ピックアッププレイヤー 2023-vol.04 / MF16 瀬古 樹選手
テキスト/田中直希 写真:大堀 優(オフィシャル)
昨年の2月12日、川崎フロンターレでのお披露目試合。「FUJIFILM SUPER CUP 2022」で71分から脇坂泰斗に代わって途中出場した瀬古樹は、慣れ親しんだ中盤の一角に入った。
しかし彼にとって、この試合は「悔しくて悔しくて仕方ない」と振り返るほど、悪い記憶として胸に刻まれることになる。
何より悔いているのは、81分の場面だ。中盤でボールをもった際に少しコントロールが大きくなったところを、後方から迫ってきた浦和の選手に奪われた。そこから相手のカウンターが始まり、敗戦を決定的にする2点目を決められてしまった。
ぐんぐん加速して彼から遠ざかっていく赤いユニフォーム。ゴールを決めてサポーターのもとへ駆け出す浦和の選手を、眺めることしかできなかった。
「フロンターレは、すでに完成されているチームです。しかも3連覇を目指しているシーズンに自分は加入しました。その中で何ができるかを示さないといけないと思っていたので……。ましてや、最初の試合です。インパクトを残さないといけなかったのに……」
デビュー戦となったこの浦和戦から、4月中旬のAFCチャンピオンズリーグのグループステージに至るまで。約2カ月間にわたり、彼が再び公式戦のピッチに立つことはなかった。
1分も出場することができず、ベンチ外となる日々。J1でコンスタントに出場し続けた横浜FCでの2年間では、チームの主将も経験していた。そこから意気込んで加入した川崎で、ベンチにも入れない日々になろうとは。
「悔しくて仕方ない」と振り返るのもうなずける。浦和戦で得たチャンスを、瀬古は自らのプレーによってフイにしてしまった──。
自分で築いていけばいい
父の実家の近くにある東京都足立区の病院で生を受けた瀬古は、住まいのあった埼玉県川口市ですくすくと育った。
3歳違いの兄・翼さんの影響により、“根っからのサッカー少年”だ。もちろん、そこについてくるエピソードは「気づけばボールを蹴っていた」という次男あるあるである。「ただの負けず嫌いだった」という瀬古少年は、その兄に「絶対に勝てない」ケンカを毎日挑みながら、私生活でもサッカーでも大きな背中を追い続けた。「ちょっとしたことで手や足を出したり」したというが、「ライバルであり、憧れや尊敬をもっていた」というのは偽りではないだろう。
バレーボール経験者という両親の“熱”も、彼のサッカーへの思いを後押しした。幼稚園のころからサッカー教室に通い、すぐに複数のスクールを掛け持ちするようになった。小学校低学年のころから、ほぼ休みなくサッカーに打ち込む日々を過ごしたという。瀬古少年に対して熱心にアドバイスする両親(ほとんどの言葉は右耳から左耳に筒抜けだった)、毎日サッカーのために送迎してくれた両親の姿は、いまでも脳裏に焼き付いている。
小学4年生のときには、横浜F・マリノスのプライマリーで練習することに。ただ、埼玉の川口から神奈川の横浜までの片道1時間の道程は、わずか10歳の瀬古少年にはつらく苦しいものだった。
土日ともなると朝4~5時に家を出るという、僧侶よりも厳しいスケジューリングを続けたことで何度か体を壊してしまう。そこで、5年生になるタイミングで、自宅から片道20分ほどで着く三菱養和ジュニアへの加入を決めた。もともと持っていた彼の力も、名門街クラブへの推薦を後押ししたに違いない。
わりと小柄だったという当時の瀬古少年のポジションは、サイドハーフやトップ下、あるいはFW。ドリブルなどの基礎技術を“養和”で伸ばしながら、「海外の選手のスーパープレー集ばかり見て、マネしていた」。その意識を変えたのが、三菱養和ジュニアユース時代のコーチからもらった一言だった。
「結局は、自分だから。瀬古樹というサッカー選手は、自分で築いていけばいいんだ」
確かに、中学生が世界のスーパースターと同じプレーをできるわけではない。特別足も速いわけではないし、パワーが人並み外れているわけでもなかった。
ただ、瀬古少年は「考えてサッカーをする」ことができた。いまの自分は、何をすればいいのか。足下を見つめながら、練習でできることを一つひとつ増やしていく日々。
その結果、中学2年の秋にジュニアユースのトップチームへの昇格を果たす。冬には全国大会で先発出場。「チャンスは自分で手繰り寄せる。もらったチャンスは逃さない」。その意識で取り組んだことで、当時高円宮杯U-18プレミアリーグという高校年代最高峰のリーグに所属していた三菱養和ユースに加わっても、順調に出場機会を重ねていった。
U-18日本代表候補から名門・明治へ
高校1年生でユースのトップチームの一員としてプレミアリーグにも出場。その夏には、いまの本職であるボランチへの転向を経験した。
プレミアリーグでは、フィジカル能力を前面に押し出す青森山田高校、流通経済大学付属柏高校ら高体連の強豪とも対峙。「衝撃を受けるくらいに何もできず、前半で代えられて泣いた」ようなこともあったそうだが、そこでも彼は結果を残した。
高校2年で経験した、クラブユース選手権で優勝という快挙である。いわゆる街クラブが、Jリーグ発足後にクラブユース選手権で優勝したのは初めてのこと。
クラブにとって31年ぶり3回目の戴冠を、一つ上の相馬勇紀(カーザ・ピアAC/ポルトガル)、池田樹雷人(町田)、ディサロ燦シルヴァーノ(清水)らと達成した。
これがきっかけとなり、東京五輪代表の真の立ち上げとも言える世代別代表候補合宿にも呼ばれた。高校3年になると主将を務める大きな経験を積み、名門・明治大学からの練習参加のオファーを受けるまでになった。
実は、高校2年生のときに三菱養和ユースはプレミアリーグから一つ下のプリンスリーグに降格してしまっていた。以後、年代最高峰の舞台への昇格は果たせていない。「高2のときもほとんどの試合で出ていたのもあるし、キャプテンだった高3のときにも昇格できなかった。その責任はすごく感じている」そうだ。
6時の朝練から、就活、内定まで
プロになる礎を築いたのが養和での8年間としたら、レギュラーのほとんどがプロ入りを果たすような明治大学での4年間は、プロになるための準備期間と言えた。明治大との邂逅は、高校3年のとき。朝6時から始まる明治大の練習に2日間参加した瀬古は、これまでにない衝撃を受けることとなる。
同じグラウンドには、和泉竜司(名古屋)や室屋成(ハノーファー/ドイツ)がいた。彼らのプレーを目の当たりにして、「いまの自分が高卒でプロに入っても、対等にやれるはずがない」とあきらめ、「明治でやりたい」と決心するに至った。朝6時の練習をスタッフが熱心に見ているという明治の環境も、魅力的に映った。全国クラスの高校生ばかりが集い、一学年10数人という精鋭たちの集団でしのぎを削り合う中に、自分が入りたいと思った。
果たして、その選択は間違いではなかった。それまで避けてきた対人プレーの練習を4年間続けたのも、彼のいまの特徴につながる。朝6時から、1対1、2対2、3対3と人数を増やしながらバチバチとぶつかり合った。朝練の最後はフルコートでの4対4だ。
1年次には、中足骨骨折でほぼ半年を棒に振るようなこともあった(なお、足にはいまでもボルトが入っている)。あの長友佑都ほどの激しいリズムではなかったが、スタンドで「太鼓をずっと叩いていた」期間もその時期にはあったという。それでも、けがから復帰すると厳しい環境下で地道に能力を伸ばしていった。
ライバルの存在も大きかった。同学年には、FC東京に入った安部柊斗がいた。彼も同じボランチ。それに、明治名物の対人練習でこそ、力を発揮するような守備に長けた選手だった。「一番近くで見られるいい選手。吸収できることはすごく多かった」。次第に、彼も守備時に大きな貢献ができるようになった。
大学3年生で、部の会計役を村田航一(水戸)から引き継いだ。部費のすべてを管理し、ときには振り込みがなかった保護者に「本当に申し訳ないのですが…」と催促の電話も入れたという。通帳記入から、遠征費の書面づくり、寮生活で必要な日々の買い出しで必要な額を1年生に渡す仕事に至るまでこなし、保護者会にもスーツで毎回出席した。
4年生になると須貝英大(甲府)に引き継ぎ、卒業した後も稲見哲行(東京V)に会計仕事のノウハウを伝えていたという。「学生が管理するとは思えない金額を管理していたので、たぶん会社の経理みたいな仕事をしていたんだと思う」。この経験の尊さは、就職活動でカード会社に内定していた事実が表している。
そう、本気で彼が就職活動に臨んでいたことで分かるように、主力ではなかった大学3年まではプロ入りを明確にイメージできるわけではなかった。しかも彼の代は、「4年になるまで試合に出ている人がそんなに多くなかった」。それでも、彼らは大学3冠(関東大学サッカーリーグ戦、総理大臣杯、全日本大学サッカー選手権大会)という後世に残る“美挙”を成し遂げることになる。「二冠を獲った代も、タイトルを獲れなかった代も見てきた。すべてのいいところを盗もう、完全体な4年生になりたいよねとみんなで話していたんです」。
その通り、いいとこどりの吸収し放題で、「仲がよかった同期と、4年間かけてみんなで強くなった」。三笘薫の筑波大学、旗手怜央の順天堂大学も、イサカ ゼインや橘田健人がいた桐蔭横浜大学も、彼のいた明治の牙城を最後まで崩せなかった。
就活の際の考え方も、彼らしい。「両親には、これから自分がどうなるか分からない。プロ入りをあきらめているわけではないけれど、人生を考えて就活はすると伝えた」。
先輩のツテに頼ることもなかった。理由は、「もし、プロ入りが決まって断りを入れるとなると先輩に迷惑がかかる」から。さらに「内定はもらったけれど、その会社にも『サッカーはあきらめていない』とも伝えて理解してもらっていた」。将来を見据えて、いま行動ができる、だから頼りになるのが瀬古樹という男なのだろう。
そんな彼のもとに、当時J2の横浜FCと、同じカテゴリーのJ2クラブの2つからプロ入りのオファーが届いた。横浜FCとの練習試合、大学選抜で主力数名が不在の中で出場した瀬古は、スカウトがいるとは知らないまま、自らのアピールのため、がむしゃらにプレー。その姿がお眼鏡にかなったというわけだ。
より高いレベルでプレーしたい
タイミングよくJ1に昇格した横浜FCに加入した瀬古は、三浦知良や中村俊輔、松井大輔らスターとも肩を並べてプレーするようになる。インパクトを残したのは、1年目の開幕戦だ。神戸とのアウェイゲームで先発をつかんでアンドレス・イニエスタらと「捨て身で」対峙。しかも、デビュー戦でのゴールもマークした。
順風満帆に映ったが、それでも「最初のキャンプではレギュラークラスではなかった」という。「開幕前最後の練習試合で2本目のメンバーとして出ていいプレーができて、リーグ開幕前のルヴァンカップにスタメンで使ってもらえた。そこで評価してもらったことが開幕戦につながった」。自らの手でチャンスをつかみ、その機会をモノにする。横浜FCでも、前にある壁を乗り越えたからこそ評価を上げ、出場時間を伸ばした。さらに2年目には主将を拝命。最終的にチームは降格してしまったものの、凛として戦い続けた瀬古の姿が印象的だった。
そんな彼のもとに届いたのが、王者・川崎フロンターレからのオファーだった。「厳しい競争があるところに飛び込みたかった」。2年間でリーグ戦通算66試合に出場して積んだ経験は自信となり、より高いレベルでのプレーを望んだ。
壁を乗り越えていくサッカー人生
「ユースのときも、大学のときも自分がすごいプレーヤーだったとは言えません。プロにも、鳴り物入りで入ってなんかもいませんからね」
そんな彼も、明治大加入前以上の衝撃を川崎で感じることになる。「同じJ1でもこんなに差を感じるものなのかと思ったし、このレベルだからタイトルを獲れるんだと思いました。ここで日常を過ごせばレベルは上がっていくと感じたんです」。沖縄キャンプに参加すると、大島僚太や脇坂泰斗、チャナティップらを始めとする選手たちの技術と感覚に圧倒された。そして、冒頭に挙げたスーパーカップ・浦和戦につながっていく。
浦和戦で感じた大きな悔しさを受けて、瀬古はマインドを変えた。
「最初のうちは、フロンターレに染まろう、合わせないといけないと思っていた部分が多かったのが正直なところです。一方で、新しく来たからには新しいものを入れていかないとと思っていました。それらをうまく整理できず、チグハグになっていたということだと思います。でも、自分らしさは捨てちゃいけない。自分ができることを発揮しようと意識したことで、できるようになりました。自分は僚太さんやヤスくん(脇坂)、(橘田)健人にはなれないですからね」
その考えを持てたからこそ、出場機会のなかった時期に自らの課題と向き合うことができた。巡ってきたチャンスが、本職ではないSBでの起用であっても、自分ができることに集中した。加入1年目の昨季は、継続した出場機会を得ることはできなかった。それでも、自らに足りないものは自覚している。鬼木達監督とも、その内容を共有してきた。
「昨季の1年間、結局試合になかなか絡めませんでした。でも、毎日の居残り練習などで積み重ねてきたものはあります」
その成果は、2023シーズンのキャンプでの好感触につながっている。その理由となっているのは、彼の中で生まれた「余裕」だ。「技術の向上は感じています。いわゆる中間ポジションでボールを受けることはできても、そのあとがスムーズにつなげられていませんでした。でも、それができる回数が少しずつ増えています」。日々、繰り返してきた「ドリル」が、プレーの中での「余裕」につながっている。
タイトルを得る、その力になりたくて
彼の特徴は、一見すると分かりづらい。ただ、チーム全体を俯瞰して見ることができる。守備のスイッチを入れたり、周囲がプレーしやすくするようなサポートをすることができる。チームメートとコミュニケーションをとりながら、最善のプレーを選択していく機転の良さがある。「いてよかったな、という選手になりたい」。その実現を目指す。
まだレギュラーのポジションをつかんでいるではない。だから、挑んで、越えていく。彼が強く心に誓っているこの思いは、“挑越(ちょうえつ)”という大学4年のときに部として掲げたスローガンに込められた意味と同じだ。「まだまだフロンターレでは挑んでばかり。壁も越えられていないですが、どんどん挑み続けたいし、今季は『つかみ取りたい』と思っています。タイトルを得るため、その力になりたくてフロンターレに来ていますから。よりいいモノを吸収して、挑んで、壁を乗り越えていくというのが自分のサッカー人生です」。
加入2年目となる今季の目標は、本職である中盤の中央で試合に出続けること。そして、優勝に貢献すること。“挑越”への鍛錬は続く。
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[せこ・たつき]
高い技術をベースとした正確なプレーでリズムを作り、チームの攻守をつなぐMF。横浜FCより加入した1年目の昨シーズンは、主戦場のボランチだけではなくサイドバックでも出場。リーグ戦の出場は13試合にとどまったが、自身初のACLを経験しプレーの幅を広げた。フロンターレで2年目のシーズン。まだまだ進化できるはず。中盤のレギュラーポジション争いに絡み、存在感を発揮してもらいたい。
1997年12月22日、東京都足立区生まれニックネーム:たつき