププレイヤー〜FW26 宮城 天選手

青天を衝く

青天を衝く

テキスト/杉山理沙(日刊スポーツ) 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Sugiyama Risa photo by Ohori Suguru (Official)

宮城天、19歳。2001年、ミャンマー人の父と日本人の母の間に生まれた。名前の由来は、聞いていない。
「かっこいいからじゃないですかね?(笑)。兄も漢字2文字で、響きがいいので」。
点取り屋の「テン」になることは、生まれたときから決まっていたのかもしれない──。

 地元・川崎で生まれ育った。幼稚園から小学生に上がる頃、サッカーに出会った。

始まりは、自宅から徒歩10秒ほどの場所にある公園だった。当時は広く感じていたが、大人になった今思えば、そんなに広くもない、ありふれた公園だ。学校から帰宅すると真っ先に向かい、上級生や近所の中学生に教えてもらいながら、友人らとボールを追いかけた。野球少年でもあったが、運命はタイミングに導かれた。

「その公園ではサッカーも野球もやっていたけど、サッカーのほうが楽しくて、徐々に興味をもったかな。野球ではピッチャーをしていて、バッターとしてもうまかった記憶があります。けっこう野球クラブから誘われました。一緒に野球をしている子のお父さんが、コーチをしていて。本気で野球をやろうか迷ったけど、サッカークラブに誘われたのが早かったから、というだけの理由で、サッカーを選びました」

 小学1年生で、勧誘された地元の強豪、橘SCに入団した。友人の影響を受けて、フロンターレの下野毛スクール(※当時)と、当時矢向にあったフロンターレのフットサルスクール(幸・味の素スクール)にも加入した。フロンターレと出会ったことで、勝負の楽しさを知った。

「橘SCは川崎市大会で2位になったりして強かったけど、スクールにはいろんなチームのうまい子が集まっていて、『楽しく』というより『競い合う』という感じでした。ゲームをした記憶しかないです。子どもで負けず嫌いだったので、とにかく試合をして、勝って喜んだり、負けて泣いたりした記憶があります」

 

 小学4年生からは、セレクションに合格してフロンターレU-10の一員になった。サッカーをすることが、ただただ楽しかったから。「このクラブで上を目指そう」という気持ちは、まだ芽生えていなかった。

 当時から攻撃好きな選手だった。プレースタイルも変わらず、スピードや技術を武器に戦っていた。一方守備は苦手で、トラウマになった事件もあった。

「ポジションはFWとかトップ下とか、後ろ以外全部ですかね。ボランチはあまりやらなかったですけど、守備ができなくて…。小4のとき、5-0で勝っていた試合でセンターバックをやらされて、5-5に追い付かれた記憶があって、トラウマです(笑)。あんまり後ろはやりたくなくて、そこからは一切やっていないと思います」

 小学校高学年になると、後のサッカー人生に大きな影響を与える、2つの出会いを経験した。

 実力を買われて1学年上のチームでプレーしていた宮城は、圧倒的な存在感を放っていた1歳上のFW宮代大聖(20=徳島ヴォルティスに期限付き移籍中)に度肝を抜かれた。

 クラブ史上初めて、高校3年時にトップチームと契約を交わした宮代については、説明するまでもない。エリート街道を走り続けるその姿は、サッカーを「ただ楽しんでいただけ」の宮城の意識を根本から変えた。

「大聖はその頃からすごかった。1個上でもずばぬけていました。中3のときにはプロの練習に参加していたので、背中を見て、自分も追い付きたいと思ったし、意識の面でも影響を受けました。練習前の自主練とかで大聖がやっていることも、意識が高かった。日本代表や海外挑戦も意識していたと思うので、そういうのに感化されて、自分も同じレベルに追いつきたいと意識が上がりました」

 もう1人は、アカデミーで指導を受けた玉置晴一コーチだ。

「小学生の頃はすぐに泣いたり、感情的になったりしたけど、自我を形成するというか、サッカーの考え方を確立するのに助けられました。玉置コーチに教えてもらったことや、言われたことは覚えているし、愛情をもって教えてくれていたと思います。何か具体的な言葉と言われると、出てこないんですけど(笑)。小6くらいが自分の分岐点だった気がします。プロになっていく階段を上れたのも、玉置コーチの教えがあったから。道に乗せてもらった感じです」

 意識が変わり、心身ともにたくましさを増した宮城は、中学年代、高校年代と、フロンターレのアカデミーで順調に昇格を重ねていった。プロを目指す上で転機は、高校1年生のときだった。

 2学年上の選手らとレギュラーを争う日々の中、早い段階で出場機会を得た宮城は、夏ごろには先発の座を射止めるようになった。満を持して臨んだ、プリンスリーグ関東。その舞台には、翌年のプロ入りが内定している選手がひしめいていた。Jリーガーの水準を肌で感じたことで、「プロになりたい」という憧れに近かった夢は、「プロになれるかも?」と現実味を帯びた目標に変わっていった。

「うまい選手がいっぱいいて、中でもプロに内定している人は違った。自分もそこに『なれる』というイメージができて、プロを目指したいと思いました。大聖は高3のはじめくらいでトップに昇格しているので、その背中を見て、自分がどのレベルか確認しながら、プロを目指していました。常に見本となる選手が上にいたので、客観的に『自分はどのレベルなのかな?』と思いながら、今までできたのかもしれません。大聖を追っていたというか、大聖が先頭を切って走っていた感じです」

name FW26-宮城 天選手

 高校1年時から中心選手として活躍した宮城は、徐々に注目を集める存在となっていった。同年の夏には神奈川県代表として、セレッソ大阪FW西川潤(19)らと愛媛県で開催された国体に出場し、人生初の「日本一」を経験した。決勝戦の相手は広島県代表。0-0で延長戦に突入すると、終了間際に自ら獲得したPKを決めて、その足で優勝をつかみ取った。キャリアは順風満帆そのもので、プロに近づいた、と思っていた。

 ところが高校2年の夏、サッカー人生で初めての挫折が宮城を襲った──。

「高2の夏くらいまで順調に来ていて、調子が良くて。自分で言うのもなんだけど、良い感じだ、と思っていたんですよ。でも、高2の7月に左膝の後十字靱帯(じんたい)を断裂しちゃって、そこからずっと苦しかったです。高3の夏くらいまで、ずっとキツかった」

 切れたときには、ブチっと音がした。度重なる接触プレーや、競り合いでの膝からの落下が原因だった。

 復帰には全治4ヶ月~5ヶ月を要したが、ピッチに戻ってからも本来のプレーは取り戻せなかった。

「高2のときは、公式戦は10試合くらいしか出ていないですね。ケガから復帰して、最後の試合にちょっと出たくらいです。ケガする前は自分の思い通りに何でもできていたイメージだけど、ケガしてから何もできなくなった。ただの選手になっちゃった。普通の、プロレベルの選手ではなかったです、その時期は。プロは無理だな……と思い始めました」

 確かにデータを見ると、高校3年の4月~7月のプリンスリーグ関東では10試合3得点と、トップ昇格を狙うFWとして物足りない結果に終わっている。ところが6月には、プロ入りが内定した。「ケガをする前の活躍で、将来性を見てくれたのかもしれないです」と、いまだに引き上げてもらえた理由は分かっていない。だが、その後9月~12月にかけては5試合連続得点と結果を残した。強化部の見る目は、間違っていなかった。

 アカデミー育成部長の山岸繁氏は、ケガ後の宮城について「本当によくなかった」と振り返る。だが、調子がいいときのプレーは誰もが認めるものだった。

 「ケガをする前のプレーは、強化部長(当時)の庄子含めて、みんな知っていました。技術があって、スピードも悪くなかった。高2の段階で、『このまま行けばトップ昇格だね』と話していたんです。ケガをしてしまって、確かにプレーは良くなかった。誰が見ても、昇格できるような選手じゃなかった。でも、それはケガの影響。ドクターも『一生戻らないわけじゃない』と言っていました。本来の力は、ケガ前の試合を見に来ていた強化部も知っている。モノは持っているな、という印象がありました」

 プロ1年目だった20年シーズンは、J3のカターレ富山に期限付き移籍した。初年度でのレンタルの話を受けたのは、高校3年の10月くらいだった。フロンターレのトップチームでやれる自信がなかったこともあって、前向きにチャレンジを決めた。

「トップに上がれるレベルじゃないと思っていたけど、上げてもらった。最初は『1年目からか…』と思ったけど、その後はすんなり。自分も行ってチャレンジしたい気持ちがあったし、試合に出て成長してから戻りたいというのもあった。成長しないと関われもしないと思っていたので、移籍するとなったときは、覚悟を決めて行きました」

 結果、ルーキーイヤーはケガに悩みながらも、20試合3得点という数字を残した。本職のFWでなく、サイドハーフで起用されることも多かった。ただ本人は「手応え的には何もしていない。普通に6点、7点、8点くらい、取らないといけなかった」と、満足していない。

 自分自身と戦う中で、身につけたものはある。

「個人の能力が上がった気がします。ユース年代のときはヘディングも、シュートも、パスも平均みたいな感じで、自分としては特徴がなかった。富山に行って、ドリブル、スピード、ゴール前でのプレーなどは、個人能力として伸ばせたかなと思います」

 そして21年、ついにフロンターレのトップチームに合流した。周りは、遠回りをしたと言うかもしれない。でも、歩んできた道のりには自信をもっている。

「フィジカル面ではまだまだ全然細いけど、1年前はもっと細くて、非力だった。あのときだったら、何も通用していなかったと思います。1年富山に行ったからこそ、戻ってこられるレベルになったと思っています」

 育成部長の山岸氏も、武者修行から戻ってきた宮城に「一回り体つきが大きくなった。スタッフはみんな『ガッチリしたな』と言っていた。相変わらず、足元もうまい」と目を細める。

 激戦区のFWはライバルも多く、ここまで(2月23日取材時点)ベンチ入りはできていない。本人も「簡単にチャンスが来るとは思っていない」と、自らの立場を理解している。

「プロ2年目だけど、ほぼ1年目みたいな状態です。J3とJ1ではレベルも違うので、とにかくアピールしないと出られない。周りや監督も自分をまだ分からないと思うので、信頼してもらうためにも、がむしゃらにアピールしたいですね。簡単にチャンスが来るとは思っていない。前線もすごい選手ばかり。割って入れるように、頑張っていきたいです」

 復帰1年目から思い通りにいくわけがないことは、分かっている。まずはアピール。

 地に足の着いた考えをもつ19歳は、クラブの未来に天から差し込む一筋の光となれるか──。

profile
[みやぎ・てん]

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プロ1年目からカターレ富山へ期限付き移籍となり、今シーズンからフロンターレでプレー。川崎フロンターレ・アカデミー出身のテクニックにすぐれたFW。昨シーズンはJ3富山で試合経験を積み、ケガでの離脱がありながらも20試合に出場し3得点を記録。プロとしての自信をつかんだ。初のJ1でのチャレンジとなる今シーズン、どこまで自分を表現できるか。

2001年6月2日、神奈川県川崎市生まれニックネーム:テン

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