ピックアッププレイヤー 2023-vol.08 / FW20 山田 新 選手
テキスト/隠岐 麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)
誰よりも努力して積み重ねた日々があったから今がある。
「新なら、できる」
そう信じてもらって、応援してもらったから、自信や武器を見失わずに頑張ってきた。
2010年5月──。
「JA全農杯チビリンピック小学生8人制サッカー全国決勝大会2010」でフロンターレU-12は優勝した。
9つに分かれた地区予選で、GKとして出場していた早坂勇希は、対戦相手のFWが、ものすごいスピードで迫ってきて、「思った以上の速さで」ボールを先に触られ、倒してしまい「人生初の退場」を経験した。試合には勝利したものの、退場になったショックと責任感から涙が止まらなかった。
「ヤスさん(長橋康弘U-12コーチ=当時)が、ポンポンと肩を叩いて『大丈夫だよ』と優しく声をかけてくれて、さらに号泣しました」と、早坂は振り返る。
その「ものすごいスピードで」突進してきた相手FWが1学年下で4年生で出場していた翠翔SCの山田新だった。
だから、山田新がフロンターレU-13に入ってきた時、「あの速い子が入ったんだ」と長橋はじめ、その場にいたスタッフは気づいたという。
自信があると思えた日
山田新がフロンターレのセレクションを受けたのは本人にとっては、偶然だったという。
横浜生まれの新は、4歳年上の兄の影響もあり幼稚園からサッカーを始めた。小学校を2回転校しており、途中、浜松で2年間を過ごしてから川崎へ。後に横浜に戻ることになっていたので、小学3年から横浜市の翠翔SCに入った。
小学6年生のある日、学校から帰ると、フロンターレのセレクションに行くことになった。
母親が申し込んでいたからだったが、そのことを詳しく把握していなかったため、当日、友だちとサッカーをしに遊びに行くつもりだった。母に説得されて連れていかれたのがフロンターレU-13のセレクションで、4次まで試験はあったが、点を取りまくった新は、2次で早々に合格となった。
「余裕じゃん」と思って、いざ入ってみると、そこでショックを受けることになる。宮代大聖ら巧い選手たちがいたからだ。 「大聖とかU-12から上がってきた子たちとか、見たことがないぐらいにうまかった」
試合になかなか出られなかった中学1年の頃は、「練習に食らいついていくだけ。自分が下手すぎて、練習中にボールをもらいにいけなかったこともあったし、練習に行きたくないと思うこともありました」
それでも、やり続けた。
「技術的なところで劣等感を感じることもありましたけど、自分の特徴は認めてくれていたので、他のところでチームの期待に応えられるようにやっていこうと思えるようになっていきました」
2015年、フロンターレU-15で中学3年生になった新は、レギュラーを掴み、リーグ戦(関東ユース(U-15)サッカーリーグ)で13ゴールを決めるまでに成長していた。序盤は、まだスタメンに定着とは行かず出られない試合もあり、「なんで僕は試合に出られなかったんですか?」と素直な気持ちをメールにして寺田周平U-15監督(当時)に送ったことがある。
「新はとにかく足が速くて、チャンスをたくさん作り出す選手でした。中盤からのパスで1試合で大げさではなく10回ぐらいは決定機を作るけど、よく外していました。課題だったボールをおさめること、技術を上げる必要があることを説明して、試合のメンバーから外したこともありました。そういうことを本人と話したことは覚えています」(寺田)
だが、またコツコツ頑張る日々を重ねながらチャンスを掴んだ新にとって、今でも忘れられない試合がある。
2015年6月28日(日)、日本クラブユースサッカー選手権(U-15)予選3回戦は、久保建英(現ソシエダ)が所属するFC東京U-15むさしと対戦し、その1ヵ月前に行われたリーグ戦では3対5で敗れていた相手だったが、この日は1対2のビハインドからキャプテンマークを巻いていた新の2ゴールが豪快に決まり、チームは逆転して全国大会出場を決めた。自分のゴールでチームが勝って、結果を出せたことが新はうれしかった。
シーズン終盤の頃には、それまで持ち回り制だったキャプテンマークを新がつけることが多くなっていた。 「あんまり言葉にするタイプじゃないので、とりあえず走ろうと思いました。点を取ったり、守備を頑張ったり、倒れるまで走ろうと思いました」(新)
誰よりも速かった新は、明らかな武器を持っていたが、一方で苦手としていた技術を向上させるため、ひたすら「止めて、蹴る」やシュート練習にも取り組んできた。そうして少しずつ技術の向上が感じられるようになると、周りからのパスも集まるようになり、点が取れるようになっていくのを感じていた。
「周平さんに、何本外してもいいから、大事な時に1本決められるように。そう、何度も言われていました」
その言葉は、ずっと後まで心に残っていた。
「その年は、いわゆるキャプテンタイプの選手がいなかったので、持ち回りでやっていたのですが、新は、頑張るし、手を抜かなかったので、こういう選手がキャプテンなんじゃないかと思うようになって、シーズン終盤は(ゲームキャプテンを)任せたことは覚えています。確かにシュートを外すことは多かったですけど、それ以上にチャンスを作り出せる回数や能力、スピードがあることや泥臭さも厭わないプレーは評価すべきところだと感じていましたね」(寺田)
チームとしては、リーグ戦では残念ながら降格し、すべてがうまくいったシーズンではなかったが、それでも、サッカー選手個人として成長段階にあった中学3年生で、全国大会が懸かった試合でゴールを決めることができたり、キャプテンを任されたことは、チームのために貢献できたと感じられて自信につながった。
自主練、筋トレ、努力した日々
高校生になった新は、フロンターレU-18に昇格した。最初はなかなかスタメンの座は掴めずベンチスタートだったが、「ジュニアユースの頃も我慢してやり続けて出られるようになった成功体験があったので、あまり焦れずに積み重ねてやっていこう」と思えた。
その頃、すでに中学3年生からU-18に合流していた宮代大聖が2学年上の田中碧(現フォルトゥナ・デュッセルドルフ)の影響もあり、練習以外のところでもトレーニングに取り組む姿も見ていたので、新も自分にできることは何でも取り入れようと思って始めたことがあった。
高校が終わるとそのままカルッツかわさきのジムに直行し、筋トレをしてから、練習場に行き、次は全体練習が始まる前の時間で自主トレをするようになっていた。長橋康弘U-18コーチ(当時)が、自主トレにつきあってくれ、まだ苦手だった動き出しについてなど、かみ砕いて教えてもらったり、サッカーの話もたくさんした。
「俺は軽自動車のエンジンだったけど、お前は外車のエンジンを持ってるから、やれば絶対にプロになれるから」と褒めて励ましてくれたことがうれしかった。
「新は、本当に向上心があって、継続して努力ができました。だから、思い返してみると、すごく応援したくなる子でした。いい特徴は明確だったので、後は“オン”の部分を改善すればもっとよくなると思って、彼にはいろいろな話をしたことを覚えています。どういうタイミングでどうやって動くか、ボールを触るところと彼のスピードの活かし方ですよね。フィニッシュやフィニッシュにつながるラストパスのところは改善点だったから、そういう練習をしたり、細かいタッチでシンプルにドリブルをするなどいろいろやりました。とにかく、努力をしていましたね」(長橋)
自主練を一緒にしていたU-18時代の山田新について、長橋が今でも強烈に印象に残っていることがあるという。
その日は、練習前に長い距離のドリブルをトップスピードでできるようにと自主トレのメニューを伝えると、新はさっそく練習を始めた。しばらくして、スタッフルームに戻り、全体練習が始まる前にグラウンドに戻ると、新が、まだその練習を、ひとり続けているのを目の当たりにした。
「実は、部屋にいる間に新のことを忘れてしまったのですが、これから厳しい練習が始まるというのに、まさかと思いましたが、彼はずっとやり続けていたんですよね。それが新の人間性なんだと思います。こちらが伝えたことを素直に一生懸命やろうとする。努力し続けられるところは、才能なんじゃないかと思います」(長橋)
コツコツとやり続けることだけは、ずっとやめなかった。
「やらないと気持ち悪いし、不安になる。試合に出てないこともあったので、やってないで出られるわけはないと思ったし、周りにやっている人もいたので、その人たちに負けたくないという気持ちもありました」(新)
フロンターレに戻りたい
2018年、U-18の最終学年となった高校3年生のシーズンは、宮代大聖と2トップを組んだ。大聖は、4月にクラブ史上初となる高校生でのトップチームプロ契約を結び、トップチームで練習し、年代別の代表の遠征や大会にも出場するなか、週末にU-18の公式戦にも出場するというハードなスケジュールをこなしていた。そのなかで、新はプリンスリーグで14得点とチーム内で最も多くのゴールを決めた。だが、チームとしては残留争いをしており、失点も多く決めたゴールを勝利になかなか結びつけることができず、新や3年生たちにとっては、悔しいシーズンとなった。
U-18監督だった今野章が、振り返る。
「最終節の結果次第で降格の可能性もあり、かなり苦しいシーズンでした。新は(前線からの)守備やチェイシングでも引っ張ってくれましたね。最終節は大事な試合だったので、その前日に新と大聖を呼んで、前線のポジショニングとか守備の仕方を、ふたりの意見も聞いて話したことを覚えていますね。左に攻撃中心の(宮城)天が入る分、『俺ら2トップで守備もするんで大丈夫です』と、しっかり答えてくれました」
12月9日、トップチームが2回目の優勝パレードをしている頃、フロンターレU-18は等々力にいた。
プリンスリーグ最終節となった東京ヴェルディユース戦は、前半5分に新が先制ゴールを決め、30分には大聖も追加点を決めて、2トップの活躍や守備陣の奮闘もあり、3対0とリーグ戦初となる無失点で勝利をおさめて、残留を決めた。
試合後、優勝パレードの後に駆けつけて試合を応援してくれたサポーターや、見守ってくれた家族を前に並んだ選手たちは、恒例の“勝利のバラバラ”を、新が拡声器を持って音頭をとり、アカデミー最後の挨拶を3年生7人がそれぞれ言葉にして、新にとっては6年間のフロンターレアカデミーでの選手生活が終わった。
卒団を控えたある日、ジョギングをしながら寺田周平U-18コーチ(当時)から、こう聞かれた。
「お前は、どういう心づもりで大学に行くんだ?」
「僕は、フロンターレに戻りたいです」
そう口に出したことで、改めて自分はプロ選手に絶対なりたいし、フロンターレに戻りたいんだと気づかされた。
2017年、高校2年の時にフロンターレがJ1リーグ初優勝をし、それから2連覇をしていた状況に、「自分からは遠い存在になった」とも正直感じていたが、大学入学を前に改めて目標が整理できた。
「U-18からトップチームに上がれなくて悔しいという土俵にも自分はいなかったし、基準に到底到達していなかったので、とにかく4年間、フロンターレに戻ることを目標にやっていこうと思いました。大学の4年間は、やるかやらないかは自分次第。周平さんと話したことで、そういう思いにもさせてもらったので、本当に1年からコツコツやっていこうと思いました」(新)
大学ナンバーワン・ストライカーに成長
2018年4月、桐蔭横浜大学に山田新は進学した。
「やるかやらないかは自分次第。フロンターレに戻りたい」という思いを持ち続け、行動にもうつした4年間だった。
練習、筋トレ、食事や栄養のこと、自分にできることを見つけては、それを実践し、やり続ける日々が始まった。フィジカル面を強化するため、体幹や筋トレのメニューを動画や本で自分で調べて勉強した。大学を選んだ理由のひとつに実家から近くて通えることもあったので、睡眠時間をしっかり確保するなど休養面も考慮したり、栄養面についても教えてもらったことを元にメニューをリクエストして母に作ってもらうこともあった。
桐蔭横浜大学は、1年生から4年生まであらゆるカテゴリーでの試合が組まれており、試合経験を1年生から積ませることに重きを置いている。
安武亨監督は、1年生の頃の山田新の印象について、こう振り返った。
「入学当初の印象は、ゴールに向かう力やスピード、身体が強いというポテンシャルの塊でしたが、プレーは雑でした。うまくやろうとして殻に入っているような印象で、そういう殻が壊れたら一気に伸びるだろうと思いました。選手たちはプロを目指していて、大学は4年後どうなっているかが勝負なので、試合経験を優先させました。山田新の実力だと、Iリーグ(インディペンデンスリーグ)では点が取れるのは当たり前でしたが、新には『お前は、4年後このチームでエースになる気があるのか』と言ってましたね。負けん気は強かったけど、彼は不貞腐れたりしない性格なので、『やってやるよ』と思っているのが表情から見えて、いいギラギラ感がありました」(安武)
桐蔭横浜大学サッカー部は、シーズンが終わると、公式戦だけではなく練習試合もすべて含めた試合結果をもとに、“TOINアウォーズ”を独自に表彰している。各カテゴリー別のMVPやベストゴールなど、あらゆる角度から選手を表彰するものだが、1年生の時に新は35得点で、年間総合得点王になった。その年のIリーグは関東2部だったため、モチベーションを保つのが難しいこともあったが、それをプラスに捉えて「トップチームの公式戦ではなかったので、試合前日まで体を追い込んでトレーニングをしていました。ブレずに自分を律してやれました」と、ひたすら励んだ。
大学2年からトップチームでも出場機会が少しずつ増え、リーグ戦後期からコンスタントに結果が出てくると、初めて大学選抜に選ばれるなど、少しずつ大学サッカーのなかでも評価が得られるようになってきていた。
そして、大学3年の終わりにはJ1含めて3クラブからオファーが届く。
そろそろ、キャリアが決まるタイミングが近づいてきていた。
本当に自分がフロンターレに戻れるのかな
フロンターレのスカウト、向島建の目からも、大学ナンバーワン・ストライカーに成長したなと映っていた。
向島は大学生を見る時に、もちろん例外はあるにせよ、基本的に「4年間という時間のなかでプレーの成長や人間性が安定していくことが大事」だと考えており、アカデミーの卒業生に対しても、せっかく大学に進んだ以上、「4年間かけて、しっかり油断することなく大学サッカーに集中してもらいたい」という基本方針を持っている。
「新のことは、アカデミー時代から速いという突出した武器があったのは見ていましたし、試合経験を積んで、磨きがかかれば、さらに成長するだろうと可能性を大きく感じていました。彼は、スピードという才能とブレずに信念を持って努力できる人間性があり、型にはめずに武器を最大限に活かす大学の方針もあったなかで経験と成長を重ねて、全日本に選ばれたり、節目で結果を残し、エースという存在になっていきましたね」(向島)
とはいえ、フロンターレが毎年のようにタイトルをとっていた時期でもあり、加入のハードルは高くなっていたという。
「新自身も想像することが難しかったでしょうし、実際、我々もフロンターレのなかで点を取れる選手を獲るということのハードルは高くなっていた部分もあります。将来の編成も考えますし、選手個人の将来のこと、様々なことをイメージしています。そういうなかで、選手同士の多面的な関係性や、いい意味での競える関係性なども考えるのですが、例えばU-18からトップ昇格した大聖と大学を経由した新という“U-18同期”コンビの化学反応にも期待できるなということも想像しましたね」(向島)
他のJクラブからのオファーがあるなかで、フロンターレはどうなんだろう? と待ちながら、不器用な新からそれを確かめることはできなかった。
2022年3月、デンソーカップ(第36回デンソーカップチャレンジサッカー)に関東選抜のエースとして参加していた新は、いよいよ最終学年としての開幕戦を控え、大学サッカー部に合流していた。
ところが、発熱の兆候があり、病院に向かったその帰り道の駐車場で1本の電話が新のもとにかかってきた。
スカウトの向島だったから、驚きが大きかった。
気持ちを聞かれた新は、3年前と同じことを口にした。
「僕は、フロンターレに戻りたいです」
コロナ禍でなかなか準備期間がままならないなかで開幕した4月2日、関東大学リーグ1部対流通経済大学戦で、新は、1ゴール1アシストを決めて、しっかりエースストライカーとしての仕事を果たした。
その姿を見届けて、4月半ばには仮契約が結ばれ、5月24日に正式に山田新の2023年度フロンターレ加入がリリースされた。
新のフロンターレ加入の報せに、両親や川崎市に住む祖父母、アカデミーでお世話になった監督、コーチ、サポーター、たくさんの人たちが喜んでくれた。アカデミーの同期たちは、試合に出られなかった時代があったことも知っているからこそ、驚きや感慨深い気持ちがあったという。
内定発表がされてから、新は何度か「実感がわかない」と発言していたが、等々力でサポーターを前に挨拶をし、2022年夏にはルヴァン杯のセレッソ大阪戦で公式戦デビューを果たした。アジアツアーにも帯同し、2023年1月、新体制発表会見で挨拶をした。さらに、J1リーグ第2節鹿島アントラーズ戦で初ゴールを決めて、サポーターの前で“勝利のバラバラ”を今度は拡声器なしでやることになった。
一体どれぐらいのタイミングで、実感がわいたのだろうか──。
インタビューをした4月のある日、そう聞いてみると、想定外な答えが返ってきた。
「まだちょっと違和感があるというか、信じられない気持ちなんです」
そう言って、左胸のエンブレムを両手で触り、じっと見つめながら続けた。
「クラブハウスに来る時とか、“あぁ”って思ったり、ロッカールームでアキさんを見て“家長”がいるなぁと思う瞬間がふとあったり、なんかまだ不思議な気持ちになることがあるんです」
13歳から6年間、電車に乗る時も、練習でも、いつもフロンターレのエンブレムを身に着けていた。離れていたからこそ、気づかされたこともあった。
「僕は、フロンターレには、家族のような温かみがあると感じています。なんでそう感じるのかはわからないんですけど。でも、やっぱり自分がこのエンブレムに守られていたんだなと思います」
そう言って、また、左胸のエンブレムに視線を落とした。
味方を助け、相手にとって“恐いフォワード”
橘田健人は、桐蔭横浜大学4年生の時に、2学年下の山田新のことを「すごくいいフォワード」だと思っていたという。それは、一緒にプレーしていて「速いし、身体が強いし、守備もすごく追いかけてくれる。頑張れる選手なので、相手からしたら絶対にいやなフォワードだろう」と、強く感じていたからだ。
似たようなことを長橋も話していた。
「新は確かに足がものすごく速かったですが、彼の特徴は速いだけじゃなかった。ずっと、やり続けられるし、戦える。あのスピードを維持しながら90分続けられるのは、ひとつの才能だし、すごいと思っていました。私らがああいう子の良さをフロンターレのようなスタイルのチームだからこそ、見つけてあげないといけないと思います。例えば、キレイに連携してフィニッシュまで行くプレーにはフロンターレらしさが確かにあるかもしれません。ただ、それを試合で出せるかどうか、ですよね。新は、確かに1対1では外すこともありましたけど、その場面を何度作り出していたか。もっと言うと、1試合トータルで見たときに、彼が連続して追いかけて守備をしてくれていたから生まれたゴールもあったし、新が思いっ切り体を張ってファウルをもらい、それがキッカケでゴールが決まったこともありました。彼と一緒にやっていたチームメイトは新が必死に頑張るから助かっていたと思うし、相手DFはいやだったと思います。そうやってチームのために、どんなことでも頑張れるのは彼の人間性です。プロになった今は、そういう自分の特徴やいいところに気づいているんじゃないかと思いますが、U-18当時は、それに気づけているのかなと感じることもあったので、『お前の走り回っているの、本当に相手はイヤだと思うぞ』とか『あのゴールは、お前の守備から始まってたな』と声を掛けたこともありましたね」(長橋)
今野章も、1年生だった新を、プリンスリーグの桐光学園戦で、3年生でキャプテンだったタビナス ジェファーソン(現 水戸ホーリーホック)の対面に抜擢したことを覚えているという。
「(タビナスと)バトルになっても競えて戦えていたし、強かったから倒れないし、スペースがあったら裏に走るし、そういう戦える選手でしたね。速さ、強さに関しては、いままで見てきた選手たちのなかで一番だったと思います」(今野)
大学1年生の時に「殻が破れたら、一気に伸びるな」と感じていたという安武監督からは、エースになった山田新の成長はどう見えていただろうか。
「うまい選手はたくさんいると思いますけど、山田新は“恐い”選手。彼は人にはないスケールの大きさがあったので、小さくまとまらないように気をつけていました。ひとりでもふたりでも抜けると思えば自分でいけばいいし、そういう中で判断を覚えていけばいい。人にはないスピードがあって、人にはない強さがあって、誰よりも努力できる。あんなにサッカーが好きで、誰よりも頑張れる。なかなかいない素材だと思います」(安武)
フロンターレアカデミーの頃から、体を張り、前線からの守備を頑張り、何度でも走り続けられる選手だったが、本人は「求められていることだし、やることは当たり前」という感覚が大きく、それをまだ自分の武器だとは捉えられていなかったのかもしれない。
「アカデミーの頃は、足は速かったですけど、そんなに体がめちゃくちゃ強いという感覚は自分ではなかったです。でも、トレーニングしていたおかげなのかわからないですけど、意外と体がいけるなと大学で思って、ボールをおさめたり、背負ったプレーだったりとか、体が強いからこそスピードがあれば、どちらも生きるんじゃないかと思いました。そこは、試合を経験するなかで成長につながったと思います」(新)
ことさらに、それを頑張ろうと意識せずとも、やり続けられることも、スピードやフィジカル面の強さと同じかそれ以上に新の「武器」だと言えるだろう。
なぜなら、結果的にそれがチームの助けになっていて、チームスポーツのサッカーにおいて、お互いの強みを生かし、時には弱点を補い合うことでチームとして強くなっていくことが大切だからだ。
そういう自分の特徴についても大学時代に、より意識できる部分が増えていき、試合経験を積むなかで高めていくことができた。
武器とのびしろ
山田新のフロンターレへの帰還は、「アカデミーの子たちの可能性を広げてくれた」と、アカデミーのスタッフ陣も、それぞれに感じるものがあったという。
フロンターレのアカデミーでは、週に1回各カテゴリーのスタッフが集まり、ミーティングを設けている。そこで、山田新のフロンターレ帰還が発表されると、どよめきが起こったことを今野章は覚えている。
「新から電話がかかってきた時に、『4年間、本当に努力したんだね。大聖と並んだね』と言ったら、『まだ全然です』なんて言っていたけど、あいつは、まじめだし、戦うし、練習でも試合でも手を抜いてやっていることがなかった。相当頑張らないとフロンターレには戻ってこられなかったと思うので、彼の素直さとか努力が実を結んだんだなと思います。それに、山田新が帰ってきたことによって、私たちアカデミーとしても本当に考えさせられるというか、選手の武器や特徴を伸ばしつつ、技術を上げていくこと、そういうことについてもアカデミーの指導者として整理が必要になったところはありますね。とにかく、山田新という成功例は、他の選手たちの可能性も広げてくれたと思います」(今野)
寺田周平トップチームコーチは、中学3年生、高校3年生と節目で指導してきた新の帰還を、こんな風に受け止めていた。
「新は、中学時代に見ていたプレースタイルそのままに戻ってきました。その姿を見ると、自分の武器、スピード、頑張るところ、努力するところでプロを勝ち取ったんだな。自分の武器を突き抜けるところまで磨き上げたんだな、と思いましたね。新が戻ってきたことは、自分の指導者をやってきたなかで新たな指標になった部分がありました。大学ナンバーワン・ストライカーという看板を引っ提げて、帰ってくるまでになった。本当に頑張ったんだろうなと思います」(寺田)
スカウトの向島も、遡ればアカデミーにいた中学生の頃から新のスピードは紛れもない大きな武器だと感じていたという。
「サッカーは、いろんな人に可能性があるスポーツです。必ずしも、“フロンターレだから、うまくなければいけない”という視点だけで、学生を見ているわけではありません。もちろん“うまさ”は必要な要素ではありますが、全員が同じ特徴ではチームは成り立ちませんし、ポジションによって役割も違えば、その選手が持っている武器や特徴が最大限生かされることで、チームを助け、いい影響を与えることもあります。また、学生時代からすべてを兼ね備えている選手というのはいなくて、何かに秀でていて、何かが足りなかったりする。でも、その後にレベルが高いプロの環境で揉まれることで、技術が格段とレベルアップしていく姿もこれまで見てきました。だから、新のこれまでのキャリアや存在は、アカデミーの子たちにとっても、可能性を広げてくれたんじゃないかと思いますし、指導者にとっても個を育成する上での気づきになったのではないかと思います。もちろん、新には武器だけではなく、ストイックに自分を追い込めて、ブレずに頑張れる信念も感じていましたし、努力できる人間性の部分も今回のオファーを決めた大きな要素になりました」(向島)
チームを勝たせる存在になりたい
2023年1月1日、新は国立競技場のピッチにいた。
桐蔭横浜大学として、最多となるプロ内定者13人を輩出し、迎えたインカレ決勝の舞台。
2対2で迎えた後半アディショナルタイムに入っていた。エース新のスピードを生かし、縦に速くボールを入れるスタイルがチームとしての強みのひとつになっていた。
フロンターレオフィシャルフォトグラファーである大堀優は、「山田新が決める」と確信に似たものを感じて、ファインダー越しに新の姿を追っていた。そして、パスを受けた新はドリブルからペナルティエリア外で右足を振りぬいて、ゴールを決めてチームを優勝へと導き、MVPを獲得した。
「あいつは、変わったと思います。2年生ぐらいまでは自分がプロになるためにサッカーをしていたところもあったと思いますが、4年生の時はチームのためにとか、仲間のために戦っていました。インカレの決勝まできて、出られず悔しい思いをしていた4年生もいましたが、彼らはすごくいい応援をしていました。そういう仲間もいたので、マインドが大人になって、プレーだけではなく大事なことが身についたと思います。だから、あの決勝ゴールで優勝が決まって、新は応援してくれた仲間たちが喜んでくれたことがうれしかったんだと思います。プロでは味わえない学生スポーツならではの経験をして、大学に来た価値があったと思いますし、人間的にも選手としても一回り大きくなったんじゃないかなと思います」(安武)
安武監督はじめ選手たちは、「この優勝は、増尾健に捧げよう」と決めていた。
遡ること約9ヵ月前、リーグ戦が開幕した直後の2022年4月13日に、当時3年生で分析担当だった増尾健さんが20歳の若さで病気療養の末に亡くなった。それは、新にとっても「受け止められたかわからない」出来事だったが、「それでも、健はずっとサッカーを観ていて、サッカーが大好きだったから、自分は健が好きだったサッカーを頑張るしかない」ということ以外に答えがわからなかった。
チームを勝たせる選手になりたい──。
「(大久保)嘉人さんや(小林)悠さんをアカデミー時代に見て、なんでこんなに点が取れるんだろう。大事な時に点が取れるんだろう。フロンターレのトップチームで、あれだけ点が取れるような、そういう存在になりたいなと憧れて見ていました」(新)
そう願ってきた新はエースで4年になると、ゴールを決めた試合がチームの勝利につながるようになっていたのがうれしかった。
大学生活最後に決めたのは、3年前は決勝で敗れた桐蔭横浜大学を初の日本一に輝かせる劇的なゴールだった。
「人生で全国優勝っていう経験がなかったので、いい成功体験になったかなと思います。自分ではわからないですけど、(決勝ゴールは)細かいところをこれまでやれてきたから、それがつながったんだ…と思いたいです。そうなのか、わからないですけど」と照れ笑いを浮かべた。
── エピローグ ──
「今野さん、昨日も新は公園でひとりでパスコンの練習してましたよ」
オフ明けのU-18の練習日に、玉置コーチから山田新の目撃情報を、今野はよく報告されたという。
向島も、新と偶然に家が近所だったため、「足が速くて、わんぱくな」新の名前を、アカデミーに入ってくる以前から聞いたことがあったという。
「お父さん、今日も山田新が公園でひとりでボールを蹴っていたよ」
年月を重ねても、定期的に息子から新の目撃談を聞いていた。
自宅近くで壁打ちをひたすらやっているサッカー少年がいて、その音に困っていたら、実はそれが新だったということが後日分かって、笑い話になったこともあった。
安武監督は、こんなことを言っていた。
「新にはオフの日なんかいらないんですよ。普通はオフは休みたいじゃないですか。まるで、子どもがいつでも遊びたいのと同じように、新はいつでもサッカーをやりたいからとオフでも練習していました。努力って苦しさもあるものだと思いますけど、新はサッカーがうまくなるための努力を努力だと思っていない。必要だから、うまくなりたいからやっているんですから、どんどん成長していきます。常にブレずに全力を尽くしていたので、これはプロになるよなって思いました」(安武)
誰よりも努力して積み重ねた日々があったから今がある。
「新なら、できる」
そう信じてもらって、応援してもらったから、自信や武器を見失わずに頑張ってきた。
だから、山田新は、走り続ける。
フロンターレを勝たせるゴールを決められる存在になりたいから──。
(追記)
2023年7月8日、山田新は等々力初ゴールを決めた。
「ルヴァンカップの湘南戦でゴールを久しぶりに決め、トレーニングマッチでも決め、フィジカル的にも、シュート感覚も含めて、ゴールが取れる感覚が自分のなかで積み上がってきていました。
そういう中で迎えた横浜FC戦は久しぶりのスタメンで、しかも真ん中(センターフォワード)だったので、等々力でゴールをするイメージをして、ポジティブな気持ちで試合当日を迎えました。アップ前から、珍しく緊張している自分に気づきました。
メンバーに入らなかった時期は、より追い込んでトレーニングができたし、シュートの精度や相手がどうこうじゃなく、自分のタイミングでもっと打っていかないといけないと感じていたので、そこを意識して取り組みました。ミツさん(戸田コーチ)にGKと1対1の場面を細かく指導してもらったり、自主練でナガネ(松長根)、大関に、いつもあの位置から上げてもらっていたので、ノボリさんからのクロスを押し込むことができました。
ゴールした瞬間は、興奮しましたが、ちょっと俯瞰した視点で「等々力が、こんなに沸くんだ」と思いました。大型ビジョンのリプレイを見ていたい気持ちを我慢して、次のプレーに向かいました。
試合が終わってみると、先制点が取れたことはよかったなと思うけど、もっと特徴や違いが出せたり、もっともっとチャンスを作り、2点目、3点目も自分で取れればよかったかなと思いました。
これまで、いろんな人たちが関わってくれた積み重ねで今の自分があると思うし、プロになってからも、コーチングスタッフ、メディカルスタッフはじめ、みんながすごく期待してくれ、本気で向き合って、あれだけのことをしてくれているので、その期待を裏切ることなく、しっかり応えないといけないという気持ちにさせられます。
ここからが大事なので、チームの順位も上位ではないので、自分が台頭して、試合で点を取ることで、チームを勝たせられたらなと思っています。
自分のゴールで沸く等々力が初めてだったから、不思議な感覚もありました。
僕は、チャント(応援歌)が好きなので、気持ちよかったです。」
profile
[やまだ・しん]
一瞬でスペースに抜け出す瞬発力、しぶとく抜け出すパワフルさが持ち味のFW。川崎フロンターレアカデミー出身。大学4年間で大きく成長。今年元日に行われた全日本大学サッカー選手権大会決勝で劇的な決勝弾を決めてチームを大学日本一に導いた。アカデミー時代の同期、宮代大聖とともに大きな期待がかかる。
2000年5月30日、神奈川県横浜市生まれニックネーム:シン