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ピックアッププレイヤー 2022-vol.09 〜GK22 早坂 勇希選手

チャレンジ

テキスト/隠岐麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Oki Marina photo by Ohori Suguru (Official)

小学生の頃から川崎フロンターレアカデミーで育った早坂勇希。
大学を経て大好きな川崎フロンターレに戻ってきた。
フロンターレのエンブレムをつけてきた誇りは、大学時代も色褪せることなく、
心のなかでピカピカにいつも輝き続けていた。
子どもの頃、川崎フロンターレの選手たちに憧れた。
夢を見守り、支えてくれた人たちがいた。
大人になって夢を叶えた自分が、今度は、子どもたちに夢を与える番になった。

プロローグ


 小学1年生の早坂勇希は、その日、同じサッカークラブの友人に誘われ等々力陸上競技場のバックスタンドにいた。

 2006年11月26日、J1リーグホーム最終戦となった川崎フロンターレ対鹿島アントラーズ戦。その日の記憶は、選手の引退セレモニーが行われ、等々力の独特な臨場感とプリンセスプリンセスの「M」が流れ、子どもながらに初めて聞いたその曲が悲し気で心に残ったこと。中村憲剛らのゴールで3対2と勝利したが、ゴールが決まった時に恒例となっているタオルマフラーを片手で振り回す動作がうまくできなくて、恥ずかしかったことは今でも覚えている。その他の記憶は朧気だ。

 その日、フロンターレを長年支えてきた3選手の引退セレモニーが開催されていた。「M」にのせて、労いのVTRが流れ、引退する選手たちはサポーターの前で選手として最後の挨拶をした。

7番 鬼木達
18番 今野章
20番 長橋康弘

 後に、自分にそれぞれ関わることになる選手たちの引退セレモニーだったとは、7歳の少年には当然まだ知る由もなかったが、これが早坂にとっての“フロンターレとの出会い”の日だったとは、なんという巡り合わせなのだろう。

 この出会いから数年後に、少年はフロンターレのユニフォームを着ることになり、そして22歳の大人になって、プロ選手として再び帰ってきた。

フィールドは1次落選、GKでアカデミー合格

 子どもの頃から体も大きく運動神経もよかった早坂は、小学1年で友人に誘われて地元のクラブFC Winsに加入、フィールドプレイヤーとしてボランチなどでプレーしていた。練習が終わってからもコーチと一緒に残って練習をするなど、あっという間にサッカー少年に育った。毎週金曜日は、苦手だった水泳教室にも通っていたが、「金曜日の水泳を乗り越えたら、週末は大好きなサッカーだ」と思うと、頑張れた。

 そのうちに上の学年のカテゴリーにも参加するようになり、中心選手になっていき、週末のクラブだけでなく、平日にもスクールに通うようになっていった。

 そんな時に、母から勧められたのが川崎フロンターレのセレクションだった。

「クラブでは中心でやっていたので、もしかしたら力試しでという意味もあったかもしれないし、ちょっと王様っぽくなっていた自分を、母が、きちんと現実を見なさいという意味で勧めてくれたような気もします。僕は当時、自分が所属していたクラブを強くしたいという気持ちがあったので、しばらくそのセレクションの話は反抗したわけじゃないですけど、受け入れなかったんです。だから1年ぐらい経ってから、受けることになったと思います」

 フィールドプレイヤーとGKのセレクションは同じ時期に行われており、ふたつ一緒に申し込みもできたので、「力試しにどちらも受けてみたら。せっかくの機会だし」という母の助言で、早坂家は両方に申し込んだ。

 地元のクラブでは王様だった少年は、そこで衝撃を受けることになる。

「フィールドは1次で撃沈しました。何もできませんでしたね。足がめちゃ速い子がいたり、めちゃうまい子がいたりで、正直、全然ダメじゃん。受かる気しない。と思いました。それまで意外と何でもできていたので、衝撃が大きかったですね」


 そこが、人生で初めての挫折…なのかと思いきや、違った。

「楽しかったんですよね。本当にこの子同級生なんだっていう驚きもあったし、そういう子たちを見るのも一緒にプレーするのも楽しくて、自分が思い描いたことが一緒にできたり、自分のプレーが納得いかなかったりで、すごく変な感じだったことを覚えています」

 自分よりうまい子たちを見て、衝撃を受けた結果、落ち込むのではなく、素直にすごいなと認めて、楽しかったと振り返れるのは、早坂が当時からポジティブなマインドを持ちあわせていたからだろう。

 そのポジティブさがあったから、フィールドでは1次で落ちたセレクションだったが、クラブでたまにやったことがあっただけのGKのセレクションで、4次まであった試験を通過して、たったひとつの合格の座を掴めたのかもしれない。

「GKの1次に受かった時は、くじ引きだったんじゃないかと親と冗談を言うぐらいでした。本当に今振り返っても、僕が他の子と違いがあったとしたら…。試験の中で、長いコースが設定されてコーンをジャンプして回ってなどのアジリティのテストがあったんですね。僕はそのコースが覚えられなかったので、スタッフに聞かれたときに、正直に『わからない』って手を挙げたんですよ。それがインパクトを残せたのかな?」

 素直な小学4年生の早坂少年は、フィールドプレイヤー1名、GK1名という狭き門を突破して、見事にフロンターレのアカデミーに加入することになった。ちなみに、そのフィールドプレイヤーが、その後、早坂とU-18まで共にし、筑波大学を経て2022年に同じくフロンターレに戻りスクール・普及コーチとなった池谷祐輔であることにもまた早坂は縁を感じずにはいられないという。

 2010年、小林悠がトップチームに加入した同じ年に、早坂勇希は、フロンターレU-12に加入し、GK人生がスタートした。

 4月に加入し、5月には試合でゴールマウスを守っていた。というのも、ジュニアの選手たちにとって、ダノンネーションズカップと並んで大きな大会である「チビリンピック」があり、ひとつ上の田中碧の学年が中心で臨んでいたが、8人制、1試合3ピリオド制で行われるなか、3本すべてに出ることは規定でNGとされていた。GKも途中で交代する必要があったため、早坂の出番が早々に訪れたというわけだ。そこで、本人いわく「わけがわからないうちに、どんどん勝った」後に、フロンターレU-12は優勝した。


 翌2011年5月、6年生で迎えたチビリンピックに早坂は正GKとして出場。フロンターレU-12は、予選を通過し、準決勝は5年生の宮代大聖の2ゴールなどでトータル5対1で勝利した。

 日産スタジアムで行われた決勝では、柏レイソルU-12と対戦し、延長戦でも決着がつかず、3人ずつのPK戦へ突入。ここで、GK早坂が2連続でストップし、クラブとして3連覇を決めた。

「予選1戦目は僕のミスから苦しい展開になったのに仲間が助けてくれた。PKになったら僕が今度はみんなを助ける番だと思っていた」と、当時、早坂はしっかりとコメントを残している。

 そして、10月にスペインで開催された「ダノンネーションズカップ2011」では、ベストゴールキーパー賞を受賞している。

 当時の早坂のことを、現在フロンターレU-18 GKコーチの浦上壮史は記憶に残っているという。

「たまにプレーを見る機会がありましたけど、セービングがしっかりしていて、俺が止めてやるぞって感じで、けっこうGKっぽかったですよ。この子は将来どうなるのかなって楽しみにしていました」(浦上)

 充実したジュニア時代を送っていただろうし、周囲からも記憶に残る存在だったが、実際は、大変なことの方が多かったのだという。

「正直、ずっときつかったし、大変でした。5年生の時は、楽しいというより6年生の先輩の方が本当にうまくて強くて、自分が入って足を引っ張っていると感じていました。よく怒られてもいましたし、この道は違ったのかなって思いながら練習に通っていたこともありました」

 子どもながらに、どういうところに大変さやきつさを感じていたのだろうか。

「やっぱり生粋のGKじゃなかったので、孤独感というか、ちょっとみんなとは違ったり、練習も、ほぼマンツーマンで別メニューだったので、そういうのもけっこう大変でした。あとは、僕は少食だったので、合宿の時に、ごはんがなかなか食べきれなくて、泣いたこともありましたね」

 意外な話だった。

「僕は自分で言うのもあれですけど、本番に強くて大会が大きくなるほど力を発揮できるタイプだったので、周囲から試合でのそういう印象もあったのかもしれないですけど、練習試合では自分のミスから失点したり、みんなに思われているような選手ではないと自分では思っていました。でも、6年生の時には、大会を通じてちょっとずつ自信もついてきて、大きな大会では絶対に俺はやれるというメンタリティにはなっていました」

 髙﨑康嗣監督(当時)は、選手たちにサッカー以外にも人間力を大事にし、挨拶やマナーなども徹底して指導していた。

「タカさんや楠本コーチ(楠本晃義U-12GKコーチ=当時)に、礼儀などはしっかり教えていただきましたし、挨拶や連絡はきっちりするように指導されていました。当時、自宅に帰ったら到着したという連絡をして、そこで練習での反省点を聞いたりすることもあったので、やっぱり怒られたくないし、内心は連絡するのがいやだなと思うこともありました。でも、約束だったので連絡をしていました。大変だったなぁと思います」

 子どもの頃からフロンターレに憧れていた早坂にとっては、その頃から夢は、フロンターレでプロ選手になることだった。

 5年生の時に練習場だった下野毛グラウンドにふらりと寄ってくれた当時20歳の安藤駿介が、初めて間近で見たトップチームの選手。それまでスタンドから観ていた存在だった選手が「本当に実在するんだ」とリアルに感じられた驚きとともに、キーパーグローブをプレゼントしてもらって「めちゃめちゃうれしかった」大事な思い出だ。

 等々力で試合を観た時は、試合後に選手バスに乗る前に配られるサイン入りのカードがほしくて、一目散に走って最前列を目指した。そこで最初にもらったカードが、現スカウトの田坂祐介が手渡してくれたものだったことも、早坂にとって幼き日の大事な思い出なのだという。

GK22 早坂勇希選手 GK22 早坂勇希選手

アディショナルタイムにGKがゴール


 大変なこともありつつ、それを乗り越えて大会で活躍し、一方で大好きなフロンターレのトップチームを応援していた早坂少年は、その後、中学生時代はどんな3年間を過ごしていたのだろうか。

「一番記憶がない時代ですね。小学生のときにうまくいきすぎて、中学時代は一番しんどかったかもしれないです」

 具体的には、どのような変化が自分のなかに生まれていたのだろうか。

「体の成長も、心の成長もあって、素直に人の話を聞き入れることができないこともありましたし、アカデミー出身者と外部から入ってきたメンバーがいて、はじめて同期のGKの存在もできて、そういう部分も難しかったなと思います。あとは、当時を振り返ると、サッカーしかしていなかったので、一時、学業がおろそかになっていたところもあって。中学3年で周平さん(寺田周平コーチ=当時U-15監督)に指導してもらいましたが、印象に残ったのは、学業もサッカーも大事だから、サッカーが大変だったら学業を頑張ったり、その逆もあるからという話をしてくれて、自分のなかでバランスが取れるようになりました」

 多感な中学生時代を経て、フロンターレU-18に本人いわく「やっと」昇格。ここからの3年間は非常に濃い日々となった。U-18になると学年関係なく3学年で1チームとなる。自分より年上の先輩GKがライバルとなり、目指す目標であり越えなければいけない存在なんだと、より意識するようになった。

 だが、早坂にとって、ユースになって最初にインパクトがあった出来事は、ピッチ外にあった。

「1年の時にクラブユースに第3GKとして帯同しました。基本的に何かなければ出番はないので、チームの裏方のことをやっていました。そのときに、3年生のキャプテンが怪我で帯同していて、チームを鼓舞したり、自分ができるサポートをやっていたのが僕のなかで印象的でした。負けてしまった時の先輩方の涙もすごく印象に残っています」

 チームを支える裏方の仕事やそういう人の気持ちに、早坂の心が動いた初めての出来事だった。その経験は、後の早坂の言動を考えると、転機だったと言えるだろう。

 高校2年になった2016年のクラブユース選手権でレギュラーのチャンスを掴んだ早坂は、1学年上の田中碧(キャプテン)、1学年下の宮代大聖らとクラブとして初めて日本クラブユース選手権準決勝に進み、3位に。

「僕がU-18に上がった年にU-12の1期生の板倉さん(板倉滉)、三好さん(三好康児)がトップチームに昇格して、自分の中でも『やってやる』という気持ちが整理されて、プロへの道をめざして突き進もうと思いました」

 だが、結果的には、高校3年の初秋、早坂のトップ昇格の夢は、一度、散った。

 でも、そこからの日々もまた、かけがえのないものになった。

 2017年11月12日(日)フロンターレU-18は、史上2度目となるJユースカップ準決勝、ガンバ大阪戦を迎えていた。初の決勝進出を目指し、途中、宮代大聖、宮城天らのゴールで3対1とリードするも、後半83分から怒涛の反撃にあい追いつかれ、最後はアディショナルタイムに逆転ゴールを決められ敗退した。試合後、ピッチに突っ伏した早坂は、起き上がり、挨拶に向かったが、目には涙が溢れていた。

「3対1で、ほぼ勝てる試合を自分のミスから失点して負けました。勝って決勝にいけるという雰囲気だったなかで、本当に後悔がいまでも残っているというか、あそこで自分が抑えていればっていう試合。悔しかったです」

 浦上(U-18GKコーチ=当時)は、後日練習場で早坂と話をしたことを覚えている。

「勇希も2年から試合に出ていたとはいえ、雰囲気に呑まれたところもあったのかもしれない。まだ若さもあるし、経験不足も当然ある。でも、そういう経験ができたこともまた経験。試合は最後までどうなるかわからないし、僕自身も博多の森(1998年J1参入決定戦)の経験があり、それをその後に活かしたこともあった。試合後は落ち込んでいるから、後日、そういう話を勇希には練習場でしたことを覚えていますね。あとは、日頃から話していたのは、調子とかが表情に出ることもあったから、GKはチームメイトに信頼されて、あいつが守ってくれているからと安心をさせないといけない。高いレベルで波のないプレーを続けることで信頼は得られるもの。いい時だけではダメで、当たり前にいいプレーをして波をなくしたうえで、信頼を得ていくことが大事なんだ。プロになったらもっと厳しい世界だから、その前からセルフコントロールをして、いいパフォーマンスを出していかないといけないという話はしていましたね」(浦上)

 早坂自身も、U-18時代に浦上が話してくれた言葉を今でも心に留めている。

「浦上さんに話してもらったことは覚えています。自分ができない焦りでイライラしてしまう時は感情的になって、プレーもそういう時はうまくいかなかったり、波がありました。浦上さんに、GKは信頼が大事で、後ろに立つ人間として、そういう信頼を勝ち取らなければいけない。でも、その信頼は積み上げていくもの。それが一気になくなってしまうこともある。だから、うまくいかなくても、ちょっとずつ前に進めって言われました。当時は、そういう話を聴いても全てを処理しきれないこともありましたけど、でも、そういう言葉は翌日起きた時に心に残っていたりするんですよね」

 2017年12月2日(土)、フロンターレの初優勝を電車のなかでスマホで観た早坂は、嬉しさと悔しさの両方を感じていた。

「ケンゴさんの涙、悠さんの涙とか、いままでにない等々力の雰囲気で、ずっとシルバーコレクターと言われていたクラブが本当に優勝したんだってうれしくて泣きそうでした。優勝したのはうれしかったんですけど、昇格できなかった悔しさはありました。今でも当時の初優勝の動画を見ると、うれしさとともに悔しさが蘇ります」

 12月10日(日)、フロンターレ初優勝の優勝パレードが川崎市内で行われたその日、等々力ではフロンターレU-18が、プリンスリーグ最終節となる前橋育英戦に挑んでいた。

 状況次第となるがプレミアリーグ参入戦の出場権を得る可能性もわずかにあったために勝利がほしいフロンターレU-18は、1対1の後半アディショナルタイムに突入。CKをフロンターレが得た場面で、GKの早坂がベンチからの声を振り切って、ゴール前に上がっていき、こぼれ球に反応して、蹴りこんで決勝ゴールを奪ってみせた。

「他力だったので、ベンチの雰囲気などで参入戦は行けないだろうなと感じたし、最後だし、勝ちにこだわりたくて、僕、等々力劇場を何度も目撃していたので、なんか、そういう予感しかなかったんですよ」

 フロンターレが大好きな早坂らしい理由でのゴール前への攻め上がりだったが、それを見事に決めた。そして、そのゴールで勝利してうれしかった理由もまた彼らしいものだった。

「パレードの後にたくさんの方が駆けつけてくれていたんですが、僕がうれしかったのは、ジュニアの子たちがパレードに行けず、僕たちの試合でボールボーイをやってくれていたんですね。スタジアムに入った時からジュニアの子たちが準備で先にいるのはわかってたし、感謝の気持ちもあった。だから勝利して、サポーターはもちろんですが、彼らがすごく喜んでくれてうれしかったです」

 ゴールを決めて、自陣のゴールマウスに戻り、ホイッスルがなった。ゴールラインにいたジュニアの子たちとハイタッチをして喜びを分かち合った。

 こうして早坂勇希は、小学5年から高校3年まで所属した川崎フロンターレアカデミーを卒業した。

~2017年12月17日付 早坂勇希Twitterより~

最高の仲間、最高のサポーターに出会えたことは大きな宝物になりました。
4年後一緒に戦った仲間と等々力に戻ってこれるようこれからも切磋琢磨して頑張ります!
また、今まで一緒に戦ってくれた後輩達には自分達の成績を塗り替えてもらいたいと思います。
引き続きU-18の応援よろしくお願いします!

大学ナンバーワンGKに成長

 2018年、早坂勇希は、桐蔭横浜大学に入学し、サッカー部に入った。この出会いと環境もまた、早坂にとっては充実した4年間を送ることになり、自らの選択を周囲の支えもあり正解にしていくことができたと言える。

 高校3年の秋、フロンターレトップチームへの昇格の夢が絶たれ、「お先真っ暗だった」。

「トップ昇格への道は、そこで終わりだと思っていたし、自分はトップに上がると言い続けていたので、上がれなかった自分が恥ずかしかったです」

 そんななか、声をかけてくれたのが桐蔭横浜大学の八城修総監督、安武亨監督だった。

 安武監督は、当時のことをこう振り返ってくれた。

「フロンターレU-18でのプレーをみて、いい選手だなと思いました。ただ、(年代別)代表クラスの選手がうちには来ないだろうとも思っていました。当時のうちの大学は、残留争いで踏ん張って関東1部に残っている状況だったので、早坂が練習で雰囲気を感じてくれ、おそらくその状況が目立てると思ったんじゃないでしょうか。規模が小さいうちの大学にJユース出身の代表経験があるGKが来るのはありがたかったですね」

 さすが、近くで4年間一緒に過ごした安武監督の分析は当たっており、昇格が絶たれた早坂の心には、この時、明るい炎がパッと灯っていた。

「安武さんと八城さんの熱い想いに触れたこともそうだし、わざわざ会いに来てくれたこと、GKらしい理由かなと思うんですけど、残留争いをしながら粘っていたので、強いところで勝つよりも、チームを強くしていけると思ったんです。僕、フロンターレのアカデミーに入る時に、1年間、受けなかったのも当時いた地元のクラブを本気で強くしたかったからなんです。そういう血が騒いで、桐蔭横浜を日本一にしたいと思った時に、目の前がパッと開けました」

こうして大学入学と同時に早坂は、やるべきことに邁進していった。4年間やるべきことをやって、フロンターレに戻る。そういう意志があったし、アカデミーの先輩である脇坂泰斗が2018年に阪南大学経由でフロンターレに加入した事実も希望になった。

「最初から自分は、その1本の道しか見えてなかったので、やることは明確で、まずはメンバー登録、サブに入る、試合に出るという目標ができていたのでやる気に満ち溢れていましたし、1年生の時から上級生を喰ってやろうという気持ちでやっていました」

 早坂が「転機」だったと語るのは、関東大学リーグ1部の最終節となった東京国際大学戦。1年の最後に待ち望んだトップチームでの出場チャンスを得たが、自分のミスが敗因となる苦い経験をした。

「自信があったし、コンディションもよくて、この試合でスタメンを勝ち取ってやろうという気持ちが裏目に出たのだと思います。開始早々に僕が相手にパスをしてそれから大量失点して負けました。それが4年生の引退試合で、1年間面倒を見てもらった4年生の引退試合を、ぶち壊してしまいました」

 早坂を励ましたのは、その4年生たちだった。

「気にすんな。お前なら大丈夫だから。絶対プロに行ってくれ。お前がいろいろとやってくれたから俺たちは頑張れたとか、いろいろな言葉をかけてくれました。こういう先輩たちのためにも、もっと頑張らないといけない。この引退試合を壊したからには全部を巻き返さないといけないなと思って、改めてすごく奮い立たせられた試合だったかなと思います」

 安武監督は、その後の早坂の前を向く切り替える力について、こう話してくれた。

「4年生の引退試合で、引きずってもおかしくなかった状況でしたし、もしそこで早坂がつまずいていたら次はなかったと思いますけど、彼は引きずらなかったですね。これは成長するなと思って、その後も使いました。うちを背負って立つ選手になると思いましたし、その後の新人戦や翌年以降はスタメンで出ました。大学サッカーでのミスで人生がどうにかなるわけじゃないですし、選手たちの目標はプロになること。その結果、日本一になれればいい。そう思っていました。早坂自身は、入学当初はミスもあったし、ミスしちゃいけないと思って縮こまっていたところもありました。それが大きなミスをしてから、振り切ってできるようになっていきましたね。その後は、すべてにおいてスケールが大きくなっていきました。責任感もあったので、あいつがミスしてもしょうがないと思われる信頼も徐々に出てきました。思い切りよくプレーできる環境を自分自身が作ってやれていたように思いますね」

 早坂が顕著に注目されたのは大学2年の、桐蔭横浜大学として初のインカレ(全日本大学選手権)決勝となった舞台。イサカ ゼイン(4年)、橘田健人(3年)も出場した明治大学との一戦で、延長までもつれて1対3で敗れた試合だ。

 フロンターレスカウトの向島建は「その前からもファインセーブが多かったですけど、もし決勝で勝っていたら、早坂がMVPだったんじゃないかと思う。それぐらいビッグセーブの連続でした」というぐらいに成長を感じられたという。

「完全に入ったと思うシーンを止めていたり、スーパーセーブが多かった。すごいな、と思いました。サイズは少し小さくてもカバーできているし、シュートストップの反応も際立っていました。スカウトとしては、このまま継続的に成長していってくれたらと、見守っていこうと思いました」(向島)

 実際、早坂は、その向島の言葉通りに順調に成長を遂げ、大学ナンバーワンGKと呼ばれるまでになっていった。

 大学1~3年は三浦和真GKコーチ、4年の時には島崎恭平GKコーチのもと、GKのトレーニングも重ねてきた。GKチームとしての時間も早坂にとってかけがえのないものだったようだ。

「三浦コーチは年も近くて指導者1年目でついてくれたので、本当に親身になって考えてくれたし、いろんなことを吸収させてくれ、自分のよさをさらに明確にしてくれました。島崎さんは、高校と大学を兼任して忙しいなか、僕は4年生の秋に怪我をして初めて長期離脱して、その時期は落ち込みましたが、いつも近くにいて話をたくさんしてくれ本当に助けられました」(早坂)

社会に通用する人間力

 さて、大学時代の早坂を伝えるには、GKやプレーの面だけでなく、それ以外の取り組みへの言及も必要だろう。 「後悔しないために、迷ったらやる。そこでやらなかったからと思いたくなかった」という信念もあり、少ない人数で自分たちのために忙しく動いている監督、スタッフ、さらにはマネージャーの姿をみて、自分が動けることは何でもしようと、学生の立場にとどまらないほど、行動範囲を広げてチームのために動いていた。

 桐蔭横浜大学は、トップチーム以外にも、インディペンデンスリーグ(Iリーグ)、育成リーグ、社会人リーグに参加しており、試合数も多く、それを少ないスタッフでかけもちして見ている。

「試合翌日にトップチームが休みでも、僕らが試合に出ている時にサポートしてくれている先輩や後輩がいるなか休んでいいのかと思っていたので、ひとりでもサポートしに行ったり、GKコーチがひとりでまわらないときは、僕がGKコーチのような役割をしたりもしました。監督の安武さんも朝にCチーム、昼にトップチーム、夜にBチーム、とあちこち車で移動していましたし、大学に入って感じたのは、マネージャーがいる環境になり、いままで自分たちがやっていたことをマネージャーが水を汲んだり雑用をしたりいろいろやってくれること。でも、それは大変だし、楽しくないこともあるはず。暑い日も寒い日もそういうことをやってくれる人がいて、大学は学生主体でリーグ戦や試合も進んでいくところがある。それは大学ならではのことだし、せっかく大学に来たからこそ、何かを得て自分のものにしようという気持ちもありました。だから大学時代は、自主性を学べたと思います」

 そういう早坂の姿を安武監督は見てきた。

「トップ、育成、Iリーグ、社会人リーグと私は当然、全部に顔を出しますし、選手にハードワークを要求しているのだから、自分たちは人生の時間をかけてハードワークをする必要があると思っています。それを見て、何かを感じた早坂は同じようにやっていましたね。選手たちは高校時代はトップでやっていたわけですから、大学に入り、人の応援をしたくないという複雑な気持ちも当然あるはずです。それでも早坂はトップの応援に来てもらっているからと、下のカテゴリーの応援に来て、サポートをしていました。時には、自分たちも応援してもらっているんだからやろうって同級生に声をかけて集めていたこともありました」(安武)

 安武監督は、自身もサッカー選手としての経験以外に会社員としての社会経験も持ち合わせている。そういうバックボーンを持つ安武監督ならではの表現で、早坂の人間性を語っていたのが印象的だった。

桐蔭横浜大学 安武亨監督と

「早坂はある意味、うちの歴史を作った選手です。その姿を見てきた今のキャプテンの中野(就斗=2023年サンフレッチェ広島に加入内定)が、同じことをやっています。全部のカテゴリーに顔を出して、アップの手伝いや水汲み、スタッフとして入れない時は観客席で観ていることもある。早坂が作った歴史を中野が受け継いでいるんですよね。勝つ、負けるというところではなく、信頼される人間が育ったということは素晴らしいことです。私は、早坂は、もしビジネスマンになっても、成功する人間だと思います。選手たちはプロになるためにやっていますが、マネージャーはサポート役です。そして評価されるのは選手たちです。サポートしてくれるスタッフやマネージャーの姿を見て、与えられることは当たり前じゃないということに学生で気づける人間はなかなかいません。大人ですよね。私が22歳だったころに果たして気づいていただろうか。当たり前を疑っている人間だから感謝の気持ちも出てくるし、行動も変わるんですよね」(安武)

 早坂が3年生になる2020年には、コロナ禍になり、当たり前の日常やサッカー部の活動も変更を余儀なくされた。早坂は早速行動に移した。

「コロナになってすぐ、3年生を集めて僕らが引っ張らなくちゃいけないと伝えました。まず一番に考えたのは、通常は4年生が大学サッカーで引っ張っていく存在なんですけど、コロナ禍でサッカーもそうだし就活もままならない状況になるだろうということ。それを安武さんにも伝えました。僕はJユースの経験があるから年齢関係なく引っ張っていくのは自分の持ち味だと思っていましたし、4年生には自分の将来を、チームのことを心配することなく考えてほしかった。そういう背負うものがまだない僕たち3年生がやるべきだと思いました」

 当時、4年生だった橘田健人は、「僕らが4年の時に、早坂が何でも率先してやってくれてましたね」と、チームへの貢献度を認めている。

 自分自身にも厳しく、サッカー以外の面でもチームワークを大事にして行動に移してきた早坂は、自分に厳しいからこそ、他人にも厳しくという一面も持っていたと安武監督は言う。

「誰よりもやりすぎじゃないかと思うぐらい、早坂は必死でやっていましたね。ストイックだし、自分にも厳しいし、人にも厳しかった。組織には恐い先輩の存在が必要だと思いますけど、そういう役目もやってくれていました。だから、後輩たちからは恐い先輩だと思われていた面もあったと思いますよ。全員が同じ方向を向くのは難しいですが、彼はそれを目指していましたね。私が言わなくても、早坂がそういうことをやってくれていました」(安武)

 そういえば、浦上も似たような話をしていたことを思い出した。

「あいつはチーム愛がすごくあって、自分が上になった時にダラダラした下級生がいたら、集めて『そんなんじゃだめだ』って話したり、用具の片づけをキレイにちゃんとやろうと呼びかけたりしていましたね。そういうことを僕たちスタッフが言わなくても勇希が言ってましたね。キャプテンシーもあって、負けた時も後輩たちに『俺たちが果たせなかったことをお前たちはやってくれ』って声掛けをしていました」(浦上)

 時に嫌われ役になってしまう言いにくいことも伝えたり、発言できるのにはきっと理由があっただろう。それを早坂に聞いてみると、こんな答えが返ってきた。

「学生はいい意味でも悪い意味でも集団化しやすいところがあるので、そういうのはよくないと思っていましたし、僕はポジション柄なのか、共感されるかどうかよりもそれでチームがよくなればいいと思って発言していました。それに自分次第だと思っていたので、自分の環境は自分で作ろうと思っていました。やっぱり緩い環境にはいたくないし、自分が言ってでも、いい環境にしたいという思いが強かったです。それで厳しくしていたところもあったし、ユースの時代からそうでしたし、振り返ってみるとジュニアの時にタカさんに厳しく指導してもらったので、そういう部分が自分のなかで習慣化されているのかもしれません。だから、大人に対しても臆せずコミュニケーションが取れていました」(早坂)

夢を掴む、その日まで

 フロンターレの向島スカウトは、大学2年のインカレでの活躍を観た後も、定期的に早坂のプレーを気に留めて成長を見守ってきた。

 一方の早坂も、「フロンターレ一択」の想いは変わらない。橘田健人の加入の動きもあり、向島スカウトが訪れた際には、臆さず自分の気持ちを伝えていたという。

「もしダメだった場合はハッキリ言ってくださいと建さんに何度か伝えました。建さんを困らせていただろうと思います。思いが強かったので、もしダメだったら切り替えて現実に向き合わなければいけないと思っていました」


 そして、2021年──。

 ついに、待ちに待った内定の話が強化部から早坂に伝えられた。

「すごく緊張したことを覚えています。すぐに家族に伝えたいと思い、LINEですぐ連絡しました。でも、家族や監督、GKコーチと話した時も、なかなか実感がわかなかったです」

 4月、早坂のフロンターレ内定がリリースされた。「内定」を伝えられたその日から、リリースが出される日まで、“実感”がまだわいていなかった。

 ところが──。

 リリースが出たその日、早坂は新品の匂いがするフロンターレのユニフォームに久しぶりに袖を通し、証明写真を撮影していた。大堀優・オフィシャルフォトグラファーが、いつものように自分の撮影をしてくれている。それはジュニアの頃から毎年、してもらってきたことだった。その時に、「あ、僕はフロンターレに戻ってきたんだ」と実感することができた。

 改めて、自分はフロンターレが大好きだと感じていた。

川崎フロンターレ スカウト 向島 建、田坂祐介と

「すべてが好きです。サポーターとしても楽しめるクラブだし、ロッカールームでも大学生で練習参加する時にケンゴさんやノボリさんがフランクに話しかけてくれて、安藤さんのような兄貴分がいて、そういうウェルカムなところも好きな理由でした。自分を育ててくれて、自分を本気にさせてくれたクラブだし、成長させてもらった。選手じゃないとエンブレムの上の星はつけられないので、今度はすべてをかけて掴み取りたい」

 2022年1月15日、待ちに待った新体制発表会見が行われた。うれしさと緊張と興奮とで、前日は眠れなかった。あきらめないで、「フロンターレに戻る」ということだけを考えて過ごしてきた4年間がこうして結実した。

「苦しい時期もあったからこういうメンタリティでいられたのだと思いますし、ヤスくん(脇坂泰斗)、カオルさん(三笘薫)が大学からフロンターレに戻ることを成し遂げてくれて、本当に希望の光になりました。大学でも、ゼインくん、ケントくんがフロンターレに入り、僕が続いて、山田新も加入が決まった。そういういい循環もありました。だから、メンタルのところは、自分がどう変えるかというよりも、他の人の力があってこそだと思いますし、支えてくれた家族、指導していただいた監督、コーチ、そういう人たちの教えがあったから自分があるし、支えがあったからこそ希望を捨てないでいられたので、本当に感謝しかないです。周りの友だちに報告したら、本気で喜んでくれて、『本当に夢を叶えたんだね』って言われたり、小さい頃を知っている同級生からは『お前、すごいわ』って言われて、気づかされたこともありました。そういう過去を振り返ったら苦しいことも楽しいこともありましたけど、どちらも一瞬だなって思います」

~2022年1月17日付 早坂勇希Twitterより~

改めて、ただいま!
再び、大好きな川崎フロンターレのユニフォームに袖を通せて嬉しく思います。

1日でも早くチームの勝利に貢献できるように頑張ります!
応援よろしくお願いします!

濃密なルーキーイヤー

 2022年、川崎フロンターレGKチームは、高桑大二朗コーチ、チョン ソンリョン、丹野研太、安藤駿介に加えて、ルーキー早坂勇希の4選手の体制でスタートを切った。怪我からの復帰がキャンプ前だったこともあり、強度の高いトレーニングについていくのに必死だったという。

「まずもう精神的にめちゃくちゃきつかったです。もちろん、ある程度の覚悟をもってきましたけど、ボールに触れることもできずゴールに入るとか、自分の得意なビルドアップができず、ミスが多く、信頼を勝ち取れない焦りと自分の無力さが入り混じって最初、苦しいスタートでした」

 

 数ヵ月ぶりの復帰時期とも重なり、フィジカルコンディションも上げる必要があった。また、大学時代、「その日を心待ちに、楽しみで仕方なかった」というフロンターレへの練習参加や練習試合でトップチームとの接点は持っていたが、それは短期間での経験であり、長期にわたってその一員としてトレーニングすることで、大きな差を感じることになったという。

「身体もきつかったし、自分の目も技術も追いつかなかった。でも、最初から合わないのは当然だと割り切って、ポジティブに捉えて、体を鍛え直していこうと踏ん切りがつきました。でも正直、頭がパンクしていましたね」

 それでも、早坂にとっては、これ以上ないほどに、周囲にはアドバイスを惜しみなくくれる先輩、コーチ、監督がいた。見守りつつも、寄り添ってもらい、トレーニングに励み続けた。

「大さんには、キャッチングのところからマンツーマンでやってもらったり、基礎練習からやりなおしました。オニさん(鬼木達監督)、ソンさん、丹野さん、安藤さんにもアドバイスをいただいて、率直に意見を取り入れてやりました」

 高桑コーチは早坂とトレーニングを積み重ねた。

「プロと学生とは違うので、最初は大変だったと思います。筋力的なところ、スピードやメンタル面は、この1年でずいぶん成長したと思います。すぐに結果が出るものではないので、地道にやりながら少しずつ変化や成長を確認しながらトレーニングしてきました。すごく素直なのは彼の良さだし、全部受け入れてトライする。3人の先輩たちからもアドバイスをもらってコミュニケーションも取れていて、それは彼の小さい頃からの明るさ、聴く力、受け入れる力があるからだと思います。あとは、筋力の部分では下半身強化を念頭に、GKは臀部の筋肉が必要なので、トレーナーとも相談しながら、課題を与えてトライしてもらいました」(高桑)

 かつて横浜F・マリノスのアカデミーで指導していた高桑GKコーチも、実は小学生時代の早坂を知っている。

「愛嬌のある笑顔が印象的な子で、天真爛漫でニコニコして元気よく挨拶してくれていたのを覚えています。当時の印象そのまま大人になったような勇希に再会して、感慨深いですし、勇希も覚えていてくれて、うれしかったですね」

 ちなみにトレセンやマリノスタウンで横浜F・マリノスのアカデミーと試合をする時など、フロンターレアカデミーの教えでもある「しっかりと挨拶をすること」を高桑に会うたびに実践していた早坂は、「きちんと挨拶すると、いつも笑顔でリアクションしてくれ挨拶を返してくれる大さんの存在は、子どもながらにうれしかったので、覚えてくれていたことは僕もうれしかったです」と笑顔をみせた。

 2022シーズンが終わる頃になり、早坂のなかでも積み上げてきたトレーニングが実感や体感できるまでになった。篠田洋介フィジカルコーチや木ノ島直哉トレーナーのもとで取り組んだ筋力トレーニングで、下半身を中心に筋量が増え、体重も約3キロ増えた。

「半年以上かかりましたけど、できることがちょっとずつ増えてきた感じで、ビルドアップもそうで、最初はつながらなかったパスがつながるように、1個ずつという感覚です。今年はフィールドプレイヤーからほとんどほめられることがなかったですけど、最後の方で、『ナイス』って言われるようになって。ミキさん(山根視来)が『ふざけてナイスって言っているような気がしているかもしれないけど、8割ぐらい本気だよ』って言ってくれて、うれしかったです」

 

 GKはグループでの活動や練習が多く早坂にとっては、ソンリョン、丹野、安藤という自分よりも年上で、なおかつ、自分の様子を見守りつつ、求めれば、惜しみなく教えてくれる先輩が3人いて、彼にしか得られない経験もあっただろうと思う。同じGKとして、それぞれの選手たちの立ち振る舞いやプレーから感じるものも多くあっただろうし、教えてもらい自分を助けてもらったところもまた多くあっただろう。それは時間以上に濃密な体験につながっていると早坂も感じているという。

 チョン ソンリョンから感じたこと、学んだこと、教えてくれたこと──。

「ソンリョンさんは、まず本当に責任感がある方。人一倍それが強い方だと感じます。練習でも試合を想定して、点を取って勝たなければいけないとなったら自分の身を投げ出してまでボールを仲間に託すということを実践する。そこまで練習でできるかっていうぐらいの姿勢を見てきました。他にも自分なりのコンディション調整やルーティンだったり、そのために練習が終わった後1時間ぐらい自主トレをやっていることもありますし、いろんなことを学ばせてもらいました。年が離れている僕に対して、自分自身の若い頃のエピソードを話してくれたり、こういうことはきついよね、など自分と同じ目線で気持ちを共有してくれることもありました。僕がチャレンジできていない時は、若い時はたくさんチャレンジして失敗していいんだって言ってくれ、心を救ってくれました。めちゃめちゃ優しいです」

 丹野研太とは、一緒に話す時間も多く、プレー面でも多くの学びを受け取った。

「丹野さんは、いろいろなカテゴリーを経験していて雑草魂じゃないけど、そういう時代の話も教えてくれたり、トレーニング中、大さんが選手4人にキャッチングの練習をしている時など、ちょっとしたレスト(休憩)のタイミングで、今の2本目はキャッチできたぞ、とか、もっとこういう意識でこういう形で受けた方がいいなど具体的に教えてくれたり、ある意味、僕をチームメイトでありながら育ててくれました。丹野さんとはサッカーの話をすることも多く、Jリーグのハイライトなど、『どう思った?』って僕の意見を聞いてくれたり、自分の意見を聞かせてくれたり、よく話しました。一番にグラウンドに来て準備する姿も見てきましたし、安定感がすごくあるGKなので、そういう部分も吸収する部分や感じるものが多かったです」

 最後に、11歳からのつきあいとなった安藤駿介について。当時11歳と20歳、子どもと大人だったふたりは、時を経て、チームメイトになった。

「(7月30日の)浦和戦で一緒にフィールドのベンチメンバーに入りましたが、本当にすごいと思います。自分のキャパをわかっていて、自分ができることはこれとこれ、と明確になっている。僕はもし出たら何かしなきゃ。どうしよう。何ができるんだろう?って思ったら、走るのもそんなにできないし、シュートも打ったことない。どうしよう…となる。安藤さんはそういうことも明確だし、どんな状況でも慌てないで平常心で戦っているなと感じましたし、チームに対してそういう雰囲気を与える影響力がある人だと改めて感じました。『チームが苦しい時に俺が(交代の準備をして)立っていたら、みんな笑っちゃうでしょ』とさらっと言ってましたけど、もちろんプライドのところもあるだろうし、なかなかできることではない難しい部分なのですごいなと感じます。僕はロッカーでも安藤さんの隣で、試合の時もよく隣にいますが、あの時も、僕はあたふたしてましたけど、安藤さんはいつも通りの準備をして冷静に落ち着いてどっしりとしていて、そういう風に感じさせてくれる、いつも通りの空間を作ってくれていました。そう感じられたので僕もやりやすかったし、落ち着くことができました。あとは、いつもチームの先頭に立ってくれている選手会長なので、そういう姿も見て学んでいます」

念願のデビュー、そして未来へ

 2022年のリーグ戦が終わり、フロンターレはタイとベトナムにアジアツアーの遠征をした。そして、早坂勇希にとって、待ちに待った試合出場のチャンスが訪れた。

 タイで11月15日(火)に行われた対コンサドーレ札幌戦では、前半に出場して2対2、試合は3対3の引き分け。 ベトナムで11月20日(日)に行われたベカメックス・ビンズンFC戦には、後半から出場、2対0で無失点のまま試合を終えた。

「親善試合とはいえ、お客さんも入って緊張感があるなかで、初めて試合に出ることができました。フィールドプレイヤーよりもGKにとって試合に出場することは我慢の時間も長く大変だと思っていたので、0から1の経験ができたことは自分にとって大きな前進だと感じています。出ることはわかっていたのでしっかり準備もできましたし、多少の緊張はありましたけど、日頃やっていることを出すだけだなと思っていましたし、札幌戦の時は、ベテランのシンくん(車屋紳太郎)やヤマさん(山村和也)がすごく声をかけてくれたり、ロッカールームから出る時に、同期のレンジ(松井蓮之)やアサヒ(佐々木旭)も声をかけてくれて、丹野さん、安藤さんも安心させてくれました。2試合通じて、先発の時、途中から入る時と経験し、ベトナムに入ってからはU-18の選手たちも多く出ていたのでしっかりコーチングすることも意識しました。まだ質は高められますけど、ビルドアップでスムーズにボールを動かせたし、シュートストップなど持ち味の部分を見せられたし、まだまだなところは札幌戦での2失点を止めるGKにならなければいけないと率直に感じました。練習ではわからない部分もハッキリ出ましたし、GKのサブメンバーとしてベンチに入る場合、試合に出る場合、アップの部分、身体の作り方、心の準備などいろいろな経験ができたことは個人的に次につながるし、自信を持って今後につなげていきたいです」

 プロ入り1年目、早坂にとって試合出場するという「0から1の大きな前進」を最後に経験し、2022シーズンが終わった。

 早坂に関わってきた人たちもまた見守りながら、それぞれの立場で、これからのチャレンジにエールを送ってくれていると感じた。

「成長もしているし、成長しなければいけない部分もある。僕は先輩として、フロンターレの後輩が成長する力になりたいと思いますし、僕が言っていることが全てではないですが、少しでも力になれるなら、いつでも手伝ってあげたいと思います」(チョン ソンリョン)

「もちろんライバルではありましたけど、彼はルーキーだったし、自分も若い時に、いろんな人に教えてもらったり、影響を受けたこともたくさんあったので、伝えられることは伝えようと思っていましたね。特に、彼の場合はひとりだけ若かったということもあったので、これから成長していかないといけない部分もあるし、掴みとらないといけないところもあると思うので、そのためには下積みは大事だし、特にGKはすぐに試合に出られないこともあるので、自分の経験と重ね合わせて、いろいろ伝えられたかなと思います。彼が話をいろいろ聞いてくれたところもあったので、そこは人としても、選手としても能力だと思うので、吸収する力とかそういうマインドを持っている選手だと思います」(丹野)

「そういえば、大学時代、うちの練習に来る時は必ず『明日お願いします』とメールが来たことを覚えています。ずっと必死に試行錯誤して自分のなかで理解をしながら努力しているのは見てきましたし、1年目はプロとして要領を掴むことが大事で、そのプロセスだったと思います。僕とは9歳違いで、当時の面影のまま大人になったなぁと思います。この先、僕の方が先に引退するだろうし、長くやりたい気持ちがあるなら、いろいろ学びながら頑張ってほしいですね」(安藤)

「フロンターレに決まり、本人が行きたい、戻りたかった場所に決まって、本人が喜ぶだろうなと思って私もうれしかったです。もちろん実力はまだまだだし、日本一のチームですぐにGKで出られるわけはないし、苦しむだろうと思っていました。Jリーグで出られないGKの方が圧倒的に数は多いなか、早坂は出ていない選手としての立ち居振る舞いは、経験があるレベルの選手と遜色なくやれるだろうと思っています。本人はもちろん試合に出たいでしょうし、そういうレベルを目指してほしいですが、もし仮に出られなかったとしても、彼は出ているGKを支えられ、チームにとってプラスになる、必要な人材になれる選手だと思っています。寮長をやっていると聞きましたが、あいつにピッタリですね」(安武)

「勇希には伝えていますが、いまは試合に出るために練習でしっかり“貯金”を増やしているところ。試合に出ている選手は調整も必要だけど、お前は今しっかり追い込んで突き詰めて練習できるチャンスがある。だからその貯金を増やせれば、いざ出た時に長くできるようになるし、今は自分の質を高めるチャンスだから頑張ってやり続けることが大事で、あとはチャンスをものにするかは自分次第。苦労した方が長くやっていくときに頑張れるはずだし、大学レベルではいいプレーと言われていたものが、もちろんプロは厳しくレベルが高くなるので、それを勇希が自分でどう打開していくかだと思う。もちろん、勇希が等々力でプレーする姿を観ることを楽しみにしています。ガンバレ」(浦上)

「今まで同様、これから更にトレーニングを積みながら、アジアでも実戦を経験できたので、来年は練習試合などでも少しずつ実戦を増やしていきたいですね。彼の一番のストロングは恐がらずに相手の足元にダイブできるところ。そこは伸ばしながら、シュートブロックをしっかり対応できるようにトレーニングを一緒にやっていきます」(高桑)

エピローグ

 2022年11月末、早坂は陸前高田に足を運んでいた。

 チームメイトの登里享平から誘われての、ふたり旅。登里が企画したプライベートでの陸前高田サプライズ訪問に同行させてもらったのだ。

「本当はノボリさんが、長年フロンターレで一緒の安藤さんや悠さん、僚太さんたちと行く予定が、いろいろな事情が重なりひとりで行くことになり、それで誘ってもらって、ぜひ行かせてくださいとお願いしました。僕は、その日に算数ドリル実践学習に参加する予定だったのですが、日帰りでもどうしても行きたいので、一緒に行かせてくださいとお願いしたら、ノボリさんが日にちをずらしてくれて、全部の手配をしてくれて、1泊2日で同行させてもらいました」

 東日本大震災が発生した2011年3月、早坂は小学5年生だった。子どもながらにフロンターレの支援活動を通して、心を寄せていた。あれから約11年の歳月を経た2022年、コロナ禍でなかなか実現できていなかった陸前高田への訪問を、9歳年上の先輩とのふたり旅という思いがけない形で実現することになり、胸がいっぱいになる充実した旅になったという。

「当時、ケンゴさんをはじめ、選手たちが陸前高田を訪問する映像を通して、被災した様子を見て、幼いながら感じるものがありました。今回、被災した建物がそのまま残っているところもあり、リアルに感じることができました。ふろん田や川崎フロンターレ 東北のカリフロニアフィールドに行ったり、田中農園さん、牡蠣の大和田さん、ハマちゃん先生(濱口智さん)、松本さん(正弘さん・直美さん夫妻)、現地の陸前高田フロンターレサポーターずのメンバーの皆さんにもお世話になりました。ノボリさんは、今回、陸前高田の方にはひとりにしか行くことを伝えていなくて、完全サプライズだったんです。一番感じたのは、陸前高田の皆さんの温かさ、皆さんのフロンターレ愛でした。ノボリさんは、本当にすごかったです。久しぶりの再会の方も多かったと思いますが、ノボリさんが行くと皆さんが笑顔になって、訪問した先で、お子さんが今地方に行ってるんですって話を聴いたら、その場でテレビ電話かけましょうって実際にかけて話して盛り上げていました。マジですごいなと思いました」

 陸前高田から帰ってきた早坂は、算数ドリル実践学習にも参加。子どもたちと一緒にイベントを心から楽しんだという。

「僕、算数ドリルを子どもの頃に欲しかったんですけど、ギリギリ東京都民だったので、もらえなかったんですよ。もしもらえていたら、もっと算数がはかどっていたかもしれないですね(笑)」

 子どもたちが、算数ドリルの問題を解いたちょうどそのページの前に早坂が載っていたので、「ここに、載ってる!」と喜んで見せてくれた。その姿を見てうれしかっただろうと想像すると、「俺、載ってる!って子どもと同じテンションで喜んじゃいました」と声を弾ませた。

 タイ、ベトナムでも子どもたちとサッカーをする機会が何度もあった。それも楽しめましたか? そう問うと、

「はい、もちろんです。安藤さんからも『お前らが楽しめなくてどうするんだ』って教わっていますから」と、さらに声を弾ませた。

「ノボリさんのように行ってあげようと思う気持ち、そういう人で僕もありたいし、安藤さんが言うように、一緒に楽しんでやる。そういうことはこれからもやっていかなきゃいけないと思います。でも実際やってみると、僕らが何かを与えようとしますけど、実は毎回すごいパワーをもらっている。そういう風にお互いにとっていい関係になれるのはいいことだし、これからも若手として受け継いでやっていきたいです」

 子どもの頃、フロンターレのエンブレムをつけたリュックを背負って、その誇りも同時に背負っている意味を教わったという早坂勇希。その頃、すでにプロ選手で憧れだった選手たちと、今は肩を並べて自分が選手となって子どもたちに夢を与える立場になった。

 与えてもらった夢を今度は、自分が与える番に。

 早坂の心は、あの頃の夢をひとつずつ現実に変えていけるチャンスを手にし、希望でいっぱいに膨らんでいる。

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[はやさか・ゆうき]

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桐蔭横浜大学から加入したルーキー。鋭い反応を生かしたシュートストップが最大の武器。川崎フロンターレアカデミー出身。小学校5年生よりフロンターレのユニフォームに袖を通し、フロンターレでプロになることだけを考えて日々トレーニングを積んできた。大学4年間でさらに大きく成長し、自らの手でトップチーム入りをつかみ取った。

1999年5月22日、東京都大田区生まれニックネーム:ユウキ

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