ピックアッププレイヤー 2024-vol.06 / DF23/三浦颯太選手
テキスト/土屋雅史(フリーライター) 写真:大堀 優(オフィシャル)
想像していたよりも遥かに速いスピードで、周りの景色が変わっていく。
正直に言って、自分でも付いていけていないところもある。
でも、怖くはない。焦りもない。だって、大好きなサッカーをもっと極められる環境に、
どんどん飛び込んでいけるのだから。
「確かに環境の変化は凄くて、いろいろなステージでサッカーができたので、ビックリすることもたくさんありましたけど、着実にどの場所でも良い吸収ができていますし、同時に凄く自信が付いています。フロンターレでも良さは出せていると思うので、手応えはもうはっきりと掴んでいますね」
等々力のタッチライン際をしなやかに駆け上がる、13番を背負った川崎フロンターレの左サイドバック。三浦颯太が視線の先に見据える未来にはきっと、無限の可能性が広がっている。
人生の岐路は、意外と小さな頃に訪れていたようだ。小学1年生だった三浦少年には、2つの選択肢があった。
「地元で入れたチームがサッカーか野球かで、親と遊ぶのは野球が多かったんですけど、友達がいっぱい流れていたので、『じゃあサッカーやろうかな』って。特別な理由はなかったですね」。
何となく選んだサッカーが、結果的に職業にまでなるのだから、人生はわからない。
最初に入ったチームは東京都昭島市に居を置くFCゴロアーズ。基本的には土曜日が練習で、日曜日が試合と、活動は週に2日だけ。みんなでボールを追い掛ける時間が、ただただ楽しかった。
当時から持っていたのは“三浦ゾーン”。「ポジションは左サイドハーフでした。縦に行って、対角に左足でシュートを打ったら、絶対にゴールを決められましたね」。さらには本人も「昭島のスピードスターでした」と笑うように、足の速さで負けることもほとんどなかったという。
転機は唐突にやってきた。
「親に『今日は違うところでサッカーだよ』みたいに言われて、そのグラウンドに行ったら、ビブスを渡されて、練習に入らされて、『なんだ、ここ?』みたいな(笑)」。
その場所で行われていたのはFC東京のアドバンススクールに入るためのセレクション。実は三浦の親が内緒で応募しており、そこに連れていかれたのだ。
結果は合格。4年生から通うことになったそのスクールは、自身のサッカーに対する考え方を大きく変えることになる。
「そこで初めて自分よりできる人たちの中に入って、ちょっと世界が開けたんです。『こういう高いレベルもあるのか』って」。
関川郁万(現・鹿島アントラーズ)もいたという環境の中で揉まれると、市トレセン、地域トレセン、そして東京トレセンにも呼ばれるようになり、着々と成長のステップを踏んでいく。
「本当にギリギリだったと思います。既に“内定組”がいる中で、僕は最後までセレクションを受けたんですけど、そこから入れるのは3人ぐらいしかいなかったので、『ラッキー!』って感じでしたね」。
狭きセレクションの門を潜り抜け、中学時代に所属したのはFC東京U-15むさし。何とか加入したチームは、とにかくみんな上手かった。
「もう何もできなかったですね。周りのスピードもどんどん上がっていく中で、チームで一番足が遅いぐらいになって、そのタイミングで忠さん(中村忠監督・当時/現・東京ヴェルディアカデミーヘッドオブコーチング)にコンバートされて、左サイドハーフからボランチになったんですけど、全然身長も伸びなかったですし、2年生になった頃には周りのフィジカルレベルにも付いていけなくて、だいぶ遅れを感じていました」
同期のボランチのライバルは平川怜(現・ジュビロ磐田)や寺山翼(現・サガン鳥栖)。3年間を通じて、公式戦にスタメンで出た記憶はほとんどない。
「もちろん悔しかったですけど、納得はしていました。『しょうがないでしょ、周りが上手いもん』みたいな感じで、自分にできることだけをやっていましたね」。3年生の夏のクラブユース選手権でチームは全国準優勝しているが、ほとんど出場機会のなかった三浦は、ひたすら雑用をこなしていたそうだ。
だが、不思議とサッカーを嫌いになることは、まったくなかった。「傍から見ればただの挫折なんですけど(笑)、サッカーが楽しかった記憶しかないんですよ。チームメイトたちも優しかったですし、オフの日も中学の同級生ではなくて、むさしのヤツらと遊んでいたので、仲も良かったですね」。
このあたりにも元来のポジティブな性格が垣間見える。
「むさしでは自分のベースが決まりましたね。キックとかボールの扱いには自信があったので、試合には出られなくても吸収するものは吸収していましたし、ちゃんとサッカーをやり始めた時期だったのかなと」。
気の合う仲間とボールを蹴り続けた3年間が、今のサッカー選手としての基礎を築いた時間であることは間違いない。
FC東京のU-18カテゴリーへと昇格する可能性がないことはわかっていた。高校のチームを探す過程で、最初に頭の中にあったのは山梨学院高校。高校選手権で優勝した時のイメージも強く、実際にオファーも届いていたが、同時期に帝京高校の監督からも興味を持っていることを伝えられる。
「調子が良かった練習試合を日比さん(日比威監督・当時/現・順天堂大学監督)が見ていたらしくて、『ボールの持ち方が好きだ』みたいなことを言われたんです」。
迷った末に帝京への進学を決めたものの、知っていたのは「とんねるずさんの母校で、昔はメチャメチャ強かった」ということぐらい。決め手としては“通いやすさ”も小さくない要因だったようだ。
4月3日。入学式もまだ行われていないタイミングで、1年生の三浦はもう帝京のユニフォームに袖を通し、公式戦のピッチに立っていた。しかも、延長後半には決勝アシストまで記録。衝撃的なデビューを飾ってみせる。
予兆はあった。
「中3の冬に一気に身長が伸びて、フィジカルもぐんと上がって、いきなり走れるようになったんです。10メートルはチームで一番速いぐらいになっていましたし、身体が成長したことで自分のイメージとプレーが合致するようになってからは、高校の練習に行っても十分にできる感覚は持てたので、自信はありました」。
スラリとした痩身の1年生レフティは名門のレギュラーを獲得。一躍注目を浴びる存在になっていく。
過去に9度も日本一に輝いている帝京ではあったが、当時は全国出場からも遠ざかり始めていた時期。選手権予選も1年時は決勝で涙をのみ、2年時は準決勝で惜敗。入学直後から主力として試合に出続けていた三浦も、ここ一番で勝ち切れないチームにもどかしさを感じていた。
最上級生になると、明らかに纏う空気が変わる。守備で懸命にボールへ食らい付きながら、周囲の選手を大声で鼓舞する場面も。
「『周りにもちゃんと言わなきゃ』という想いもありましたし、プレーのところでも球際で負けないとか、身体を張ることは意識していましたね。『まず自分が見せなきゃ』という感じでした」。
今まで以上に戦う姿勢を前面に押し出していく。
その年の帝京は、強かった。Jクラブユースとの練習試合では互角以上の勝負を繰り広げ、リーグ戦でも東京都1部を堂々と制覇。「今年こそは」と意気込む選手たちも、根拠のある自信を携えていた。満を持して迎えた最後の選手権予選。三浦も準々決勝、準決勝と続けてゴールを叩き出すなど、悲願達成に向けて死角はないはずだったが、チームはまたも決勝での敗退を余儀なくされてしまう。
「あれは悔しかったです。『絶対に全国に行ける』と思っていたので、負けるとは想像もしていなかったですね。戦う部分も突き詰めてやっていた自信があったので、負けた時には『何でだ……』という想いはありました」。目の前の結果を受け入れられず、緑の芝生の上で立ち尽くしていた三浦の呆然とした表情も印象深い。
それから1か月あまりが経ったクリスマスの日。帝京の3年生たちは群馬にいた。東京王者として臨んだプリンスリーグ関東参入戦。悔しさを味わった選手権予選から気持ちを切り替え、“置き土産”を懸けて戦った彼らは、見事に3─0で快勝。翌シーズンからプリンスリーグへ昇格する権利を、後輩へしっかりと残すことに成功する。
「自分の中で結構大きな成果というか、成し遂げたことの一つです。それが次の年からの帝京に凄く影響があったと思うので、本当に良かったですし、日比さんへの唯一の恩返しになりました。一応最後は笑って終われましたね」。
笑顔で記念写真のフレームに収まった三浦の未来を大きく左右する人が、実はこの日のスタンドにいたのだが、もちろんそんなことを本人は知る由もない……
高校卒業後は日本体育大学へと進学。最初はなかなかポジションが定まらなかったという。
「一応Aチームにはいたんですけど、空いているポジションをやっていました。器用貧乏というか、サイドハーフとかサイドバックもやりつつ、試合には出られずにすぐにBチームに落ちたんです」
運命の扉が開いたのは、ほとんど偶然だった。
1年生の夏過ぎのこと。Bチームの大阪遠征から帰ってきたばかりの三浦に、スタッフから電話が入る。それは翌日から始まるAチームの大阪遠征への参加を打診する連絡。4年生のレギュラーが教育実習で不在となり、他の選手にもケガなどが相次いだことで、左サイドバックのスタメン候補として白羽の矢が立ったのだ。
「次の日からオフで『遊びに行くぞ!』と思っていたら電話が来て、そこで悩みましたよ。『行かなきゃダメかな……』って。『しかも左サイドバックでしょ?』みたいな感じだったので。でも、一応『じゃあ行きます』と。だから、意図的なコンバートではなかったです」。
2度目の大阪遠征でも悪くないパフォーマンスを披露した三浦は一定の評価を勝ち獲り、後期の開幕戦で左サイドバックとしてリーグデビューを飾ることになる。
その試合を見ていた、ある“目利き”がいた。佐々木翔(現・サンフレッチェ広島)や稲垣祥(現・名古屋グランパス)、伊東純也(現・スタッド・ランス)を発掘したことでも知られる、ヴァンフォーレ甲府の森淳スカウトだ。
「デビュー戦に森さんがいて、『あれ?あの時の帝京のボランチの子じゃん』となって、矢野さん(矢野晴之介監督)のところに行って『アイツは誰だ?』と聞いてくれたらしく、それで正式にコンバートです。『オマエ、森さんにメチャメチャ気にされてたよ』と矢野さんに言われて、そこからちゃんと左サイドバックをやり始めました」
飛び出した『あの時の帝京のボランチの子』というフレーズは聞き逃せない。つまりは前述している、三浦が帝京の選手としてプリンスリーグ参入戦を戦ったクリスマスの日に、群馬のスタジアムのスタンドから彼を見ていたのは、森スカウトだったというわけだ。
デビュー戦の映像は、今でも実家のiPadに保存されている。
「今から見てもメチャクチャな動きをしていて、それがたぶん逆に目に付いたんですよ。『おかしい動きをしているぞ』みたいな(笑)」。
そのあたりの真偽は定かではないが、もう1年生のうちには甲府の練習試合にも呼ばれていたとのこと。森スカウトは三浦に宿っていた左サイドバックとしての才能を、早々に見抜いていた。
本人も新しいポジションに、すぐさま手応えを掴む。
「試合に出るうちに『左サイドバック、いいな』と思いましたね。ボランチに比べたら相手が来る方向も決まっていて、ボールを受けるのも苦ではなかったので、出して、受けて、どんどん前に走っていって、『楽しいな』ぐらいの感じでやっていました」。
特徴でもあるスピードも左足のキックも生かせることで、さらに自信も深めていく。
「たぶんボランチでプロは無理だったので、サイドバックは天職だったのかもしれないですね。でも、最初からサイドバックだったらまた話は違ったでしょうし、ボランチの経験がパスの見え方にも影響を与えているので、結果的にサイドバックになって良かったかなとは思います」。
今から振り返っても、このコンバートが正解だったことに疑いの余地はないだろう。
2年時はコロナ禍が直撃。なかなか思うようにサッカーができない日が続いたが、自らの課題としっかり向き合い、着実に左サイドバックとしての素地を固めていく。すると3年生になったばかりの4月、甲府から正式な獲得オファーが三浦へ届く。
「甲府には何回か練習に行っていましたし、オファーをもらって『自分がプロになれる』と思ったら、もう即決で『行きたいです!』と。特別指定に登録してJリーグの試合に出られるとも聞いていたので、『それなら早く行きたいです』と言いました。他のチームの練習には1チームも参加していないです。スカウトの人は森さんとしか喋ったことはなかったですし」
その年の6月には甲府から加入内定のリリースが発表される。『あの時の帝京のボランチの子』は、目利きのスカウトに左サイドバックとしての能力を認められ、プロサッカー選手を自らの職業に定めることになった。
かなり早い段階でJクラブへの内定を勝ち獲ったとはいえ、関東大学リーグ2部でプレーしていた三浦の知名度は、決して高かったとは言えない。それがよくわかるエピソードを、本人は笑いながらこう明かす。
「4年になる前のデンソーカップで、関東選抜の監督に『オマエ、何チームもJクラブのスカウトが声を掛けに来てるぞ』と言われて、『いや、もう甲府に決まってますよ……』って。それぐらい知られていなかったんですよ(笑)。チームメイトも僕が甲府に内定していることを知っているヤツは、何人かしかいなかったですしね」
ただ、デンソーカップでの活躍が高評価を得て、関東2部の選手ではただ1人全日本大学選抜に選出されると、2度の日韓定期戦はどちらも左サイドバックとしてスタメン出場。「正直『こんなにできるんだ』って思いました」と自身も振り返ったように、その才能は確実に磨かれていた。
Jリーグデビューのステージには、特別指定選手として立っている。2022シーズンのJ2リーグ開幕戦。まだ大学3年生だった三浦は、ファジアーノ岡山とのアウェイゲームへ臨むメンバーに指名される。
その光景は、今でも脳裏に焼き付いている。「バスでスタジアム入りする時に、お客さんがバーッといて、みんなこっちを見ていて、タオルを掲げてくれていて、グルメのお店もいっぱいあって、『ああ、こっち側に来たんだ』ということを凄く実感したのはちゃんと覚えています。今思い出しても鳥肌が立つぐらいですね。それこそずっと“そっち側”にいたので、あの時に初めて“こっち側”を実感しました」
アップエリアにいた三浦に声が掛かったのは後半のこと。72分からピッチへ送り出されたが、本人は少し意外に感じていた。「もちろん準備はしていましたけど、『出るわけない』と思っていたのに普通に達磨さん(吉田達磨監督・当時/現・大田ハナシチズンコーチ)に使ってもらえて、意外と力が抜けてプレーできたかなと思います。あまり緊張はしなかったですね。逆に『ああ、デビューするんだ』って(笑)」。時間にして20分強。三浦はとうとう“こっち側”の選手になったのだ。
ルーキーイヤーとして挑んだ2023シーズンは、成長を実感することのできた1年間だったという。「凄く充実していましたし、1試合1試合が濃かったなと思います。1試合ごとにちゃんと課題が出て、それをコーチとちょっとずつ修正していくことで、ACLの時には最初より全然自信を持ってサッカーできていたので、凄く成長できた1年なのかなって」
それでもすべてが順調だったわけではない。印象に残っているゲームとして、三浦はアウェイで行われた第32節のレノファ山口FC戦を挙げている。「その試合はメンタル的に不安定で、試合中に『タッチもうまく行かないし、本当にボール受けたくない……』みたいになって、ハーフタイムにも相当怒られました」。結果は2-3で敗戦。次の試合ではメンバー外となり、精神的にも相当落ち込んでいた。
そんな時に限って、サッカーの神様は不思議ないたずらを仕掛けてくるものだ。大分トリニータと対戦するホームゲームの前日にスタメン予定の選手が負傷したことで、不調のルーキーに出場機会が回ってくる。「自分のメンタルが沈んでいる時に出ることになって、『マジか。準備してなかった……』って。自信を持って自分のプレーを出せる気がしなかったですね」
窮鼠猫を噛む。追い込まれた“ネズミ”は覚醒する。2点のビハインドを追い掛ける展開の中、まずはチームが1点を返すと、三浦の蹴り込んだクロスが相手のオウンゴールを誘発し、スコアは振り出しに。さらに終盤には鋭い仕掛けから三浦が獲得したPKを長谷川元希(現・アルビレックス新潟)がきっちり沈め、甲府は大逆転勝利を収めることに成功する。
「トリニータ戦は『本当にやらなきゃな』っていつもより気合も入っていましたね。追い込まれたら運を引き寄せました(笑)」。それをきっかけに定位置を奪い返したことが、ACLでの活躍にも繋がっていくことを考えると、山口戦と大分戦もキャリアの中で重要な位置を占める試合になったと言えそうだ。
甲府では特別指定選手時代を合わせれば、3年近い時間を過ごすことになった。「デビューも含めて、ACLもあって、天皇杯の優勝も見られて、いろいろな経験ができました。楽しかったですね。若いチームでもありましたけど、サンペーさん(三平和司)とかカワさん(河田晃兵)さん、オミさん(山本英臣)とベテランも優しくて、フロントの人も全員わかりますし、練習が終わったら桃とか置いてあって(笑)、みんなの距離が近くて家族みたいな感じでしたね。本当にのびのびやらせてくれる、やりやすいクラブでした」。初めてプレーしたJクラブでもある甲府への感謝は尽きない。
スマホを持つ手が冷たくなっていくことを、はっきりと感じていた。シーズン終了から1週間が経った頃。旅行先にいた三浦の元に、1本の電話が掛かってくる。声の主は甲府の西川陽介強化部長。しばらく雑談が続いた後、おもむろに信じられない言葉が耳に届く。
「そういえばオマエ、A代表呼ばれたよ」
予想だにしなかった事態に直面し、思考が追い付いてこない。
「まったく予想していなかったですし、予感自体も1ミリもなかったので信じられなさすぎて、すぐメンバーを確認したら『普通の代表じゃん!ヤバい……』って。それで日程を見ると、『試合が1月1日?身体動かさなきゃ!』と思って、次の日にすぐに山梨に帰ったんですけど、もう運転にまったく身が入らなかったです」。
追加招集という形でもあり、いわゆるサプライズでのA代表選出だったが、あるいは一番驚いたのは本人だったのかもしれない。
代表合流初日のことは鮮明に覚えているそうだ。
「ホテルに何時に着けばいいかもわからないので、ありえないぐらい早く行って(笑)、たぶん一番乗りだったんですけど、代表のウエアを取って、すぐに自分の部屋に入りましたね。それでゴハンに行ったら知っている人がバーッと並んでいて、『どこ座ろう……』って。国内組も何人かいましたし、同い年も何人かいたので、向こうから喋りかけてくれたのと、その時にはフロンターレのリリースも出ていたので、田中碧くんも話しかけてくれて、ゴハンが終わって部屋に戻ったら『はあ……』って。練習より疲れましたよ」。
何とも初々しい感想が微笑ましい。
翌日の練習が始まると、2人の海外組からはそれまでに体感したことのないような衝撃を受けた。
「ちょっと変わったルールの紅白戦があって、僕は律くん(堂安律)とタキくん(南野拓実)がいたチームのディフェンダーだったんですけど、本当にクオリティが違いますし、フィジカルの強さも全然違うなと思いました」。世界で戦う選手の基準を、肌で感じたという。
「今までで一番フワフワした試合でした」。
2024年1月1日。国立競技場。三浦は日本代表の一員として、国際Aマッチデビューを果たす。相手はタイ代表。ピッチに登場したのは68分からだった。
「緊張はもちろんしていたんですけど、集中もしていましたし、Jリーグのデビュー戦とはまた違った感じの試合でした。結果的には5-0でしたけど、自分が入った時にはまだ1-0だったので、『下手なことできないな』って。でも、点に絡みに行くぐらいの勢いでできたので、自信を持ってはできましたね」
何度もアグレッシブに左サイドを走り抜け、チャンスを作り出そうと奮闘する。「技術やスピード感もそうですけど、『自分にもできる』という自信になりましたし、去年はJ2でも20試合ぐらいしか出ていないのに、それでも森保さん(森保一監督)に評価してもらえたんだというところも自信にはなりました。大きな経験でしたね」。初めてのA代表はとにかくさまざまな刺激に満ちていた。
時計の針を少しだけ戻そう。2023シーズンも終盤に差し掛かった頃のことだ。甲府の左サイドバックに定着したルーキーは、J1クラブの“人気銘柄”になっていた。
「代理人の方から『何チームかが気にしてくれている』という話は聞いていたんですけど、正式にオファーが来るまではそこまで考えないようにしていました。その後で同時期に何チームかオファーが来た中で、まさかその中にフロンターレが入っているとは思わなかったですね」
熟考を重ねる。ただ、本人は至って冷静に選択肢を見極めていた。
「『自分が成長できる場所はどこだ?』と考えた時に、自分の課題と向き合うというところでも、サイドバックとしての価値を上げるというところでも、やっぱりフロンターレだなと思ったんです」。お世話になっている森スカウトも、「フロンターレならば」と最後は背中を押してくれた。三浦はプロ2年目のシーズンを、川崎の地で送ることを決断する。
もともと頭の片隅には、何となく見えていたイメージがあったという。
「まだまだ経験しなきゃいけないことがあるのはわかっていましたけど、『1年でJ1に上がれば、次のワールドカップも見えるんじゃないか』ということはぼんやりと考えていて、『そのチャンスがあれば絶対に行かなきゃ』とは思っていたので、それがフロンターレだったことで、『現実味は増してきたな』とは感じましたね」。
J1。日本代表。そしてワールドカップ。小学生時代から少しずつ、少しずつ重ねてきたステップアップも、いよいよサッカー選手としての究極に近いところまで迫っていることは、自分が一番よくわかっている。
飛び込んだフロンターレは、やはり思っていた通りの環境だった。「周りが上手いので、自分の良さを生かしてくれる場面も多いですし、『持っているものを出せばできる』という感覚はあるので、そこは続けたいです。『ここをやれば。ここをやれば』という自分の伸びしろをいくつも感じているので、毎日の練習で本当に良いトレーニングができていますね」。レベルの高いチームメイトと切磋琢磨できる日常が、自分の力を引き出してくれる感覚は明らかに持てている。
とはいえ、もちろんこのチームで試合に出るためのハードルが低いはずもない。J1というステージの難しさも、同時に感じている。「実際に初めてJ1でやってみて、ちょっとでも隙を見せたらやられる感覚はあるので、課題は盛りだくさんですね。ごまかしてやっていた部分は鬼木さん(鬼木達監督)からもちゃんと細かく指摘されますし、『わかってはいたけど……』という部分もあったので、甲府の時よりも一層細かいことを意識付けている感じですね」
「でも、求められているのは“できないこと”ではなくて、『ここに戻る』とか『ここは行く』とか自分の意識で変えられるところで、別に能力を否定されているわけではないですし、それも期待されている感じはあるので、ちょっとずつ、ちゃんと向き合っていきたいです」。このチームなら、もっと成長できる。自分で下した決断は、やはり間違っていなかったと信じている。
水色のサポーターが作り出す等々力の雰囲気も、三浦にとっては大きなモチベーションだ。「等々力は“フロンターレカラー”というイメージで、トラックもあの色なので綺麗ですし、サポーターも凄くいい感じですよね。皆さんの温かい雰囲気には、甲府と同じものを感じます」。Gゾーンから、バックスタンドから、メインスタンドから降り注ぐ声援が、“もう一歩”を後押ししてくれる。
軽いケガではないことは、すぐにわかった。4月3日。日産スタジアム。横浜F・マリノスとアウェイで対戦した試合の前半終了間際。「逆サイドにボールを蹴った時に、はっきりと『あ、やったな』と感じましたし、感覚的にも『これは長いケガだな……』と思ったので、だいぶ落ち込みましたね」。左足に小さくない衝撃が走る。診断の結果は『左ヒザ外側半月板損傷』。全治3か月の重傷だった。
「システムも自分にとってやりやすい4-2-3-1に変わった時で、個人としても上昇気流に乗ってきた感じだったので、だいぶ思い描いていたプランからは逸れましたし、チームへの申し訳なさもありました」。
結果が付いてきていない中での離脱だったこともあり、自分のことよりもチームに迷惑を掛けてしまうことに、心を痛める。
サッカーキャリアの中でも初めてと言っていいような大ケガ。未経験だった手術そのものへの恐怖もあったという。「手術は初めてだったので、不安はありましたし、勇気は要りましたね。病院の先生も『絶対手術した方がいい』とは言い切らないぐらいだったんですけど、生活していても治るイメージが湧かなかったのが、手術に踏み切った一番の理由かもしれないです」。熟考の末に手術を決断。地道なリハビリへと励む日々がスタートする。
「最初はヒザの曲げ伸ばしから始まって、地味なことをやっていました。でも、メンタル的に『キツいな』という感じはあまりなくて、トレーナーの方々も同じことばかりをやらずに、違うメニューを考えてくれたり、ペースを落とす時は落としたりと緩急をつけてやってくれたので、モチベーションは落ちなかったですね」
実は早い時期から、復帰戦と想定する“ターゲットゲーム”は決まっていた。「もうアウェイのレイソル戦に決めていて、それが近くなるほど逆にモチベーションが上がってきて、『残り1か月だ!』みたいな。リバウンドも全然なかったので、たまにボールも蹴ってましたよ(笑)」。順調に進むリハビリの中で、その日が来ることを指折り数えながら待ち続ける。
7月20日。三協フロンテア柏スタジアム。リーグ戦6試合未勝利だったフロンターレが柏レイソルと対峙するアウェイゲームのスタメンリストには、3か月半ぶりに三浦の名前が書き込まれていた。久々となる公式戦の舞台。ウォーミングアップのため、ピッチへと駆け出していった13番の視界に、想像していなかった光景が飛び込んでくる。
「ゴール裏に大きな僕の横断幕が出ていたんです。それに一番最初に自分の応援歌を歌ってくれて、『ああ、久しぶりだな』と思いましたし、凄く嬉しかったですね。入場の時も感動しました。あのスタジアムは直に声が聞こえますし、お客さんの表情もわかるぐらい近いので、それも鮮明に覚えていますし、『やっぱりフロンターレサポーターは温かいな』って」
待望の“ターゲットゲーム”に挑んだ三浦は、開始わずか4分で結果を残す。家長昭博との連携で左サイドを抜け出すと、完璧なグラウンダーのクロスを中央へ。走り込んだ山田新のシュートが鮮やかにゴールネットを揺らす。
「正直、体力が長い時間持つとは思っていなかったですし、もう最初からフルスロットルで行こうと思っていた中で、ボールをアキさん(家長昭博)と交換して、自分の形に持っていけたので、『ここは行き所だな』と思いました。あれは狙い通りというか、あそこに入れられればという感じでしたし、『意外と早い時間で結果が出ちゃったな』って(笑)」
チームも三浦が交代した後に勝ち越しゴールを奪い、7試合ぶりの白星を獲得。試合後にはサポーターの前で、“勝利のバラバラ”の音頭を取るように促される。「あれはシン(山田新)の役目だと思っていたんです。毎回やっているので。だから、『あ、オレがやっていいんだ』と(笑)。久しぶりの勝った後の感じ、楽しかったです。でも、メチャクチャ疲れました。体力的にというよりは、あの環境や試合の緊張感に疲れましたね」。押し寄せた心地良い疲労感が、ようやく公式戦のピッチへ帰ってきたことを実感させてくれた。
想像していたよりも遥かに速いスピードで、周りの景色が変わっていく。正直に言って、自分でも付いていけていないところもある。でも、自身の中に昔から変わっていない部分があることも、こういう立場になったからこそ、三浦はより実感しているようだ。
「中学生の頃から普通だったらネガティブに考えてしまうところを、そんなに悲観的に捉えずに、現状とちゃんと向き合って、自分のやるべきことはできてきているのかなと思います。このチームには激しいポジション争いがありますけど、やるべきことをやり続けることは自分の強みでもあるので、そこは心配していないですね」
「今の自分は中学生の頃から考えたら上出来だと思いますよ。まだまだやらなくてはいけないことはいっぱいあるので、満足はしていないですけど、今のところは結構良い感じなんじゃないかなと思っています。むしろ『良い感じすぎる』のかもしれないですね。そもそもプロ1年目で、J2の選手なのに代表に入るなんて、普通はおかしいじゃないですか(笑)」
「だから、経験値を含めていろいろなことを吸収させてもらっている感じです。でも、今は1試合1試合が楽しみですけど、その先もちゃんと見据えなきゃなとは思っています。試合に出ていく中でまた代表への想いが増していますし、ケガしてしまった期間はありましたけど、ここからもっとやらなきゃなって。今年でもう24歳なので、『1年も無駄にできないな』という想いはありますね」
それはサッカーをすると決めた時から、今日までずっと変わらない。楽しいからボールを追い掛ける。楽しいからピッチを走り続ける。楽しいから左足を振り抜く。たとえばそれが昭島の河川敷のグラウンドでも、等々力の綺麗な芝生の上でも、あるいは痺れるようなワールドカップの舞台であっても、三浦颯太のサッカーを楽しむ気持ちは、これからもずっと変わらない。
profile
[みうら・そうた]
今シーズンヴァンフォーレ甲府より完全移籍加入。大卒1年目の昨シーズンはFUJIFILM SUPER CUPに始まり、J2リーグ、ACLで左サイドの支配者として活躍。さらに2024年1月1日にはタイとの親善試合を行った日本代表メンバーに選出されフル代表デビューも果たした。そんな濃密な1年間を経て、2024シーズンから戦いの場をフロンターレに移したがJリーグ開幕早々左足の負傷で離脱。3ヶ月後の復帰戦ですぐにチームの勝利に貢献しシーズン終盤の活躍に期待がかかる。
2000年9月7日、東京都昭島市生まれニックネーム:ソウタ