ピックアッププレイヤー 2022-vol.08 〜MF25 松井 蓮之選手
テキスト/いしかわ ごう 写真:大堀 優(オフィシャル)
2022年1月15日、カルッツかわさきで行われた新体制発表会見。
川崎フロンターレの一員となった松井蓮之は、集まったサポーターを前にしてこう告げた。
「ぜひレンジと呼んでください。今年一年、熱く戦いましょう!」
プロの扉を叩いた松井蓮之の「チャレンジ」は、こうして始まった。
松井蓮之が生まれ育ったのは、福島県いわき市。
人口は東北地方では宮城県仙台市に次ぐ約32万人だ。ただ本人曰く「都会ではなく田舎。住みやすいのどかな街です」とのことで、周囲に公園がたくさんある自然の多い地域である。
3人兄弟の末っ子で、2人の姉がいる。
それぞれ6歳上と3歳上になるが、3歳上が女優・モデルとしても活躍している松井愛莉なのは有名な話かもしれない。何かと取り上げられることが多い話題だが、「仲の良い、普通の兄弟ですよ」と笑う。
サッカーを始めたきっかけは母親の影響だった。
中田英寿の大ファンだったという母親は、福島にあるJヴィレッジに日本代表が合宿に来る際に練習見学で足を運んでいたのだという。一緒に連れられていたときの記憶はおぼろげだが、母の勧めでサッカーを始めるようになった。
近所の公園でサッカーボールを蹴り始め、自宅では壁当てをする子供で、物心つく頃にはすっかりサッカーボールに親しんでいた。小学生になると「アルテーロFCいわき」に入団。ドリブル、リフティングなどボールを扱うメニューを通じて、どんどんサッカーにのめり込んでいった。
サッカー以外の習い事ではスイミングスクールに通い続けたという。
行きたくないと駄々をこねたこともあったが、5年生まで競泳をやり続けたことで、驚くほど肺活量が鍛えられた。小学生のマラソン大会は毎回1位。松井の武器の一つに豊富な運動量があるが、小学生時代の水泳で鍛えられたものが原点だと本人は自負する。
2011年には、生涯忘れられない出来事に見舞われた。3月11日に発生した東日本大震災である。福島県いわき市は大きな揺れと津波に襲われ、深刻な被害が出たことでも知られている。
「小学5年生の頃ですね。下校中にものすごい地震が起きました。その場に座りこむと、地割れが起こっていた光景は鮮明に覚えています。家の中の物も全部倒れていて、近くのレンガも崩れていました。実家は停電と断水で生活ができないし、コンビニに行っても何もない。結局、知り合いのいる関東に避難したのですが、地元のサッカーチームも活動ができませんでした。あの東日本大震災は今でも忘れることができません」
中学に進むと「リベルダード磐城」というサッカーチームでプレーした。さほど強いチームではなかったが、早い段階から試合に出場できたことで、体格差を生かした守り方を意識するようになる。ボランチ、センターバックなど守備的なポジションでプレーするようになったのはこの頃からだ。
「高校サッカーに出て日本一になりたい」
中学卒業時には、そんな目標を両親に熱く訴えた。
県外に出て関東のレベルの高さを肌で感じたいと思ったのが動機だった。両親の理解と後押しもあり、いくつかの高校にセレクションや練習参加をお願いした末、栃木県の名門・矢板中央高校に進学することになった。
「最初は辛かったですけど、良い経験ができたと思っています。練習はめちゃくちゃキツかったですよ。特にフィジカルが多かったですね。グラウンドの周りに山があるんです。練習前に10km走ったり、グラウンドが使えないこともあるので、山を走っただけで終わりだったり… 対人やフィジカルメインの練習が多かったですが、それが僕の武器になっているのでやっておいてよかったと思います」
高校は寮生活。約150人いるサッカー部員は関東からの入学者が多く、みな顔見知りのようだった。一方、東北からやってきた入学者は松井ぐらい。ホームシックになり「帰りたい」と親にLINEしたことも度々だった。それでも環境に慣れるにつれて、充実した高校生活になっていく。1年生からAチームに絡んでいくと、その年の全国高校サッカー選手権のメンバー入りを果たしている。
なおこの時の松井は少し違う形で注目されている。というのも中学時代に、姉の松井愛莉が『第92回全国高校サッカー選手権大会』の9代目応援マネージャーに抜てきされていたからである。自身が高校サッカーに出場する際には、松井愛莉の弟という形で注目を集めることがあった。高校生には複雑だったと思うが、それもモチベーションになっていたと話す。
「姉の方が活躍をしていたので、それは仕方がないと思っていました。姉のことで自分も取り上げられましたが、僕も絶対に高校サッカーに出てやるという強い気持ちになりましたね。デビューはできませんでしたが、全国のレベルの高さをベンチからも感じられました。応援もすごいですし、ここのピッチで活躍したいと思いました」
高校2年生の時にはU-16日本代表に選出。関東選抜の合宿でのパフォーマンスが森山佳郎監督の目に留まり、招集されたのだ。「初めてだったので信じられない気持ちでした。緊張しまくってましたね」と笑うが、ここから徐々に注目される存在となっていく。
2年生では県予選準決勝で敗退するも、3年次には再び全国へ。堅い守備からカウンターを武器とする矢板中央のスタイルを中盤で支えるボランチとして、ベスト4進出の原動力ともなった。ボール奪取力と運動量に磨きをかけたプレースタイルも高く評価され、松井は大会優秀選手にも選ばれている。
「中盤で運動量を出しながら、ボールを奪うところでは自分の良さが出ていたと思います。前線にも上手い選手がたくさんいた中で、矢板中央のスタイルがハマっていました。3年生では全国ベスト4に残れて、『高校サッカー選手権に出て活躍する』という目標を叶えられた瞬間でしたし、やってきてよかったと思いました。決勝まで行けばさらに歴史を塗り替えられたので悔しい試合でもありました。ただ高校生であんなに応援されることはないですし、埼玉スタジアム2002でプレーできたことも青春ですね」
卒業後の進路は法政大学に進学することを選んだ。
プロからの打診がなかったわけではない。ただJクラブに練習参加した際に、プロとのレベルの違いを痛感させられ、大学4年間で人間としても成長することを目標に大学サッカーを選択した。
そして人生で一番の苦しい時期が大学時代だったという。
当時は上田綺世がJリーグでブレイクしており、法政大学の名がいつも以上に注目されていたタイミングでもあった。法政大サッカー部は部員が少なく、一人一人のレベルが高いことで有名だが、実際に入ってみると、レベルの高さに舌を巻いた。「自分はここで4年間やっていけるのか」という不安に襲われ、実際、1年生の頃はAチームに絡むこともなく、Bチームのセンターバックのポジションで一年が過ぎている。
2年生になり、ようやくリーグ戦でデビュー。しかし本職ではないセンターバックとして出場した試合では4失点の敗戦。自分のやりたいポジションでは出場できず、再びBチームに落とされるなど思うようにいかない日々が続いた。「これがあと2年間続くのか」と思うと、流石に胸が苦しくなったという。
「悔しいし通用しないことだらけで、サッカーが嫌になったこともありました。でも僕の夢はプロになって活躍すること。それが根本にはありました。あと2年間あるので、自分の足りないことをやろうと。自主練もやってましたし、腐ることはなかったです。絶対に上に行きたい。その気持ちを強く持ちました」
2年生までの大学生活は充実していたとは言いがたい。むしろ悔しい思いばかりだったが、それでも指導者が練習に付き合ってくれたこともあり、必死に努力を続けた。その1人が、井上平コーチ(現:法政大学監督)だ。東京ヴェルディやFC岐阜で活躍した元Jリーガーで、悩んでいる松井に的確なアドバイスを送りながら、練習にもとことん付き合ってくれたのだという。
「平さんは一人一人に向き合ってくれる方でした。悩んでいたら話しかけてくれましたし、選手に寄り添ってくれる。試合に出ている一人一人の映像を個人で送ってくれたり、足りないところや続けるべき良い部分を綿密に教えてくれました。自分の良さや課題が明確になったし、そこを落とし込んで自主練習に励んでいました。練習の熱量もすごいし、平さんが頑張る人なので、僕も頑張らないといけない気持ちになりましたね。平さんの存在は大きかったです」
前向きな努力を続けていた松井に、大きな転機が訪れる。
3年生で迎えた2020年は、新型コロナウイルスが世界的な猛威を振るい始めた年だった。大学サッカー界も大きな影響を受けることになり、日程が中断に。すると自粛期間明けのタイミングで、勝負したいポジションであるアンカーで起用されるチャンスが巡ってきたのだ。
「チームの活動が再開して、試合が近くなった時の紅白戦で急にアンカーで試されて、関東リーグの開幕戦で使ってもらいました。コロナがなくてあのままシーズンが始まっていたら、違う人が出ていたと長山一也監督も言ってました。ずっとセンターバックだったので、ボランチの感覚を取り戻すのに必死でしたし、僕だけがBチームから来たので自分がブレーキになっていた時期もありましたが、それでも監督が使い続けてくれました。コロナに助けられた…… と言ったら変ですが、自分はコロナがあって人生が変わったんです」
そんなアンカー・松井蓮之の姿に目を留めたのが、川崎フロンターレのスカウトである向島建だった。すでに加入内定を出していた桐蔭横浜大の橘田健人を視察に来た関東大学リーグ1部第2節で、対戦相手にいた松井の存在が気になったのだという。そこから興味を持ち始め、試合のたびに成長を遂げていく松井のプレーぶりに熱視線を送った。
向島スカウトの動きは早く、秋にはクラブから正式なオファーが届いた。
翌年の海外移籍を睨んでいた守田英正の後釜を担っていけるボランチの獲得は、クラブの補強ポイントであり、そこに松井蓮之のプレースタイルが合致していたという事情があったのは事実だ。ただ当の松井からすると、驚きでしかなかった。
「監督から『日本一強いチームがお前に話があるみたいだぞ』と言われて、『えっ? 本当ですか? 人を間違ってませんか?』と言ったのを覚えています(笑)。建さんは高校の頃から自分を知ってくれていましたが、大学サッカーで久々に僕のプレーを見て感じるものがあったと話してくれました。それまでは川崎フロンターレとも接点がなかったので、驚きましたね。フロンターレが一番強い時期ですし、自分は試合に出始めて少ししか経ってないので、本当にびっくりしました」
松井が驚き、困惑するのも無理もないだろう。
2年生には「もし3年生で試合に絡めなかったら、就活しながらサッカーをしよう」と思っていた選手である。まさかのJリーグのチャンピオンチームから誘いが来たのだから、困惑するなという方が無理な話だ。
ぼんやりと描いていた自身の青写真と、目の前に提示された現実のオファーにあまりにギャップがあり過ぎた。「本当に謙遜でもなくて」と前置きして、当時の素直な思いを口にする。
「僕はJ1は行けないかなと思っていました。自分の立場を考えたら、J2に行けたら最高だなと思っていました。J3でもJ2でもいいので、そこから活躍していきたいと思っていました。どのチームに行きたいという目標もなく、プロサッカー選手になりたい。そういう目標でした。だって、関東リーグにデビューしたばかりの選手がまさか川崎フロンターレに行くなんて誰も想像できないですよね… どうしていいかわからなかったです。すぐに行くとも言えませんでした。相談するにも両親にも言えず、ずっと1人で抱え込んでいました」
果たして自分はプロで通用するのだろうか。
期待よりも不安の方が大きく、自問自答する日々が続いた。悩んだ末、最終的にはサッカーで生きていくと覚悟を決めた。サッカーしかしてこなかったので、サッカーのない生活は考えられなかったからだ。応援してくれた両親に恩返しのためにも活躍したいという思いを強くし、年末には、Jリーグ史上最強と呼ばれたチャンピオンチームへの加入を決断した。
翌2021年2月にはトップチームの沖縄キャンプにも参加。天皇杯との2冠を獲得した川崎フロンターレのトレーニングを体感すると、そこは想像を超える衝撃だった。
「カオルくん(三笘 薫)とかアオくん(田中 碧)もいた中でのキャンプで、こんなにサッカーがうまい人たちがいるのか。同じ人間なのかと思ったぐらいです。特に切り替えのところ、強度の高さ、判断のスピード… 日本一のチームはこんなに早いんだと感じたのは鮮明に覚えています。練習動画はずっとYouTubeで見てましたが、いざ自分があの中で入ってやるのは本当に緊張しましたね。ただ一緒にやらないとわからない凄さを1年早く経験できたのは良かったです」
4年生の時は「川崎フロンターレに内定している選手」という視線を周囲から浴びる中でプレーすることになり、正直、やりにくさもあった。夏の総理大臣杯は優勝に貢献する仕事をしたが、インカレとリーグ戦は良い結果が出なかった。
「毎試合いいプレーをしないと、『ダメじゃん』と思われますよね。プロサッカー選手になるならば仕方ないですが、ミスしないようにと意識しながらプレーしていたので伸び伸びできなかったところはあります。今思うと、それはいらなかった。でも、それを気にしながらプレーする自分がいました。思ったようなシーズンではなかったですね」
そして2022年、プロサッカー選手としての挑戦が始まった。
Jリーグのチャンピオンチームの一員になってからは、毎日の練習が驚きと発見ばかりだ。例えば自分の武器の一つにボール奪取があるが、大学の頃には相手から奪えていたボールが、プロの先輩たち相手にはどうやっても取れなかった。むしろ奪いに行く動きを利用されて、うまく剥がされてしまう。そんな駆け引きを通じて鍛えられていく日々をどこか楽しそうに松井は話す。
「インターセプトを狙うよりは、トラップさせて、そこで間合いを詰めてボールを奪い切るのが自分の良さです。ただフロンターレではそれが通用しない。例えば泰斗くんには奪いに行ったところをかわされるし、食いついた背後をマルシーニョに走られたりします。トラップ際を狙っても、それを逆に狙われて誘い込んで剥がしてくるんです。そこでもっと違う駆け引きが必要だし、まだまだ足りないなと思います。でも、練習中に理想通りにボールが取れたら嬉しいですし、そこが自分の良さなんだなと感じますね。その回数がまだまだ少ないので、そこはもっと増やしていきたいです」
リーグ戦での出場はなかったが、ACLや天皇杯では出場機会を掴んだ。
公式戦デビューとなったACLの広州FC戦では、人生で初めてとなる左サイドバックでスタメンを飾った。気合いが入りすぎて前半のうちにイエローカードをもらってしまったが、持ち前の運動量を生かした上下動で攻撃にアクセントをつけるなど、上々のプロデビューだった。
ACLを終えた帰国後には、天皇杯2試合に右サイドバックとして出場。
等々力デビューとなった2回戦の札幌大学戦では、右サイドのエリアで遠野大弥や瀬古樹と連動しながら、得点の起点を担っている。試合後はこんな手応えを口にした。
「遠野選手やインサイドの瀬古選手とローテーションしながら、そこのスペースをうまく使えていたかなと思います。今日のポジションはサイドバックですが、元々のポジションはアンカーです。そのパスやロングボールは僕もできるところ。サイドバックというよりは、どんどん良いボールを配球して、うまくプレーできるようにと意識していました」
その積極的な姿勢は、試合後の監督会見で鬼木監督から名指しで評価されたほどだ。
「怖がらずにアグレッシブにというところ。ボールを失ったらみんなで取り返せばいいんだし、それくらいの割り切りで今日はやってほしいというところで進めたので、そういう意味で言うと、ポジションが違う選手… 例えばレンジもすごく積極的でしたし、本来のポジションではないですけどゴール前まで行ったりとか、非常によかったと思います。結局、積極性なのかなと思います」
マンチェスター・シティのジョアン カンセロが、右サイドバックでありながら、中盤でのゲームメークや得点に絡む動きと役割をこなすことで、「カンセロロール」と評されて久しい。サイドバックで起用されている松井蓮之も似たイメージなのかもしれない。あの豊富な運動量はサイドバックでも活用できると、指揮官は続けた。
「ACLの最終戦で彼らしい、あのきつい中で彼だけがずっと上下運動をしたりとか、すごくタフだなという印象がありました。本来は、中盤のところでもっともっと生かしてあげたいんですが、あそこのポジション(サイドバック)の選手がなかなかいない状況では、ユーティリティとしてサイドバックもできますし、アンカー、ボランチもできます。走力、球際とかそういうところもよくなってきているので、いま面白い選手の一人だと思っています」
ただ天皇杯3回戦・東京ヴェルディ戦を最後に公式戦出場からは遠ざかっている。優勝争いをするチームの選手層は厚く、Jリーグのデビューを果たせぬまま1年目の時間は過ぎていった。
満足はしていないだろう。だが挑戦したことで得たものも多かったはずだ。プロの壁は高いが、だからこそ挑戦のしがいもある。確かな感触もつかんでいることの自負をのぞかせた。
「自分が思うようなシーズンではなかったですが、それ以上に自分が学べることもありましたし、いろんな良い経験ができたと思っています。もちろん、アンカーで勝負したい思いがありますが、それ以上に試合に出て活躍したい。その思いが大きくなりました。与えられたポジションで、自分の良さを出す。サイドバックには慣れてきてはいますし、試合で絡んでいきたい。サイドバックでプレーすることで評価されることでアンカーにもつながってくる。与えられたポジションで100パーセントやっていきたいです」
自分の足りないものに真摯に向き合い、努力し続けたチャレンジの1年目は、間もなく幕を閉じる。
今度はそれを力に変えていく。そんな2年目の飛躍を期待したい。
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[まつい・れんじ]
ボール奪取力と対人戦の強さが持ち味の守備的MF。中盤でハードワークし、相手の攻撃の芽を摘み取る。矢板中央高校から法政大学に進学し、大学3年生時にチャンスをつかむと大きく成長。4年生時には中心選手としてチームを総理大臣杯優勝に導いた。大学生時代からフロンターレの練習に数多く参加しており、守備のハードワーカーとしての活躍が期待される。
2000年2月27日、福島県いわき市生まれニックネーム:れんじ