ピックアッププレイヤー〜FW19 遠野 大弥選手
俺なら、できる。
テキスト/いしかわ ごう 写真:大堀 優(オフィシャル)
名前の響きから、よく「ダイヤモンド」に例えられる。その経歴も相まって「原石」や「輝き」といったフレーズがつくことも珍しくない。
ただ本人は「そこは、全然関係ないんです」と笑う。弥生の3月生まれ。そして「大きく育って欲しい」との
両親からの思いが込められているのが、名前の由来だ。──そんな遠野大弥の成長物語をたどっていこう
生まれ育ったのは、静岡県の藤枝市。
サッカーどころとして有名な地域であるが、3歳上と1歳上にいる2人の兄は少年野球をやっていた。その影響で遠野自身も最初は野球をやっていたという。だが「打順が回ってくるまでが遅いので、野球は辞めました(笑)」と言い、遠野家の三男坊はサッカーボールを追いかけることに惹かれていった。
「サッカーは小学校のグラウンドでやっているのを見て『自分もやってみたい!』と思ったのがきっかけですね。当時から人と違うことをしたい気持ちはあったのかもしれません」
子供の頃は随分とやんちゃな少年だった。
近所にある立ち入り禁止の工場にこっそり忍び込み、友達と秘密基地を作って管理人からこっぴどく叱られたなんて出来事は日常茶飯事だ。兄弟喧嘩も絶えず、家庭ではゲームの奪い合いから兄の顔にキックを見舞い、「あなたの足は人を蹴るものじゃない!」と母親からはよく咎められていた。少年時代のエピソードだけで一冊の本が書けそうなほど活発な少年だったようである。
地元の西益津サッカースポーツ少年団に入ったのは、小学4年生のとき。1対1やミニゲームのメニューが多かったが、一番好きだったのはゴールを決めること。そこは今と変わっていない。
「点を取ることしか好きではなかったです。ポジションも前目が多かったですね。たまに色気付いてボランチもやってましたけど、自分には向いてなかったです(笑)」
憧れの選手は、地元である静岡の清水エスパルスに所属していた日本代表の岡崎慎司だ。代名詞である豪快なダイビングヘッドに魅了されて、飛び込んでいくヘディングシュートをよく真似していた。遠野が見せるゴールへのがむしゃらさは、そんな岡崎慎司の影響もあるのかもしれない。
中学では藤枝明誠高校のジュニアユースにあたる藤枝明誠SCに所属していた。そこから藤枝明誠高に入学するのは自然な流れだった。ただ高校に入ると、名門高校の部員の多さとレベルの高さに戸惑った。
「出鼻をくじかれましたね。県外から来ている選手もたくさんいて、みんなめちゃくちゃうまかったんです。差を感じて何もできなかった。だから、1年生の時はよく最後まで残って練習していましたよ」
約150人の部員がいる環境で生き残るために、自分の武器を磨く毎日だった。
足の速さを生かしたスプリントや、背後のスペースを突くランニング…… 自分の長所を生かしながらゴールを奪う技術を高めていくと、2年生からはAチームで絡めるようになっていく。
3年時にはチームの中心を担い、藤本一輝(大分トリニータ)らと共に強烈な攻撃陣を形成。激戦区の静岡県予選を制して、全国高校サッカー選手権の出場切符を掴んでいる。7年ぶり2度目の出場で、周囲からの期待も高まった。だが全国大会では悔しい一回戦負け。遠野の高校3年間はこうして幕を閉じている。
「卒業後は、大学でサッカーをできればいいなと思っていました。親にも迷惑をかけていたので、大学費用を免除してくれるところで、声のかかったところに行こうと思っていました」
プロからの誘いはなかった。当初は新潟経営大学に特待生で入学する予定だったという。サッカーのできる環境で条件も良かったからだ。
だが願書提出期限の1週間前のタイミングで、あるクラブからオファーが来た。JFLのHonda FCである。そして、これが遠野の運命を変えることになる。
「(高校選手権予選の)準決勝で静岡学園と対戦した時に見てくれていて、そこから話をもらったんです。僕自身も大学に行こうと思っていましたから…… 迷いましたね」
Honda FCは、本田技研工業を母体とした社会人サッカークラブだ。J1、J2、J3の下に位置するJFLのカテゴリーに所属している。アマチュアだがその強さは折り紙つきで、天皇杯ではJクラブを破るジャイアントキリングを起こす常連としてサッカーファンにもお馴染みだろう。昨年は優勝こそ逃したが、2016年から一昨年まではリーグ4連覇を達成。JFLでは無類の強さを誇り、アマチュアサッカー界における最強クラブと言ってもいい。
遠野にとっては、同じ静岡の浜松市に本拠地を置くクラブなので、どこか身近な存在でもあった。その年の天皇杯、FC東京との試合をテレビで観ていた際には、Jリーグの強豪をあと一歩まで苦しめたHonda FCの強さに舌を巻いていたという。
「あの試合を観ていて、すごい社会人だなと思ったんです。アマチュアでもJリーグのチームと対等に戦えていた。プロと対等に戦えるのはすごいことですから」
ただ、レベルの高さを感じていたがゆえに、そこに入ってやれる自信もなかった。大学進学を考えていた遠野からすると、アマチュアとはいえサッカー選手として生きていくのは、不安の方が大きかったからだ。
大学入学願書提出の期限が迫る中、迷っていた遠野の背中を押してくれたのは、Honda FCジュニアユース出身の同級生だった。彼が太鼓判を押してくれたのだ。
「その同級生に話を聞いたときに、『ホンダに入れるなら、凄いことだよ」って言われて。そして『確かにレベルは高いけど、お前なら、できるよ』って言ってもらったんです。そうだよな、やるなら高いレベルでやりたいなって。そこで決めました」
──お前なら、できるよ。
同級生のその一言に、どれだけの強い確信があったのかどうかはわからない。だが、その言葉は遠野の決断を後押しし、その未来を変えた。
「僕自身、当時は自信はなかったんです。どちらかといえば、考えもネガティブだったんですけど、あそこで言ってもらったのは大きかったです」
こうしてHonda FCでのキャリアが始まった。
通常であれば入団という表現になるが、遠野の場合は「入社」でもある。週に3日はホンダの自動車製造工場での勤務となり、作業着姿で車の部品製造に携わった。工業高校ではなく普通科を卒業した遠野にとって、現場で飛ぶ交う専門用語はちんぷんかんぷんだ。
「ホンダの工場は横文字が多いので、最初は何を言っているのかわからなかったです。自分はここにいていいのだろうか、という思いすら芽生えてきました。でも先輩には『仕事があってのサッカーだ』と言われていました。覚えなければいけないことも多くて、本当に大変でしたが、仕事はしっかりと真面目にやりなさいと言われていましたね」
午前中は業務に励み、午後からサッカーの練習に取り組むのが日常だった。
ただそのトレーニングが、またハードだったのである。特にきつかったのは、週明けのフィジカルメニュー。尋常ではない量を走らされる日があったのだ。Honda FCといえば圧倒的な走力が持ち味のチームスタイルだが、それを支えるだけの練習量があったのである。土日に公式戦があれば、翌週月曜日が完全オフになることが多かったが、火曜の練習を想像すると、前夜から憂鬱だったと苦笑いで懐かしむ。
「練習場には車で入っていくんですけど、グラウンドが見えるんですよ。そこで置かれているコーンの位置で練習メニューがだいたいわかるじゃないですか。その日が走りのメニューだとわかると……。インターバル走や1周走、2周走、3周走、シャトルランなど、とにかく徹底的に走らされましたね。それも頑張れば入れるようなギリギリのタイムを設定されているんです。本当にきつかったですけど、あれで気持ちの部分も鍛えられたのかもしれません。あれが今の僕の運動量を生かしたプレースタイルでもあるので、あの時期に走っておいて良かったとは思ってます…… でも、もう絶対に嫌ですね(笑)」
アマチュアといえども、Honda FCは志の高いクラブである。
所属するJFLのカテゴリーではJ3昇格を目指すクラブが戦力を整えて参戦してくるが、そんな相手にも常勝を義務付けられている。実際、Jリーグを目指すクラブの前に立ちふさがる門番的な存在としても有名だ。厳しい練習も当然のことだった。
そんな環境で切磋琢磨しながら、2017年はリーグ戦30試合のうち、約半分の16試合に出場。2年目の2018年は20試合出場と順調に出場機会を増やしてく。仕事と両立するサッカー選手としてのキャリアを積んでいった。
迎えた3年目。
開幕前の2月に、川崎フロンターレと等々力で練習試合を行う機会があったのだが、後日、川崎フロンターレが自分を高く評価していることを強化部から聞かされることとなる。この時からクラブは遠野の存在に注目するようになっていく。
2019年といえば、川崎フロンターレはJリーグを連覇し、リーグ3連覇を目指したシーズンである。そんなクラブが自分を評価しているなんて、遠野はにわかに信じられなかった。「チャンス、あるんじゃないか?」と周囲は色めき立っていたが、本人は冗談半分に捉えていたという。Jリーグの頂点にいる優勝クラブが、プロではなくアマチュアでプレーしている自分に声をかける可能性など限りなく低いと思っていたからだ。
何より、川崎フロンターレが展開するボールポゼッションと、点を取るまでの崩しの鮮やかさは、ほとんどテレビで見るサッカーの世界だった。それぐらい遠野本人には現実味が薄い出来事だったのである。
始まったJFL3年目のシーズンは、開幕スタメンを勝ち取った。
結果を出せずにスタメンから外されることもあったが、5月の天皇杯から活躍。この年のJFLのベストイレブンに選出されるほどブレイクしたシーズンとなったが、その名を世に馳せたのは、なんといっても天皇杯だろう。
アマチュアクラブであるHonda FCが、北海道コンサドーレ札幌、徳島ヴォルティス、浦和レッズと、Jクラブを次々と下してのベスト8に進出する快挙を果たすのである。その中心にいたのが遠野だった。札幌から2点、徳島から1点を記録。プロ相手に確かな実力を結果を示し、自分はJリーグでも通用できるんじゃないかと感じ始めたのもこの頃だ。
そんな遠野のポテンシャルをJリーグのスカウト陣が放っておかなかった。天皇杯での快進撃が続く最中、最初に獲得の声をかけたのはアビスパ福岡。そして他クラブからも続々と打診がある中、2月から追い続けていた川崎フロンターレも獲得の意思を表明している。
川崎の強化部からは、狭い中でボールを受けられるターンの技術、そしてシュート意識を評価されていることを伝えられた。ただ翌年に旗手怜央、三笘薫といった攻撃的なポジションの大卒選手が内定していたこともあり、獲得のタイミングに関しては、翌々年にしたいとも伝えられた。
「自分としてはすぐにJリーグでやりたかったんです。だから『1年は待てないです』って伝えました。そこで、最初にオファーをくれた福岡に、期限付き移籍という形で行くことになりました。確か、10月か11月ぐらいの話だったと思います。僕はJリーグの経験が足りないので、あの時に福岡に行ったのは良い判断だったと思ってます。武者修行ではないですけど、不安もあった中でJ2でも通用したので、本当に良い経験ができたと思っています」
もっとも、Jリーグに挑戦するということは、ホンダの社員という安定した職業を捨てるという選択でもある。ホンダは快くプロに送り出してくれる雰囲気で、遠野自身も前向きだったが、そうは言っても、簡単にできる決断でもなかった。
ただ、その背中を強く後押ししてくれた人がいる。
「ミスターホンダ」こと古橋達弥だ。
遠野が「僕の一番尊敬できる選手」と評す古橋は、Honda FCからJリーグの道に進んでいった先駆者である。セレッソ大阪やモンテディオ山形、湘南ベルマーレで活躍し、J1通算139試合出場のキャリアを誇る。2014年からはHonda FCに戻り、昨季限りで40歳で引退したレジェンドだ。今でも試合前は古橋達弥のプレー集の動画を見てイメージを膨らませると話すほど理想とする存在でもある。
「タツヤさんは全てにおいてうまかったです。ボールの受け方にしても、『なんでフリーになっているんだ?』というぐらい駆け引きがうまい。シュート技術も素晴らしくて、いつも一緒に残って練習して吸収しました。自分にストイックでしたし、あの年齢でも試合中はサボらず、切り替えもしっかりしてちゃんと走る。本当にすごかったです」
そんな多くを学んだ大先輩から、こんな言葉をもらったと明かす。
「僕がプロに行くときに、『お前なら、できる』という言葉をかけてもらったんです。それが自信に繋がりました」
──お前なら、できる。
この言葉によって、またも遠野は自信を得たのである。
自信という文字は「自分を信じる」と書く。人が成功していく上で、人生のどこかかの段階で「自信をつける」という経験は、不可欠なものだろう。だが、それは自分の内面だけで育てられるものでもないはずだ。それはときに、信用する友人や尊敬する人からの一言で育つのかもしれない。
その一言で自信に肉がついていき、肉のついた自信が、また次の結果をもたらしてくれる。遠野にとって、偉大な先輩からのその言葉はプロに挑戦する自分を信じる力にもなった。
そして2020年、川崎フロンターレの完全移籍が発表されると、そのままアビスパ福岡への期限付き移籍となった。
新体制発表会見では映像での挨拶となったが、「一年目はレンタルという形になりますが、成長してこのピッチに戻ってこれるように頑張ります」と力強く宣言。スタッフからの無茶振りにも「あばら骨のサンバ」というシュールな一発芸を披露し、サポーターに小さくない爪痕を残している。
アビスパ福岡での挑戦が始まった。
J2開幕戦となるギラヴァンツ北九州戦で、早速スタメンを飾った。遠野にとっては念願のJリーグデビュー戦だが、ここで決勝ゴールを挙げる活躍を見せたのである。本人にとっても、生涯忘れられない一戦だ。
「あの開幕戦はすべてがうまくいきました。自分の良さがものすごく出た試合だったと思ってます。雰囲気もそうですし、九州ダービーなので、サポーターも熱くなっている。そこで僕が点を取って勝つ。試合前にシゲさん(長谷部茂利監督)が、『ダイヤが点を取った時はみんなで喜べよ』と言っていたんです。自分が点を取るのを知っていたかのように言ってくれていて…… あれでチームに馴染めましたね。何より、人生に1度しかないJリーグデビュー戦でスタメン出場し、ゴールを決めて勝つことができた。それが自信にもつながりました」
その後、新型コロナウイルス感染拡大防止の影響で、Jリーグは4ヶ月の中断に。勢いに乗りたかった遠野にとってはもどかしい期間を過ごしたが、その後も攻撃陣に欠かせぬ存在感を見せていく。
再開後の序盤こそチームは低迷したが、長谷部監督の元、武器である堅守をベースに巻き返していく。クラブ記録となる12連勝を達成するなどJ1昇格に向けて邁進。遠野大弥は、チームの攻撃陣を牽引する原動力となっていた。
「攻撃は自由にやらせてもらいましたね。フアンマとのコンビもそうですが、それまでのつなぎの部分で参加することも多くなりました。あとはシュートレンジが広くなりました。最初はシュートの意識を強く持って、前を向いたらシュートを打っていたのですが、もっと確実性を求めた方が良いとシゲさんに言われて、それで考え方も変わりました。フリーの選手に打たせるのも必要で、周りを使う意識も持つようになりました」
シーズン終盤には、緊張感の漂う昇格争いを経験した。相手からも厳しいマークを受ける中でも3試合連続得点を挙げるなど、勝負強さも発揮している。41試合に出場し、チーム最多となる11ゴールを記録。福岡のJ1昇格に多大な貢献を果たして、シーズンを終えた。
翌年に向けた交渉の場では、当然ながら福岡から残留を熱望されている。だが、J1王者の川崎でプレーしたい気持ちが勝った。そこに、迷いはなかった。
「残って欲しいという言葉はもらいましたし、福岡でもっとやりたい気持ちもありました。でも川崎でもやりたい。福岡を昇格させてチームを出るのはかっこいいですし、そこは自分の気持ちに正直になって決めました。
今年2021年シーズン。
期限付き移籍を終えて川崎に復帰した形だが、ほぼ新加入に近い存在である。トレーニングに入って驚いたのは、基本技術の高さだ。新加入選手は総じて面を食らう時期でもあるが、その練習も楽しいと話していた姿が印象的だ。
「楽しいですね。上手くなれると思うし、細かいところを追求していく練習ですから。ターンひとつをとっても、前を向くところは向く。一つ一つの技術を突き詰められていく練習なので、頭も疲れますが、ひとつひとつ、やっています」
最初の公式戦となったFUJI XEROX SUPER CUPに出場して決勝弾をお膳立てすると、リーグ戦でもすぐにチャンスは巡ってきた。
第2節のベガルタ仙台戦。
この試合で初スタメンを飾ると、ゴールを記録したのだ。25分、長谷川竜也からのクロスを小林悠がヘディング。ゴールポストを叩いたボールの跳ね返りをトラップし、冷静に切り替えして流し込んだ。
試合後は「良いところにボールが転がってきたので、落ち着いて決めるだけでした」と淡々と振り返っていたが、実際にボールがこぼれてきた瞬間は、「……うわっ、きた!って思いました(笑)」と笑う。
「ドンピシャで悠さんがヘディングしてくれて、僕のところにたまたま来ました。あそこで、慌てずに足元にボールを止めることができたのが良かったと思います。トラップで決まりましたね。シュートは、まずは枠に入れることを意識しながらコースをつきました」
試合は前半だけで4得点を奪い、5-1で圧勝した。ゴールだけでなく、持ち味であるアグレッシブさを存分に披露できたスタメンデビューだった。本人も手応えを口にしている。
「不安や緊張もありましたけど、自然体で挑もうと思ってました。初スタメンで起用してもらってゴールを決めることができたのは、自信になりました。サッカーをしていく中で自分の良さを発揮できると、やはり自信につながりますから。試合後は、たくさん連絡がきたので、その日だけは浮かれてました(笑)」
その後も勝ち続けるチームの中で、コンスタントに出場機会を掴んでいる。
そして4月14日には、楽しみにしていた古巣・アビスパ福岡戦を迎えた。試合前には、こんな思いも口にしている。
「福岡と対戦するのは不思議な感じがしています。お世話になったクラブなので、恩返しということで自分が点を決めて勝ちたいと思ってます」
試合では福岡が採用する4-4-2のディフェンスに対して、中盤とディフェンスラインの間でボールを引き出し、前を向いた。厳しく潰されることもあったが、それでも果敢に仕掛け続けた。
「福岡は守備が徹底されていて、シゲさん(長谷部監督)だなと思った。カウンターの速さはJ1でも屈指だと思ってます。そこを潰して自分たちのペースを握れたのは良かったと思います」
試合を動かす先制点は、遠野の足から生まれている。
CKからこぼれてきたセカンドボールをトラップすると、思い切りよく右足を振り切った。去年まで一緒にプレーしていたフアンマ デルガドの頭に当たって角度が変わり、幸運な形でゴールマウスに吸い込まれていった。
「思い切って足を振ったら何かが起こる。それは試合前も話していました。そういった思い切りの良さが結果に結びついたのかなと思ってます」
この思い切りの良さが遠野の強みだ。試合後の鬼木達監督も最大限の評価を下している。
「ダイヤに関しては、ここのところずっと調子よくやっています。彼に求めているのはゴールのところ。積極的に良いプレーをしてくれたと思います。チャンスの時に足を振れる、それが彼の特徴だと思っています。攻守で頑張ってくれました」
ゴールが決まった後の振る舞いも印象的だった。
周囲から祝福される中、ガッツポーズなどのセレブレーションはせず、喜びは控えめ。古巣に対する彼なりの流儀があったと言う。
「ゴールを決めてもあんまり喜んではいけないのかと思い、そういう振る舞いをしました。ただ内心、嬉しい気持ちはありました」
試合は3対1で勝利。ヒーローインタビューの後は、スタジアムの一角に陣取っていた福岡サポーターの元に挨拶に行き、拍手で迎えられた。初の古巣戦を終えると、感慨深い表情で感想を述べている。
「本当に複雑というか、こういう古巣戦は経験してこなかったので。ただ、こういう結果で福岡サポーターに成長できたことを見せられたのは良かったと思ってます」
古巣への感謝とともに、「川崎の大弥」として輝いていく強い覚悟を示した試合となった。
───
お前なら、できる。
そんな言葉を自信に変えながら、遠野大弥はわずか2年でアマチュア最強クラブからJリーグ最強のクラブにたどり着いた。だが、そこに満足はしていない。日本でもっとも上手いとも言われる川崎フロンターレで切磋琢磨しながら、さらなる上を目指しているからだ。
「プロサッカー選手というのは、素晴らしい環境とチームメートと一緒にサッカーに打ち込める日々ですよね。周りで代表に呼ばれている選手もいるので、僕自身、もっともっとやらないといけないと思ってます。そこに置いて行かれないように精進していきたい」
俺なら、できる。もっと、できる。
遠野大弥の成長物語は、まだまだ始まったばかりだ。
profile
[とおの・だいや]
プロ1年目からアビスパ福岡へ期限付き移籍となり、今シーズンからフロンターレでプレー。鋭い突破と裏のスペースへの抜け出しが武器のFW。昨シーズンはルーキーながら福岡の主力メンバーとして活躍し、リーグ戦41試合出場11得点を記録。大事な場面で決めるストライカーとして結果を残した。
1999年3月14日、静岡県藤枝市生まれニックネーム:ダイヤ