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ピックアッププレイヤー 2022-vol.04 〜DF15 / 佐々木 旭選手

バンディエラに憧れて

バンディエラに憧れて ~佐々木旭選手

テキスト/林 遼平 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Hayashi Ryohei photo by Ohori Suguru (Official)


 小学生の時、佐々木旭少年は父に連れられて日本代表の試合を観戦することになった。

 サッカーにのめり込み始めていた少年はワクワクした気持ちで会場へ向かうと、ある一人の選手のプレーに魅了されることになる。

「もともとスルーパスを出す人がすごく好きだったんですけど、あの日のプレーを見たことで、『めちゃうまい!もっとあの人を見たい!』となって、それからよく見ていた記憶があります。そこから川崎フロンターレを知りました」

 佐々木少年を興奮させた男の正体は、伝家の宝刀であるスルーパスでサッカーファンを虜にしていた川崎フロンターレのバンディエラこと中村憲剛。あの日、その瞬間から、佐々木が川崎フロンターレへと加入するストーリーが幕を開けたのである。

 2000年生まれの佐々木は、埼玉県川越市で育った。父がサッカーの指導者をしていたこともあり、幼少期からボールに触れる環境に身を置くと、幼稚園の年中時からサッカーチームに所属。小さい時からみんなと楽しくボールを蹴ることが好きだった。

 小学校に上がり、父がコーチを務めるFCジョカーレへ。普段は埼玉のチームで練習しながら、試合の時は父が指導する東京のチームでプレーするなど、特殊な形でサッカーに熱中する日々を送った。

 当時のポジションはトップ下。背番号は大好きな中村憲剛と同じ14番を身につけていたという。

 中学進学の際には、大宮アルディージャやFC東京などいくつかのセレクションを受けるがどれも不合格。ほとんどが一次選考で落ちるレベルで「受かるわけもなかった」と笑って振り返る。結果、中学年代はFCジョカーレにコーチとして参加していた人が指導するEC JOGADORへ。コーチも自身のプレーを知っていたことから、1年生の頃から中心選手としてプレーした。

 ただ、中学に入ると周りの体つきが変化。学校のクラスでも最も背が低かった佐々木少年は、身体が大きく足の速い子たちに対して何もできない自分に悔しさを感じていたようだ。

 それでも、サッカーを諦めなくて済んだのはEC JOGADORがフィジカル重視のチームではなかったから。

「個の技術に特化してやっていましたね。普通にパスするなら『自分でいけよ』というチームでした。それこそGKもドリブルをします。勝ち負けというより、個人の技術でどれだけ上手くなれるかに重点を置いたチームでした。全国大会に出ているチームと対戦すれば、2桁得点を奪われたりしていましたけど、それでも臆せずにドリブルで行っていたので、いま考えるとすごく変なチームですよね(笑)。何点やられてもドリブルで1人抜けみたいな感じで、チームで負けても個人で負けるなという感じがすごく面白かったです」

 一方で、この中学時代を佐々木は後悔しているとも言う。「心からサッカーを楽しんでやれていたかというとそうではなかった」という理由は――。

「本当にドリブルやボールタッチを1時間半くらいずっとやるような感じのチームで、当時は『またこれかよ』と思いながらやっていたなと思います。中学校の頃は本気でプロになりたいと思っていなかったので、やらされている感覚が強かった。もっとのめり込んでやっていればさらに成長できたのに、もっとやっていれば良かったなという後悔がすごくあります。やり直せるとしたら中学の3年間ですね。振り返ると、少し時間を無駄にした感じがあって、あのチームならばより上手くなれたと思います」

 その影響だろうか。高校受験は大きな失望を味わうことになる。

DF15 /佐々木 旭選手 DF15 /佐々木 旭選手

「選手権に出たい思いが強かった」とする佐々木が目指したのは静岡県の強豪校・静岡学園。「チームの先輩で静岡学園に行った人がいて、その人が選手権に出ているのを見ていてすごく格好よかった」。先輩の姿が目に焼き付き、次は自分があの舞台に立つんだと疑わなかった。だから、他の学校を受験する際も身が入らなかった。

「静岡学園に行く気満々で、第2志望で受ける学校も家の近くのサッカー部があるかないかわからないくらいの公立高校でいいかくらいに思っていました。唯一、練習参加が残っていた埼玉平成高校には行きましたけど、練習参加が終わった後の面接を受けずに帰っちゃったんですよね(笑)。どうせオレは静学に行くんだからと。結局、塾の先生が埼玉平成高校の教頭先生と知り合いで、その後に面接をして『落ちたらでいいからうちに来てくれ』と言ってくれて、いま思うと本当にありがたい話だったなと思います」

 それほどまでに行きたかった静岡学園は、サッカーの面においても勉強の面においても「本当に論外だった」。テストが終わり、目が覚めた自分がいた。心の中で「無理」だと理解していた。

「今となっては笑えますけど、当時は全く笑えなかったですね。静岡学園に行く気満々でいろいろな話を周りにしていたので、学校やチームの練習にも恥ずかしくて顔を出せないと考えていたのを覚えています(苦笑)」

 結果、静岡学園は不合格。埼玉平成高校への進学が決まったが、サッカーへの思いが薄まっていたのも事実だった。

 ここで悩める佐々木少年に手を差し伸べてくれたのが、中学校の担任の先生だ。この先生、実は前述の静岡学園で選手権に出た先輩のお母さん。受かった生徒、受からなかった生徒を知る人物だからこそ、佐々木に対して誰よりも親身になって相談に乗ってくれた。

「厳しいこともハッキリと言ってくれる人でした。あれは卒業式だったと思います。僕に向けて『どこに行くかではないのよ。そこでどう頑張れるかが大事なんだよ』と声をかけてくれました。今でも忘れられない言葉です。どこへ行くかではないんだと心に言い聞かせて、埼玉平成で3年間頑張ってプロになろうと改めて思ったことを覚えています」

 佐々木が進学した埼玉平成高校は、学校としてサッカーに力を入れ始めたタイミングだった。その年から推薦や特待生などでサッカー部へ入る生徒たちが多く、一般受験という形で入った佐々木は一番下からのスタート。それでも、すぐに公式戦で結果を残すと、トップチームに上がるのも時間はかからなかった。かつてフロンターレでプレーしていた浦田尚希(1997~2001年所属)が監督、三島伸也(1997年所属)がコーチを務めていたことも何かの運命だったのかもしれない。

 思わぬ事態が訪れたのは高校1年生の夏にかけて。急激に身長が伸び、成長に身体が追いつかなかった。実に1年で15cmも伸びたと言うが、一方で思うように身体を動かせない日々を送っていたと振り返る。ただ、チームの方針が佐々木にとってプラスに働いた。

「あの時はコーチたちが身体の状態をすごく親身に調べてくれて、トレーナーの方に相談してくれた。それは本当に助かりました。筋トレを全くしない高校で、どちらかというと体の動かし方などでカバーするような感じでした。それも自分に合っていたのかなと思います。実際に強豪チームと対戦してもいい勝負はできていました。その時に筋トレではないのかなと思った時もあって、誰も身体が重くないんです。だから、スルスル抜けるシーンがあって、もちろんぶつかり合いは絶対に勝てないですけど、動き的な部分で言えば自分の方が動けている印象がありました」

 勝負へのこだわりよりも一人ひとりの成長に目を向ける方針により、佐々木はサッカーに前向きに取り組むことができた。何かに縛られることなく、自由な発想の下でプレーできたことが自分には合っていたと頷く。

「本当に楽しくというか、自分のやりたいサッカーをやらせてもらっていました。もちろんどうなったかはわからないですけど、静岡学園に行ったとしても埋もれてダメになったかもしれない。埼玉平成でのびのびやって自分が成長できたことを考えると、自分は埼玉平成に行けてよかったなと思います。しかも、一気に身長が伸びたことを理解してくれるコーチや監督だった。それに合わせたトレーニングも考えてくれました。そういったことも含めて、高校の3年間は大きく成長できたと思います」

埼玉平成高校時代の恩師と/左:浦田尚希監督 右:三島伸也コーチ

 高校時代は目立った成績を残せたわけではない。夢であった全国高校サッカー選手権の出場も叶わなかった。プロも遠い存在。勉強もできる方ではなかったので、大学もなかなか決まらなかった。

 だが、ここで幸運が訪れる。いや、これまでの努力が幸運を引き寄せたと言っていい。

 インターハイの浦和学院高校戦。後に浦和レッズ入りする安居海渡を視察に来ていた流通経済大学の大平正軌コーチの目に佐々木のプレーが止まった。大平コーチは監督のところへ歩み寄り、大学の決まっていない佐々木に対してこう伝えてくれと言葉を告げた。

「覚悟があるならセレクションに来てくれ」

 佐々木にとっては青天の霹靂だった。

「どうするかと聞かれた時には、本当に流経なのかと疑いましたね。当時は雲の上の存在でしたから。当時、流通経済大学附属柏高校が選手権で準優勝した時だったので、この選手たちとやりたいなと思っていました。その中で話が来たので、セレクションに行かせてくださいと。まさか自分が受けられるなんて思っていなかったので、すごく嬉しかったです」

 セレクションは何回か実施する中で最後の方だったこともあり10人程度しか学生は来ていなかった。その中でしっかりと存在感を披露すると、入試も問題なく晴れて合格。これまで“受からない”ことの方が多かった佐々木が、初めて目指した場所にたどり着くことになったのである。

 ただ、ここからプロ入りへまっしぐら、と行きたいところだったが、そうは問屋がおろさないのが人生というものだろう。入学前、流通経済大学の試合を見にいくと「衝撃」が走った。

「フロンターレに所属していた守田(英正)さんの学年の試合でしたけど、観戦しに行ったらみんな筋肉ゴリゴリかつ丸坊主で気合いを前面に押し出すようなチームで、これまで自分がプレーしていたものと違いすぎて終わったなと思いました(笑)。これはどこでプレーするんだろうと。それまでトップ下でスルーパスを出すようなプレーをしていましたけど、まずそのポジションが無かったですからね」

 実際に入学しても辛い日々が待っていた。1年生チームの紅白戦にも出場できず、グラウンドの端でボールを蹴っているだけ。試合のメンバーに入れないため、遠征に参加しない日は地域の餅つきに参加したり、ブラインドサッカーの補助係やS級ライセンスの補助学生などの活動に従事するしか無かった。

 ここまで厳しい環境に身を置いたことがなかった佐々木にとって、こういった日々は思いの外、メンタルにダメージを与えた。それは「この時に初めてサッカーを辞めようかと思った」という言葉が全てを表している。「僕はここに何をしにきたのか」という思いが駆け巡った

 辞めるか、辞めないか。そんなことを悩んだ時、真っ先に頭に浮かんだのは家族だった。

「一番に考えたのは『プロになりたいから』とかではないです。それよりも両親に申し訳ないなという思いが強かった。寮費や学費など高いお金を払ってもらっているのに、途中で辞めるのはダメだなと。一番下のチームで全然うまくいかなくても、とりあえず4年間全力で頑張ろうと思ったからこそ、辞めずに続けることができました」

 それから約半年、コツコツとトレーニングを続けてはいたが何も変化のない日々が続いた。これまで取り組んできた攻撃での力を発揮できず、求められる守備面でも足を引っ張るばかり。1年生チームでもなかなか試合に出ることはできなかった。

 やっと少しずつ試合に絡み始めたのは夏を過ぎてから。それも「自分たちの学年は有望な選手が多くて、みんな上のチームに上がって誰もいなくて自分が出る感じだった」。それでも楽しかった。試合に絡めない時期が続いていただけに「試合に出られるだけで幸せだった」と笑う。

流通経済大学時代の大平正軌コーチと

 このまま4年間を過ごしていくことを覚悟していた矢先、本人も「いまだになぜかわからない」と言い張る驚きの出来事が訪れる。1・2年生主体で挑む新人戦の関東大会決勝。それまで担架係やボールボーイをしていた佐々木が、急にメンバー入りすることになる。それもベンチからではなくスタメン。これまで憧れの目で見ていた選手たちと一緒にプレーする場所が与えられた。

「急に決勝で出るぞと言われたんですけど、決勝は訳がわからないまま終わりました。ボランチで出ましたけど、ボールを触った記憶もないし、本当にヤバかった(笑)。確か前半くらいで交代したと思います。でも、なぜかわからないけど、その後もチームに参加して新人戦の全国大会にも出ました。予選で負けてしまったけど、3試合全部スタメンで出て、めちゃくちゃ怒られたのを覚えています。ここで世界が変わりましたね。一緒にやる選手、環境、全部が変わりました」

 1年生の最後に全国大会に出るという大きなことをやってのけたのだが、正直なところ、全く手応えがなかった。2年生に上がる際も、トップチームの一つ下にあたる流通経済大学ドラゴンズ龍ケ崎に入れれば御の字だと考えていた。

 先に発表されたドラゴンズのメンバーリストに自分の名前は無かった。自信のなかった佐々木が再び一番下のチームに落ちるのかと腹を括るのも無理はない。ただ、自分の名前があったのはトップチーム。誰よりも衝撃を受けたのは佐々木自身だった。

「新人戦では全く守備ができず、毎日怒られていましたからね。でも、トップチームに上がったのはいいですが、トレーニングの時に自分がプレーするごとにプレーが止まって、怒られて、みたいな感じでした。すごく申し訳ない気持ちでしたし、それこそ2回目のサッカーを辞めたい時期が来ます。スタメン組ではなかったですけど、本当にうまくいかなくて、あの時期は本当にキツかった」

「それでも食い下がって頑張っていたの?」と聞くと、「いや、食い下がってないです」と苦笑いを浮かべる。

「落ちるところまで落ちました。チームもリーグ戦で8連敗くらいしていて、自分も下のチームに落ちるところまで話が出ていました。ただ、その時にトップチームのコーチが変わって、それまで左サイドバックをやっていた伊藤敦樹さん(現・浦和レッズ)がCBを務めることになって、なぜか自分が左サイドバックで試されることになりました。いま思うと、それがラストチャンスだったと思います。もしダメだったら下のカテゴリーに落ちていたと思いますけど、天皇杯の浦和レッズ戦で初めて左SBで出てそこそこうまくプレーすることができた。そこから巻き返して行きました。それが2年の夏頃。ギリギリで生き残ることができたんです」

 ここからは右肩上がりに上がっていくだけだった。初めてのポジションは右も左も分からない状況だったが、3年生に上がった際にチームに加わった曺貴裁コーチ(現・京都サンガF.C.監督)との出会いがさらに成長を加速させた。

「たぶん出会っていなかったらフロンターレに来られてなかったと思います。プロにはなりたいなと思っていましたけど、曺さんに成長させてもらったからこそ、何チームからもオファーをもらえる選手になれたのかなと思います」

 どんなところを成長させてもらったのかと聞くと、プレー面よりも日々の意識だと佐々木は明言する。

「サッカーに対する思いですね。練習が始まる前から終わった後までの意識が大きく変わりました。この話はよくするのですが、一番覚えているのは『お金をもらえる練習をしろ』と言われたことです。これはすごく心に残っていて、試合のための練習にしてはダメだと。そういったこだわりには衝撃を受けました」

 気持ちが落ちる時には一緒にランニングしながら、よく相談に乗ってもらっていたのだという。時には「(山根)視来さんの話も曺さんから結構聞いていました。あいつも前の選手だったけど、後ろをやらせたら3バックも4バックもやって日本代表に行くレベルになっている」なんて話も。多くの場面でコミュニケーションをとっていた佐々木は、曺氏から聞いた話で頭に残った言葉はノートに書き綴っていたようで、今となっては「息詰まった時に見返したら良いことがいっぱい書いてある名言集」になっているようだ。

 そんな出会いもあり大きく飛躍を遂げた佐々木に、小さい頃から好きだったフロンターレからオファーが来るのは間も無くのことだった。憧れのクラブからのオファーは飛び跳ねるほど嬉しかったが、一方で試合に出ることが一番だと大学時代に思い知ったからこそ、簡単には決められなかった。

 そこで、どうしようかと悩む佐々木の背中を押したのは両親だった。

「日本一のクラブからオファーをもらえることは幸せなことだよと。誰でもそこで練習ができるわけではないし、もらったチャンスなんだからという話をしてくれました。もともと自分もずっと行きたいと思っていましたし、この先、フロンターレに入ることはないかもしれない。だから、このチャンスは生かしたいなと思って、試合に出られなくても何か得られるものがたくさんあるはずだと決めました」

 フロンターレへの加入が決まった後は周りのプレッシャーに苦労した時期もあったが、曺氏の教えでもある「他人の評価を気にするな。自分が楽しんでサッカーをやれば周りが評価してくれるから」という言葉の下、自身のプレーに集中した。その結果、関東大学サッカーリーグ1部で優勝。MVPにも輝いている。

 今年、佐々木はフロンターレの一員として新シーズンをスタートさせた。初のキャンプは周りの巧さに驚くだけの「絶望の日々だった」と笑って振り返る。一見、普通にプレーしているようにも思えるが、「手応えもなく、生きた心地がしなかった」と頭を搔く。

 ただ、大学時代の教えを胸に日々のトレーニングから全力でプレー。少しずつではあるが、プロのスピード感に慣れていった。

 大きな変化が生まれたのは、第9節の横浜F・マリノス戦の週だ。週初めの練習後、寺田周平コーチに声をかけられた。

「『もっと声を出してやれよ。鬼さんもお前に期待しているんだから』と言われました。その言葉を聞いて、もっとやらなければいけないと思い、そこから自分発信でやるように心がけました。その結果、プレーの感じもすごく変わった。それまではずっと受け身になっていたと思います。だから、今度は自分が前に出て声を出して、周りを動かして、人とコミュニケーションを取りながらやったらプレーもどんどん良くなっていった。あそこが自分にとってのターニングポイントだったと思います」

 その後、横浜FM戦で途中出場を飾ると、次の鹿島アントラーズ戦では先発出場を果たした。

「鹿島戦は本当にラストチャンスだと思っていました。最初の出番でしたけど、それくらいの気持ちでしたね。それほど競争が激しいクラブですし、厳しい監督だと思っているので、ここで何かを残さないと当分回ってこないと思って相当な覚悟を持って試合に挑みました」

 鹿島戦では左サイドバックとして攻守に存在感を発揮。セットプレーからJリーグ初ゴールを決めて勝利に大きく貢献した。そこからは左サイドバックでコンスタントに試合に出場。一つひとつ経験を重ねることで、フロンターレの中でも存在感を高めている。

「いま感じているのは、試合を重ねるごとに小さい課題がどんどん出てきて、それを指摘してくれる先輩やスタッフがいてくれるので、すごく成長している実感があり、楽しいということです。ここから課題を一つずつ潰していって、フロンターレに欠かせない選手にどんどん成長していきたいと思っています」

 小学校の時、中村憲剛に憧れた少年は、いま、フロンターレのユニフォームを着て、チームの一員としてピッチを駆け回っている。

 佐々木は改めてフロンターレで成し遂げたいことを教えてくれた。

「本当に自分はフロンターレに夢を与えてもらった立場なので、今度は自分が小さい子や応援してくれる人に夢を与えたい。それこそサッカー選手なので結果が求められると思います。常にタイトルを取れるようなチームの一員になれるように頑張りたいですし、自分が入って弱くなったと言われるのが一番悔しい。結果を出し続けながら、今年は3連覇。ルヴァンや天皇杯もそうですけど、タイトルに関わり続けられる選手になっていきたいです」

あの時の中村憲剛のように。フロンターレでプロキャリアを歩み出した男は、応援してくれる多くの人々のために最高のパフォーマンスを送り届けようとしている。

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[ささき・あさひ]

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今年流通経済大学から加入したルーキー。両足を駆使してボールを前に運ぶ能力に優れたDF。埼玉平成高校時代は中盤でプレーしていたが、大学に入りDFにコンバートされて頭角を現しサイドバックやセンターバックでプレー。プレーの安定感とマルチな才能が認められ、大学4年生時には関東大学サッカーリーグ・MVPに選ばれる活躍を見せた。即戦力そしてプロ1年目から大きな期待がかかる。

2000年1月26日、埼玉県川越市生まれニックネーム:あさひ

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