ピックアッププレイヤー 2023-vol.06 / GK99 上福元 直人選手
テキスト/林 遼平 写真:大堀 優(オフィシャル)
大袈裟に言えば、無知を嫌った。
ことサッカーに限って、自分が知らないことは知りたいし、知らない景色なら見てみたかった。
それが叶うのならば、悩む必要はない。
「やってみないとわからないことに意外と興味があるというか、結局、最後は好奇心が勝つんです」
どんな時でも自分自身を突き動かしたのは、知りたいという“欲”だった。
「知らないと語れないから、まずは知ってみる。そういう意識が自分の中に強くあります。例えば、勝ち方を知らないのに勝利について語っても、何を話しているんだろうと感じてしまう。だから、勝ってから言いたい。そういう感覚があるからこそ、いろいろな経験をしたいなと思う。どんな時も自分に無いものを得ることで、また大きくなれるんじゃないかという感覚が大きかったですね」
上福元直人は千葉県で生を受けた。小さい頃から家族みんながサッカー好き。父親がコーチを務め、兄も所属する少年団に加入することは「ある意味、既定ルート」だった。
それでも、心境としては「いやいやではないですけど、半ば強制的に始めることになった」と苦笑いする。
当時はサッカー以外に興味がなく、やり始めたのは自然な流れだったが、少し経つと、漫画のスラムダンクやNBAの影響でバスケットボールにも興味を示すことに。「一番好きなアレン・アイバーソンのプレーを見るために、わざわざ深夜にやっている試合を録画して見返していました」と振り返るほど、バスケへの熱量は高まっていた。
もしこの時、上福元少年にバスケの環境が用意されていたら異なった道を歩んでいたかもしれない。
だが、通っていた学校の規則で休み時間に体育館が使えなかったり、その学校にバスケ部がなかったことが、結果的に彼をサッカーの道へと進ませることになった。
ちなみにGKを始めたのは小学校一年から。自分から志願したわけではなく、「どのポジションをやりたいというのがなかった」ためGKを務めることに。
最初はGKコーチの練習が厳しく、やりたくないと思うような時もあったと言うが、「ある意味、しがみつくというか食らいついていく姿勢はギリギリ持っていた」。PK戦で止めて勝ったり、自身のセーブで勝利につながったりと、成功体験が増えることでGKの楽しさにハマり、気づいた時には「僕はGKと概念が定まっていた」ようだ。
そんな上福元のキャリアにおいて大きなポイントとなったのは、小学校から中学校に上がるタイミングで加入した千葉SC美浜だ。
このクラブチームに加わる前、3つ上の兄が所属していたジェフユナイテッド市原ジュニアユース(当時)のセレクションを受験していた。しかし、結果は残念ながら不合格。「自分の中で自信喪失に繋がりかねない出来事」により、進路はなかなか決まらなかった。そこで声をかけてくれたのが前述のクラブチームだった。
そして、千葉SC美浜に入ったことが上福元を大きく成長させることになる。
もともとクラブの歴史を考えても、千葉県内でトップレベルのチームでは決してなかった。ただ、同学年には県内のレベルの高い選手たちが多く加入。その上、誰もがハングリー精神を持ち、上手くなりたいという意欲にあふれた集団だった。
「練習の熱量を含めて、周りの意識の高さに刺激を受けてかなり成長できた実感があります。同じ年代のGKが3人いて、その中で僕はたぶん一番レベル的に低かった感覚がありますけど、みんなが周りを上回ってやるという思いを持っていて、そういう周りの選手たちの意識のおかげで僕もある意味ハングリーになれた。そこで自立みたいなものを学んだんじゃないかなと。それは大きかったですね」
誰もが上手くなるためにどうすればいいかを考え、積極的にトレーニングに取り組んだり、ピッチ上で多くのコミュニケーションをとった。卒業後、コーチ陣からは「お前らは自分たちで話し合いをしたり、そういうアクションを起こす意識があった。その時のメンバーは、成長しようという欲をすごく感じた」と言われたほどだ。この経験が今につながる部分が大きいと上福元は話す。
「自分たちの“枠”みたいなものに捉われず、強くなろう、自分たちを磨いていこう、どんなに強い相手でも勝てるようになろうという欲を、その時から強く持てた感じがします。周りの選手たちを含めた環境のおかげですね」
プロを意識し始めたのも、この時期だ。中学一年生の時、手の骨折により初めて長期間サッカーから離れることになった。そんな折、監督からJリーグの試合観戦に誘ってもらいカシマスタジアムに足を運ぶと、目の前には刺激的な景色が広がっていた。
「すごく新鮮に感じることが多かったですね。その場に結構、心を打たれる印象が強くありました。そこから自分の中で、今までサッカーに漠然と描いていたものが、“プロになりたい”という意識に変わった。チームを含めて、意識を高く持ち、プロを目指していくというようなマインドに変わったのは、そのタイミングだったと思います」
この頃、身長はかなり小さい方だった。GKというポジション柄、これからプロを目指すなら背の低さはネックになる。だから、「身長を伸ばしたい、伸ばさなきゃいけないというプレッシャーは自分の中にありました」。毎日、保健室に行っては身長を測るほど、自身の身体の成長具合を気にした。
そのため出来ることなら何でもやった。ご飯を多く食べてみたり、牛乳をたくさん飲んだり。バスケの選手の身長の高い理由が「常にジャンプしているから」という情報を得れば、「廊下でめちゃくちゃジャンプしていた」こともあったと言う。目標が明確だからこそ、いま自分が何をしなければいけないかに意識を置いた。
「もちろんいろいろな甘さは絶対にあったと思うので偉そうなことは言えないですけど、やはり自分がプロになりたいと口にする以上、それに見合った努力をしないといけないというのは自分の中で持っているつもりでした」
プロへの思いを強め、高い意識の中で中学3年間を取り組んだ上福元は、高校に進学するタイミングで兄が通っていた千葉の名門・市立船橋高校を目指すことになる。ただ、受験したセレクションは、内容を振り返るとボロボロ。周りの推薦の選手がどんどん決まっていく中、自分には一向に声がかからなかった。
「これは絶対に引っかからない」と諦めかけていた中、「ある意味ラッキーだった」出来事が起こる。当初、加入が決まっていたGKの選手が推薦を辞退。たまたま欠員が出たのだ。加えて、最高学年にいた兄が高校と話をしてくれたおかげもあり、ギリギリのタイミングで入学の話がくることになった。
「最初はあまり実感が湧かなかったんですけど、自分がこの先どうなっていきたいのかと冷静に考えたときに、自分がプロになりたいと少しでも口で言っているのであれば、やはりレベルの高い環境に飛び込んでいかなければ、そういう道に近づいていけないんじゃないかなと。ここは勇気を持って飛び込んでいくべきだと思って覚悟を決めました」
市立船橋高校には、各学年に素晴らしい選手が揃っていた。一つ上には現在、大宮アルディージャで活躍する笠原昂史。最高学年にはいま松本山雅でプレーする村山智彦。セレクションでボロボロだったことからも分かるように上福元はレベル的に一番低く、最初は「自分の力ではまだ試合に出られるレベルではないなという感覚の中でプレーしていた」という。だが、中学時代に学んだ意識高くプレーすることだけは忘れなかった。
「気持ちも含めて弱いところを見せたら、このチームでは全く自分が成長できる環境に持っていけないと思っていました。だから少しでも強気な姿勢で臨むというか、自分を少し大きく見せるではないですけど、そんな気持ちを持ってプレーしていましたね」
高校一年の夏の終わりには、1年生だけでイタリアでの招待大会に出場。バルセロナやユベントスのユースチームと対戦する機会を得た中、「自分でも驚くほどのパフォーマンスを発揮することができた」ことで自信も付いた。その結果、2年生になると控えメンバーとしてトップチームに帯同。最高学年になるまでトップの試合に出る経験はできなかったが、レベルの高い先輩たちと切磋琢磨することで自身の能力を高めていった。
この頃からキックに対する意識も変わった。身長がそこまで高くないことは理解していたため、セービング以外の武器が欲しかった。そこで足元にこだわるようになっていく。
「練習が終わった後に自主練で何本も蹴り続けていましたね。市船の選手たちのレベルも相当高かったですし、磨かなければいけないという感覚がかなり強かったので、とにかく蹴り込んだ記憶があります」
高校3年間で確かな成長を遂げた上福元。だが、最終的にプロからの誘いは届かなかった。自分自身も「本当にまだまだそういう力は無いなという感覚」と納得感も強かった。
だからこそ聞いてみた。そこでプロを諦める考えはなかったのかと。
「3年になって全国レベルの大会を何度も繰り返すようになった中で、自分に自信がないわけではなかった。そういった意味でも、もう少し力をつけていけば、もしかしたらプロで戦える、プロの中でもいいチームに行けるんじゃないかという漠然としたものがありました。根拠のない自信がまだあった感覚はあります。だから、大学でしっかりとした力をつけてから臨むしかないなという思いが強かったですね」
進学先は順天堂大学を選んだ。再び兄と同じ道を歩むことになったが、それ以上に「関東一部のレベルの高いところで成長したいという覚悟が自分なりに強かった」。練習参加したタイミングでも、すぐにプレーについて話をしてくれる先輩たちを見て、意識の高い選手たちが集まる「ここに行けば絶対に間違いない」と確信した。
大学に進学すると身近に超えなければならない存在がいた。一学年上の先輩である松本拓也(現:FC岐阜)だ。松本は早生まれで自身と同じ世代の世代別代表にも選ばれるような絶対的な存在。自身の力が足りていないことを認識した上で、「まだまだ足りない、力をつけなきゃいけないという感覚の中でプレーさせてもらっていた」。
「やはり一つ上のレベルにいるなという感覚がすごくありました。本当にいいものを盗ませてもらうと言いますか、ある意味、自分がどう生きていかなければいけないのかを考えるきっかけにもなった選手です。本当にリスペクトできる、良きライバルだっていう感覚です」
上を目指しながら切磋琢磨する日々が続き、コンスタントに試合に出場できるようになったのは3年生の頃。松本が特別指定選手として湘南ベルマーレの活動が優先されたことでチャンスが巡ってきた。そこから自身の成長のため、チームのためを意識し、目の前の試合に挑んでいった。
「順大の方針として、サッカー人である前に一人の人間であれという大きなテーマがあります。まず人としてを第一に考え、そこからサッカーというものに繋がっていく。それが今後の人生の基盤になると意識するようになった4年間だったと思います。本当にたくさん選手だけでミーティングもやりましたし、サッカーに対してもすごくこだわっていました。ただ何となくサッカーをやるのではなくて、自分が将来どうなっていくかを明確にできる4年間だったと思います」
大学4年になると自身にもプロからの話が舞い込み、いくつかのチームで練習参加することになった。その中で「より成長速度を加速させたい」上福元にとって、どの選択肢がいいのかを考え、選んだのが大分トリニータだった。
「もちろん大学で学べることもまだまだたくさんありました。ただ、練習参加させてもらったときの印象として、このレベルでも自分の中で通用する部分はたくさんありましたけど、ここでトレーニングすることによって成長のスピードが上がる感覚も同時にあったんです。自分がどうなっていきたいのかを考えたときに、やはりまだまだ成長したい欲が強かった。だから、あまり後悔したくなくて、将来的なことも考えて勝負しようと、自分の中で思い切りが最後は勝ってオファーを受けることにしました」
特別指定選手を経て、翌年に大分に正式に加入。夢にまで見ていたプロの世界に飛び込んだ。だが、特別指定で入った2011年から2014年までの4年間、公式戦の出場はゼロ。GKのポジションはチームに一つだけとあって、なかなか出場機会を得ることができなかった。
一般的に考えれば、日々の練習を続ける中で、そこまでチャンスが来ないと不貞腐れたり、トレーニングに身が入らなくなってもおかしくない。ただ、中学時代から意識を高く持ちながらトレーニングに励むことの大事さを学んでいた上福元からすれば、そういった状況だからといって決して気持ちを切らすことはなかった。
「不貞腐れる資格が自分にないなという感覚の方が強かったですね。やることやってないのに不貞腐れる理由が見つからなかった。だから、やるべきことをまずやろうという感覚でした。簡単に言えば、諦めるといった選択肢はもしかしたらあったかもしれないですけど、本当に諦めていいのか、諦めていいことって自分にあるのかな、という考えになる方が強くて(笑)。頑張る以外に選択肢がなかったですし、そもそも頑張るのは当たり前で、その上でどう工夫していくか、どう自分を成長させていくかだと思っています。そういうところにこだわるべきなのはある意味、当たり前の感覚としてあったので、そこの選択は間違っていなかったと思いますね」
また、そんな上福元を支える存在が周りに多くいたのも大きい。監督やコーチ、スタッフ、チームメイト。「本当に恵まれているサッカー人生だなと思います」。ここまで関わってきた誰もが、今の上福元を構築する上で不可欠な存在だった。
「(これまで数多くのチームに在籍していますが、印象的な指導者や心に残った言葉などはありますか?)数えきれないです(笑)。本当に一人ひとりの言葉がすごく残っていますし、突き刺さっている部分が今でもたくさんあります。先輩たちがかけてくれる何気ない言葉が、その人なりのメッセージに全て感じました。本当に温かい言葉をかけてもらっていた記憶がすごく多いです。例えば、それこそ神経質なぐらい節制していた時期があったんですけど、『その姿勢はすごくいいけど、やはり時には余裕を持つこと、自分の中のメリハリを持つことで、ピッチの上で発揮できるものが変わってくるんじゃないのか』と間接的に声をかけてくれる人がたくさんいました。本当にそういう何気ない声かけによって、自分に何が足りないのかを気づかせてくれる存在、そういう人たちがたくさんいた今までのキャリアだったと思います」
2017年に大分で自己最多の38試合に出場した翌年、東京ヴェルディへ移籍。そこから東京V、徳島ヴォルティス、京都サンガF.C.で守護神として活躍した。昨年は最後にJ1参入プレーオフに出場。直近で最も印象的だったと語る試合では、「本当にいろいろな感情が入り混じっていて、よく自分をコントロールして戦えたなという感覚がある」という中で最小失点に抑え、チームのJ1残留に貢献した。
そして今オフ、川崎フロンターレからのオファーが届いた。「ここ5年間ぐらいトップに位置している、そういう次元のチーム」からの話に、これまでのキャリアを考えても飛び込まないわけがない。その根底には、やはり知りたい“欲”があった。
「いまプレーしているサッカーというスポーツにおいて、自分の中で目指すべき場所、目指す位置といったものにこだわりたいという思いが全ての決め手です。どんな試合でもずっと勝つためにやってきた中で、本当に勝ち続けたい思いがあります。そんな中、今回選択を与えてくれたチームがあって、何を自分は取るべきなのかと考えたときに、やはり自分が経験したことのない景色を知っている選手たちがたくさんいて、指導者もいると。そういうイズムを持っているチームに、今まで自分がいたかというとそうではない。だから、引退する前に今回のような話をもらったことはすごくありがたくて、自分がサッカーから退くまでに、“そういう景色や世界を知って終わりたい”、そんな思いが自分に芽生えたので決断したところが大きかったと思います」
これまで長年、守護神を務めているチョン ソンリョンも在籍しており、スタメン争いは決して簡単ではない。だから、それを理由にして断ることもできただろう。
しかし、「自分が勝ちにふさわしい選手であれば使われるはずだ、という気持ちの方が強くて。誰かと比較するよりも、自分の力をより見つめる気持ちの方が強かった」。自分がピッチに立てなければ、まだまだ力が足りていないのだからトレーニングに励むだけ。追い越せれば、自分が使われる。ある意味、分かりやすい世界だと分かっているからこそ、決断が鈍ることはなかった。
自分の知らない世界に飛び込んで数カ月。上福元は刺激の多い日々を送っている。もちろん、いい面も見えれば、足りていない面も。そこをハッキリと言い切るのも上福元らしい。
「やはり近年、サッカー界を引っ張ってきた理由というか、確かな技術や勝負にかける気持ち、魂のようなものを感じる部分があります。ただ、今はそれを持っているけれど、出し切れていない感じもしています。自分の中でも、いろいろ勉強というか価値観がどんどん増える時間になっています。その反面、自分が力を発揮できれば、もしかしたらもっとこのチームを良くできるんじゃないかという感覚もあるんです」
その言葉の真意とは。
「自分の特徴でもある『攻撃も守備もよりアグレッシブに』という部分は、よりアップデートしながらチームにどんどん働きかけることは続けていっていいのかなと。周りと協力し合いながら、自分第一ではなく、チーム第一でプレーの選択をできるようになっていければ、相手もすごく対応に追われることになる、相手がつかめないサッカーになってくると思います。そういったところで相手に驚きを与えていくことによって試合を支配していける。試合を優位に運んでいくところにつながっていくと思うので、本当にアグレッシブさというのは、個人もチームも、今はテーマになっているんじゃないかなと感じています」
リーグ戦のピッチに少しずつ出場し始めて確かな存在感を発揮している上福元は、「このチームは勝ち続けていく存在」だと思っているからこそチームに対する働きかけを止めるつもりはない。その理由は自身の成長と勝ち続けた先の景色を見たいからに他ならない。
「本当に勝つためにこのチームに来ました。リーグやカップなど本当に関係なく、どんな試合でも勝っていく存在になっていきたいというのがある。シーズンが終わったときに、タイトルを取る、本当にそういう結果を必ず出したいという思いがあります。全て勝ち続ける、常勝というところをテーマにやっていきたいと思います」
チームを常勝軍団にのし上げ、多くのサポーターに勝利を届ける。そして、自身のまだ見ぬ世界を経験しにいく。そのために上福元は、これからも邁進し続ける。
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[かみふくもと・なおと]
高いセービング技術に加えて積極的に前へ出るプレーエリアの広さも持ち味のひとつ。昨シーズンはアグレッシブなプレースタイルを前面に打ち出し、京都でブレイク。J3、J2と各カテゴリーのクラブで経験を積み、2021年よりJ1でプレー。優勝争いができるチームでのプレーを熱望し、フロンターレ入りを決断してくれた。GK陣に新しい風を吹き込んでくれるだろう。
1989年11月17日、千葉県千葉市生まれニックネーム:カミ、キャミ