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ピックアッププレイヤー 2023-vol.12 / MF6 ジョアン シミッチ選手

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テキスト/佐藤 成(日刊スポーツ新聞社) 写真:大堀 優(オフィシャル)  text by Sato Sei (Nikkan Sports News.) photo by Ohori Suguru (Official)

忘れられない芝がある──。
シミッチが名古屋グランパスに加入したのが2019年2月。そこからさかのぼること14年。

日本が今よりももう少し暑くなかった頃の夏。ジョアン少年は日本にいた。

 アメリカを経由して、日本に来た。羽田だったか成田だったかは覚えていない。サンパウロU-12として第6回静岡世界少年サッカー大会に出場するためだ。

 2週間くらい滞在した。全てを鮮明に覚えているわけではないけれど、ところどころは、はっきりとした記憶がある。

「とてもキレイで洗練されている国だなと。チームメートが試合会場に財布を忘れて、それで何日か経ってから同じ会場に戻ったときにちゃんとそこに残っていましたね」

 遠征中は、みんなでホテルに泊まっていたが、プログラムの一環で、日本人の家にホームステイすることになった。こっちに来てから急に言われたものだから不安でしかなかったのを覚えている。

「言葉は通じないし、隠れて泣きました。でもすごくキレイにされている家だったことを覚えています」

 乾燥機の存在は強烈に記憶に残っている。

「当時、ブラジルに乾燥機というものは普及していなくて、そこの家族が夜から洗濯を始めたのでとても焦りました。『ぼくが明日着るものはどうしたらいいんだ!』ってね。そうしたら翌朝、キレイに自分の服が畳んで置いてありました。乾燥してくれたんですね」

 他のチームメートも、別の日本人家族のところに泊めてもらっていた。いくつかの家族が集まって、一緒に焼肉を食べたこともいい思い出だ。初めて食べたけどおいしかった。まあ、ブラジルのシュラスコにはかなわないけど。

「焼肉屋さんにいるときに地震が起きてびっくりしたことも覚えています。ブラジルではなかなかないことなのですが、日本人たちは『あ、またか』といったような感じだったので、それもまた驚きました。今は地震が起こっても自分も驚かないですけどね」

 ホームシックになった宿泊体験も含めて日本はとてもいい印象が残っている。出場した「世界少年―」では、決勝に進出した。

「決勝はバルサ(バルセロナ)でした。セレソン(ブラジル代表)とイングランドが2002年のワールドカップで戦った(エコパ)スタジアムでした。バルサには2-3で負けましたね。ものすごい大きなアフリカ系の選手がいて、その選手にやられてしまいました(笑)。大人になって日本でプレーすることになるだなんて、その時は考えもしなかったですよ」

ピックアッププレイヤー 2023-vol.12 / MF6 ジョアン シミッチ選手 ピックアッププレイヤー 2023-vol.12 / MF6 ジョアン シミッチ選手

 ジョアン・フェリピ・シミッチ・ウルバノ。

 生まれたのは、初来日からさかのぼること12年。1993年5月19日。Jリーグ開幕から4日後のこと。ブラジルはサンパウロ。ブラジルの都市部で、中産階級といわれるような家だった。7歳上の兄と3歳上の姉がいる3人きょうだいの末っ子。特段甘やかされて育ったわけではない。ブラジルの男の子にとってサッカーを始めることは自然なことで、ジョアンにとってもそれは同じことだった。外で遊ぶことが大好き。大抵はサッカーをして遊んだ。

「学校に入る前の幼稚園の頃、4歳から7歳までサッカースクールに通っていました。両親は本当は水泳をやらせたかったんですよ。プールにいつも連れて行かれていたんですけど、泣いて『(家の)外に出たくない』って言っていた。それが続いて、お母さんがなぜなのか不思議がって、『何がしたいの?』って質問してきました。だから『本当はサッカーがしたいんだ』って言いました。4歳っていう年齢のカテゴリーがなくて、5、6歳のカテゴリーからしかなかったんですけど、4歳から入れてもらって年上の人たちと一緒に始めました」

 初めて買ってもらったサッカーボールは覚えていないけど、初めて買ってもらったスパイクのことはすごく覚えている。「ブラジルのスーパーマーケットは日本とは違って大きくて、そこで買いました。有名なブランドではなくて、今あるのか分からないけど『ベンタ』っていうメーカーでした。黒いスパイクでしたね」

 幼い頃から恵まれた環境でプレーさせてもらった。地域のサッカースクールに通っていると、7歳の時にコリンチャンスからオファーが。「選手の入れ替わりももちろんありましたし、勝たなきゃいけないというプレッシャーは当時からありました」。激しい競争を勝ち抜いて5年間プレーした。

 コリンチャンス時代、週3回はサッカー、週2回は室内でフットサルの練習があった。2つを並行して練習することはブラジルではよくあることで、それで高い技術が養われる。当時のヒーローはブラジル代表FWロナウド。優勝した2002年の日韓ワールドカップをよく覚えている。おでこの上の部分だけ残したあのヘアスタイル、大五郎カット。熱狂した。

 カテゴリーが変わる12歳の時に、コリンチャンスからサンパウロに移ったのは、いろんな要因があった。家からの距離もコリンチャンスの方が遠かった。車で片道1時間はかかった。それにサンパウロは、ブラジルトップクラスの育成機関だった。

 当時は今よりは少しおしゃべりだった気もするけれど、基本的に落ち着いていて、あんまり大人に迷惑をかけるようなタイプの子どもではなかったはず。サッカーに関して言えば、ブラジルトップクラスのチームの中でもずっと中心選手だった。プロになる前の挫折といえば、サンパウロ時代。14~15歳くらいの頃だった。

「身長は高かったけど、フィジカルが弱かった。細くて力強さがなかった。他の選手たちは、もう背もあるし、しっかりした体格をしていた。15歳ぐらいの時に成長が追い付くまで、4~5か月ぐらいは控えということもありましたね」

 この頃からポジションが中盤の後ろの方に下がってきたから、フランス代表MFジダンやイタリア代表MFピルロに憧れていた。コリンチャンスやサンパウロでともにプレーしていた選手は、現在トップクラスの選手ばかり。パリ・サン=ジェルマンDFマルキーニョス、今夏までトットナムでプレーしたMFルーカス・モウラ、マンチェスター・ユナイテッドのMFカゼミーロ、マンチェスター・シティのGKエデルソン、FC町田ゼルビアのFWアデミウソン…。スターの卵たちとの激しい競争をしていると、自然とレベルアップした。

「12、13歳くらいに自分の夢としてサッカー選手というのがありました。それ以前はただサッカーが好きでやっていた。そこから成長することで、いろんな考えを持つ中で、サッカー選手という職業にたどり着いた。自分の頭の中にサッカー以外の職業は浮かんだことがないです。もしサッカー選手になれなかったら、なんて考えたこともないですね」

 トップチームに昇格することも容易ではなかった。

「ある程度の期間が決まっていて、1年経って、何人か削られて、また次のカテゴリーに行って、また何人か削られてっていうように門は狭くなる。自分の年で、最終的に20人くらいに絞られてからトップチームに上がったのは4人だけ。最初は70~80人いましたね」

 なぜその競争を勝ち抜けたのかは、正直わからない。

「神からの導きがあったからだと思います。もちろん技術があったり、努力するっていうことは大事ですけど、他の選手にも同じように技術があったし、努力をしていました」

 17歳のジョアンにとってサンパウロで活躍することが当面の目標だった。晴れてプロになっても、そこはサッカー王国の名門。簡単に試合に出場できるほど甘くはなかった。

「17歳でトップチームになって、その年は試合に出られなかった。18、19歳の2年間で20試合は出たかな。でもスタメンではなくほとんどが途中出場。20歳の時にポルトガルのチームにレンタル移籍しました。そこから戻ってきてからはサンパウロでコンスタントにプレーできるようになりました」

 愛するクラブを出ることを決意したのは24歳の時だった。サンパウロとの契約が終わりに近づいて、延長のオファーがあったけれど、内容が自分の中で少し納得がいかず、元々ヨーロッパのクラブでプレーしたいという夢もあったから、思い切ってイタリアのアタランタへ。

「イタリアではプロとしてそんなにいい結果を残すことはできなかったですけど、自分としては非常に重要な時期でした。それまで大きなケガをしたことがなかったですけど、左膝の調子がとても悪くなりました。半月板を損傷して、手術をしなければいけない状況になってしまいました。リハビリをして、復帰して、またリハビリの繰り返し。手術前に1試合しか出場できず、シーズン終了を迎えて、自分の枠がなくなって、ポルトガルのチームにレンタルで行きました」

 ポルトガルに行って半年は膝の調子も良くて、プレーの感触もよかった。そんなタイミングで名古屋グランパスからオファーが来て、日本に来ることが決まった。とんとん拍子で話が進んだ。

「試合の前日に、代理人から『日本のクラブの強化の人が明日試合を見に来るから』と。試合をして、その翌日には強化の人に会って、その2日後にはもう日本に行きました」

 スピード決着の理由は「契約内容が全て(笑)」。

「当時、ヨーロッパで続けてプレーしたい思いはありました。半年くらいレンタルでいいプレーをして、他のヨーロッパのクラブからもオファーはありましたが、それは全てシーズンが終わった後に、ということでした。ですから、ここで(名古屋から)すごくいいオファーをもらっているのに、残りのシーズンを過ごすことによって、その時に同じようなオファーが来るかどうか、なんの確証もなかった。だったら今この時を大切にして、今考えようって思って、そこで決断しました」

 2019年冬──。再び運命が動き出す。Jリーグのイメージは全く湧かなかった。実に14年ぶりの来日。まさか幼い頃に遠征で訪れた日本でプロとしてプレーすることになるとは。

「当時名古屋にいたガブリエル シャビエルが知り合いだったので、連絡して、名古屋がどんな感じかは聞きましたね。彼の存在は大きかったです」

 新たにプレーする自分と同い年のリーグ。サッカー選手として最も脂が乗った20代後半をそこで過ごすことになった。

「やっぱりジーコがいたことはブラジルの中でも有名。多くのブラジル人選手がプレーしていることも知られていました」

 実際にプレーするようになって感じたのは、ものすごくいいリーグだということ。

「いくつも驚きがありました。オーガナイズ、戦術面だったり、技術面だったり。日本に来る前は何も知らなかったですからね。あんまり順応することには苦労しなかったですよ。ブラジル人選手たちがサポートしてくれましたし、風間(八宏)監督も自分のプレースタイルを気に入って使ってくれた。日本はパスの部分が要求される。そういう意味でも自分は比較的スムーズにフィットすることができたんじゃないかな」

 すぐにリーグ屈指のMFとして注目を集めるようになった。高い技術と戦術眼でチームに欠かせない存在となり、ダブルボランチの一角として31試合に出場。コロナ禍の2020シーズン終了後に川崎フロンターレへの移籍が決まった。

「フロンターレは結果を出しているチームでしたし、いいオファーをもらえてすごくうれしかったですね」

 当時のチャンピオンチームからのオファー。決断はそう難しいことではなかった。

 ダブルボランチでのプレーが得意で、アンカーのポジションに戸惑いはあったけど、ボールを大切に、主導権を握るスタイルが気に入った。1年目から25試合に出場して優勝に貢献。2年目の昨季も22試合に出場した。今季は、ここまで29試合に出場。チームが中位に低迷する中、孤軍奮闘。疲れ知らずに走り回ってセカンドボールを回収し、配球役としても存在感を発揮した。

 ポジションを争う橘田健人主将が不調に陥った5~7月の働きぶりは特にすさまじいものがあった。八面六臂(ろっぴ)の活躍に「セレソン入りも」とファンから声が上がるほどだった。

「自分を信じていないわけではないですけど、30歳になりましたし、ほとんどの選手はヨーロッパのクラブでプレーしている。それ以外の選手が呼ばれることは難しいことだとは思いますけど、そういっていただけるのはうれしいです」

 大切にしている信念がある。「やるべきことをやり続ける」ということ。

「いい時も悪い時も、とにかくやり続ける。やり続けることによってわかることがある。やり続けなければ、成功には繫がらない。いいときも悪いときもある。とにかくやらなければいけないことを、精いっぱいやり続ける。自分がベンチやメンバー外にいたり、チームが勝てない状況もあったりすると思う。悪い状況に陥ったときにいろいろ迷い込んでしまうことはある。別に全部が悪いわけではないはず。何が悪いのか分析して、いいところ、悪いところをちゃんと見る必要がある」

 ラテン系のブラジル人にあって、実直でまじめ。試合前には、必ず神に祈りをささげる。

「勝利というところの意味合いはそんなになくて、このゲームに出場する選手たちが、誰もケガなく終えますようにっていうところ。その結果、自分たちが勝利に値すればいいなと思っています」

 川崎フロンターレで一番の思い出は、2021シーズンに開幕から25試合無敗という記録を達成したこと。

「たしか8月くらいまで負けなかった(8月25日福岡戦)。それだけ負けないシーズンって簡単なことじゃないですし、難しいことを自分たちはそこまで成し遂げてたんだなっていうのが印象的です」

 フロンターレ3シーズン目。年齢的にもよりチームを引っ張る意識が強まった。いいプレーをして、チームを勝利に導くことが自分に求められる役割だと思っている。目下の目標は、天皇杯優勝。そこに向けて、橘田との熾烈なレギュラー争いも歓迎だ。

「今、ケントがすごくいい状態で出場を繰り返していますし、それ以前は、逆に自分がずっと出場していた。もちろん自分の中でベンチっていうところは、やはり納得はしていないですけど、自分ができることを引き続きやり続けてプレーできるように、またチームの力になれるようにと思っています。チームの力になれれば、自然と結果にも繫がってくるのかなと思います」

 過酷な競争を乗り越えてこられたのは、家族のおかげだ。妻のベアトリースさんと2人の愛娘。他にも重要なこと、必要なことはたくさんあるけれど、家族が自分にとって一番重要な存在だ。ベアトリースさんと出会ったのは学生時代。サンパウロの育成組織に所属していた高校生の頃だった。

「高3の時でした。自分が一目ぼれしました。彼女は自分のプレーしているところを見て一目ぼれした… っていうのは冗談ですけど(笑)、試合を見に来てくれましたね。サンパウロの練習時間などもあって、高校は転々としました。最後に通った家の近所の夜間の学校で、彼女に出会いました。自分は午前に練習に出て、夜に授業。彼女は午前中に仕事をして、午後に授業を受けていました。あんまり覚えていないですけど、なんか販売系の仕事をしていた気がします」

 試合数も多く、プロになるために競争が激しい中でも愛を育んだ。「付き合うためには時間は作るものですから」。

 20歳で交際をスタートして、結婚したのは25歳の時だった。

「イタリア、ポルトガル、日本と異国で生活をしてきて、今では日本に順応しています。日本が好きなので、日本でプレーできる可能性があるのであれば、今後も日本でプレーするのがいいかなっていうふうには思っています」

 1枚の写真がある。サンパウロのジャージを着たジョアンと横浜F・マリノスのポロシャツを着た日本人の男の子が写っている。ホームステイした時に撮った写真。18年前の夏に対戦した横浜F・マリノスの育成組織に出場していたメンバーの1人で、その少年の家に泊まらせてもらった。

 想像してみる。長い月日を経て、再会することができたらどんなにエモーショナルな瞬間だろう。

「もし向こうが望んでくれて、自分と会ってくれるのであれば、うれしいなと思います。まずは彼のベッドで寝かせてくれたことに感謝しなければいけないですね」

 この出会いには、偶然に偶然が重なっていた。当時、F・マリノスプライマリーを指導していて、現在は中国スーパーリーグの梅州客家で教育ダイレクターを務める川合学さんが振り返る。

「静岡世界少年サッカー大会は、アジア、ヨーロッパ、南米のクラブが招待されている国際的な大きなイベントでした。静岡県が主催で、県内の東西南北の選抜が参加していましたが、Jリーグのクラブは(県の)予算的に呼ばれていませんでした」

 同年のF・マリノスは全国大会で優勝した日本チャンピオンだった。選手たちの経験のためにも参加を打診したが、断られてしまったという。川合さんはコーチと2人で、サンパウロ対バルセロナの決勝戦を観戦しに行った。「格が違いました。その場で県庁の担当の偉い人に、なんとか試合をさせてもらえないかともう一度頼み込みました」。しかし、大会のプログラムには休息日にも観光なども盛り込まれており、試合を組むことはできなかった。

 ただ天は見放さなかった。川合さんのもとに一本の電話が入る。先の担当者からだった。

「成田発で日本からでブラジルに帰る前に、2日間、時間がある。そこまでの移動費と宿泊費をマリノスが持ってくれるなら、試合を組めそうだけど、どうしますか」。

 すぐにクラブに掛け合った。予算の関係で全員分の費用を捻出できないと断られた。川合さんは諦めなかった。「自腹で出すから試合をやらせてあげたい」。クラブがその熱意に根負けして、10万円だけ用意してくれた。サンパウロスタッフの移動費、宿泊費に充てることにしたが、選手の宿泊費が足りない。悩んだあげくに出した答えがホームステイだった。

「マリノスの子たちも地方に遠征する時とかに、社会勉強も兼ねてホームステイをすることがあった。親御さんに『こんなチャンス、二度とないのでお願いします』と説明して頼み込みました」

 ポルトガル語しか話せないサンパウロの選手たちを受け入れることに、不安を示す家庭もあった。それでもなんとか了承してもらった。日本料理を振る舞ったり、レストランを予約したり、カラオケに行ったり、ゲームをしたり…。それぞれの方法で楽しんでいたという。1日目は日産スタジアムの横のグラウンドでF・マリノス対サンパウロ戦を実施。2日目は両チームごちゃ混ぜで試合を行った。突貫工事の1泊2日のプログラムだった。

 川合さんはこう懐かしがる。「マリノスの子たちは、その数日後に公式戦があったんですけど、僕たちの教えるサッカーじゃなくて、その2日でブラジルのリズムのようなものが身についていた。これじゃコーチいらないじゃんってなったんですよ(笑)」。

 川合さんの記憶に深く刻まれる選手がいた。独特のリズムのドリブルが得意なブラジルの子どもが多い中、ひとりだけ大人のようなプレーをする左利きの選手だった。

「合っているかどうかの確証はないですけど、サッカーを知っていて、合理的にボールを受けて適切なところにパス、サイドチェンジ、そのための有効なパスとか。守備面でもそんなに動かないけど、適切なポジショニングで方向性を規制したり、ボールを奪ったり。シミッチ選手って左利きですよね? たぶんその子かなって思うんですよね」

 川合さんの記憶が正しければ、横浜F・マリノス MF 喜田拓也(29)やサガン鳥栖 GK 内山圭(30)らもその場にいたという。

 地球の裏側。距離にして18,000km超の壮大な物語。サッカー王国ブラジルでエリート街道をひた走ってきたジョアンが、5シーズンも日本でプレーしている未来を誰が想像できただろう。本人はこう語る。

「こうやって日本でプレーしていることはかなりサプライズですよね。人生というものは何が起こるかわからないですね。だから面白い」

 もしジョアン少年がサッカーではなく水泳を選んでいたら。もしコリンチャンスの育成組織に進んでいたら。もし川合さんが試合を申し込まなかったら。もしイタリアに移籍していなかったら。もし膝のケガがなかったら──。

 あらゆる現象、選択がかみ合わなければ、この不思議な物語は成立しない。運命──。そんな簡単な言葉で片付けるのはもったいない。ピッチ上でもっともっとこの物語に続きを見せてくれるはずだ。

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[じょあん・しみっち]

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左足のテクニックを駆使した展開力が武器のMF。中盤で献身的にハードワークしながらボールを動かし、チームの攻守をつなぐ。さまざまなタイプが揃うフロンターレの中盤のなか、バランサーとして存在感を発揮してもらいたい。

1993年5月19日、ブラジル、サンパウロ州生まれニックネーム:ジョアン

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