ピックアッププレイヤー 2021-vol.10 〜DF30 田邉 秀斗
獅子になれ
テキスト/林 遼平 写真:大堀 優(オフィシャル)
2002年。日韓ワールドカップが開催された年に京都で生を受けた少年は、サッカー好きの母親の影響もあって「シュウト」と名付けられた。
いくつかの理由のうちの一つだったかもしれない。だが、「あの時のイングランド代表のベッカムを見て『キックが凄かったので、それでシュウトにした』みたいなことを言っていました」と名付けた子が、時を経てプロサッカー選手になるのだから巡り合わせというのは面白いものである。
小学1年生の時に幼稚園から幼なじみだった友人に誘ってもらって以降、もともと走ることが好きだった田邉少年は少しずつサッカーに触れる時間を増やしていった。
とはいえ、すぐにのめり込んでいったのかと言うと、そうではない。最初はサッカーが好きだから続けていたのではなく、「友達と一緒に遊ぶことが楽しかったから」。家でじっとしているよりも、外でみんなと体を動かすのが好きだった。
他に好きなこともいっぱいあった。「周りの友達の中で一番やっていたくらい」と豪語するゲームも大好物で、水泳も小さい頃から続けていた。ただ、いろいろなものに目移りすることもあったが、最後まで残り続けていたのがサッカーだった。
「いろいろな趣味があったんですけど、サッカーだけが続いた。それ以外は3、4年で終わってしまって、なんだかんだサッカーだけやっちゃってた感じです(笑)」
関西大会に出るようなクラブチームの山田荘SCでも、最初は「負けたら悔しいけど、プロを目指したい、みたいなことは全く思っていなかった」と言う。徐々にサッカーに向き合う姿勢に変化が出てきたのは、小学校の高学年になってから。全国大会を目指しているうちにレベルの高いところでプレーしたいと思うようになった。
だからこそ、中学に入る時にユースクラブへの加入を夢見た。聞けば、京都サンガF.C.とガンバ大阪のセレクションにも参加している。しかし、結果は不合格。Jクラブのジュニアユースに入ることが叶わず、悔しさに打ちひしがれた。
そんな時に手を差し伸べてくれたのが母親だった。
「行きたいチームが他になかったんですけど、母親が小学校の時の先輩のお母さんとつながっていて、そこで奈良のチームの話を教えてもらった。その流れでセレクションを受けた感じです」。
ここで加入したのが奈良YMCAジュニアユース。関西でも中盤から上を目指せるような強いチームだった。
ちなみに京都の一番南にある相楽郡に住んでいた田邉少年は、奈良の北部にあるチームまで車での移動を必要とした。もともと母子家庭だったため、送り迎えは母親や一緒に住んでいた祖父と祖母がしてくれていたと振り返る。
「本当に今考えると、救われた部分しかないですね。小さい頃からずっとゲームばかりしていて、小学校の時にはせっかくサッカークラブに入れてもらっているのに練習せずに砂遊びばかりしていました。小学校の時にもう少しちゃんとしとけばよかったなと思います(苦笑)。だから、家族には感謝しかないです」
中学は浮き沈みのある3年間だった。最初の2年間はA、B、Cとカテゴリーが分かれていた中で、ずっと一番下のCチームに在籍。当時を回想し、田邉は「あの時は精神的に自分が幼稚でしたね」と苦笑いする。
「ずっとふてくされていました。練習試合も全然、身が入っていなかった。試合が始まってもチャラチャラしていて、抜けた感じのプレーばかりしていた。いま思えば、Aチームに上がれなくて当然だなと反省しています。本当に中2の時はサッカーを辞めようと思って練習に行かなかった時期すらありました」
小学校の時は常にスタメンでチームメイトの誰しもが認める存在。ただ、中学校に上がって一番下のカテゴリーとなり、トップチームに上がれず「なんで俺がここにいるんだ」と苛立ちが募った。それでも辞める決断に至らなかったのは仲間のおかげだ。
「やはり友達、仲間が止めてくれたところが大きい。逆に言えば、自分がここでサッカーを辞めたら友達との関係がなくなってしまうかもしれないという不安もありました。本当は辞めたくないけど、サッカーができないから、下手くそだから、上のカテゴリーでやれないから辞めたい。サッカーから逃げようとしていたんだと思います」
迷い込んだトンネルから抜け出したのは3年生になってから。Cチームの時の監督がAチームの監督になると田邉をトップに抜擢。「新人戦で初めてAチームに入れてもらって、そこで途中出場した時にサッカーって楽しいなと感じたんです。そこでまたやり始めようと。本気で取り組んでみようと改めて思いました」。
「見える世界が変わった」。
サッカーに向き合い始めた男は、全国を目指す過程の中でトップレベルの選手たちと対峙。当時、CBだった田邉は、相手のエースストライカーを抑えることにやりがいを感じながら一歩一歩成長していく。中学時代は選抜チームなどに呼ばれることはなかったが、トレセンやアンダーカテゴリーの代表に選ばれている選手を止めては、「俺に止められるのはどうなんだ」と自信を深めていったと言う。
ただ、結果的に全国大会への出場は叶わず。大きな成績を残すことができなかったため、Jクラブのユース入りは諦めざるを得なかった。
では、高校はどこに進学するのか。そんな田邉に目をつけたのが静岡学園である。本人いわく「たまたまスカウトの方が来ていた試合にメンバーがいなくて自分が出ることになった」。運は実力の内と言うが、運を引き寄せるだけの実力があったことは言わずもがな。そこでの活躍が進学につながった。
面白いのが、田邉自身が静岡学園のことを全く知らなかったことだ。どんな特色があって、どんなチームなのか。サッカー好きならある程度プレースタイルくらいは知っていそうだが、地元の京都橘くらいしかわからないほどの無知だった。だから、「本当に申し訳ないんですけど、何も知らないで入った結果、技術などが違い過ぎて最初にとてつもないショックを受けました」。
周りは静岡学園に憧れて入ってきた選手たちが多く、誰もが技術を武器にしていた。だが、自分はそうではない。他の選手たちより背も高く、足も早かったため通用するだろうと甘く考えていたら、全く敵わない自分がいた。
しかしながら、田邉は落ち込まなかった。何故なら1年チームで最初からスタメン出場を続けていたから。これによって「天狗になってしまった」と頭を搔く。技術がなくても大丈夫とたかを括っていた過去を苦笑いしながら振り返った。
「チームで評価を得るには、監督やコーチが求めていることができないとダメなのはわかっていた。ドリブルやリフティングを人並み以上にやれないと評価対象に入らないと。かと言って、あまり自主練はしていなくて(苦笑)。みんながずっと自主練していたのにオレだけすぐに帰ってましたね。それもある種、サッカーから逃げていたんだと思います。一人だけ下手なやつが練習しているのを見せるのが恥ずかしくて逃げていました。
走りに関してもそうです。ロング走をしても後ろの方で『これやっても意味ないだろ』みたいな感じで、いい風に、自分の楽な方に考えていましたね。これでも試合に出られているからいいだろうと思っていました」
中学の時のようなサッカーから逃げる時期に対面した中、再び軌道修正をかけることができたのは高校2年生になった後のこと。トップチームに入り、技術だけでなく、スピード、体格で上回る上級生とプレーすることで、今のままではダメだと理解した。
そこからは真摯にトレーニングに打ち込むようになった。ポジションもメンバーが不足した時に急遽サイドバックでチャレンジしたことが評価され、CBからコンバート。2年生のプリンスリーグが開幕して以降は、サイドバックのレギュラーとして定着するようになった。
また、新たなポジションに変わったことで、新たな出会いも訪れる。自身の前に立つサイドハーフの位置に、後に鹿島アントラーズへと加入する松村優太がいた。この出会いは自身がプロになれた一つの要因だと説明する。
「松村さんは当時から足が速過ぎましたね。言い方が悪いですけど、追いかけるのが本当に面倒でした(笑)。静学はテクニカルなドリブラーが多いので、ボールを持ってからでも20mくらいなら追い越せる。でも、松村さんは追い越せない。ボールを預けたら勝手に一人で前に行ってしまうので、本当に追い越せなくて大変でした(笑)。
でも、松村さんもプロを目指してらっしゃったので、プロを目指している選手のメンタリティと言いますか、サッカー面だけでなく日常生活や食の部分、生活面や人への振る舞いだったり、サッカーに向き合う気持ちなど、全てを目の前で見させてもらったと思っています」
二人の縦関係が大きく生きたのが高校2年時に出場した全国高校サッカー選手権大会だ。右サイドから圧倒的な攻撃力を披露した二人は、多くの試合でチームの勝利に貢献。そして、静岡学園は決勝で青森山田高校に勝利し、念願の優勝を手にした。
「もともと優勝できるとは思っていませんでした。自分は優勝を目指してやっていましたけど、とりあえず高校3年生に花を持たせてあげようと思ってやっていました。目の前に松村さんがいるので、あの人がプレーしやすいように、伸び伸びとプレーできるようにと考えていました。その結果、優勝できて、自分としても嬉しかったですし、先輩にああいう結果を残せたのが一番嬉しかったですね」
3年生に優勝をプレゼントする。目標としていたことを達成した田邉に、予想外の出来事が起こったのはそれから2ヶ月後のことだった。
授業と授業の合間の休み時間に監督から声をかけられた。
「放課後、相談室にこい」
はてなが頭に浮かんだ。何かをしでかした覚えがないか頭を巡らせる。それでも何も答えが出なかった。
放課後、意を決して相談室の扉を開くと、そこには見たことのある人物が座っていた。
「入った瞬間にびっくりしました。見たことある人だと。そこから記憶がないんです(笑)」
座っていたのは、川崎フロンターレのスカウトを務める向島建。「会釈をしたことがあったくらい」の人の口から出てきた言葉は、「フロンターレに来ないか」という一言だった。
「正直、その時の話は覚えてないです(笑)。緊張し過ぎて、手汗が凄かったことくらいですかね。当時もプロには行きたいと思っていましたけど、選手権でそこまで活躍していたわけではないし、流石にプロの内定はないと思っていました。話が終わった直後に親にも連絡して『あんたが行きたいなら行きなさい』と言ってくれた。それで自分はもちろんチャレンジしたかったので、これ以上ないチャンスだと思ってすぐに行きたいという風に伝えさせてもらいました」
日本のトップチームであり、さらに大島僚太や長谷川竜也、旗手怜央といった偉大な静岡学園の先輩たちが在籍するチームからのオファー。喜びの方が大きかったと振り返るが、「よくよく考えてみたら自分はこんな中に入れるのかと不安になりました」と言うように、川崎Fへの加入は田邉にとって大きな決断となった。
ただ、川崎Fへの内定が決まった後の1年間は、悩み苦しむ日々を送っていた。川崎F内定という肩書がつくことでの責任感や重圧、そして3年生となりキャプテンになった中でチームをまとめられない自分との葛藤。同じくプロ内定を勝ち取った上でチームを牽引していた松村の背中を見ていたからこそ、「自分は何を教えてもらっていたんだ」と悔しさが募った。
「2年生の時は松村さんのために自分がどう役に立てるかみたいなことを考えていたけど、自分が3年生になった時、自分がチームの中心としてやらないといけないという責任感が今まで以上に増しました。松村さんがいなくなった分も自分がやるとは思っていましたけど、それが裏目に出てしまった気がします。正直、キャプテンをやれる素質もなかった。改めて、サッカーから逃げていた時代のことを思い出して、その時にちゃんとやっておけば良かったと後悔しました。そこでしっかりやっておけばチームの中心に立つ選手の振る舞い方もわかったと思うんです。 松村さんもアントラーズ内定という中で選手権を優勝された。本当にああいう人が自分のお手本となってくださっていたのに、自分は何も生かせなかったのが、負けたことよりも悔しかったですね。ああいうレベルの人と一緒に生活できていたのに自分は何も学習できなかったというのが申し訳ないというか、そういう思いです」
それでも、選手としても人間としても大きく成長させてもらった高校時代を田邉はこう振り返っている。
「自分の転機となったのは選手権の優勝だと思います。優勝できたのは先輩のおかげだったり、周りの人たちの支えもあった。自分の力だけでは絶対にできなかったと思っています。それにフロンターレの内定をいただいたのも、今所属している3人の先輩方や向島さんら静学のOBの方がいてこそ声をかけてもらったと思っています。逆にそれがなかったら自分は絶対に呼んでもらえなかったと思っているので、静学に入れたことが自分にとって運が良かったと思っています」
今季から高卒新人として川崎Fの一員に加わった。改めて日本のトップチームの練習に加わり、「トラップの質やパス、トラップの技術」に驚く日々だと言う。だからこそ、最初は「うま過ぎる。何も通用しない。ゼロから積み上げるしかない」と切り替えるしかなかった。
「入った時に何も基準を達成していなかったので、逆に開き直って試合に出られないのは当たり前だと思っていました。むしろ足りないところを伸ばしていくしかないと。もしかしたら、自分の実力がギリギリ届きそうだったり、他のチームだったりしたら、ベンチに入れないことに納得できずに腐っていたかもしれない。でも、そうじゃないので。もちろんスピードやパワーは全然劣っていないという自信もあります。だけど、パス、トラップの技術、フロンターレで大事になる技術は、毎日の練習と残りの練習で突き詰めないといけないと思えたことはよかったと思います」
日々研鑽を積み上げていた男に初の出番が回ってきたのはAFCチャンピオンズリーグのことだった。初めての公式戦は「実力差も結構あったので気負いは感じなかった」と振り返る。「自分のやりたいことをやってこいと先輩方も言ってくれたので伸び伸びとやれました」。
田邉にとって忘れられない試合になったのは、ルヴァンカップ準々決勝第2戦・浦和戦だ。この時期のフロンターレはけが人が続出し、本職のCBがほとんどいなくなっていた。この状況で鬼木達監督は、田邉を先発に抜擢。国内公式戦初スタメンが大一番となった。
「自分がスタメンで出るとは全く思っていなかったですね。スタメンとなった時は、緊張ではなく、むしろやってやろうという気持ちになっていました。気持ちの面でも変に準備する時間がなかったので何も考えずに挑めたと思います。ただ、スタジアムの雰囲気や人が入っている環境は、これまでとは違うなという感覚がありました。自分は一番若いのでガツガツやらないと、と思い過ぎたのもあまり良くなかった。自分のやりたいこと、普段やれていることがほとんど出せなかったのは、本当に申し訳ないと思っています。自分が普段からやっていた練習の強度がまだ低かったと再認識しました」
不完全燃焼に終わった試合を経て、田邉はまた前に走り出している。ヒリヒリとした公式戦を経験したことで、今まで見えていなかった景色を知ることができたからだ。
「試合に出てから見方が変わりました。感覚的に少しフロンターレのサッカーをわかってきたというか、近づいてきたのかなと思います。今年1年は、入った当初、1秒も出られるとは思っていませんでした。高卒1年目で、しかも日本一のチームで出させてもらった経験はかなりでかいと思います。これを経験できているのは日本で自分一人しかいない。そこは自信を持って成長していきたいと思っています」
ちなみに今、一番好きな選手はセリエAのミランに所属するズラタン・イブラヒモビッチだという。その理由は「メンタリティですね。メッシやロナウドのようなスーパースターではないけど、自分が常に一番と思えるメンタリティ。口だけではなく実力もあって、しっかり結果を残すところがすごくかっこいいと思います」とのこと。
そんな男のメンタリティを学びながら、さらに強く、前へと進もうとしている。
「試合に出ないからと思うのではなく、本当にいつ何時、何が起こるかわからない。今よりもけが人が増える可能性もあるし、自分が怪我する可能性だってある。そういう時にこの間のようなスクランブルな状況で自分がスタートを任される可能性だってある中で、信頼して自分を使ってもらえるような選手になっていきたいと思います」
高卒新人だから、1年目だから、は関係ない。
田邉が出るなら安心だと思われる選手になるため、日々、成長への歩みを辿っていく。
profile
[たなべ・しゅうと]
スピードと対人戦の強さを武器にセンターバック、サイドバックと守備的なポジションであればどこでもこなす万能DF。静岡学園で足下の技術を磨き、テクニックとフィジカルを融合させたプレースタイルを身につけた。プロのレベルで自分の特徴をどこまで表現できるか。
2002年5月5日、京都府相楽郡生まれニックネーム:しゅうと