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ピックアッププレイヤー 2023-vol.10 / DF3 大南 拓磨 選手

僕の信じる道

テキスト/いしかわ ごう 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Ishikawa Go photo by Ohori Suguru (Official)

幼い頃から、理屈ではなく直感を大切にするタイプだった。

人生の岐路に立ったとき、最後は感覚を信じて決断を下す。

そうやって自分の進むべき道を決めてきた。

 2022年12月──。

 大南拓磨のもとには、あるクラブから獲得のオファーが届いていた。

 川崎フロンターレだった。

 自分の特徴であるスピードと対人守備を高く評価されていること、何よりも近年のJリーグを牽引し続けているクラブからの熱心な誘いは、胸の奥で高まるものがあった。

 だが3シーズン在籍している柏レイソルというクラブにも愛着が湧いていた。チームの居心地や環境も良く、自身もレギュラーとしてプレーできている。

 残留か。それとも移籍か。

 すぐには決断できない問いだった。

 そんなオフを過ごしている中、チームメートの結婚式で湘南ベルマーレにいる瀬川祐輔と再会した。大南にとっての瀬川は、柏時代にお世話になった存在だ。自分をよく知る先輩に、川崎フロンターレからのオファーに心が揺れていることを明かした。

「相談を受けましたね。悩んでましたよ」

 このときの大南の様子について、瀬川はそう明かす。

「タクマはすごくレイソルが好きだし、他のチームに行くっていうところでいろいろ考えてたんじゃないかな」

 実はこのとき、瀬川にも川崎フロンターレからのオファーが届いていた。そして彼自身はすでに湘南からの移籍を決断している。それを知らずに相談していた大南からは「えぇ?そうなんですか!」と驚かれたが、迷っているのなら一緒に川崎でやろうと瀬川は言葉をかけた。

「自分はフロンターレに行くというのを決めてました。『悩んでるんだったら来いよ』って言ったのかな。僕はよく移籍してるので、(移籍先に)友達がいるかどうかはあまり関係ないんですけど、自分がタクマを助けてあげられるし、タクマにも助けてもらえるっていうのも少なからずありました。『最後はお前の意思だけど、来たいんだったら一緒にやろうよ』みたいな感じだったと思います」

 その約1ヶ月後の、2023年1月。

 川崎フロンターレの新体制発表会見には、瀬川祐輔と並んで登壇し、力強く挨拶する大南拓磨の姿があった。

「僕自身、このチームに強い覚悟と野心をもって来ました。川崎フロンターレはタイトルが似合うチームだと思います。そのために僕が活躍して、タイトルをとりたいと思います」

 その肩には決断の証であるクラブカラーのマフラーが掛けられていた。最後はサッカー選手として、もっと成長できると感じた自分の心に従った。

「ここに来た方がいいなっていうのを、直感で思ったんです」

 考え抜いた末に出した結論だったが、最後は理屈ではなかった。直感を大事にしてきた、自分らしい決断だった。

 なお今回の移籍について語るとき、大南はよく「瀬川くんの存在はちょっとだけありました」と笑って話している。あくまで「ちょっとだけ」という表現に2人の仲の良さを垣間見ることができるが、いずれにせよ、両者は同じエンブレムをつけて勝利を目指すチームメートとなった。

ピックアッププレイヤー 2023-vol.10 / DF3 大南拓磨選手 ピックアッププレイヤー 2023-vol.10 / DF3 大南拓磨選手

 1997年、愛知県刈谷市で大南拓磨は生まれた。

 自動車工業地帯ではあるが、たくさんの自然にも囲まれている街だ。本人曰く「田舎すぎない街」。幼少時代は公園で虫捕りをしたり、近くの川でよく遊んでいた。

 近所の友達とのボール遊びも日常だった。

 幼稚園の年長となった6歳の誕生日には、両親にねだってサッカーボールを買ってもらっている。これがサッカー人生の始まりとなった。

 刈谷市は「サッカーの町」と言われているほどサッカーが盛んな地域である。近所の友達と共に地元のクラブである刈谷SCに入り、大南少年はどんどんサッカーにのめり込んでいった。足が速くて運動会では常に一番。ドリブルで持ち込んでシュートを決めるのが楽しく、スピードを生かした点取り屋だった。

 知っている方もいるかもしれないが、大南は双子の弟である。

 大南兄弟はサッカーを同じタイミングで始め、弟・拓磨がFWならば、兄・良樹はGKだ。同じチームで練習し、行動も共にする間柄だった。

「自分が思う双子って、本当に仲良いか、極端に仲悪いかのどっちかのイメージなんですけど、ウチはその中間ぐらいだったと思いますね」

 

 いわゆる「つかず離れず」のような関係だったと本人は懐かしむ。サッカーでも切磋琢磨し続け、強豪として有名な愛知FCの選抜試験にも揃って合格した。

 

 愛知FCのレベルは高かった。愛知県でもっとも強いと呼ばれる名古屋グランパスジュニアと渡り合うほどのチームである。ボールを保持するスタイルで、基礎的な部分を徹底的に鍛えられた。スピードを生かしたサイドからのドリブル突破とチャンスメークが当時の大南少年の武器だ。小学生時代はとにかくサッカー漬けの毎日だったと振り返る。

「コーチが厳しい方でした。ずっとサングラスをかけていて、その人にも怯えながらサッカーやってたなって思い出すんですけど(笑)、間違いなくあそこで成長したなと思います」

 一方で、中学時代はやや悩む時期になっている。

 愛知FCの中学生チームに進んだものの、思うように試合に絡めなくなった。周囲に相談し、所属チームを名古屋FCに変更する決断をした。だが名古屋FCに入ると、今度は腰の痛みに悩まされた。診断名は腰椎分離症。育成年代に多い腰痛の症状で、半年ほどサッカーから離れる時期を過ごしている。ただこのサッカーから離れた時期に自分を見つめ直し、休んだことで体格も変わった。身長がぐんと伸びたのだという。

「サッカーができないのは嫌だったんですけど、それに対して落ち込むっていうのはなかった気がします。中学で勉強もしなさいって言われていて、それでちょっと休めるなって気持ちもありました。休んで身長がすごく伸びてるんですよ。この時期は無理をして怪我をしがちじゃないですか。でも無理してるのか、無理してないのかもわからない。中学生に言いたいですけど、成長期はしっかり休んだ方がいいです。よく食べて、よく寝るのは大事。入学前は160cmなかったですけど、卒業する頃には180cmくらいにまでなりました」

 中学卒業後は、愛知県を離れて進学することを考えていた。

「県外でサッカーをすることにかっこいいなっていう漠然とした思いもあって行きたいなって思ってました。そこで監督に勧められたのが鹿児島実業高校でした」

 鹿児島実業といえば、前園真聖、城彰二、遠藤保仁、松井大輔など多くの日本代表選手を輩出してきた全国屈指の名門である。この時も大事にしていたのは、やはり自分の直感だった。「有名だし、行ってみたい」と決断し、両親にその思いを伝えると、「頑張ってやり切って来なさい」とエールを贈られたという。

 なお双子の兄である良樹さんは、中学に入る時にサッカーをやめており、この時点で別々の道に進んでいる。現在は「超大南」という名前で芸人として活動中である。兄は芸の世界で、弟はサッカーの世界で高め合う関係性が続いている。弟のサッカーの応援に兄がスタジアムまで足を運ぶこともあるそうである。

 親元を離れ、鹿児島実業での生活が始まった。

 最初は下宿生活で、2年時からは新しくできた寮生活となった。学ランと黒カバンという昔ながらの校風はともかく、あまりに厳しいサッカー部の上下関係には流石に戸惑った。

 「最初の1ヶ月くらいは挨拶練習だった気がします。昔に比べたら、だいぶ緩いと思いますけど、自分たちからしたら厳しかったですね。ただ上下関係があるから人間としても成長できたのかなって思います。理不尽すぎたので、ある程度のことは何も思わないようになりました(笑)」

 同時にサッカーにとことん打ち込める環境でもあった。

 日々の練習はもちろんハードだ。とりわけ、走りのメニューが尋常じゃなかった。「めっちゃ走りましたよ。一生分走りましたね。もう戻りたくはないです(笑)」と苦笑いを浮かべる。走ることを苦としていない本人がそう振り返るのだから、相当な練習量だったことは想像がつく。

 高校に入ってからもポジションはFWでプレーしていた。ただ前線の層が厚いので、ある試合でディフェンダーとして出場する機会があった。すると、それをきっかけに本格的にセンターバックにコンバートされることとなる。高1の夏の時期だった。

 今振り返ると、現在の大南拓磨のサッカー人生のターニングポイントだったと言える。FWからCBになることに、当時はどう感じていたのだろうか。

「試合に出られるならどこでもいいっていう気持ちがありました。しかも違うポジションをやると新鮮なんですよ。だから、最初は『楽しい』っていう感覚で入りましたね」

 これまではFWとして生きてきたが、そのポジションで競争することに彼は固執しなかった。直感を大事にしながら、移籍や進学で環境を変えることも厭わない。そうやって柔軟に自分を成長させていくマインドに大南らしさがあるようにも感じる。

「割とそうかもしれないですね。FWで試合に出られたらそれはそれでよかったなって思いますけど、出られなかったんで。褒められたところをやろうっていう感じで、しかもいろんなポジションをできたらいいなって思ってたので、それは今も生きてるものだと思います」

 ディフェンスはやったことがなかったが、森下和哉監督がセンターバック出身ということもあり、技術面での細かい指導も多く受けることができた。例えば競り合いでは、シュートを決めるヘディングと、クリアするヘディングでは競り方や身体の使い方がまるで違うことを学んだ。ディフェンダーの場合は、相手より先に体をぶつける技術や、相手よりも先に飛んで相手の上に乗るタイミングなど細かな駆け引きも必要で、そうしたイロハを教えてもらった。

 練習を重ねていくと、自信もついた。元々スピードには自信があったので、試合では相手に走り負けることはまずない。さらに180cmのサイズで空中で競り負けない強さも見せるようになると、「速さ」と「高さ」を兼ね備えたディフェンダーとして徐々に注目を集めるようになる。高校2年生から活躍し始め、インターハイではベスト8に進出した。

 高校3年の夏休みにはジュビロ磐田からの誘いがあり、1週間の練習参加をしている。このときに合格を言い渡されて、夢に見ていたプロの道が開けることとなったのだ。

「最初は大学に行こうとしてました。大学での練習参加もある中で、ジュビロから練習参加に来てくださいって言われました。『帰る時に結果はお話しします』って言われたので、合格にはびっくりしましたし、嬉しかったですね。それと同時に、自分がやっていけるのかなっていう不安の気持ちもありました。でもそんなチャンスはないじゃないですか。とにかく嬉しかったのを覚えてますね」

 高校3年時にはU-18日本代表にも選出されるなど、将来を担う注目株となっていた。ところが、いざJリーガーとなると、全てにおいて次元の違いを感じて強烈なショックを受けたという。プロのチームは、これまで過ごしていた場所と全く違う世界だったからだ。

「自分の才能のなさとか、ちっぽけなところに気づいて絶望しました(笑)。技術のところもそうですが、なんでこんな狭い世界で生きてたんだろうと思ったぐらいです」

 プロ1年目は練習についていくことに必死だった。自分の武器である守備も、プロでは守り方自体が全然違った。技術で守るのではなく、組織で守るということを目の当たりにし、頭の中を作り替えていく。中でも衝撃を受けたのが、ディフェンスリーダーを務めるベテラン・大井健太郎の存在だった。

「人を動かすところやラインの上げ下げのコーチング、体を投げ出すタイミングや体を張るところ… そういうところは本当にすごいなって思いました。守備の迫力も違うし、味方を動かすコーチングだけではなくて、周りを鼓舞する声のタイミングとかそういうのは絶対的に上手かったと思いますね」

 1年目は公式戦に2試合出場。リーグ戦の出場はなかったが、ナビスコカップ(現在のルヴァンカップ)の第6節・鹿島アントラーズ戦でプロデビューを飾ると、天皇杯にも出場している。2年目はルヴァンカップに3試合、天皇杯に2試合出場した。

 そして迎えた3年目。勝負の年と自分なりに位置付けて臨んだ。

「そろそろ試合に出てしっかり絡まないといけない。そうじゃないと、このまま終わるなと思っていました。チャンスがあって出ることができましたね」

 明治安田生命J1リーグ第4節のサンフレッチェ広島戦にスタメンで出場を果たす。リーグ戦デビューを飾り、フル出場で無失点に貢献。この年は公式戦14試合に出場している。ただチームの成績は低迷し、苦しいシーズンでもあった。

 「残留争いをしていて、プレーオフまで行ってしまったので、そこでの責任も感じました。なかなか勝てなかったし、3年目の選手でも責任を負う必要がありました。責任を負うっていうのは、早いうちに経験しておくのも大事かなと思います」

──責任を負う。

 例えば2018年の最終節は、等々力陸上競技場での川崎フロンターレ戦だった。川崎はすでにリーグ優勝を決めており、一方の磐田は勝てば残留を決められる状況で迎えた最終節で、大南拓磨はディフェンスラインの一角で先発していた。

 78分、大久保嘉人のゴールで磐田が先手を奪うも、83分にCKから奈良竜樹に決められて同点。そのアディショナルタイム。自分の対面にいた家長昭博のドリブル突破を許し、それがオウンゴールにつながり、土壇場で痛恨の逆転負けを喫した。3年目の大南拓磨にとって忘れられないワンプレーだ。

「すごく覚えてます。あそこで縦に行かれても絶対追いつくと思ったし、だったら中しかないなと思って、中のコースを切ったんですよ。そしたらグッと縦に来られた。あそこで掴んででも倒さないといけなかったです。でも掴ませてもくれなかった」

 相手はこの年のJリーグMVPを受賞した家長昭博だったとはいえ、あのワンプレーの結果、ジュビロ磐田はJ1参入プレーオフを戦うことになった。自分の判断がクラブの運命をも左右する責任を痛感した試合だった。

 ただそれでも気持ちをなんとか切り替えた。その後、J1参入プレーオフで東京ヴェルディを2-0で下し、この年はJ1残留を果たしている。

 翌2019年はリーグ戦22試合、カップ戦合計7試合と、コンスタントに試合に出続けている。しかしチームは無念のJ2降格。いくつかの葛藤も抱えながら悩み抜いた末、自身の目標である東京五輪出場を目指すために、2020年は柏レイソルへの移籍を決断する。

「初めての移籍で大丈夫かなという不安と、チャレンジだなっていう気持ちがありました。環境が変わったので、そこでまた気持ち的な切り替えができたと思います」

 柏では3シーズンを過ごしている。

 東京五輪のU-24日本代表メンバーには選出されなかったが、クラブでは最終ラインの一角として出続けていた。指揮官であったネルシーニョ監督からは勝利に対する執着心、井原正巳コーチからは守備面の理論を整理してもらうなど、学びの多い環境だったと振り返る。その高いパフォーマンスを評価されて、2022年7月には、E-1サッカー選手権2022に出場する国内組中心の日本代表にも選出された。香港代表戦で日の丸デビューも飾った。

「緊張しましたね。ただ試合に出てる時間は短かったですし、プレーにも納得はしてないですけど、刺激になりました。またここに戻ってこられるように、という気持ちがあります」

 そして2022年のオフ、川崎フロンターレからオファーが届いた。

 在籍していた柏レイソルに不満はなかったし、居心地も良い環境だった。同時に、20代半ばの年齢となり、すでに若手の立場ではなくなっている。選手としてこのままではいけないという危機感も強くなり、「どうすれば成長できるか」を向き合い始めている時期でもあった。

 「そこに甘えてても良くないなっていうのがありました。ジュビロからレイソルの時もそうでしたが、環境を変えると自分の中で成長してる感覚があります。自分で何か変えるのが難しい人は、それも大事だと思います。そして、これからサッカー選手としてもっと成長するためには、ここに来た方がいいなっていうのを直感で思いました」

 もっとも、川崎に移籍しても簡単には出番が巡ってくると思っていなかった。

 大黒柱の谷口彰悟が海外移籍したとはいえ、センターバックにはジェジエウ、車屋紳太郎、山村和也が健在だ。右サイドバックにはカタールW杯に出場した山根視来が君臨している。最終ラインの層は厚い。環境を変えて試合に出られなくなるリスクもあったが、チャレンジしようと決めて川崎フロンターレの一員となった。

「やってやろうという気持ちはありましたけど、すぐにレギュラーが取れるとは思ってなかったです。地道にやっていこうって感じでした」  

 いざシーズンが始まると、開幕直後に怪我人が相次ぎ、新加入だった大南拓磨は主力として最終ラインでフル稼働。ハイラインを採用し、数的同数のカウンター対応をしなくてはいけない局面も珍しくない中で、自慢の快足を生かした守備でピンチの芽を摘んだ。シーズン序盤、守備陣をやりくりできたのは、大南抜きには語れなかったと言えるだろう。

 川崎フロンターレの一員となり、2023シーズンも折り返しを過ぎた。

 主力を担っている自分の成長は、日々実感しているという。

「練習には慣れましたが、でもやっぱり緊張感はありますね。技術であったり前への意識。チャレンジする感覚は前よりも研ぎ澄まされていると思っています」

 ディフェンダーとして、今までならばクリアしていたようなボールを繋ぐようになり、ボールを持った時の選択肢も、近くではなくゴールに直結する遠くを優先するようになっている。これまではあまり見ていなかった景色だ。

「ちょっとは出来ているのかなとは思っていますけど、全然まだ足りないなと思っています。見えるようになってきている分、今までなかった余裕が生まれてくるので、そういうところで少しは成長しているのかな、とは思っています」

 周囲からの評価はどうだろうか。

 例えば今年、再び同僚になった瀬川祐輔は、大南の変化をどう感じているのだろうか。彼は率直な意見を話してくれた。

「フロンターレのサッカーに合わせようっていう気持ちでやってるなって感じることが多いですね。タクマの良さは前に出て行くことだし、蹴っていいところとつなぐところを色々と考えながら、バランスよくプレーできてるとは思います。ただ考えないでやるとあいつの良さが出る部分もあるし、難しいですよね。かといって考えないでプレーする年齢でもないし、今は考えてやろうとしてるからタクマ自身も成長できてると思いますよ」

 

 今季、大南拓磨と瀬川祐輔のコンビで大きな仕事をやってのけた試合がある。

 7月15日、日産スタジアムでの横浜F・マリノス戦である。

 スコアレスのまま迎えた試合終盤、ゴール前でボールを受けた瀬川祐輔は、シュートフェイントを入れて相手ディフェンダーを引き付けていた。この瞬間、右サイドで動き出しをしていたのが大南拓磨だった。

「最初、シュートを打とうと思ってトラップしたけど、ちょっと無理だと思って。ワイドの選手にもう一回広げようかなって思って見たらタクマが走りだしてた。気づいたらそこに出してました」(瀬川)

 直感で走り出していたであろう大南と「目が合ったのが全てかな」と瀬川は振り返る。相手ディフェンス2人の内側を通し、かつ走り出した大南に届く絶妙なパスだった。

「すごいいいボールで、バックスピンがかかっていて。中を見る時間もありましたし、落ち着いてできました」(大南)

 相手守備陣を置き去りにしたことで、大南に向かってGK一森 純が飛び出してくる。角度がないので、シュートを狙わずに折り返しを冷静に選択できた。中に誰かが走り込んでいるのが見えていたからだ。

 誰なのかはわからなかった。わかっていたのは、白いユニフォーム姿の選手が走り込んでいたという事実だった。

 「白のユニフォームが見えたので。シュートと迷ったんですが、流せば触ってくれると思ったので流しました」(大南)

 大南拓磨の折り返しは、再三のファインセーブを見せていたGKの脇を抜ける。飛び込んでいたのは車屋紳太郎。コーナーキックのセカンドボールを拾った後だったので前線に残っていたのだ。身体ごとゴールに飛び込んでゴールネットを揺らし、あまりに劇的な決勝弾となった。

 詰めていた車屋も見事だったが、瀬川と大南による阿吽の呼吸で崩した形で呼び込んだ決勝弾と言っても過言ではなかった。お互いをよく知る2人のコンビが、ホームで負けなしだった首位チームを下す勝利に、彩りを与えた。

──────────

 川崎フロンターレはタイトルが似合うチーム。

 そう思い、自分がコンスタントに出場しているからこそ、リーグの優勝争いから後退を余儀なくされたチームの現状に大南拓磨は歯痒さを口にする。

「順位的なところを考えると、この順位にいてはいけないチームだと思います。自分としても成長はしていると思いますが、自分の成長よりもチームが勝つというのは大事だと思っています」

 シーズン終盤が近づき、チームに残された国内タイトルはベスト4まで進出している天皇杯のみとなった。準決勝には柏レイソルも勝ち残っている。もし両者が勝ち進めば、大南拓磨にとっては、これ以上にないファイナルの舞台になるだろう。

 これまでのサッカー人生でも、岐路は何度もあった。

 そんなときは直感で選んだ決断を信じ、その道を自分の正解にしてきた。

 川崎フロンターレでも、その思いは変わらない。

 チームにタイトルをもたらすために信じた道を、大南拓磨らしく進んでいく。

profile
[おおみなみ・たくま]

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柏レイソルより完全移籍で加入。スピードと対人戦の強さが武器のDF。2016年よりジュビロ磐田でプロのキャリアをスタートさせ、2020年から柏レイソルでプレー。コンスタントに出場し、昨年はE-1選手権に出場する日本代表にも選出された。センターバックだけではなくサイドバック、ウイングバックでプレーできるのも彼の強み。フロンターレの攻撃的なスタイルにうってつけの人材だ。

1997年12月13日、愛知県刈谷市生まれニックネーム:たくま

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