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ピックアッププレイヤー 2022-vol.07 〜DF7 高桑大二朗 GKコーチ

ポジティブにいこう

テキスト/隠岐麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Oki Marina photo by Ohori Suguru (Official)

2022年7月30日(土)、埼玉スタジアム2002。

川崎フロンターレGKコーチの高桑大二朗は、スタメン出場するGKチョン ソンリョン、控えGK丹野研太に加え、この日は、フィールドプレイヤーの白いアウェイユニフォームを急遽用意し、ベンチメンバーに入ることになったGK安藤駿介と早坂勇希の4人を集め、GKのウォーミングアップに向かう直前、「みんなで乗り越えよう」といつものように明るい調子で声をかけた。

スタジアムは、熱気に包まれていた──。

ピッチャーで4番の逸材がGKになるまで


 高桑大二朗が、GKとして人生を歩むことになったのは、偶然によるものだった。

 東京都杉並区で生まれ育った高桑は、絵に描いたような野球少年だった。

 しかも、強豪の軟式野球少年団で4番でピッチャー、である。当時を知る友人は、その後、高桑がサッカーという競技で、ましてやGKとしてプロ選手になったことを驚きをもって受け止めたという。

「兄も野球をやっていましたし、時代的に野球が盛んで、自然な流れでした。自分でもこのまま野球をやるのだろうと思っていました」

 ところが、小学6年で父の仕事の都合で転校した先の愛媛県松山市では、近くに野球の少年団がなかったため、運動神経や身体能力がずば抜けていた高桑を見た先生から薦められるままに走り高跳びをすることになり、市の大会のみならず、いきなり県大会でも優勝している。

 中学に進学すると、周囲の友人たちがサッカー部に入るという理由だけで、高桑はサッカー人生をスタートさせることになった。とはいえ、それまでの順風満帆なスポーツとの関わりを考えると、楽しいものではなかった。

「ただ身長が高いからGKをやっていただけで、技術もないし、ボールを待っているだけ。だから、最初は楽しいとは思えませんでした。それまでピッチャーで4番というアグレッシブにやっていた自分とはかけ離れていましたし、GKの良さもわからず、ただ言われるがままこなしていただけでした。ドッジボールも強かったですし、ハイボールへのキャッチングの感覚だけはあったと思います」

 ピッチャーで4番の花形ポジションを経験し、始めたばかりの走り高跳びでもいきなり県大会で優勝してしまうような「目立つ」少年が、結果も出ず、楽しさも見いだせなかったらそのギャップに前向きな気持ちになれたのだろうか?

「まさにその通りで、練習をサボったこともありましたし、いろいろな誘惑に負けそうにもなりました。でも、サッカーをやめようとは思わなかったんです。それは周りに友だちがいたからでしょうね。ただ、高校に行ったらまた野球に戻るんだろうな、と漠然とした気持ちは感じていました」

 ところが、再び転機が訪れたのも転校によるものだった。中学3年で東京に戻ることになった高桑は、通った中学のサッカー部が強かったこともあり、GKの面白さを見出すよりも先に、スポーツで勝利を目指すことの楽しさを再認識できた。都大会の準決勝で敗退はしてしまったが、その試合を観に来ていた高校からスカウティングの声がかかり、日本大学高校に進学し、サッカーを、GKを続けることになる。

「もし転校をしなければ、高校では野球をやっていたでしょうし、GKの良さも気づかなかったと思います。全国大会に行けなかったという負ける悔しさを初めて味わったことで、このままでいいのかという自問自答が生まれて、サッカーを続けたいという気持ちが強くなりました」

 高校時代は、まさにサッカー漬けの3年間。

 上下関係の厳しさや練習の苦しさも味わい、下級生の時には試合に出られず、練習の準備、声出しなどが中心の日々だったが、サッカー推薦でも強豪チームから選手が入るようになり、徐々にチームが強くなっていくと、強豪揃いだった神奈川県や関東勢との試合に気持ちも高まり、「正月は国立を目指そう」ということが最大のモチベーションへと変わり、もっとうまくなろうとGKとしての向上心も育まれていった。

 そんな高桑に最大の転機が訪れるのは、関東大会での出来事だった。

 当時の神奈川県は、前述のように強豪がひしめき、後にJリーガーとなった選手も多数輩出していた。1学年上には有馬賢治(日本大学藤沢高校、大学卒業後に柏レイソルに加入)がいて、水内猛(元浦和レッズ)を擁した神奈川県立旭高校は、全国高校サッカー選手権大会へ出場。桐蔭学園高校も高桑の同世代では後にヴェルディ川崎(当時)に加入することになる山田卓也、栗原圭介らを輩出している。

 そうした中、関東大会で上野良治(後に横浜Mに加入)を擁する武南高校との対戦の際、その試合のスカウティングに来ていたのが、当時日産FCの清水秀彦監督だったのである。運命が変わった瞬間だった。

「試合には負けたんですが、あの大きいGKは誰だ?ということになりスカウトされ、そのことを高校の監督から聞いた時は、まさか僕が、とびっくりしました」

 とはいえ、プロを目指していたわけではなく、当時はJリーグも開幕前の日本リーグ時代の終盤。現代とは大きく異なる日本のサッカー界で、18歳の高桑は大きな決断を迫られることとなった。

「迷いました。僕はスポーツが好きだったので、日大の体育学部に進学することもほぼ決まっていて、そのまま体育教師になろうという将来の道を考えていました。それが、日産から声がかかり、当時、親戚一同から『まだ先がわからないところに行くのは反対だ。しっかり大学を出て教師になる方がいい』と、猛反対を受けました。ただ負けたくないという気持ちだけで、部活をやっていた感じだったので、思いもしない誘いに本当に迷いました」

 迷路に迷い込んだ高桑を導いてくれたのは、父だった。

 厳格で、あまり普段から気軽に話すような間柄ではなかった父から、ある日、畳の部屋に呼ばれ、正座をすると、ただ一言だけ言われた。

「お前、プロに行け」

 自分が何気なく選んだり、誰かに導かれた経験、ひとつでも選択が違っていたら、どうなっていただろうか──。

 高校進学の際に、桐蔭学園高校も候補に挙がっていたが、「日大高校を選びました。そこでも選択が違っていたら、わからなかったですよね」と高桑は振り返る。

 武南高校の対戦相手だったことで、清水監督の目にとまった後、実は何人かのGK選手が参加してのセレクションがあった。そこでも、「下手くそだったと思いますけど、野球やハイジャンプをやっていたのが生きたのか、将来性を見てくれたようです」と、過去の経験が思わぬところでGKとしての助けになっていた。こうしてGK高桑大二朗選手が誕生したのだから、運命とは面白いものだ。

高桑大二朗 GKコーチ 高桑大二朗 GKコーチ

追憶の現役時代


 1992年、現在の横浜FMが「日産F.C.横浜マリノス」に改称した年に、高桑は選手生活をスタートした。18年間の現役生活で、Jリーグのリーグ戦(J1およびJ2)出場は225試合、日本代表として国際Aマッチに1試合出場している。190cmあるスラっとした佇まいや、その現役時代の勇姿を覚えている方も多いだろう。とはいえ、18年間という長い年月の中には、紆余曲折の出来事があり、それを月日が経った今、改めて振り返ってもらった。

 横浜Mは、日産時代から錚々たるメンバーがひしめき、常に優勝争いの筆頭に名を連ねている歴史も実力もあるクラブであり、ひょんなことからプロに飛び込んだ高桑にとってどんな日々だったのだろうか。そのギャップの大きさに思いを馳せると、当時を思い出してこう話してくれた。

「それはもう挫折も何も、プロになったことを後悔しました。中学2年からGKを始めて、知識も技術もなく、学生時代の部活レベルでやっていた僕が、日産(マリノス)に入りGKコーチの指導の元トレーニングをしたわけですが、運動神経や野球や走り高跳びの経験で感覚でやってきたことなので、筋力もパワーも当然なく、怪我も多かったですね」

 当時の横浜Mには、松永成立という絶対的守護神がいて、高桑の2学年下には川口能活がいた。在籍していた4年半のうち3年半程の間は、厳しいものだったと振り返る。

「筋力がないから膝の半月板を痛めたり、走り込みもしてきていなかったので脛が疲労骨折のような状態になったり、自分がいるレベルじゃないな、いちゃダメだとさえ感じ始めていました。当時は、怪我が多いことから“ガラスのGK”と言われたこともありました」

 しんどい思いを抱えながら過ごした時期もあっただろうと想像できるが、どうやって自分を保っていたのだろうか。

「正直、マリノス時代は保てていなかったですね。とにかくきつかったですし、周りのレベルが高すぎて自分のプレー(のレベル)も低いと実感し、何もかもうまくいっていなかった時期でした」

 とはいえ、プロ入りしてから数年が過ぎた頃、目標を持ち、それをクリアしていくような前向きな方向に持っていくこともできるようになってきたという。

「トップは無理でしたけど、サテライト出場をめざし、1試合出られたら、続けて出ることが目標になり、次はトップのサブに入るぞ。そうやってひとつずつクリアしていきました。最後の方は、サテライトの試合に出られるようになり、出場給や勝利給を頂けるようになり、観客も入り勝利する喜びも感じられて、向上心をもって頑張れました。結果的に1996年のサテライトリーグの鹿島戦に出た際のプレーを観てくれたことがキッカケで、鹿島への期限付き移籍の話につながりました」

 頑張っていれば、誰かが見てくれている──。やっとつかんだチャンス。そういう出来事に思えたが、本人にとっては厳しい現実と向き合っていたという。

「必死でしたね。レンタルで結果が出なければ次はクビだろうと思っていました。マリノスの当時の強化部長は、ハッキリ翌年の契約はないと伝えてくれていたうえで、鹿島で半年あるなら頑張って行ってこいと言ってくれました。なので、そこは自分のなかでも潔く切り替えられました」

 後がない気持ちで鹿島アントラーズに飛び込んだ高桑を待っていたのは、ジーコの哲学が浸透した常勝軍団のなかで、ブラジル人GKコーチとの刺激的なトレーニングだった。

「楽しかったですね。GKコーチのカンタレリとの出会いは大きかったです。非常に厳しくてキツイ練習だし、終わると泥だらけなんですけど、毎日日が暮れるのが早く感じられて、帰ってご飯を食べたらまた明日トレーニングしたいという気持ちで寝て、翌朝また練習に行く。それぐらい充実していました」

 1996年8月に期限付き移籍で鹿島に移籍した高桑は、翌年に完全移籍し、2001年まで在籍することになる。

 初出場は1998年5月2日Jリーグ1stステージ第10節のこと、実にプロ入りから6年の歳月が経っていた。

 4月、鹿島が3連敗を含む4敗をした状況で、正GK古川昌明に代わって、その週の紅白戦でAチームのGKを務めたことで自分の出番を知った。初出場は「一番印象に残っている」待ち望んだ舞台で、相手チームのベルマーレ平塚(当時)には、中田英寿がいて、「バーやポストに助けられた」試合だった。

 当時の鹿島には、秋田豊、奥野僚右、相馬直樹、名良橋晃らが守備陣に名を連ね、「僕の性格的に、緊張より恐いものなしでやってやろうという気持ちの方が強かったです。先輩方に助けられて勝つことができたプロ初出場でした。勝つことが重要で、そこに至るまでのプロセスや、やり続けることが大事だと改めて今振り返って感じています」

 15,742人が入ったカシマサッカースタジアムの観客席には、プロ入りを後押ししてくれた両親の姿もあった。

 力不足を感じていた横浜M時代、無我夢中で充実していた鹿島時代、やがて高桑のなかで、GKとしてどうあるべきかという、理想像のようなものが生まれてくる。

「出られないときもGKコーチが自分に寄り添ってくれて、声掛けもしてくれ、しんどいなかにも楽しい練習をこなせた日々でした。それは努力したということではなく、GKコーチと一緒に練習をこなしてきた結果なんですね。それは今のGKコーチの仕事にもつながっています。GKはひとりしか試合に出られませんが、出ているひとりがよければいいのではなく、みんなでレベルを上げていく。誰が出てもいいんだよ。みんなで勝つよ、みんなで優勝するよっていう」

 実際にそう言われ、接してもらった高桑自身が当時、救われた想いだった。

「当時鹿島で5人のGKがカンタレリの指導を受けていましたが、みんなが指導者になったというのも彼の指導のおかげなんじゃないかと思います」

 2000年には鹿島アントラーズ3冠にレギュラーとして貢献し、ベストイレブンを初受賞。日本代表にも選出され、次のめざす目標に向かって気持ちが高ぶっていた時期だった。

「非常に充実していましたし、このまま代表を目指そうと思いました。調子もよく、ベストイレブンにも選んでいただき、さぁこれからという2001年に大怪我を負ってしまいました」

 頭の中は2002年日韓W杯に出場したいという想いでいっぱいで、怪我で曽ヶ端準に譲ったレギュラーの座を取り返さなければと焦り、怪我の完治を待たずにトレーニングを再開。痛みをかばってプレーを続けた結果、別の個所も痛め、リハビリが長引き、さらには試合出場の機会を求めて2002年のW杯シーズンには東京ヴェルディ1969(当時)に期限付き移籍をする。焦燥感から動いた結果だったが、夢を掴めず、その過程にも後悔が伴うものとなった。

 そして、2003年シーズンからは、ベガルタ仙台に活躍の場を移し、プレーすることになる。

「自分と向き合うことができた時間でした。というのも、マリノス、鹿島、ヴェルディでは、周りがすごい方ばかりで、少し頼る気持ちがあったり、チャンピオンチームであることに満足していた部分もあったのかなと思います。移籍する際に清水(秀彦)さんに呼んでいただき、監督を胴上げしたいという気持ちもあったし、結果的にそれは叶いませんでしたが、非常に魅力あるチームで、人気もあり、サポーターの皆さんが練習場にも何百人と来て、とにかく熱くて、楽しかったですね」

 ベガルタ仙台での最後のシーズンとなった2006年、高桑にとって今でも忘れられない人生の教訓とGKコーチとしての“礎”になっているプレーがある。相手GKのフリーキックが、そのまま自ゴールに入り失点となってしまったのだ。

「自分の判断ミスでゴールが入ってしまいました。次の試合からは試合出場だけでなくベンチメンバーにも入れず、そのシーズンで戦力外になりました。思い出したくないぐらいの出来事ですが、そういうところで自分の慢心さが出てしまったのではないか…」

 選手時代の今から遡ること15年以上前の出来事を自ら真摯に伝えるのは本人の人間性によるものだと思うが、痛みを伴った経験を、指導者となってからも糧にして、忘れないように大事にしているのだろう。

「誰にでもミスは起こるものですが、GKは特にミスをしてはいけないポジションでもあります。ミスをしたら即失点につながるんだよ、と言われ続けてきましたし、そうならないようにトレーニングをするわけです。その試合は、ナイターで風が強く、夜露で芝が湿っていたり、湿度が高く蒸し暑かったりといろいろな要素が重なりましたが、それはすべて言い訳であって、自分の判断がしっかりしていればそういうミスは絶対に起こらなかったんです。唯一、その時自分がアグレッシブに出てキャッチしてそのまま前線の選手につなごうと前向きにトライしたことは許せるんですけど、風や夜露、暑さ、湿度などをもっと慎重に考えておけば、そういうミスが起こらなかった…。そういうことをずっと今でも思っています」

 そうして、その当時の心境をこんな風に話してくれた。

「当時は、もちろん反省したし、顔を隠していたい程、恥ずかしさもありましたし、逃げ出したかったです。もちろん自分のなかでは消し去りたい過去でもありますが、自分の経験を今は指導者として伝えるべきだし、伝えなきゃいけないのかなと思います。なぜなら、みんなには僕みたいな辛い思いをしてもらいたくないですし、だからこそトレーニングが必要なので。今思うと、そのミスがあったから今の自分になれている部分もあるとポジティブに捉えていますし、この経験がなければ今の指導者としての軸がなかったんじゃないかと思っています」

 高桑はその後、2007年に横浜FMに復帰、2009年には徳島ヴォルティスで1年間プレーし、その年に引退することになる。

「ベガルタ仙台では自らのミスで戦力外を経験しましたが、その後、マリノスが手を挙げてくれて入ることになりました。当時は、中澤佑二、松田直樹、栗原勇蔵、河合竜二ら個性豊かなメンバーがいて、自分はベテランとして力を発揮することを望まれていましたが、その2年間は、結果的に力にはなれなかったですし、仙台から続いている自分の悪い流れを断ち切れなかったですね。ある試合で、GKの榎本哲也が試合途中で退場し、僕が急遽出ることになり、その試合でもまたミスをおかしてしまいました。振り返るともう一度やり直したいぐらいの想いがあります。今思えばですが、ベテランの域に入っていった時に、うまくやろうとして、自分が持っていないものまで出そうとしていたり、できることさえやっておけばいいのに無理をしていたのかなと思います。マリノスでも、自分のプレースタイルをきちんと周囲に伝えるべきでしたし、できないこともポジティブに捉えてトレーニングで取り組むべきだったと思います。そういう空回りがあったと感じています」

 2009年、高桑にとって現役生活18年目、徳島ヴォルティスでラストイヤーを迎えていた。

「それまでの2、3年間は、あまり試合に出ていなかったので、もう一度自分自身の居場所を確認して結果を出そうと思い移籍をしました。36歳で身体は動いたのですが、目がついていかなかったですね。天皇杯2回戦(10月11日)で鹿屋体育大学に1対3で敗れて、これが自分の実力なんだと痛感したし、大学生に3点取られて何がプロだ、と思い、そこで引退を決断しました」

「なんだか、後悔ばかりですね」

そう言って、高桑は現役引退に至る過程を振り返ってくれた。

 だが、話を聞いていると、例えばベガルタ仙台を戦力外になった時、現役最後となった徳島にいた時、人生の分岐点や辛い経験があったタイミングにおいても、必ず声をかけてくれる人たちが周囲にいたのもまた高桑の歩んできたサッカー人生の事実なのである。そのことは、高桑の選手としての姿勢や人間性によるものなのだろう。

「本当に救われたのは、さまざまなタイミングで常に助けられて手を差し伸べてくれる方がいてくれたことです。最初に日産に入るときに声をかけてくれた清水さん、鹿島に引っ張ってくれたのは当時の強化部長の鈴木満さんでした。仙台に再び清水さんが呼んでくれ、マリノスが再び声をかけてくれ、徳島で声をかけてくださったのは高校の大先輩にあたる強化部長の中田(仁司)さんでした。当時の監督、美濃部さんからホーム最終戦が、すでにJ1昇格を決めていた古巣のベガルタ仙台戦で、『出るか?』と聞いてもらいましたが、僕が最後に中途半端に出るべきではないし、頑張っていたGKもいましたので、『情はいらないです』と言いました。試合後に、徳島サポーターだけでなく仙台サポーターも残ってくれて、サプライズで仙台の選手も来てくれたことは、忘れられないですね。片岡功二という徳島のレジェンドのような選手が引退したので、それもあって僕も一緒に(引退セレモニーを)やっていただいて、とにかく周りの方たちが手を差し伸べてくれたおかげの現役生活だったと思います。ありえないミスをして、誰も欲しがらないだろうという僕を皆さんが必要としてくれて、本当にありがたいと思っています」

 高桑自身は、現役引退をそう振り返ったが、もしかしたら本人の捉え方と、サポーターや周囲の方の受け止め方は違うのではないだろうか。

 2009年11月29日、鳴門・大塚スポーツパークポカリスエットスタジアムで開催されたJ2第50節徳島ヴォルティス対ベガルタ仙台戦終了後に、高桑大二朗、片岡功二両選手の現役引退セレモニーが行われた。その日が、古巣の仙台戦だったことは、サッカーの神様が見守っていたような巡りあわせだった。

 引退セレモニーでは徳島の選手たちが次々に高桑と片岡のふたりに花束を贈呈した後、高桑の元には、仙台の選手たちも駆けつけた。後輩の面倒見がよく慕われていたという先輩の引退に、仙台の選手たちからはサインを入れた写真パネルが手渡された。

 徳島サポーターからは「大さん、徳島に来てくれてありがとう」という横断幕がスタンドに掲げられ、仙台サポーターからもまた、「ありがとう高桑」「大さんありがとう」というメッセージが掲げられていた。セレモニー終了後には、残ってくれていた仙台サポーターからの高桑コールにも迎えられ、仙台のJ1昇格に「おめでとう」を伝え、「仙台にいた4年間は僕の宝物です」と挨拶した。セレモニーの間中、高桑の目には涙が溢れていた。

 多くの人から慕われ、愛された選手の記憶に残る引退セレモニーだった。

セカンドキャリア

 2022年1月5日、川崎フロンターレのGKコーチとして高桑大二朗の就任が発表された。

『2022シーズンより、川崎フロンターレのGKコーチに就任することになりました高桑大二朗です。常勝チームの一員になれる事を非常に嬉しく思っております。1日でも早く川崎の皆様に認めてもらえるよう精進し、鬼木監督を支えられるように力戦奮闘いたします。よろしくお願いします』

「大ちゃん、一緒にやろう」

 キッカケは、鹿島アントラーズで現役時代チームメイトだった旧知の鬼木達監督からの連絡だった。

 2010年に横浜FMのアカデミーで指導者としてのセカンドキャリアをスタートし、6年間務め、その後、JFAで日本代表の年代別GKコーチに就任。2016年にU-16、2017年にU-17、2018年にU-16、2019年にU-17/U-15、2020年にU-19/U-18、そして2021年はU-20日本代表GKコーチを務めていた。育成年代や若手選手たちを指導することには、やり甲斐を感じていたし、充実した日々を送っていた時にもらったオファーだったので、考える時間が少し必要だった。


「一番は、鬼木監督を支えたい、一緒にやりたいという気持ちで決断しました。選手たちに対してどういう指導をしているのかも興味がありました。また、僕自身ずっと育成年代の指導をしてきましたので、今回オファーをいただき、昨年はU-20でプロ選手も含めて指導はしていましたが、大人世代の選手たちの指導者としてやるのは初めてだったこともあり多少不安もありました。ただ、年齢や自分の身体のことを考えて、ここを逃したら次はないなと思いましたし、こういうチャンスはチャレンジしなきゃダメだと思って決断しました。実際に鬼木監督と約半年やってみて、情熱をもって選手目線で接しているところだったり、勉強熱心なところだったり、スタッフを信頼して任せる部分は任せて、意見を求めて最後は自分が決断するというマネジメント力、リーダーとして確立しているものを感じています」

 高桑の指導者としてのセカンドキャリアのキッカケもまた、人との縁がつないできたものだった。

 2009年、横浜FMを離れることになった際に、クラブからは指導者になる誘いも受けていた縁もあり、現役引退後、横浜FMのアカデミーのコーチに就任することになった。横浜FMで指導していた6年間のキャリアで、高桑が最も印象に残っているのは、指導者として1年目の出来事だ。

「マリノスのジュニアユースは全国大会にも出るレベルで、うまい子たちが揃っているのですが、試合に出ている選手がある日、僕がミスをした動画を見た。笑っちゃいましたと言ってきたんですね。その時、僕は、『来たか』と思いました。僕を信頼できなくなるんじゃないかと思いました」

 だが、高桑には想いがあり、行動することにした。全国大会には同学年の控えGKがいて、その選手が熱心に水を持って行ったりサポート役に黙々と徹している姿を見ていたが、もらって飲み終わった水を地面に雑に投げつけたり、彼に対する態度がぞんざいなこともまた気になっていた。そのことを指摘するのではなく、きちんと腹を割って話そうと考えた高桑は、ある日、ふたりを呼んだ。

「まず、サポート役を一生懸命やっていることに対して『ありがとう』と感謝を伝えました。もうひとつ、僕のミスについて、同じGKとして『笑っちゃいました』というのは悲しいと正直に伝えました。GKはミスが許されないポジション。そのうえで、もちろんミスしたのは自分なのでプロとして受け止めている。ただ、やっぱり叩かれたりいろいろ言われたことは、自分はよくても家族は悲しい思いをしたんだよ、と。自分の力だけでサッカーができたり、勝っているわけではないし、サポートしてくれる人がいてくれることは当たり前ではないありがたいことなんだと。そういう話をしたら、その後、彼の行動が変わったように見えました」

「人の痛みを想像できるGKであってほしい」という高桑にとって、このことは指導者として最初のターニングポイントになった。

 2016年、JFAで育成年代の代表選手のGKコーチに就任したのもまた、人との縁がつないだものだった。

「僕がマリノスに入った時にコーチをやられていた木村浩吉さんが協会にいて、声をかけてくださったんですね。今まで培ってきたものを日本サッカー協会で出そうと思い、やらせていただくことにしました」

 それまでのクラブチームとは違い、育成年代でありながらも、短期集中で選りすぐった選手の集まりに対して指導をすることになる。難しさも感じつつ、やりがいも感じた6年間だった。

「個性揃いがひとつにならなければいけないので、一体感が大切でコミュニケーションを重視していました。何年かご一緒した森山(佳郎)監督が熱い方なので、まとめる力やパッション、指導力は一緒にいて非常に勉強になりましたし、ミーティングの中で僕が話をさせてもらうことも何度かあり、パワーポイントで資料を作ったりしました。話したテーマは、周りの人へのリスペクトや感謝の気持ちを持つことの大切さだったり、向上心を持つことの大事さ、謙虚さとは人の意見を聞くことだよ、とか、それはもう熱く語らせてもらいました。ただ、彼らと過ごしてきたなかで思うことは、彼らは意識が高く、向上心が凄かったので僕の方が勉強させてもらっていました。最初に関わったのが、谷晃生(湘南ベルマーレ)、菅原由勢(AZアルクマール)、久保建英(レアル・ソシエダ)たちの年代でしたが、当時から彼らは海外に行っても自分から積極的に会話をしようとするし、しっかりしたコミュニケーションがとれていて頼もしい限りでした。だから海外でも通用しているのだろうし、今でも日に日にうまくなっていく姿を見ていて、負けていられないなと刺激をもらっています」

人の痛みがわかるGKに

 2022年シーズン、フロンターレは高桑大二朗GKコーチの元、チョン ソンリョン、丹野研太、安藤駿介、早坂勇希の4選手の体制で挑んでいる。

 シーズンが始まった頃に、ソンリョンが「明るい雰囲気のなかで、みんなで協力して練習に取り組んでいます」と話していたが、高桑の「ナイス!」「いいよ!」などのポジティブな声掛けが聞こえるなか、GKチーム一丸となってトレーニングに励んでいる。

「僕のベースにあるのは、カンタレリから教わった時に感じた、GK全員をうまくしたいということ。これがベースにあり、積み重ねていけばチームとしても軸がブレないと思っています。あとは、試合の失点シーンなども考慮したうえで、その改善につながるようなトレーニングを取り入れて、何も言わずともメッセージが伝わるようにしていきたい。試合に出ている、出ていない選手がいるなかで、それぞれ怪我もさせたくないですし、レベルも落としたくないので、綿密に考えてトレーニングしてます」

 それぞれ4選手については、どんな印象を持っているだろうか。

「ソンリョンは、コンスタントに出場していれば疲れもあるだろうし、ベテラン選手であればあるほど練習後に体のケアもあるから、すぐに切り上げてもいいはずなのに、こういう練習がしたいという要求があったりと、向上心の塊でストイックですね。一番若い早坂の質問にも練習後に一緒にランニングしながら丁寧に答えている姿を見て、若手選手にとっても本当にありがたい存在だと思います。丹ちゃんも、こういうトレーニングがしたいと要求をしてくれますし、足元の技術がしっかりしています。アンちゃんは、早坂に対して先輩としてしっかりアドバイスをしている姿も見ていますし、シュートストップに優れています。早坂は一番若手なので、今はとにかく体を鍛えています。筋力、体力、経験もまだまだこれからの選手ですが、この半年間のトレーニングの中で、守備範囲が広くなったことを実感できていると思います。選手たちのことを見ていると、これまでの10年間で(菊池)新吉さんが作られてきたものや人間性が表れている部分も感じています。そのうえで、自分自身のまた違った部分も出しつつ、ベースとしてフロンターレのGKチームの良さはそのまま生かして、それが発揮できるグループにしていきたいです」

 2022年7月30日(土)、浦和レッズ戦を迎えたフロンターレは、新型コロナウイルス感染症の陽性者が複数人出た影響で、控え選手が7人揃わず5人、そのうちGKが3人名前を連ねていた。

 そして、安藤と早坂は、急きょ用意した白いフィールドプレイヤーのユニフォームでベンチメンバーに入り、続くルヴァンカップ・セレッソ大阪戦もその状態が続くことになった。

 安藤駿介は、チームの緊急事態に対する自身の経験をこう振り返る。

「あの時は人数が足りていなかったし、どういう状況かすぐに理解できていました。自分がGKのサブに入らなければ、冷静に考えればGKは何人もいらないから、万が一に備えてフィールドプレイヤーとしてベンチに入る、ということは妥当なことだと思えました。監督からは、前日のメンバー発表後に、『こういう時だから、声出しとか一緒に行動してやれることはお願いしたい』と言われて『もちろんです』と答えましたし、自分たちが入るということは声がけとかを期待されているということも理解していました。浦和戦では、フィールド選手としてウォーミングアップをするのは初めての経験だったので要領もわからず、何本もダッシュをしてキツくて汗だくでしたけど、一緒にサブに入っていたヤマくん(山村和也)が『万が一出ることがあったら、DFの裏に蹴ればいいよ』と声を掛けてくれました。周囲からどう見えていたかはわかりませんが、目指すものがあればブレないし、必死にやるだけ。僕らだけじゃなくどのチームでも起こりうることですからね。実際出ることはなかったですけど、もしものことがあったら、チームでたまに入るポゼッション練習を想像して、自分がボールを触る機会があったらちゃんと味方につなげるとか、これだけの体格があるんだから、少しでも奪われないような努力は最低限やろうとか、追いかけるとか、技術とは関係ないところで何とかしてチームのためにということは考えました。でも正直、自分がゴールに絡むとか具体的なイメージまでは湧かなかったですね。それでもクロスが上がってきたら突っ込むとか、GKやDFが嫌がるポジションに入ろうとかは自分なりに考えましたよ」

 ベンチに入った丹野、安藤、早坂からのピッチサイドからの大きな声の後押しは、戦う選手たちを震い立たせるものだっただろうし、浦和戦の後半、安藤が小走りでスタッフにタオルを渡しにいく姿がスタンドから見えたが、それは「もしかしたらスローインをする可能性があるかもしれない。あの日は湿気がすごかったから、ボールを拭けるようにタオルを持っておいてもらいました」という考えによるものだった。

 いま自分に何ができるかを考えて、すぐに行動に移す。そのことを特別なことではなく、当たり前のこととして振る舞っている姿を見ると、以前に安藤が「たとえメンバーに入らなくても、もしかしたら不測の事態があるかもしれないし、今はコロナ禍で急な体調不良なども起こりうるから、慌てないように常に『何かあるかもしれない』と自分に言い聞かせて、可能性を頭に入れている」と話していたことが思い起こされた。

 2試合が終わった翌日、8月4日のミーティングで選手たちを前に鬼木監督は「プライドのところもあるだろうし、チームのために声をかけ続けてくれたり、感謝している。やってもらってまずありがとうという言葉が出てくる」と彼らを称え、ソンリョンも同日のオンライン会見で「心強く感じた」と仲間たちを労った。

 当の本人は、「そう言ってもらえてありがたいですけど、当たり前のことじゃないですか。自分たちがメンバーに入っていれば、チームのため、勝つためにやるわけですからね」と、淡々と受け止めた。目的はチームの勝利であり、そのために何が求められていて、自分に何ができるのか──。そして、こちらの想像以上に、チームの勝利のために貢献しようとする勝負師としての強い想いも滲ませた。

「心残りがあるんです。自分のなかでは声掛けはやったつもりでしたけど、あの2戦は1敗1分だったので反省点はもちろんあります。とくに(ルヴァンカップ)セレッソ戦は、結果的に上に進めなかったし、だからこそ、アウェイのあの試合、ショウゴ(谷口彰悟)が今にも倒れるんじゃないかっていう、見たことがないぐらいキツそうな表情をしていたのを見ていて、最後に追いつかれちゃったから、声で動かせる限界もあるかもしれないけど、もっと外からの声で何かできたんじゃないかっていう心残りがありますよ。勝ちたかったですね」

 

 浦和戦の時、GK4人全員がメンバー入りすることになり、室内アップ場でGK陣を前に高桑コーチは、「みんなで乗り越えよう」と声をかけ、安藤に対しても「こんな時だからこそ、みんなで声をかけて頑張ろう」と続けた。

 そう声をかけてもらった安藤が、こんな風に自身や高桑コーチについて話していたことが印象的だった。 

 

「意外と僕自身は平常心でしたし、ピリッとするよりいつものように自然体でいようと思いました。前日にメンバー入りが決まって、僕が白いユニフォームで(タッチライン際に)立つ時は、笑ってねという話をしたり、ヤスト(脇坂泰斗)からは『どんなにキツくて苦しくても、アンちゃんがタッチラインにいたら笑っちゃう』と言われました」

 と安藤は何気なく話していたが、それも日頃からのチームメイトとの関係性や安藤ならではのチーム内の立ち位置や存在感があったからこそ辿り着いた“自然体でそこにいる”境地だ。そうした彼ならではの貢献の仕方が、周囲にポジティブなものやエネルギーを与えているのだろう。

「僕は、中心にいるわけじゃないですけど、僕の周りにいる人みんな笑顔で溢れていてほしいと思うんです。そういう考えは、大さんにも通じるところがあると感じています。大さんは、前向きで明るく、マイナスなことを言わない人。いつも、ポジティブな声掛けをしてくれるし、どうせやるなら楽しくやろうというモットーの人」

 浦和戦やC大阪戦で見たGK陣の振る舞いは、そのまま高桑が掲げていたフロンターレのGKチーム像に通じていたように思う。

「チームとして後方からの声は大事なので、しっかりと指示やポジティブな声掛けを練習から出すようにしてもらっています。人に対してミスを指摘するのではなく何をしてほしいのか具体的に伝える。そういう人の気持ちや痛みがわかるGKでいてほしいですし、なおかつ後ろからしっかりチームを支えて引っ張っていけるGK陣を揃えていきたいと思っています」

 

 盛夏が終わり、シーズンも終盤に入っていく。

 3連覇にチャレンジするフロンターレと、GKチームの、ひたむきな姿を目に焼き付けてほしい。

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[たかくわ・だいじろう]

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2022シーズンからトップチームGKコーチを務める。元日本代表。現役時代は横浜F・マリノス、鹿島アントラーズ、東京ヴェルディ、ベガルタ仙台、徳島ヴォルティスでプレー。現役引退後は横浜F・マリノスの育成組織や年代別日本代表でGKコーチを務めた。

1973年8月10日、東京都世田谷区生まれニックネーム:ダイ、ダイジロウ

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