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ピックアッププレイヤー 2021-vol.07 〜戸田光洋コーチ

今、何をすべきか。今、何ができるのか。

今、何をすべきか。今、何ができるのか。

テキスト/原田大輔 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Harada Daisuke photo by Ohori Suguru (Official)

麻生グラウンドでは、いつも選手と汗を流し、練習に付き合う戸田光洋コーチの姿がある。
選手に向き合い、そしてサッカーに向き合う戸田コーチの原点はどこにあるのか。
川崎フロンターレのコーチに就任した縁と決意、そして軌跡を辿る──。

ひと言でいえば鬼木達という人間の魅力

 誰しも自分の人生を振り返ったとき、人との縁を感じることがあるだろう。川崎フロンターレのコーチに就任して2年目になる戸田光洋も数奇な運命を不思議がる。

「自分は思いっ切り川向こうの人間でしたからね。まさか、こうなるとは思ってもいませんでした。ひと言でいってしまえば、鬼木達監督という人間の魅力になりますよね。一緒に同じ船に乗りたい。そう思ったんです」

 川向こう── 自身がそう表現したように、戸田は多摩川を挟んで向こう側にあるクラブ、FC東京の選手だった。

 次で38回目を数える多摩川クラシコでは、大卒ルーキーだった2000年5月6日の試合(J1リーグ1stステージ第11節)に83分から途中出場した。当時は選手だった鬼木監督は60分に途中交代したため、ふたりが競演することはなかったが、戸田は幾度も「川向こう」の選手としてフロンターレの前に立ちはだかってきた。2008年に清水エスパルスで現役を退くも、選手生活の多くをFC東京で過ごしただけに、なおさら巡り合わせに感謝している。

その縁を運んできてくれたのは、他でもない鬼木監督だった──。

「オニさんとはS級(JFA公認S級コーチ)の同期だったんです。それまでも対戦経験はありましたが、現役時代から特に仲が良かったとか、そういう間柄ではありませんでした。ただ、S級を取得するには1年かけて活動していくので、オニさんとはお互いのサッカー感やサッカーに対する考え方について、よく話をしたんです。ピッチ外も一緒に過ごすことが多く、そのとき、すごく合うなと思ったんですよね」

 S級の指導者養成講習会は学科もあれば実技もあり、グループで指導内容を考え、実践することもある。期間中には合宿も実施されるなど、講習内容は長期かつ多岐に及ぶ。合宿でも同部屋だった2人は、サッカー感が合致したこともあって、すぐに意気投合した。戸田は「怒られてしまうかもしれないけど」と言って、当時の思い出を教えてくれた。

「オニさんは四六時中、サッカーのことを考えている人で、だから寝る直前まで、翌日の指導実践に向けた練習メニューを考えていました。あれは深夜1時を過ぎていたと思うのですが、『こうしたほうがいいかな』『こうしたほうがいいんじゃないですか』と、メニューについて、あれこれと話していたんです。それなのに、『こうしたほうがいいかな』といった次の瞬間、横を見たら、もう寝ていたんです(笑)。寝るギリギリまでサッカーのことを考えていたのに、朝早くに起きると、すぐにサッカーの話を始めるような人でした」

 日々、サッカーについて考える。鬼木監督のサッカーに懸ける熱量を、戸田もひしひしと感じたのだろう。もう一つ、当時のエピソードを明かしてくれた。

 それは実際の大学生を借りて行う指導実践だった。多感な時期ということもあり、そのなかには著しくモチベーションを下げている選手がいた。とはいえ、選手を成長させるのが主旨ではなく、指導者が実践経験を積むのが目的である。言ってしまえば、選手にやる気があろうが、なかろうがメニューさえ消化できれば問題はない。ところが、鬼木監督はその選手をプレーさせるかどうかについて真剣に悩んでいたのである。熟考の末、最終的にはチームの軸となるボランチとして練習に起用した。

「オニさんはその選手にやる気がないことを分かったうえで練習させ、『このポジションの選手がここでサボったらダメだろう』と叱咤して、本気で選手に向き合ったんです。その言葉が届いたのか、次のセッションから、真剣にやるようになったんですよね」

 選手がモチベーションを取り戻した姿を見て、戸田は情熱を持って接することの重要性を改めて感じたという。

「オニさんとはその後も連絡を取り合うようになり、いろいろと話すようになりました。フロンターレの監督に就任するときにも連絡をもらいました。フロンターレでJ1優勝もして、どんどんタイトルを積み重ねていきましたけど、それでも電話をするたびに、『新しいことをやりたい』『もっと面白いサッカーをしたい』というのが口癖のようになっていました。僕がファジアーノ岡山でコーチを務めて5年が過ぎようかというタイミングで電話をもらい、『もっと新しいこと、面白いことをやりたいから、一緒にやってくれないか』と、声を掛けてもらったんです」

 選手を引退したのち、指導者に転身した戸田は2015年から岡山でコーチを務めていた。

「岡山もすごくいいチームで、クラブとしてもこれからという部分が多く、個人的にはやり残していたこともあったのですが、それ以上にオニさんの人としての魅力というか、指導者としての魅力に惹かれる部分が強かったんです。フロンターレはJ1を連覇し、ルヴァンカップでも優勝していたチャンピオンチームなので、外から来る自分がコーチとして入っても大丈夫だろうかと思う部分はありました」

 不安を抱きつつも、挑戦することを選んだのは、戸田自身のサッカーに向き合う姿勢と人生における信念が密接に関係している。

「現役時代から安定というのがあまり好きではなかったんです。いい意味での安定であれば納得できますが、立ち止まるというか、守りに入るという言い方のほうが自分としてはしっくり来るのですが、そういう自分ではいたくないという思いがあった。だから、オニさんに声を掛けてもらったときも、これはチャレンジだなと思ったんです。自分自身が常にチャレンジしたいという姿勢と、オニさんの指導者としての魅力。これが合致してコーチを引き受けることにしました」

戸田 光洋 戸田 光洋コーチ

自分がどれだけやってきたか

 1977年に、宮崎県都城市で生まれた戸田は、物心がつくよりも早く、サッカーに触れていた。というのも、父親が高校サッカー部の監督を務めていたこともあり、休みの日になると、父親が指導するチームの試合を見に行くことが日常になっていたからだ。

「自分が生まれて記憶を覚えるような年齢になるころには、もうサッカーしかないような環境でした。だから、今振り返ってみれば、サッカーをはじめたきっかけすら思い出せないレベル。クラブに通うようになったのは小学1年生ということは、はっきりと覚えていますけど、ボールを蹴ったのはそれよりも、だいぶ前ですよね。それくらいサッカーが自分の人生を占めている部分が大きいんです」

 戸田がサッカーから教わり、学んだのはスポーツという競技だけではなかった。

「サッカーを教わるというよりも、サッカーを通して人間教育してもらったという思いのほうが残っています。サッカーを通して僕はいろいろなことを学び続けました。父親も含めて、小学1年生から通ったクラブの指導者にも本当に多くのことを教わりましたから」

 中学生のときだった。あるとき、父親にこう言われた。

「将来、何をやりたいんだ」

 戸田はこう答えたという。

「とにかくサッカーをやりたいと。学校の先生になることが夢だったので、それも伝えました」

 息子の夢を聞いた父親は、さらにアドバイスを送った。

「だったら、高校では勉強を頑張って、大学でサッカーをやったらいい。そうすればどっちの夢も叶う。大学で思いっ切りサッカーをやって、勉強も頑張れば教師にもなれる」

 戸田は「その言葉に妙に納得した」と話してくれた。反発することなく、すんなりと受け入れられたのは、高校であっても、大学であっても「目指す目標(優勝)」に違いがなかったことと、「ふたつの夢が叶う」という言葉の大きさもあったのだろう。戸田は「今振り返ると、そこが人生のターニングポイントだったと思います」と、気持ちを明かしてくれた。

「当時、大学といえば筑波大学が強かったので、そこに行けばサッカーで日本一にもなれて、ゆくゆくは学校の先生にもなれると思いました。それもあって筑波大学に行くことを目標に高校も進学して、勉強も頑張りました。結果的に筑波大学に入ることができ、大学では関東リーグで優勝することができましたからね」

 話を聞いていて思ったのは、幼いころから父親を筆頭に、指導者としても人間としても素晴らしい人たちに出会い、教わり、学んだことの証だったのだろう。戸田は言う。

「夢があるのであれば、そこを目指して進んでみたらと背中を押してもらい、ガバッと頑張ることができたんです。僕自身、先生、監督、コーチと、いろいろな指導者に出会ってきましたが、その誰もが『これをやれ、あれをしてはいけない』と決めつけるような人たちではなかったんです。サッカーだったら、どうすれば自分の最大値を出せるか、最大限の力を発揮することができるか。常にそこにアプローチしてくれ、声を掛ける必要があれば掛けてくれたし、声を掛けないことが自分のためになるのであれば掛けない。そういう環境で学ぶことができたことは、自分自身でも恵まれていたと思います。だから、選手生活が終わったとき、自分もそうした誰かの力になれればと憧れていました。今も、それができているかどうかを毎日、毎日、自分に問いただしています。それだけ、自分が出会った先生、監督、コーチ、そして出会ってきた人たちの存在が大きいですね」

ストライカーだった戸田は、筑波大学4年時に関東リーグの得点王になると、チームを関東1部リーグ優勝に導く。ベストイレブンに選ばれただけでなく、MVPに輝くなど、目覚ましい活躍を見せた。

「プロを意識していないと言えば嘘になるというか。それくらいチームメイトには、すごい先輩や同級生がいっぱいいたんです。当初は、大学で日本一になって、学校の先生になるという夢に向かって過ごしていましたけど、大学3年生くらいになってプロのクラブから声を掛けてもらえるようになると、チャレンジしてみようかなと思うようになりました。だから、僕は周りに、環境に、自信をつけさせてもらって押し上げてもらったという思いがあります」

筑筑波大学を卒業した2000年、戸田はFC東京に加入すると、プロの一歩を踏み出した。自信はあったのかと尋ねれば、再び戸田の人生観を垣間見る答えに遭遇した。

「多少は自信がついたからプロになれたんだと思います。でも、僕が言う自信というのは、関東リーグで優勝したからとか、関東リーグで得点王になれたからとか、ユニバーシアード代表に選ばれたからという実績から得た自信ではないんです。これは僕自身が大切にしていることでもあるのですが、『自分がどれだけやってきたかということに対する自信』なんです。

優勝や得点王という実績は、次に獲れなかったときには、消えてなくなってしまう。でも、自分がサッカーに対して向き合ってきた時間やそこで得た自信というものは、結果が出ようが出まいがなくならない。例えばですけど、大学時代でいえば、遊びに行きたい気持ちを我慢して練習した日々、栄養にこだわって食事を摂った日々。そうやって培ってきたものは決してなくならない。プロになれると決まったとき、自分がそうして培ってきた自信というものは大きかったと思います。選手から指導者に変わった今も同じで、そこが自分の頼みの綱でもあるんです」

 自分がどれだけ労力を惜しまず、情熱を傾けてきたか。その熱量は、自分だけが知っている財産でもある。そして、それによって培った自信は決して自分を裏切らない。

 プロになってからも、その連続だった。1年目の2000年はJ1で14試合に出場したが、その多くが途中出場だった。「ピッチに立ったことで分かる、自分にできることと、できないことのギャップに苦しみました」と、戸田は思い出す。

「でも、そこで逃げるのではなく、自分に何ができるのか、何をすべきなのかを追求していくことが大切だと思います。できないことに対して、言い訳をするのは簡単だし、楽なんです。でも、言い訳する理由を探すのではなく、何をすべきなのかを探していく。プロになってからは、ずっとそうでした。置かれた状況から逃げずに、自分に向き合うことで自信がついていく構図は、学生時代も含めて自分が一番、分かっていましたからね」

先生になりたいという夢が指導者へ

 プロ3年目の2002年、原博実がFC東京の監督に就任すると、戸田は出場機会を増やしていった。戸田自身も「原さんに出会えたことも人生の中では大きかった」と語るが、その縁を太くしたのも、FWに固執することなく、左サイドにチャレンジした姿勢があったからだ。戸田も指導者になった今、その視点で話しを聞いた。

「原さんには、左サイドで起用されることが多かったんですけど、ある試合でチームのバランスを崩して右サイドまで走って行って攻めたことがあったんです。試合後の全体ミーティングで、その映像が流れたときには怒られるというか、指摘されると思ったんです。でも、原さんはあの口調で『このプレーはダイナミックだよね〜』『やっぱり攻撃はいいよね〜』と言って、自分のプレーを肯定してくれたんです。それがまた一つ、自分に対しての自信になりました。原さんはメディアの前やミーティングのときですら、テレビで見るままの口調で話すことが多いのですが、裏では細かい作業をたくさんしている人でした。僕自身は原さんに呼ばれて何度も一対一で映像を見て、細かい動きや考え方を教わった経験があるので分かるんです。そうした緻密な部分を周りの人には絶対に見せなかった。そこも指導者として憧れる一面でした」

 これも、ある試合でのことだ。戸田が弱気になり、仕掛けられる場面で仕掛けなかったことがあった。すると、次のミーティングで、そのシーンをスクリーンに映し出し、レーザーポインターを当てると、原監督はこう言った。

「どう見てもさ、相手は嫌がっている顔をしているよね。こういう場面では、やっぱり仕掛けないとね」

 当時の画質である。大きなスクリーンに映し出されれば、相手の表情など読み取れるわけがない。それでも原監督は、その選手の顔の周りをポインターでなぞると、まるで表情が見えているかのように、「嫌がっている」と言い切ったのだ。おそらく、弱気になっていた戸田の精神状態を見抜き、勇敢に戦うことの重要性を訴えたかったのだろう。

 緻緻密さを表に出さず、飄々とした態度で振る舞う。それでいて鋭い観察眼で、選手の心理状態を的確に見抜き、適切な言葉を掛ける。その話を聞いて、タイプこそ異なるが、ある指揮官の顔が思い浮かんだのは、きっと自分だけではないだろう。

 2006年までFC東京でプレーした戸田は、2007年に清水エスパルスへと移籍した。当時・清水を率いていた長谷川健太監督に「力になってほしい」と言われたことがチャレンジしたきっかけだった。ただ、清水ではケガに苦しみ、力になれなかったことが現役引退を決意する契機になった。

「健太さんからは、次のシーズンもやってくれと言ってもらえたのですが、ケガをしたこともあって思うようにいかないことが多くなり、それが背中を押したところはありました。今までの話と重複するところもあるかもしれませんが、先生になりたいという夢を持っていたように、サッカーが好きでずっとプレーを続けてきた中で、いつかは指導者になりたいと考えるようにもなっていたんです」

 2008年シーズンいっぱいでユニフォームを脱いだ戸田は、立正大学サッカー部のコーチとして新たな一歩を踏み出した。それは一つ目の夢を持ち続けつつ、もう一つの夢にチャレンジした瞬間だったのかもしれない。

「学生にはもちろん、サッカーを教えるのですが、これから一人の人間として社会で生きていくための手段や方法を知るためにサッカーがあるというイメージで向き合っていました。サッカーがうまければいいわけでもなく、サッカーだけをやっていればいいわけでもない。だから、ときには一時的にサッカーを取り上げたこともありました。サッカーをうまくなりたいと思ってもらうことによって、その学生の人生が豊かになればいいなと。だから、大学では、単純にサッカーだけがうまくなればいいという視点で接したことはありませんでした」

 宮崎で育った子ども時代に、自分がサッカーを通じて多くを学んだように、指導者としてサッカーにできることの幅の広さや奥行きを感じてもいたのだろう。

「大学生は、高校を卒業して、より自由な生活ができるようになる年代。それだけに、自分の主張だけで生きようとする学生もいれば、自分のやりたいことだけをやろうとする学生もいました。でも、サッカーと同じく、思い通りにならないのが人生でもある。そこに触れられた経験は今も活きています」

 2015年からは、FC東京時代にコーチだった長澤徹が監督に就任した岡山で、コーチを務めた。それもまた、戸田にとってはチャレンジであり、充実した5年間だった。

「今、Jリーグの専務理事をされている木村正明さんが、故郷である岡山に恩返しをするために、サッカークラブを作りたいという話は前々から聞いていたんです。そうした縁もあって、テツさん(長澤)からコーチとして声を掛けてもらったときには即答しました。

木村さんが『今までにないサッカークラブを作りたい』という思いで組織作りをされていて、地元を盛り上げたいという謙虚な姿勢もあって、ピッチ内だけでなく、いろいろな学びがありました。サッカーの力としては、まだ足りないところもあるかもしれませんが、それでも這い上がってチャンスをつかんでやるという気概がクラブにも、チームにある。そういう意味では、インタビューの最初に言ったように、自分自身にもやり残したことがあるという思いもあったんです。ただ、組織としての力や最大値を出す方法を学べたのが岡山での5年間でした」

父親から教わったことの原点

 冒頭でも語ってくれたように、2020年にフロンターレのコーチに就任したのは、鬼木監督の指導者としての魅力とチャレンジしたいという姿勢にある。

「周りからは、いいチームに行ったと言われることが多いのですが、冷静に考えると、厳しい立場だったんですよね」

 改めて想像してみた。すでに結果も残し、実力も示している組織に単身で飛び込む。それは思わず、武者震いしてしまうほどの挑戦と言えるだろう。

「そうしたときに、自分が立ち返るのは同じだったんですよね。自分に何ができるのか。自分が何をすべきなのか。そこだったんです」

 学生時代、選手時代、そして指導者になってからも、変わらない戸田の指針だった。そのひとつがセットプレーによる得点力の増加だろう。最速、最多勝ち点、最多勝利、最多得点と記録尽くしのJ1優勝を飾り、クラブ史上初となる二冠を達成した昨シーズン、リーグ戦88得点中17得点を記録したセットプレーからのゴールには、戸田のアイデアが散りばめられていた。

 ただし、本人は「そこはオニさんが役割を与えてくれただけであって、オニさんを筆頭に、コーチングスタッフみんなで戦略を練り、選手が実践してくれた結果だと思います」と、認めない。いくら食い下がっても、「戦略については自分だけで考えているわけではなく、コーチングスタッフ全員に意見を聞いて、みんなで決めています」と言うので、この人の言葉を借りることにした。

 昨シーズン限りで引退した中村憲剛FROである。自身が選手としての集大成を見せた試合と語った昨季のJ1第23節、名古屋グランパス戦だ。セットプレーから3点を奪った試合について、中村はこう語っていた。

「例えば自分がアシストした2点目は、狙いどころをはっきりと言われていました。だから、FKを蹴るときに、そこを探して蹴ったんです。自分自身も、その通りになったのでゴールが決まったことに驚きました。だから、あの場面は意図的に狙って蹴っているんです。セットプレーのことはもちろん、それ以上にミツさんは、常に元気で、明るくて、何よりポジティブなんですよね。コーチとしてチームを引っ張ってくれるところがあるので、そういうパーソナリティーも大きいと感じていました。仕事としてはセットプレーだけでなく、シュートのところ。個別で選手のシュート練習に付き合ってくれているので、その成果も出ていたと思います」

 昨シーズン、チャンピオンチームに飛び込み、二冠という結果を残せたことに「ホッとしたか」と聞けば、戸田は、そこでもこう話してくれた。

「うれしかったですし、ホッとしたところはありましたけど、僕自身は出場機会という面で順風満帆なシーズンを過ごせなかった選手たちが、チームのために力を発揮し、支えてくれていた成果が、二冠を達成した背景にはあったと思っています。主力として戦ってくれている選手たちはもちろんですけど、チーム全体を見れば、そういった選手たちが、苦しい状況の中でももがきながら、チームのために日々戦っている姿を見てきました。その成果として二冠という結果があったと思うと、何よりもうれしかったんですよね」

 その言葉に、フロンターレの強さの一端に触れれば、鬼木監督が戸田をコーチに欲した理由を垣間見た気がした。

 今、自分は何をすべきなのか。
 今、自分に何ができるのか。

 それは選手であっても、コーチであっても変わらない。コーチにもその視点があるから、フロンターレは昨日の自分たちを超えようとするし、超えていけるのだと──。

 戸田の言葉には原点があるように思えてならなかった。そして、それがどこにあるのかは、話を聞いていて何となく分かっていた。だから、最後に聞いた。父親から影響を受けた部分はどこだったのかと。

「父親から教わったことがあるとすれば、今、何をすべきか、何ができるのかを考えろということだったと思います。父親の影響が大きかったんですかね。自分としてもサッカーだけだと思っていましたし、好きなことは“とことん”やれと言われてきたんですよね。しかも、その“とことん”というのは、中途半端ではなく、極めろということ。そこから導き出された答えが、今、何をすべきか、何ができるかということだったんだと思います。今も、その好きなことを極めようとしている最中なんですけどね」

 川向こう、外様と戸田は謙遜する。ただ、戸田が見せる“とことん”な姿勢は、フロンターレの選手たちに伝わっている。新型コロナウイルス感染症が終息し、かつての麻生グラウンドが戻ってきたときには、ぜひ練習を見学しに行ってほしい。そこには選手とともに汗を流している戸田コーチの姿がある。

profile
[とだ・みつひろ]

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2020シーズンからトップチームコーチを務める。現役時代はFC東京、清水エスパルスでプレー。現役引退後、立正大学サッカー部コーチ、ファジアーノ岡山コーチを経てフロンターレのトップチームコーチに就任した。

1977年9月10日、宮崎県都城市生まれニックネーム:ミツ

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