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ピックアッププレイヤー 2022-vol.03 〜FW23 / マルシーニョ選手

coragem ~勇気

coragem ~勇気〜マルシーニョ選手

テキスト/いしかわ ごう 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Ishikawa Go photo by Ohori Suguru (Official)

 今シーズンのJリーグは、寒夜の等々力陸上競技場で幕を開けた。

 2022年2月18日、川崎フロンターレ対FC東京戦。

開幕戦特有とも言える、どこか独特な雰囲気が漂うピッチにマルシーニョは立っていた。

「開幕戦のスタメンということで、楽しみな気持ちと緊張感、その両方がありました。サポーターの前で自分の良いプレーを見せたいと思っていましたし、そのためには自分のスタイルである走ること。そして守備でも走って助けること。チームの力になりたいと思ってプレーしていました」

 その立ち上がり、攻撃の急先鋒として積極的な仕掛けを見せていく。

開始2分、大島僚太とのワンツーで抜け出す。ここはFC東京のエンリケ トレヴィザンにファウルで阻止されてしまうが、開始早々に相手のセンターバックからイエローカードを引き出すことに成功した。

 その後もマルシーニョの動き出しを見逃さず、チームメートたちはパスを配球。序盤、王者が見せる攻撃にリズムを生み出していたのは、左サイドにいるドリブラーのスプリントだった。

 だが決定機を生み出しても、フィニッシュワークで精度を欠いて得点には至らない。19分にはレアンドロ ダミアンからの絶好のパスをうまくゴールに流し込んだが、これもGKヤクブ スウォビィクに鋭く反応され、ゴールポストに嫌われた。2022年のリーグ初スコアラーになり損ねたマルシーニョは、あの場面を振り返って、こうおどけた。

「自分は『入った!』と思って、ゴールを決めた後のパフォーマンスに行きかけていました(笑)。枠を捉えていましたが、指先で触られてしまいましたね。フィニッシュ精度は自分が上げなくてはいけない課題ですので、そこは上げていきたいと思います」

 チャンスを逃していると、試合の流れが相手に傾き始めるのはサッカーの常だ。その後は一進一退の攻防が続き、後半はむしろ苦しい展開を余儀なくされている。それでも、チャンピオンチームはやはり強い。終盤、セットプレーからレアンドロ ダミアンが決めた虎の子の一点を守りきり勝点3を掴んだ。この粘り強さがチームの強さだと、マルシーニョは胸を張った。

「難しいゲームでしたが、チームが耐えるべきところを耐えて、ホームのサポーターの力を借りて良いサッカーができたと思います。開幕戦の勝利はとても大事です。全員が最後まで走り切り、一人一人が全力を出したことが勝利につながったと思います」

 リーグ3連覇への船出は白星スタート。こうしてマルシーニョの2シーズン目も始まった。

FW23 /マルシーニョ選手 FW23 /マルシーニョ選手

 マルシーニョことマルシオ アウグスト ダ シルバ バルボサは、ブラジル南東部に位置するリオデジャネイロ州に生まれた。

 リオデジャネイロといえば、2016年に第31回オリンピックが開催されたことでも有名な都市だ。マルシーニョの出身地はベルフォード・ロッショ。リオデジャネイロ州の中では裕福な都市と言われているが、生まれ育った地域は決して豊かではなかったという。

「周りには困難な人がたくさんいる環境でしたし、何度も厳しい状況がありましたよ。ただ両親が自分の教育をしっかりしてくれました。ブラジルではよくある話ですが、『サッカーで成功すれば家族を養える』、『サッカーで成功するんだ』と、そんな思いを持っている1人のサッカー少年でした。今の自分があるのは父と母のおかげです。良い家族に恵まれて育ったと思いますし、家族には本当に感謝しています」

 家族の話題になると、いつもの笑顔がさらに大きくなる。

 マルシーニョは5人兄弟の長男である。弟が1人と妹が3人。スマホの待受画面にしている兄弟たちとの家族写真をこちらに見せてくれた。とても仲が良さそうで、「愛に包まれた家族ですよ」と笑う。

 サッカーを始めたきっかけも、よくあるパターンだ。ブラジルの多くの少年がそうであるように、路上に出ては友達たちと夢中になってボールを追いかけた。ボールに見立てた石を裸足で蹴っ飛ばして血が出たり、転んで足を擦りむいたりと、小さな怪我も日常茶飯事だった。

 10歳の頃、地元のサッカーチームに。

 初めてやったポジションは、センターバックだった。ただし、ボールを持ったら小さな身体とスピードで相手を抜いて、そのままドリブルシュートを決めてしまうような少年だったのである。そのプレーぶりに驚いた監督は、すぐにアタッカーのポジションに変更した。そしてそのまま現在に至る。

「若気の至りですが、ドリブルでみんな抜いてやると思っていました(笑)。当然、今のサッカーで1人で全部やるのは無理です。組織の中で個人を生かすのが、サッカーだと思っています」

 当時のアイドルといえば、ロナウジーニョ、ロナウド、ネイマール。中でも一番はネイマールだった。あの華麗なドリブルを見ては、何度も何度も真似をした。

「うまいし、速い。そしてブラジルを出て、FCバルセロナでプレーしていましたから。欧州のビッグクラブでプレーするのは、ブラジルの子どもたちの夢なんです」

 最初に所属したプロチームは、リオグランデドスール州にある3部リーグの小さなクラブだった。ただ環境面は劣悪で、プロ契約とは言っても給料が支払われず、寮ではまともな食事も提供されなかったという。ブラジル最南端に位置する寒い気候でプレーすることも、マルシーニョにはストレスだった。

「最初の何日かで、もう耐えられない、我慢できないんだと母親に連絡しました(笑)。しかし『逃げたらダメ』と説得されて続けました。気候、環境、いろんな苦労がありましたが、そこを乗り越えたことが今の自分につながるのかなと思います。母親の言ったことは正しかったですね」

 ブラジルと言えども、州の3部リーグともなれば、お世辞にもレベルが高いとは言えない。そこで繰り広げられるのは、技術勝負ではなく削り合いの類のサッカーだ。ボールを持ってドリブルを仕掛けるのが得意なマルシーニョは、相手から徹底マークされ、反則まがいの危険なタックルを受けた。「足の骨を折られるんじゃないかと思ったこともありましたよ」と苦笑いを浮かべていたが、これがブラジルサッカーのリアルでもあるのだろう。ただ次第に適応し、たくましく成長を遂げた。

「苦しんだのは、最初の2、3週です。それを乗り越えていけば、相手は3部の選手ですから、ドリブルでぶっちぎっていくプレーもできるようになりました。そこからは良いことがたくさんありましたし、実際にプレーしたのは5ヶ月ぐらいだと思います」

 その後は、コリチーバの育成組織に入りユースで3年契約を結んだ。育成組織ではあるが、給料も支払われる待遇だった。2015年にはノーヴァ・ハンブルゴでプロとしてデビューし、選手としてのキャリアが動き始める。そしてSCインテルナシオナルのU-20に移籍。当時のトップチームで活躍していたストライカーが、現在のチームメートでもあるレアンドロ ダミアンである。

「インテルナシオナルではトップとユースの練習を行ったり来たりしていました。ダミアンとは一緒に試合に出たことはありませんでしたが、トップチームの練習では一緒にやりましたね。彼はプレーヤーとして素晴らしいですが、人としても尊敬できる人物です。あのプロフェッショナルな姿勢を学びたいといつも思っています。この日本で彼と一緒にプレーできていることは不思議な縁を感じますが、2人でフロンターレの歴史を築いていけたらと思っています」

 期限付き移籍でいくつかのクラブを渡り歩いた後、2018年にフォルタレーザECに期限付きで移籍。当時の話を尋ねると「実は面白い話があって」と前置きして、一気にまくし立てた。

「実はポンチプレッタというクラブと話がまとまっていて、後はサインするだけでした。そんなある日、ロジェリオさんという方から電話がかかってきたんです。『誰だろう?知らないなぁ。忙しいから、また後で電話します』と言って切ってもらった後に『まさか、あのロジェリオじゃないよね?』と思って…… ただ市外局番がフォルタレーザで、自分からかけ直したら、まさかの本人でした(笑)」

 マルシーニョが言う「ロジェリオ」とは、サンパウロで活躍した元ブラジル代表の伝説的なGKロジェリオ セニだ。現役時代はフリーキックでゴールを決める異色のGKとして有名で、引退までに通算131ゴールを記録している。これはギネス世界記録にも認定されているほどだ。

 その人物が監督として指揮していたクラブがフォルタレーザECだったのだ。そんなロジェリオ本人からの電話に、マルシーニョは舞い上がった。

「自分のプレーを評価していると言われました。『だから、俺のチームに来るか?』と言われて、二つ返事で『もちろんです!』と。ポンチプレッタとは破談になって申し訳なかったですが、自分の中では良い決断だったと思います。ロジェリオさんの元でプレーし、チームは全国リーグ2部から1部に昇格できましたし、ブラジル北東部の大会でも優勝することができました。彼には本当に感謝しています」

 フォルタレーザでの活躍があり、マルシーニョの元には中国のクラブから5年契約のオファーが届いていた。国外でプレーしてみたいという思いがあった彼は、家族とも相談してチャレンジを決めた。2019年7月、中国スーパーリーグの重慶両江競技足球倶楽部に移籍を果たした。

 残念だったのは、2019年末から中国の国内事情が一変してしまったことだろう。世界的に広がった新型コロナウイルスの影響で、2020年の中国スーパーリーグも日程が大幅に変更。2021年になると、入国もままならない状況が続いた。こればかりは不運だったとしか言いようがない。

「パンデミックで中国には行けないと言われていましたが、クラブとの契約があるので、ブラジルから中国に戻らなくてはいけませんでした。クラブと相談し、UAEのドバイ経由ならば中国に行けると言われ、1ヶ月、ドバイに滞在しています。しかし結局、入国は叶いませんでした。クラブと代理人との話し合いの末、クラブの経済的事情もあって、最終的には契約を2年半で解除することになりました」

 2021年はブラジルに戻っていたが、国外でプレーしたい思いがあったので、中国の別のチームからのオファーを待つことにした。ブラジル国内で個人トレーニングをする日々で時間が過ぎていく中、結果的に中国からのオファーは届かなかった。

 ただフリー契約となっていたマルシーニョをリストアップしている日本のクラブがあった。

 川崎フロンターレである。

 夏に三笘薫が海外移籍をすることを見越して、春先からドリブラーを探していたのだ。もっとも、クラブとしても、このコロナ禍では補強に動くことは難しかった。仮に獲得しても、入国してプレーできるかどうか、当時はまるで不透明だったからだ。竹内弘明強化本部長は、去年、こんな風に説明している。

「春先の頃はコロナで入国の状況がわからなかったので、もしかしたら、(選手が)取れないかもしれないと言われていました。取れないのに動いてしまうわけにもいかないので、見極めは難しかったです。だいたい6月ぐらいに、五輪の選手とともにバブル期間を経て入国できそうだと。そこからリストアップして、何人か選手がいる中で、前で違いを出せる選手としてマルシーニョを選びました」

 探していたのは三笘薫に近いドリブラータイプ。決め手となったのはスピードだった。竹内本部長は、当時こう評している。

「映像を見たときに面白いなと感じました。速い選手は等々力のサポーターも喜んでくれますし、こっちもワクワクしますから。薫もそうですが、マルシーニョもお客さんを沸かせる選手だと思っています。(シーズンの)勝負は後半に来るだろうと思っていましたし、その間に長谷川(竜也)なり宮城天なりが競争してくれれば、ポジション争いも激しくなると考えていました」

 一方、マルシーニョの元には、サントス、クルゼイロなどブラジルのクラブからの熱心なオファーが届いていた。ただ自身が国外でのプレーを希望しており、その中で日本の川崎フロンターレが興味を示しているという話も代理人からは聞いていた。本人の気持ちは、フロンターレだった。

「フロンターレはチャンピオンチームですし、いつかは日本でプレーしたい思いもありました。だから、自分としてはフロンターレでプレーしたいと思っていました」

 ただ打診があっても正式なオファーが、なかなか届かない。数日が過ぎ、決断のタイムリミットも刻一刻と迫っていた。そして、いよいよ今日がデッドラインという日が来た。

 「もし今晩中にフロンターレから正式なオファーがなかったら、サントスかどこかに決めるしかない。そういうタイミングでした。『オファー、来い!来い!』と願っていたら、本当に来たんです(笑)。最後にギリギリでオファーが届いたので、本当に嬉しかったです」

 川崎フロンターレから届いたオファーが、いかに嬉しかったのか。当時の状況を興奮気味に語るマルシーニョの口調から、その喜びが伝わってくる。

「もう運命としか言いようがないですね。『やったー!!行くぞー!!』と浮かれてしまい、ダミアンには『もうすぐ行くぞ!』とすぐにメッセージを送りました(笑)。彼は『本当か!?』と喜んでくれて、『ここは最高のクラブだ!迷わずサインしてこい!』と言ってくれました。彼が言うならば、絶対に間違い無いですから。実際、フロンターレは最高のクラブとしか言いようがないです」

 8月13日、マルシーニョが川崎フロンターレの一員になることが発表された。

 来日後、隔離期間を経てチームに合流するも、試合出場は少し先になる。長らく実戦から遠ざかっていたことで、フィジカル的にも問題があるからだ。それは自分自身がよくわかっていた。ACLラウンド16で韓国に遠征したときもチームに同行してコンディションを上げ、来るべき時に向けて着々と備えていた。

 迎えた9月18日。

 鳴門・大塚スポーツパーク ポカリスエットスタジアムでの、第29節の徳島ヴォルティス戦。

 韓国から帰国して臨む最初のリーグ戦で、鬼木達監督はここからの5連戦を、「J1で優勝するための勝負の5連戦」と位置付けている。その最初の試合のスターティングメンバーにマルシーニョは名を連ねた。

 チーム全体での練習はほとんどできていない。要は、ぶっつけ本番に近い起用でもあった。だが体力面や連携面で難しいのは百も承知で先発起用に踏み切ったのだと指揮官は言う。

「うまさというか、感覚的なものは良いものがあると思っていました。ただ実際にフルコートでやっていない。練習では紅白戦もなかった。その中でどれぐらいやれるのか。体力的な話はコーチ陣に情報をもらっていましたが、『なかなか厳しいですよ』と(苦笑)。どれぐらい持つのかもわからないならば、途中交代よりもスタートの方がいいかなと思いました」(鬼木監督)

 公式戦でどれだけできるかは、全く未知数。試合勘や体力面など不安を挙げればきりがなかっただろう。それでも最終的にGOサインを決断したのは、本番と練習では異なる凄みを見せるブラジル人選手ならではの能力に賭けた部分もあったと明かす。

「ブラジル人特有のというか、ゲームになると違う顔を出してくるところもあるので、そっちの方に期待しました。(一緒に出る)選手たちも、マルシーニョがどれぐらいやれるかはわからなかったと思います。そういう意味では、本番でギアが上がるというか、そういう感じは受けてますね。スピードはあると思ってましたが、『あっ、もっと速いんだ(笑)』と驚きました」(鬼木監督)

 立ち上がりから、自慢のスピードを生かしたスプリントで相手守備陣に脅威を与えていく。すると33分、左サイドからの鋭いドリブル突破で相手のファウルを誘いPKを獲得する仕事をしてみせた。このPKを知念慶がゴール左隅に決めて、先制に成功。

 42分には、ゴール前に顔を出し脇坂泰斗のゴールをお膳立てするアシストも記録した。出場時間は62分だったが、チームは3-1で勝利。チームに新しい風を吹き込む、上々のJリーグデビューを飾った。

「自分なりの努力と準備をしてデビュー戦を迎えましたが、自分のプレーが出せるかどうかは不安もありました。支えてくれたチームメート、スタッフのためにもチャンスを生かさないといけないと思っていました。自分の特長を見せることができたと思います。ボールをしっかりと運ぶことができましたし、PKを獲得する形でチームに貢献できたのは良かったです。良いデビュー戦だったと思います」

 その後もスタメンで出れば突破でアクセントを生み、途中交代では攻撃のギアを上げる役割を担うなど、シーズン終盤の優勝争いに欠かせない存在となる。勝負の5連戦を全勝で走り切ったことで、リーグ優勝をぐっと引き寄せることとなった。

「帰国後は隔離もあって厳しい状況でしたが、チームとしてこの逆境を乗り越えるぞという雰囲気がありました。それを乗り越えた団結力が優勝につながったと思います。監督が常日頃から言っている、『1日1日の練習に全力を尽くすこと。球際、ワンプレーに気持ちを込めること』。あの5連戦ではそのことを意識しましたし、それが優勝につながったのだと思います」

 11月3日の等々力陸上競技場。

 浦和レッズに1-1で引き分けると、他会場の結果により、川崎フロンターレはリーグ2連覇を達成した。みんなで喜んだ等々力の景色は、一生忘れられないと感慨深く口にする。

「制限がある中で、サポーターがスタンドを埋めてくれて、ホームで優勝を決めることができました。あのために1年間、戦ってきました。シャーレを掲げた時、喜びを分かち合うのは最高の瞬間です。一生の思い出に残る光景でした」

 母国ブラジルを離れて、日本でチャンピオンチームの一員になる。その事実をマルシーニョは「死ぬまで語り継いでいきます」と誇らしげに語った。

「自分はシーズン途中からですが、たとえ短時間であれ、フロンターレに加入してチームに貢献できました。選手としてタイトルを取ったチームの一員だったことは、自分が死ぬまで子供や孫まで語り継いでいけるものだと思っています。自分はチャンピオンチームの一員だったことに誇りがありますし、ブラジルにいた家族も心の底から喜んでくれました。フロンターレで優勝したんだ、ということは、いつになっても家族の中では話題になっていくと思っています」

 2022年シーズンは、すでに始まっている。

 2年目はキャンプからしっかり身体を作って、シーズンを迎えることができている。さらなる輝きを見せるシーズンといっても過言ではないだろう。

 最後に聞いてみた。

 彼は好きな言葉として「勇気」を挙げている。ポルトガル語で「coragem(コラジェン)」。この言葉は、マルシーニョの人生においてどんな意味を持つものなのだろうか。

 この言葉があるから今の自分があるんだと、彼は明かした。

「自分の人生の中で勇気があったからこそ、自分はここにいられるのだと思っています。というのも、小さい頃から家庭は裕福ではなかったですし、いろんな困難を乗り越えてきました。いろんな厳しい状況の中で、勇気を持って乗り越えてきたからこそ、今の自分がある。それは今の自分のプレーにもつながっているんです」

 人生で困難が訪れたとき、あるいはピッチで苦しいとき、彼が心の中で握りしめているもの。それが「勇気」なのだ。いつだって、そうやって自分を奮い立たせてきた。

「試合では、相手も勝ちたい思いがあり、全力で向かってきます。でも、そこで怯えるのではなく、勇気を持って全力で立ち向かう。そして自分の芯の強さを見せていく。その勇気を持っていけるかどうか。そこが自分のプレーヤーとしての価値だと思います。そういう意味で、勇気というのは、小さい頃から僕の肝になる言葉だと思っています」

 勇気を胸に。

 今日もマルシーニョは、ピッチで前に突き進んでいく。

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[まるしーにょ]

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高い瞬発力と軽やかな身のこなしでチームの攻撃に推進力を加えるサイドアタッカー。単独突破や周りの選手を使ったコンビネーションでサイドから崩しをかけ、自らも中央に切れ込みフィニッシュにつなげる。2021シーズン夏場にフロンターレに途中加入。加入まで半年以上のブランクがあったが、ぶっつけ本番のデビュー戦でいきなりビッグプレーを披露しチームの勝利に貢献。2022シーズン、さらにチームにフィットする事を期待したい。

1995年5月16日、ブラジル、リオデジャネイロ州生まれニックネーム:マルシーニョ

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