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ピックアッププレイヤー 2022-vol.02 〜MF10 / 大島僚太選手

Vamos família

目指す世界、目指す景色〜大島僚太

テキスト/原田大輔 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Harada Daisuke photo by Ohori Suguru (Official)

サッカーを楽しむことができなかった。

2021年、大島僚太は幾度もケガに見舞われ、ピッチで躍動することができなかった。

尊敬する中村憲剛のメッセージを受け、自ら変わろうとしていたなかで

彼は何を思い、何を考え、どのような日々を過ごしていたのか。

苦悩した先にある2022シーズンへの思いとは──。

 あれが2021年のいつだったかはもう覚えていない。

 あるオフの日、大島僚太は車に乗り込むと、生まれ育った静岡県に向かった。別に用事があったわけではない。自分が変わろうとしたなかで、何もできないもどかしさ、虚しさ、はたまた怒りや苛立ちを抱え切れず、故郷に懐かしさを覚えたのかもしれない。

 ただ、ただ、理由もなく車を走らせた。

「自分が変化を恐れず、変わろうとしたタイミングで、なぜ、こうなってしまったのだろうか。やっぱり自分は自分の殻にこもって、その世界で頑張っていたほうがよかったのではないか」

 ハンドルを握りながら、そんなことを思っていた。

「もう終わったな。サッカーやめようかな。そのほうが自分も苦しまないで済むし、これ以上、周りに迷惑をかけることもないし……」

 考えれば、そこまで思考は行き着いた。

 苦悩と呼ぶには、それはあまりにも軽すぎる。それほどに彼は2021年に懸けていた──。

 2021シーズン開幕前、クラブから依頼される恒例のアンケートでは、「サッカー人生で一番うれしかった試合」という設問に、「天皇杯決勝」と書いた。同時に「サッカー人生で一番悔しかった試合」という問いにも「天皇杯決勝」と書き込んだ。

 2021年1月1日、中村憲剛が現役を引退した日のことだ。チームが史上初めて天皇杯を掲げた試合後、大島はメディアの前で、こんな言葉を残している。

「一緒にプレーしている期間で、たくさんのことを教えてもらいました。あれだけ愛されるサッカー選手というのはいないと思いますし、僕もその(中村)憲剛さんを愛していたひとりでした」

「喜」と「哀」──相反するふたつの感情が入り交じっていた。

「2020年のリーグ優勝を決めたガンバ大阪戦。(谷口)彰悟くんが出場停止で、僕がキャプテンマークを巻いて試合に出て、(86分に)憲剛さんと交代して、憲剛さんの腕にキャプテンマークを巻いたじゃないですか。あのときの写真をみんなは『いい場面だ』『すごくいい写真だ』って言ってくれますけど、やっぱり僕はもう1度、一緒のピッチに立ちたかった。だから、その思いを天皇杯決勝で達成できればという思いがあったんです。でも、それを叶えることはできなかった……。

(天皇杯決勝の)試合中も感じていたんですけど、最初のチャンスで僕がヒールでスルーして、(旗手)怜央が相手とガチャンとなったときも、ああいう場面で自分には、まだまだ行く姿勢が足りないと思った。もともと、サッカーなんて後悔の連続なんですけど、憲剛さんともう1度、一緒のピッチに立てなかった悔しさが尽きなかった。

 ただ、先を見たときには、憲剛さんがピッチにいない状況でタイトルを獲れたことに喜びと誇りを持って進んでいかなければいけないとも感じました」

 大島が中村から引退の二文字を告げられたのは、2020年10月31日のFC東京戦前だったが、それから2ヶ月が経ち、年が明けてもなお気持ちの整理はつかなかった。

「天皇杯決勝が終わって、本当に憲剛さんは引退しちゃったんだなって、正月の三が日はそんな感情がふわっと芽生えたり。1月3日、4日くらいからはジョギングしたり、縄跳びを跳んだりと、クラブから言われていた宿題に取り組んでいたのですが、身体を動かしながら、何とか気持ちの整理と頭の整理をしていった感じです」

 中村から直接、引退を告げられたひとりとして、自分なりにそのメッセージを噛み砕いていた。

「これは僕ひとりが感じていることではないと思いますけど、憲剛さんはやっぱり、ひとりでクラブを背負っていたところがありました。(中西)哲生さんや(伊藤)宏樹さんをはじめ、多くの先輩たちから伝えられてきたことをひとりで背負いながら僕らに伝え、かつクラブが川崎の街に根付くようにずっと活動してきた。憲剛さんは、その思いを何人かの選手に託しましたが、僕も直接、話を聞いたひとりとして、その一部でも背負うことができたらなと。今までは、(小林)悠さんやノボリさん(登里享平)におんぶにだっこなところがかなりありましたけど、そうしたところから少し脱皮して、自分自身も背負うことができれば、と。そういったことも憲剛さんからは期待されているというメッセージだと受け取りました」

MF10 / 大島僚太選手 MF10 / 大島僚太選手

 自分自身も変わろう、変えようと決意した矢先だった。

 2021シーズンがスタートしてまだ間もない、キャンプ中に右足のふくらはぎを痛めたのである。それにより沖縄キャンプはほぼリハビリに時間を費やすことになった。それだけではない。麻生グラウンドに戻ってきた1月末、リハビリの一貫でスプリントを行うと、再び同じ箇所を痛めてしまった。

「リハビリ中に同じ箇所をまた痛めただけに、そのときは担当のドクターだけでなく、セカンドオピニオンもしました。そうしたら全治3カ月だと言われて……。3カ月のうち最初の1カ月は絶対安静だと言われました。そこから1カ月間、安静に過ごして、再びジョギングをはじめたんですけど、また同じ箇所の付近を痛めてしまって……」

 全体練習中ならばまだしも、リハビリ中に再発してしまう負のスパイラルだった。これにはさすがの大島も心を掻き乱された。

「本音としてはふざけんなよって思いました。でも、その怒りをぶつける場所というか先がない……。自分のせいだけど、どこかで自分のせいにしたくない歯がゆさと苛立ち……とでも言えばいいですかね」

 18歳のときに川崎フロンターレでスタートさせたプロのキャリアも、今年で12年目を迎える。これまでにも数え切れないほど傷を負ってきたが、この連続による精神的なダメージは計り知れなかった。2021シーズンが始まっていた3月8日には、「全治12週間程度を要する見込」とのリリースが発表された。

「1月のときは『また、やっちゃったなー』くらいでしたけど、リリースが出たときには正直、『もう、いいかなー』って気持ちになりましたよね。意気込みという意味でも、自分のなかでは覚悟というか、思いを加速させていたところはあったので、かなりしんどかった。リハビリ中も痛みを感じていたりして、そんな自分の身体に怒りを感じたり、落ち込んだり。ほんと、ぐちゃぐちゃというのが正しい感情でした。

 シーズンが始まってチームは連戦を戦っていましたけど、純粋に応援していました。自分が一緒に頑張れるわけじゃないですし、どうにかできるわけじゃない。憲剛さんから受け取ったメッセージをチームメートに伝えていくことすらできないままでしたから。自分が変化を恐れず、変わろうと思ったタイミングで、こういうことになってしまったので、何かそう思ったこと自体が間違っていたのかなって。やっぱり、僕は自分の殻に閉じこもって、自分だけの世界で頑張ったほうがいいのかなという感情にもなりました」

 チームがAFCチャンピオンズリーグ(ACL)のグループステージを戦うため、ウズベキスタン遠征に向かうころには、全体練習に合流できるまでに回復した。ただ、同箇所のケガを繰り返した右足は、後遺症ともいえる症状が見られるようになっていた。

「正直、ウズベキスタンに行ったときも、本気で走ることは怖かったですし、本気でプレーすることも怖かった。ただ、ウズベキスタンに行く前に(田中)碧から移籍するという連絡があったり、ACLに向かうチームのモチベーションはかなり高かったので、今までの自分のストレスを試合にぶつけようとは思っていました。本気で走ることはできないけれど、頑張るところは頑張って過ごそうと」

 元日から数えれば半年が経っていた。6月29日に行われた第2節の北京FC戦で、大島はピッチに復帰する。ウズベキスタンではその試合も含めて4試合に出場した。

「怖かったですよ。だから、無事に終わってくれという思いのほうが強かった。監督からも事前に、無理はしてほしくないけど、出られる試合は出てほしいという話があったので、毎試合、準備はしていました。ただ、復帰間もないころは、トレーニングに入る前の準備運動もものすごいメニューが多くて、それをしないと不安だったこともあり、中2日、中2日で準備するのはかなり大変でした」

 帰国後は、7月17日のJ1第18節の清水エスパルス戦でピッチに立った。ACLも含め、ピッチに立てば、そのプレーにはやはり光るものがあり、存在感は際立っていた。

「ACLは主力が欠けているチームも多く、強度的に劣る部分はありましたけど、清水戦はJリーグ特有のスピード感や強度があるのと、地元だったので胸が高鳴ったところはありました。結果的にゴールを決めてしまったのであれですけど、試合中は足が不安だなって思うときもありました」

 1−0で迎えた50分だった。左SBの登里からゴール中央にポジションを取る脇坂泰斗に斜めのパスが通る。それに合わせて大島は、するするとペナルティーエリア左に走り込んでいく。そして、脇坂からのパスを受けると、胸でトラップして右足を振り抜いた。久々に感じた、怖さではなく、楽しさだった。加えて、このゴールには伏線と、大島僚太が大島僚太たる理由が隠されていた。

「プレーに対しては不安があったので、せめて1回か2回はチャンスに絡みたいなって思っていたんですけど、前半はそうした感じにはならなくて。そうしたらハーフタイムにノボリさんと泰斗がしゃべっている内容が耳に入ってきたんですよね。泰斗が、ノボリさんがボールを持ったとき、斜めのコースに入れたら入るので、パスを出せたら出してくださいって言っていたんです。それを盗み聞きじゃないですけど、聞いていて、これは使えるかもしれないなって。得点シーンの少し前から、なんとなく、これはこうなって、こうなったら、こうなるだろうなっていうイメージが湧いたので、あそこに走ったんです。イメージしたとおりになって、ゴールを決めたときには、久々にこれがサッカーの楽しさだよなって思いになりました」

 プレーには怖さがある。全力でボールを蹴ることもできない。本気で走ることもできなかった。だが、技術や頭は色褪せることはない。それを証明したかのようなゴールだった。それでも大島は言う。

「めちゃめちゃ頭の部分もすり減ってきていますけどね。(実戦から遠ざかり)削られてしまった部分もありますけど、大本(おおもと)の部分は残っているところは残っているのかもしれないですね」

 ここからだ。そう思っていたタイミングで、再び大島は戦列を離れることになる。7月21日の天皇杯3回戦、ジェフユナイテッド市原・千葉戦でCKを蹴ったときに、右足の内転筋を痛めたのだ。

「あのときはACL後の隔離期間中で練習時間も限られていた。そのなかで練習のときから自分の身体のフィーリングがあまりよくなかったんです。身体のネジがうまく締まらないみたいな感覚があって。そのネジを無理矢理にでも合わせようと思って、シュートを何本も蹴って合わせようとしたんですけど、それでもしっくりこなかった。それで途中から試合に出て、FKを蹴ったときも自分のフォームがバラバラで。何かおかしいなって思っていたら、結果的にCKを蹴ったタイミングで負傷してしまったんです」

 負傷したあと、鬼木達監督からケガの様子について聞かれたときに、前々日や前日練習のときから、いつも以上にボールを蹴っている様子を見て、心配していたと言われたという。自分が抱いていた感覚を説明するとともに、監督の観察力と把握力に驚いた。

 ただ、復帰してすぐに負傷した心の痛みは身体以上だった。

「ほぼ(心は)折れてました。ケガをしたのが7月21日で、僕、8月5日に子どもが生まれたんですけど、実はその翌日、違う箇所を痛めてしまったんです。

 感情としてはもう動きたくないし、何もしたくなくなる。サッカーうんぬんというよりも、ただジョギングしていただけで、そうなったのでアスリートとしてどうなのかなって。本音を言えば、もうサッカーやめたいなって……。自分のせいだとは思っていましたけど、怒りのぶつけどころがなさすぎて、人のせいにしてしまいそうになる自分も嫌だった。いっそのことサッカーをやめたほうが、そういう思いや考えにならなくてすむ。それに自分を診てくれているメディカルスタッフにも迷惑が掛からないだろうなって…… 子どもが生まれたあとも、そう思うことはありました」

 第一子の出産には立ち会えたというが、その後、妻子ともに退院するまで、ひとりで過ごす時間も多かっただけに、なおさらネガティブな感情に支配されたのだろう。ただ、新たに家族の一員になった子どもと妻が家に帰ってきたときには「もう、ひと踏ん張りがんばってみるか」という思いや意欲が湧いた。

 それでも何度もえぐられた心は、シーズン終盤に復帰してからも葛藤が続いていた。「今も」だというが、右足で思いっ切りボールを蹴ることができないからだ。肉体的にももちろんダメージはあるが、何度も味わった恐怖心が、どうしても自分を抑止する。

「だから本心を言えば、昨年は最後まで僕はサッカーを楽しむことができなかった……」

 それでも中村から受け取ったメッセージをチームに少しでも還元しようと、大島が変わった、変わろうとしたことは事実だ。おそらく本人は微塵も満足していないだろうが、その変化はチームに大きなプラスをもたらしていた。

 J1連覇を達成した2021シーズン、若手選手に話を聞くと、大島からアドバイスを受け、目の前が開けた、プレーが向上したというエピソードを数多く聞いた。以前の、と言ったら失礼かもしれないが、彼からは想像できなかった行動だった。

「そこは意図してやっていた部分もあります。実際、僕自身も憲剛さんから教わりながら成長してきましたから。僕らがやっているこのサッカーは、ボールを怖がってしまったら成り立たない。だから年齢の若い選手たちに、そういったマインドにはなってほしくないですし、サッカーを楽しんでもらいたいという思いがある。また、逆に意見を言ってもらうことで、僕も一緒に考えて噛み砕くこともできる。僕自身の勉強にもなりますし、自分の頭のなかも整理される。実際に(橘田)健人とかのプレーを見ていて、自分が伝えたことが活きていると感じられたときには『言ってよかったなぁ』って思うときもありますから」

 そして、「サッカーを楽しめなかった」と言った言葉には続きがある。

「僕が復帰したのがシーズン終盤で、そのあとすぐにリーグ優勝が決まったこともあり、その後の試合は状況的に難しい部分もありましたけど、リーグ最終節の横浜F・マリノス戦が特別だったんですよね。すでに順位も決まっているはずなのに、前半からお互いにやり合っていた。僕はその様子をベンチから見ていましたけど、純粋に面白そうだなって。F・マリノス、速いな、強いな、やることはっきりしているな、迷いがないなって」

 レアンドロ ダミアンと前田大然のどちらが単独得点王になるかという記録以外、確かに何も懸かっていない試合だった。だが、昨季のJリーグベストマッチに挙げたくなるほど、90分を通してスペクタクルで、エンターテインメント性にあふれていた。リハビリ期間中には「サッカーをやめたい」とまで考えていた男は、「めちゃめちゃモチベーションが上がりました。これはしびれるぞって」と目を輝かせた。その試合、大島はマルシーニョに代わって後半開始からピッチに立った。

「両チーム合わせて、ハーフタイムの交代が僕ひとりだった。だから僕が面白いと思っているということは周りもそう感じているだろうから、その雰囲気を邪魔しないようにしようと思っていました。前へのボールロストであれば空気を壊さないだろうから、ボールをこねて奪われるようなことはしないのと、相手の時間のときは割り切って相手に与えてもいいかなという思いはありました」

 そう思ってピッチに立ったが、その空気に身をさらせば、異なる感情も抱いた。

「だんだん邪魔したくなったというか。だんだん、欲がでてくる感覚はありました」

 そこがプレーの原動力であり、中村憲剛と同じく永遠のサッカー小僧と言われるゆえんなのだろう。

「結果は1−1でしたけど、スコアを忘れてしまうくらい内容の濃い試合でした。同時に僕らが今季、再びリーグ優勝を目指すうえで、最低でもF・マリノスとは2回対戦しなければいけないのかという思いにもなりました。それくらい強かったんですよね。これはある意味、ネガティブな思考なんですけど、それを打ち負かすという意気込みで、1年間の準備をしていく覚悟がないといけないと思っています」

 2022シーズンに向けた今も、過去の自分と比較すれば、全力でプレーすることができない自分がいる。

「僕、2017年、2018年くらいが一番、サッカーを楽しめていたと思うんです。初めてJ1で優勝したときまで遡ることになりますよね。そのあとの自分は、当時の自分よりも劣っている感覚がある。できていたものができなくなってきているところもありますし、毎年できることを増やしていく数が3個だったものが、今は1個になっている感覚が自分にはある。また去年1年間、全然、サッカーができなかったことで、自ら削っていった部分もあったんです。あれもしたい、これもしたいと思っていた時期が2017年、2018年の自分だったので」

 だから、今季の目標を聞けば、「まずは自分のことに集中したい」と語る。

「毎日が不安で、毎日、練習が『終わり』って言われて、『あー、今日もケガしなくてよかった』って思っている日々なので、そういう思いがなくなるようにしっかりとした身体づくりをしたいなって思っています。個人としては1年間を通して、少しでも長くピッチに立ちたいという思いもありますけど、何より僕自身が変わりたいという思いがあります」

 2度目の挑戦となる3連覇について聞けば、プロ12年目かつ4度のリーグ優勝経験者らしく、考えを明かしてくれた。

「初優勝した翌年、ユニフォームを着たらJリーグのワッペンが金色だったんですよね。前年度王者だけがそのワッペンを着けられることを知らなくて、めちゃめちゃ格好いいなって。これをまた着けて戦いたいなって思って戦ったら、その年、連覇することができた。だから、僕は1度、つかんだものは誰にも渡したくない。でも、僕は3連覇というのはそれを阻止したい相手や周りが言うことであって、僕らが言う言葉ではないと思っています。監督も1戦必勝、毎試合が決勝のつもりで戦えと、よく言いますけど、その積み重ねがタイトルにつながっている。だから、それをつかんだとき初めて僕らもそれを感じるのかなって思います」

 勘の鋭い彼のことだけに、こちらがタイトルについて聞いたことで、インタビューも終わりに近づいたことを悟ったのだろう。珍しく、自ら「話は変わるんですけど」と言って口を開いた。

「憲剛さんから受け取ったメッセージが何だったかについて聞いてくれましたよね」

 こちらがうなずくと、言葉を続けた。

「今、年齢の若い選手たちが海外を目指すことを僕は否定するつもりは全くないんです。でも、いつだったか憲剛さんと話していたときに『日本一の選手になってからでもいいんじゃない?』って言われたことがあるんですよね。それから日本一の選手とは何だろうって考えていたんです。優勝はしたことがあるよなぁとかって。それで思ったのがMVPだったんですよね。JリーグのMVPに選ばれたときに見える景色ってどんな感じなんだろうな、と」

 思わず、ニヤリとしていた。

「それが叶うか叶わないかは分からないですけど、そこを目指したいなと思います。憲剛さんに引退を告げられたとき『日本一の選手になれ』と言われたことが、ずっと心に残っているんです。だから…… 自分なりの解釈ですけどね。そこを目指すために、いろいろなことの無駄を省き、より自分が輝くことがポイントになるのかなと今は思っています」

 肉体的な影響もあるが、今、彼はかつての自分から多くをそぎ落とし、新しい自分を探そうしている。ただし、自らできることを削っていると話してくれたときにも続きがあった。

「悪あがきして、もう一度、前の自分に戻りたいなという思いもあるので、いろいろと努力もしているんです。でも、いったんは今の自分を受け入れなければいけないなと思っています」

 そのときも、ニヤリとしたのは言うまでもない。

 これまで幾度も負傷してきたように、何度も苦しさは味わってきた。そのたびに彼は進化してピッチに帰ってきた。

 大きく跳ぶためにはより大きく屈む必要がある。2021年は大きく屈んだ時期だったのだろう。ならば2022年は今まで以上に大きく── そぎ落としたことで見えた世界に、今までの彼のすべてを加えることで、想像を超える大島僚太になる。

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[おおしま・りょうた]

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巧みな足下のテクニックと視野の広さを武器に中盤でボールをさばき、チームの攻撃のリズムにアクセントをつけるJ屈指のゲームメイカー。守備でも献身的にハードワーク。鋭い出足の攻守の切り替えでチームディフェンスを引き締める。昨シーズンは怪我に泣かされリーグ戦は7試合出場にとどまったが、コンディションさえ整えばチームの大きな武器になるのは間違いない。

1993年1月23日、静岡県静岡市生まれニックネーム:リョウタ

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