ピックアッププレイヤー 2021-vol.08 〜MF17/小塚和季
胸騒ぎ、艷やかに
テキスト/平澤大輔(サッカーマガジン) 写真:大堀 優(オフィシャル)
憧れて、憧れられて
「人とは違う」ということが、小塚和季の魂のようなものだ。
他の人ができないプレーで驚かす。意外性だらけのアクションで楽しませる。いつも素敵な胸騒ぎを起こしてくれるスタイルの原点はやはり、少年時代にあるようだ。
ボールを蹴り始めたのはいつからだろう。社会人チームでプレーしていた父・小塚 博が、地元・新潟県見附市の少年チーム「見附FC」でコーチを務めていたから、物心つく前から自然に蹴り飛ばしていたという。それが、物語の始まり。
見附FCでは1年生のときから友だちを誘ってプレーして、「とにかく楽しくて仕方がなかった」とボールと戯れた。4年生の頃、隣の長岡市にある「長岡ビルボード」で名を馳せていた同い年の川口尚紀(現・柏レイソル)の存在を知ったという。川口とはそこからずっと最高の仲間でライバルで、アルビレックス新潟ではともに戦った。
和季少年の才能は明らかで、中学生年代では「長岡JYFC」に所属することになる。「すごくボールを大事にするクラブなんです」と、とにかく技術を磨く練習が多かった。それが、のちの小塚のスタイルを決定づけたのかもしれない。
ただ、サッカーが楽しいというだけではなくなった。
「中1の最初の大会だったと思うんですけど、後半からピッチに入って10分ぐらいで代えられたことがあって。きっと試合に入れていなかったんだろうと思うんですけど、悔しくて恥ずかしくて…… 絶対にうまくなってやろうと思いました」
雪深い地域だから冬場は体育館での練習が多く、中2のときには第14回全日本U-15フットサル選手権で全国優勝もしている。これが大きな自信になった。
長岡JYFCは帝京長岡高のグラウンドで練習していて、進路に迷うことはなかった。中学生のときから高校生の練習に参加させてもらったり試合を見たりして、憧れの先輩がたくさんいたのだ。
「自然とここでやりたいと思うようになりました。応援されながらプレーする高校選手権にも憧れて、帝京でプレーすることになりました」
緑色のユニフォームに身を包み、3年生のときにはついに第91回高校選手権に出場することができた。しかも県勢最高タイのベスト8進出である。ところが…… 。
「悔しかったですね。監督やコーチから、優勝しないと人の記憶には残らないとずっと言われてきて、優勝を目指してやってきましたから」
中津東に3-0、鹿児島城西には3得点に絡む活躍もあって4-1と勝ち進みながら、準々決勝で京都橘に1-2で競り負けた。京都橘には仙頭啓矢、小屋松知哉(ともに現・サガン鳥栖)がいた。
ちなみにこの「長岡JYFC→帝京長岡高」というルートでは、晴山 岬(FC町田ゼルビア)、谷内田 哲平(京都サンガF.C.)、吉田晴稀(愛媛FC)のトリオが2020年にプロになった。小塚の7歳年下。「彼らのことは小学生のときから知ってるんです」というから、小塚が「お兄さんたち」に憧れたのと同じように、彼らもきっと小塚に憧れたことだろう。
話は2021年に飛んで、6月9日の天皇杯2回戦で対戦したAC長野パルセイロのDF大桃海斗も、長岡JYFCと帝京長岡高の後輩。
「僕が高3のときにプリンスリーグで一緒にプレーしたこともあったんです。プロになって後輩と戦ったのは初めてだったので、うれしかったですね」
つい顔もほころぶ。あわやジャイアントキリングかと思われながら1-1からなんとかPK戦で勝って先輩の面目を保ったが、試合後には、3歳年下のかわいい後輩と話に花を咲かせたそうだ。
試合に出る喜び
高校2年生の頃から定期的に練習に参加していたアルビレックス新潟が、2013年から始まるプロとしてのキャリアの最初のクラブになった。その後、レノファ山口FC、ヴァンフォーレ甲府、大分トリニータと続いていくことになるのだが、どのチームでも、その才能に惚れ込んだ男たちに背中を押されてきた。幸せなことだ。
まずは柳下正明だ。「ヤンツーさん」と呼ばれて親しまれる熱血漢が小塚の最初の指揮官。「近寄れないオーラがありましたね」。厳しい人だった。
「正直、あんまりしゃべった記憶もないというか。でも、いいプレーに対してはナイスプレーと声をかけてくれました」
ただ、試合にはなかなか使ってもらえなかった。守備の意識を強烈に植え付けてくれた恩人だが、プロ入り前から練習では手応えを得ていたから、悔しかった。
次は上野展裕だ。新潟の2年目でリーグ戦2試合に出場したものの、出場時間は計9分。山口の監督である上野に声をかけられて、8月に20歳になる直前の7月、期限付き移籍することを決断した。
上野は山口で監督をする前に、新潟U-18を監督として率いていた。その縁で、昔から知ってくれていた。
「正直なところ、山口? どこのリーグにいるの? と。JFLだと聞いて、でも場所は関係ないなと。JFLに行って活躍して新潟に帰ってきたらかっこいいなって、そう思っちゃったんですよね」
引っ張ったのが上野なら、押したのは三浦文丈(のちに新潟監督、相模原SC監督、現・松本山雅FCコーチ)だ。当時は新潟のコーチとして若手の面倒をよく見ていた。
「フミさんにはずっとお世話になっていて、自主練習にいつも付き添ってくれて、山口行きの話も相談しました。リーグがどこであっても経験した方が絶対にいいと言ってくれて、それが大きくて」
初めて新潟から飛び出した。そして、活躍した。33試合出場6得点。
「試合に出る喜びを感じましたね。JFLですけど試合への熱さは誰もが持っていました。みんな仕事しながらやっていて、勝つことに必死で、サッカーにかけてるんだなと。刺激になりました」
こうしてJFLで4位となり、J3昇格を果たしたのだった。
「そういう選手の中でやって、昇格が決まったときは本当にいい瞬間でした。達成感がありましたね」
普通の選手
15年も期限付き移籍期間を延長して山口でプレーして、16年には新潟に戻る。監督である吉田達磨の存在に引き寄せられた。
「達磨さんがいたから新潟に帰った感じでした。ずっと僕のことを追ってくれていたみたいで、僕もJ3ではありましたけど山口で試合に出続けて自信を持って新潟に帰りました。キャンプでもいい結果を残せたので開幕で使ってくれたんです」
いよいよ、地元の星の華やかなストーリーが幕を開けた、はずだった。
「一度、オリンピック代表候補の練習に呼ばれて戻ったら、達磨さんに『誰でもできることを普通にする選手になったな』って」
自分ではまったくそんな感覚はなかった。だが、人と違うことができる天賦の才の持ち主が、人と同じであるということは、小塚が小塚ではなくなったということだ。
「もがきましたね。ショックでした。でも、気付かされたというか、改めて自分は人との違いを見せる選手であるべきなんだなと」
面白いのが、吉田は小塚を見捨てたわけではなかったことだ。小塚はこの16年は6試合にしか出場できず、自分を取り戻すためにJ2に昇格していた山口に17年に再び期限付き移籍、またも上野の下でプレーすることになった。途中で上野は退任するが、結局39試合8得点のキャリアハイをマークすると、18年には甲府の監督になっていた吉田のたっての希望でオファーをもらい、引き抜かれる形で移籍したのだ。初めての完全移籍だった。
「達磨さんに名指しで呼んでもらって、新潟を離れる寂しさはありましたけど、選手としての自分を甲府が一番求めてくれたので完全移籍となりました」
ただ、ここでも吉田は途中で退任し、今度は上野がその後を継ぐことになった。不思議な縁というほかない。
「達磨さんの力になんとしてでもなりたい、と思っていた自分がいました。でもその分、硬くなっていたのかもしれません。そのあとまた上野さんの下でプレーして、自分らしいトリッキーなプレーも自信を持ってできました。その2つの面が出たシーズン。難しかったですね」
31試合6得点という記録を残すのだが、甲府での日々は残念ながらこの18年の1シーズンで終えることになる。J1からのオファーがあったのだ。昇格したばかりの大分トリニータ。ここで迎え入れてくれたのが、監督の片野坂知宏である。それ以前から何度も興味を示してくれていたのだという。
「楽しかったですね。チームで戦っている、という感じがすごくするサッカーで。まず、ボールを奪われない。ここにボールがあるときにはここに動いたらいいんだ、という立ち位置を学びました」
主に1トップの後ろの2シャドーの一角を与えられた。相手ゴールに近く、自慢のテクニックをチームのために存分に発揮できるポジションだった。
「相手のボランチ脇に立つことをずっと言われていて、相手がボールを取りに行きづらいポジションを取るように、と。それが自然に意識できるようになるとフリーで受けられることが多くなっていって、自分に合っていたと思います」
この年、J1でのキャリアハイとなる33試合1ゴールをマークして、大分の躍進に貢献した。翌20年は8試合1ゴールと大幅に出番を減らしたものの、新しいサッカー観が「人とは違う」センスをさらに磨いたのだった。
柳下正明、上野展裕、三浦文丈、吉田達磨、片野坂知宏。多くの人々に導かれながら、紆余曲折のキャリアを歩んできた。
そして21年、ついにJ1のチャンピオンチームに合流することになる。川崎フロンターレだ。
小野伸二という刺激
ところで、その川崎Fには名物がいろいろあって、公式ホームページの選手紹介のページにおけるアンケート項目の数は日本一(もしかして世界一?)ではないだろうか。21年シーズン版は確認できるだけで合計208。かつて中村憲剛さんは、これをちゃんと書かなきゃフロンターレの選手じゃない、と笑っていた。
お気に入りの選手の回答をじっくり眺めれば、あっという間に時間が溶けていく。小塚の回答で目が止まったのは「影響を受けた選手」だった。
「小野伸二選手」とあった。
浦和レッズからオランダのフェイエノールトに移って活躍しUEFAカップでも優勝、日本代表としては18歳でフランス・ワールドカップに出場し、合計で連続3大会でプレーするなどのスター選手。41歳にしていまだ北海道コンサドーレ札幌で現役を続けるリビング・レジェンドである。
「浦和レッズでプレーしているときや代表戦でよく見ていましたね」
小塚は1994年生まれだから、小野が2006年に浦和に復帰、ドイツ・ワールドカップに出場した頃のことだ。和季少年はそのとき12歳。小野の輝きをまっすぐに全身に浴びて吸収する年頃だ。
「両足できれいにボールを蹴ることができて、そのパスもきれいで、そこを通すのか! というパス…… ロブパスというのかループパスというんですかね。そういう感じでシュートも決めるし、僕もすごく好きで自分でもやるプレーなので、憧れの選手でもあり、一番うまいなと思っている選手です」
いまでも刺激を受けているという。
「トラップは好きですね。あの吸いつくようなトラップ。うまいなあと思いながら映像を見たりしてます」
なるほどな、と思う。小塚のあのマグネットのようなボールタッチ、小塚の言葉を借りれば「そこを通すのか!」の意外性たっぷりのパスは、小野のようではないか。
「いやいや、まだまだ近づけてないですね」
小塚は苦笑いするのだが、驚きに満ちた「人とは違う」プレーはこれまでのキャリアで何度も見せてきた。できないわけではない。
「それを川崎では出せていないので、全然まだまだです」
まだまだ、の理由はそういうことだった。
自分に腹が立つ
21年、フロンターレへの加入は、理にかなっているように思われた。前シーズンにJ1リーグで圧倒的優勝を果たした魅惑のアタックに、卓越した技術と誰にも真似できない感性で、また新しいカラーを加えることができる。ファン、サポーターを最高に楽しませるだけの「色っぽさ」というか「艶やかさ」を持っている。
「でも、やっぱり、まずは、うまくはいってない、ですよね、正直なところ。なかなか難しさはあるというか……」
一音一音を少しゆっくりと発して、言葉と言葉の間にほんの小さく置いた無意識の空白が、困難の深さを示していた。
でもたぶん、正直なのだと思う。何かを繕えば、雑念につながる。
「一番の持ち味は攻撃的な部分だと思うんですけど、そこをまだ出せていないと思っていて、すごく難しい。もがいているのかなと思います」
与えられているのは、4-3-3システムのインサイドハーフだ。脇坂泰斗、旗手怜央、遠野大弥、橘田健人らがいて、争いは激しい。小塚は守備の勉強が続いている。
「まず最初に言われたのが守備のところでの、インテンシティというか強度の部分。意識をしてある程度できるようになったから、オニさん(鬼木達監督)も使ってくれていると思うんです」
一定の手応えは持っている。だから、J1でも4月18日の第10節サンフレッチェ広島戦でデビューしたあとに、5月16日の第14節北海道コンサドーレ札幌戦で初先発するなど計4試合に出場。6月9日の天皇杯2回戦AC長野パルセイロ戦でも先発を勝ち取った。
一方でインテンシティと一言でいっても、さまざまな側面があるだろう。単なる体と体のぶつかり合いの強度なのか、スピードに乗ったときに振り切る強さなのか、それとも……?
「連続性、ですかね。実は、大分と川崎は真逆じゃないですけど、攻撃に行くときのスピードが全然違うんです。大分はまず後ろで回して時間を使ってしっかりボールを持ってから、相手の出方を見て、という攻撃なんですけど、川崎はどんどん前に前にというチーム。その部分で僕はまだ『チーム戦術の速さ』についていけていない、というのが自己分析です」
確かにいまは苦しいかもしれない。でも、鬼木監督の言葉がうれしい。
「オニさんにも攻撃で違いを出してほしいと言ってもらっているので、そこは持ち味だし、そう言ってもらってすごくうれしさもあります。このチームの力になりたいと思っているんです」
前のめりな思いに、言葉が熱を帯びてくる。
「でも、だからなかなからしさを発揮できていない自分に腹が立っているというか、なんでできないんだよ、と思いながらやっています」
その怒りが喜びに変わる日を、ファン・サポーター以上に、小塚和季自身が楽しみに待っている。
(文中、一部敬称略)
profile
[こづか・かずき]
大分トリニータより完全移籍で加入したMF。足下のテクニックにすぐれ、相手の逆を突くピンポイントパスでフィニッシュワークに絡む。昨シーズンは大分でリーグ戦8試合出場にとどまったが、チャンスメーカーとしての才能は誰もが認めるところ。チームとしての攻守のタスクをこなした上で違いを生み出せる選手として、フロンターレで覚醒してもらいたい。
1994年8月2日、新潟県見附市生まれニックネーム:カズキ