CLUB OFFICIAL 
TOP PARTNERS
  • ホーム
  • F-SPOT
  • ピックアッププレイヤー 2025-vol.01 / FW 山田 新選手

KAWASAKI FRONTALE FAN ZONEF-SPOT

PICKUP PLAYERS

ピックアッププレイヤー 2024-vol.01 / FW 山田 新選手

価値/FW 山田 新選手

テキスト/隠岐 麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Oki Marina photo by Ohori Suguru (Official)

関わってくれた人たち、期待してくれる人たちの気持ちに応えたい。

チームを勝たせるため、ゴールを決めたい。

ポテンシャルを最大限に活かして、トレーニングし、学んだことを頭と身体に染み込ませ、本能の領域に踏み入れつつある。

自分の能力を信じて、努力し続ける先には、無限の可能性が広がっている。

国立競技場にて

 2年前の2023年1月1日、山田新は国立競技場にいた。

 桐蔭横浜大学の9番でエースストライカーとなった彼は、インカレ決勝の舞台で、後半アディショナルタイム3分表示のなか、後半47分50秒に決勝ゴールを決めてチームを初優勝に導き、MVPを獲得した。

 それから1年後の2023年12月9日。

 アカデミーで6年間育ったフロンターレに、有言実行で帰ってきたプロ1年目。

 国立競技場で天皇杯決勝を戦うチームメイトを、スタンドから高井幸大と一緒に観ていた。

 

「本当に悔しかったし、腹が立っていました。自分に対しても。前半は、そういう感情でしたけど、やっぱり決勝だし、試合がだんだん熱くなるし、1点も大事になる。気づいたら、勝ってほしいと応援していて、PK戦もサポーターのような気持ちでハラハラしながら、上にいたメンバー外のみんなで声を出していました。瀬川くんのPKが止められたときは、GKが前に出ているように見えたから『出てただろ』って大声で言ったりしてました」

 PK戦の末、苦しみながらも優勝が決まり、スタンドで観ていたメンバーもピッチに降りて、喜びを分かち合った。サポーターの前での“バラバラ”では、トロフィーを持って弾ける山田やサポーターの姿を山根視来がスマホで動画におさめていた。

「ピッチに降りたときには素直にうれしかったから、もうネガティブな感情はなくなっていたし、別に割り切ってやったわけじゃなくて、ああなったのかなと思います(笑)。次は自分がそこでプレーしたいなという思いにもなりました」

 チームは、その後韓国へ行き、12月12日にACLグループステージ最終戦となった蔚山現代戦を戦って2023シーズンを終えた。

「(蔚山戦には)スタメンで出て、それなりにやれたと思ったし、自信を持ちながらも悔しさもあるシーズンの終わりだったかなと思います。2023年は、もっと結果を残すチャンスもあったと思うし、そこで出せなかった部分もあった。やれる自信はあっても(ベンチ入り)メンバーにすら入れない試合もとくに終盤はあって、天皇杯決勝も自信はあったし本当に出たかったけど、信頼を得られるところまでには至らなかったので、最後に試合に出て、来年は頑張ろうと思える終わり方だったと思います」

同い年の存在

 宮代大聖から神戸へ移籍すると直接聞いたとき、びっくりしてすぐには反応ができなかったという。

「大聖は、昔(アカデミー在籍時)は、上の存在だったのもあるし、追いかけている感覚も強かったのかな。大聖は昔から試合に出ていたけど(中学3年からU-18で試合に出場)、U-18のときは僕は3年生になって(レギュラーで)出られるようになって、一緒に(ツートップを)組んでいたから、競ってる感じはなかった。プロになってからまた一緒にやれることになって、でもあんまり一緒に起用されることがなかったから、もっと一緒にやりたいなという気持ちがあったなかでの移籍だったので、やっぱり寂しさはありました」

 同じポジションのふたりは、一緒に自主練習することもあり、トレーニングのなかから切磋琢磨し合う部分も多く、以前よりも、より密度の濃い時間を過ごすようになっていた。

「フォワードの枠も狭いし強烈な外国籍選手もいる。ライバル…じゃないけど、競い合ってる感覚はありました。自主練してても、シュート練習でゴールの本数を競ったりしていました。アカデミー時代から話してはいたけど、何人か同い年がいたのが、2023年は同い年がふたりだけだったから、昔より何倍もしゃべるようになりました。ライバル関係ではあったけど、より仲が深まったのかな。プライベートな面での寂しさもあったし、一緒に試合に出たい思いもあったから、そういう寂しさもありました」

 2024年12月、ふたりはJリーグアウォーズの舞台で久しぶりに再会し、その日は脇坂泰斗も一緒に食事に行ったという。

 連絡は取り合っていたが、楽しみにしていた対戦で、ふたりがピッチに同時に立ったのは、開幕前のFUJIFILM SUPER CUP 2024での21分以降と6月16日J1第18節の67分以降と長くはなかった。それでも離れていても刺激をもらえる存在として、意識をしてきた。

 それぞれ違う成長を辿りながら歩んできたなかで、アウォーズという舞台で再会できたことは、ふたりを知る人にとっても感慨深いものがあっただろう。それは、山田本人にとっても。

「確かにそうですね」と笑顔になり、すぐに「でもまだ、ふたりともベストイレブンまでにはいっていないので」とつけ加えた。

FW/山田新選手 FW/山田新選手

年の離れた弟

 2023年シーズンオフに山田はアカデミー時代の1学年後輩である宮本ディアウ勇守歩らとセネガルに旅行することになっていた。

 ちょうどバフェ(バフェティンビ ゴミス)も出身地のセネガルに行くとわかり、現地で会おうということになった。一緒に食事をしたり旅先での移動のフォローなど気にかけてもらったという。

 来日以降、「シン」という名前もすぐに覚えてもらい、同じポジションということもあり、少しずつコミュニケーションを取るようになっていったという。

 2024年3月1日のJ1第2節ジュビロ磐田戦。82分に交代出場した山田は、すぐにPKを自らのプレーで獲得したが、ボールを離さず、キッカーを務める予定だったエリソンにもお願いし、自ら蹴って、ゴールを決めたことがあった。自分でとったPKを自分で蹴ることは、学生時代から「当然のこと」と思ってきたことで、その姿勢を同じように貫いた。

 試合後の麻生グラウンドでのトレーニング初日のこと、通訳を通して、バフェから「話がしたい」と言われた。

「わざわざ通訳を介して後で話そうって、何だろうと思いました。そうしたら、『感動した』ってバフェから言われて。ストライカーとしてあそこで蹴りにいく姿勢はすごく大事だから、その個性はなくさない方がいい。シンは今、ゴールとかアグレッシブさでチームに貢献してくれている。自分はチームのために走るという部分では貢献ができていないけど、いろんな経験をこれまでしてきたから、それを伝えたり、気づいたことを話すことでもチームに貢献したいと思っているから、これからも一緒に頑張ろう。と言ってくれました」

 2024年9月にバフェの退団が決まり、記者会見の場で、神田奏真のことについてと、とくに山田のパーソナリティやストライカーとしての能力について、多くの時間を割いて言及していた。さらには、エネルギーがある選手だから、リーダーシップを発揮して、チームに波及していってほしいと期待を込めていた。バフェのラストゲームとなった9月27日J1第32節アルビレックス新潟戦で、山田は2ゴールを決め14ゴールとし、「20ゴールを取る」と改めて誓った。

「バフェは僕が試合にあまり出られていない頃から、いい選手だってずっと言ってくれてました。欧州のストライカーの佇まいを教えてくれたり、『お前は強さも速さもあるから』とほめてくれたり、FC東京戦でヘディングで決めたときも、『お前は、あれができるんだから、ゴール前でエネルギーを使うことが大事だ』とアドバイスもしてくれました。試合前には『今日は何点取る?』と聞かれ、それにいつも答えていました。

 僕がゴールを決めるといつも喜んでくれて、アビスパ戦で(相手選手を振り切ってひとりで持ち込み)決めたときはベンチですごく喜んでくれたし、ベンチに入っていないときは、麻生グラウンドで会うと、毎回ハグをして喜んでくれていました。バフェは僕のことを年の離れた弟みたいだと言ってたみたいだけど、僕は、お父さんが子どもに接しているような感じがしていました」

フロンターレのストライカー

 2024年12月14日に行われた中村憲剛引退試合で、フロンターレ歴代得点王のジュニーニョ、大久保嘉人、小林悠、レアンドロ ダミアンをはじめとするストライカーが勢ぞろいしていた。

 “ストライカー”であり、“エース”と呼ばれる選手たちは、どのようなメンタリティを持ちあわせているのだろうか。

 ジュニーニョは当時を振り返ってこんなことを話してくれた。

 「(ストライカーとして意識していたことは)一番大事なことは練習での集中力。そして試合での自分のミスを見返すことで、しっかり改善をしていくこと。それを繰り返すことが一番学んだことかもしれません」

 小林悠は、加入してからの2年間でジュニーニョの姿を見て、「苦しいときにゴールでチームを救える選手になりたい」と心に刻んだ話はよく知られている。

 ジュニーニョは言う。

「実際その通りなんだと思います。チームが難しい時間を過ごしていたり、難しいゲームのときに、どれだけ集中して数少ないチャンスを決められるか。エースになるには、ゴールをしたいという貪欲な気持ちが大事だし、もちろんすべてを決められるわけではないですけど、ゴールを外しても次のゴールを決めようとする気持ち。プレッシャーももちろんありますが、気持ちが大事だし、あの頃もチームメイトが自分のところにボールを集めてくれましたから。ケンゴ、アウグスト、マギヌン、いろんな選手たちがボールを届けてくれることで、自分も強い気持ちをもってプレーさせてもらったなと思います」

 この日、同じくブラジルから駆けつけたダミアンもこんな話をしてくれた。

「フォワードの選手にはいろいろなタイプがいます。技術がある選手、フィジカルが強い選手、それぞれ特徴があります。チームのために、チームを引っ張って行けるフォワードがエースになるのだと思います。私もこれまでどのチームに所属していたときもゴールができない期間はありましたが、そういうときに自分を見失わず自分の能力を信じて我慢強くやっていくことが大事でした。シンは、まだ若く、ここからもっともっと成長していける選手だと思います。必ず得点王にもなれる選手だと思っていますし、彼はそれだけの才能はすでに持っていると思うので、この先も努力していくことが必要だと思います」

 

 6月22日、J1リーグ第19節アルビレックス新潟戦で66分に交代出場した山田は、後半アディショナルタイム11分に起死回生の同点ゴールを決め、感情をむき出しにした。

 当時、ソンリョンが「シンは新潟戦の後、しばらく右足にテーピングを巻いていました。痛みがあったかはわからないけど、本人にとっては自分が先発で出るチャンスをものにしたいという想いが強くあったはず。彼からはそういう強い気持ちが伝わってきます」と言及していた。

 実際、その後しばらくは右足を振りぬいたときに痛みがあったというが、先発出場にこだわりながらも、公式戦で全試合出場することに対しても心に期するものがあったという。

「アキさん、ソンさん、ミキさんもそうだけど、出続けている選手は、自分がケガとかで抜けるとそこから出られなくなる可能性もあるから、一回でもチャンスを与えないようにどんなに痛くてもやれるならやっているイメージが自分のなかにありました。その偉大さとかタフさをプロ1年目からすごく感じていました。だから、新潟戦で点を取って、次は絶対に自分がスタメンで出ると思っていたから、右足はシュートを打って膝が伸びると痛かったですけど、やれないわけじゃなかったので。

 2023年は出ていなくて辛かったし、2024年はケガをしないで全試合に出られるようにということは意識してできたことだったので、そこは自分を褒めたいと思います。累積(警告/4枚で出場停止)も3枚目をもらって以降、かなり意識していました。

 出たら出たで難しさもあるけど、シーズンを通してちゃんと戦っている感じはありました。コンディション調整とかメンタル面の難しさとかも感じたところがあったので、ずっと出ている人たちの凄みを感じて、それも含めていい経験ができて成長できていると感じています」

 夏場には、7月20日J1第24節柏レイソル戦から3試合連続2ゴールを決めて、得点ランキングでもぐんと上位に駆け上がり、スタメンでの出場機会も増やしていった。

 そういう過程で、ストライカーとしてメンタルやモチベーションをいかに保ちながら試合に臨むかという課題にも、出続けているからこそ向き合うことになった。

「2023年は、ストライカーとして、というよりも試合に出るチャンスをものにしないといけないという感じでやっていました。

 その頃、まだそんなに点も決められていなかったときに、そういうことをミツさん(戸田光洋コーチ/2024年はヘッドコーチ)に言ったら、『お前はストライカーなんだから、そんな意識じゃダメだ。立ち位置を掴めるように頑張るとかじゃなくて、お前が点を取ってチームを引っ張っていく立場だから』って言われたんですよね。

 2024年の最初ぐらいまでは、エースストライカーになっていきたいという気持ちはあっても、実際にはなれていないし、自分がそこまでチームに影響を与えられる存在にはなっていなかったと思います。自分が決めても決めなくても、そこに対しての責任が今よりなかったというか。

 でも、夏が終わる頃にはとくに、自分が決めないと勝てないし、決めないとチームが負けることもある。やっぱり自分が決めなくて負けたときには責任を感じるようになりました」

小林悠という存在

 ルヴァンカップ準決勝での敗退から、10月18日J1第34節ガンバ大阪戦、11月1日J1第35節鹿島アントラーズ戦までの間、メンタリティの面でも難しさを感じていたという。

 そういう山田に気づいて声をかけたのが鬼木達監督(当時)と小林悠だった。

「鹿島戦に向けた練習の締めのときに、オニさんがみんなの前で、『シン、お前が決めないとダメだよ』って言われて。そのときは、俺も外したけど、他の選手たちも外してもいたので、なんでそんなに言われるんだろうと思いました。

 その後、鹿島戦でも外して、次のACLE上海海港戦に向けた前日会見にオニさんとふたりで参加したときに、いろいろ話をしてくれました。

 あのとき、ああ言ったけど、これから(エース)ストライカーとしてやっていくためには、外からの声のプレッシャーもあるし、練習の中でもスタッフや選手からプレッシャーが絶対にかかってくるから、そういうなかで戦っていかないといけない。外すこともあるだろうけど、ストライカーっていうのはそういうものだから、強い気持ちを持ってやっていってほしいということを言われました」

 後日、鬼木監督に話を聞いた。

「シンは、今は発展途上の段階で、そう(ストライカーに)なっていくための“自覚”を持ってほしいという想いでした。そうなっていくのであれば、自分の1本のシュートでゲームが決まる、決まらないというところで生きていくことになる。チームの勝利を左右する、そういう意識を持ってやってほしいと思って言ったことでした。

 鹿島戦の前の練習でみんなの前で言ったのは、その時、サブ組とスタート組でやっていて、サブ組は決めて、スタート組はシンが決めていなかった。シンプルにそれで負けた。もちろん、本人もそういう気持ちを持ってやっているでしょうけど、それぐらいの自覚をもってやらないといけない。

 あとは、押しつぶされちゃいけない。みんなそういうものと戦って、そこ(ストライカーの座)を勝ち取ってきているわけですから」

 フロンターレには、“小林悠”という存在がいる。

 鬼木監督にとってフロンターレ最後の試合となったJ1第38節アビスパ福岡戦で、キャプテンマークを託された小林悠がゴールを決めてみせた姿に、エースの気迫を感じた人も多かっただろう。

「シンは、尊敬できる手本となる選手が近くにいるから」とも、鬼木監督は言っていた。

 山田は、アカデミー時代、スタンドから試合を観ていて、「嘉人さんや悠さんのようにゴールを決めてチームを勝たせられる存在になりたい」と憧れた。

 同じ舞台で同じポジション同士で切磋琢磨することになり、関係性が変化したことでどんなことを感じているだろうか。

「悠さんとは、2023年より2024年の方が、食事とかホテルの前泊のときとか、以前より会話が増えました。悠さんに対してはプロに入る前からカッコいい存在というか、川崎のストライカーとしてすごいなと思っていましたけど、実際にプロに入って、よりすごさを感じるし、近くにいればいるほど憧れが強くなる人です。悠さんのプレーを観て、スキルを学ぶところもあるし、『あの場面はこうだったよな』とかサッカーの話も真面目なことも話してくれます」

 その小林からも鹿島戦の後、トレーニングの合間に声をかけてもらい寄り添ってもらったという。

「あんなに外したのはプロに入って初めて?」と聞かれ、「はい」と答えた。

「『俺ももっとひどいのを外してきたよ。いろんな声があるかもしれないけど、気にしないでポジティブに続ければ大丈夫だよ』と言ってくれました。

 悠さんは、自分が出たり出なかったりしている状況だと、よりギラギラするメンタルが作りやすい部分もあるけど、出続けているのに点を決められないときは、結果が出ていない分メンタルが難しい。俺もそういうタイプだから、シンと自分は似ていると思うという話もしてくれました。

 実際、その頃は、ルヴァンも負けて、ガンバ戦もうまくいかなくて、鹿島戦も外していたのでメンタル面では、キツかったし、落ちている部分もありました。やるしかないと思っていたけど、やっぱり難しさもありました。だから、悠さんからそう言ってもらうのは、やっぱり違います」

 エースストライカーと言われる選手は、結果も重要だが、見えない壁や声を自分の意志で打ち消し、ストレスを抱えながらも自覚を持ち、「絶対に自分が獲るんだ」とゴールを求め続けていく。

 同じポジションの者同士、互いにその負荷も含めて理解できるからこそ、ライバルではありながら、リスペクトの気持ちも強いのだろう。

 

 山田は、「ポジティブに捉えれば、俺は堂々とプレーすればいいと思えるようになった」とも言っていた。

 

 「(同じポジションであるということは)ライバルではあると思いますけど、悠さんも大聖も他のみんなも、それぞれ自分と違ったいいものを持っていて、自分にとっていろんな意味でプラスになる部分もたくさん持っているし盗めるところもある。

 悠さんに関しては、あれだけ長くやっているというのは大変というか、もう異常なことではあると思うので、自然とリスペクトする気持ちもあります。

 大聖とも一緒にやっていなくても、各々が違う成長の仕方や経験をできているから学ぶところも多いし、自分を見て向こうが感じるところもあるだろうし、お互いにそういうものなんじゃないかと思います」

 2024年、山田は副キャプテンを務めた。シーズン途中から、それまで感じていなかった役職に対する自身の意識にも変化が生まれ、その面でも小林の姿に感じるものがあったという。

「(試合の)最初からキャプテンマークを巻くと、重みがあって、天皇杯(3回戦)など最初から巻くなかで敗退してしまったときも、感じるものがありました。チームをいい方向にもっていかないといけないけど、チームのことを考えすぎると自分に集中できない部分も出てくる。

 悠さんにシンがやれることをやればいい。結局はゴールだし、そこを考えればいいからってアドバイスをもらいました。

 悠さんは、プレー以外でも、試合での声かけとか雰囲気とかがカッコいい。ストライカーだけど、点を取るだけじゃなく、チームをいい方向に持っていける人だなと思います。実際、自分もそれに乗っかってやることができました」

本能の領域

 2024年は、リーグ戦で19ゴールという結果で、その内訳は右足5、左足5、PK2(右足)、ヘディングの7ゴールはリーグ1位だった。後半アディショナルタイムに決めたのが3ゴールと最後まであきらめずポジションに入り続けた集中力も数字に表れたように思う。

「ヘディングもそうですけど、本当にミツさんに技術的にも基礎からびっしりやってもらったので、かなり成長できたと思います」と山田はシーズンを振り返った。

 実際、トレーニングの成果が出たと実感できるゴールが多かったという。

「福岡戦の持ち込んでのゴールも、最後にGKが冷静に見えていたから決められました。柏戦でクロスに合わせたのも練習で中への入り方をミツさんと整理できていました。FC東京戦でのヘディングも練習していた形です。ホーム新潟戦で、背後をとってランニングからシュートまで持っていったのも、あのシーンは自分から要求して、けっこう難しいシュートだったけど迷わず振れました。

 どれも今までだったらできていなかったし、あんまり得意じゃなかったことも、ミツさんとの練習の成果が出たと思うし、トレーニングの数をこなしているから、最後に自信を持って反応できていたかなと思います」

「『やったことをゲームで体現する能力が高いね』ってミツさんに言われました。

 アウェイ町田戦でカットイン気味で打ってGKに止められたシュートも、その週に練習でやっていたんです。ミツさんが、ドルトムントのギラシーの似たシーンの動画を送ってくれていたので、イメージを作っていたのも生きました。連戦だと難しいけど、1週間空くと、しっかりトレーニングができて、考えてというよりは、体に染みついて脳に刻んであるものが試合で自然と出たりします」

 山田本人のそうした実感を、戸田コーチが補足説明してくれた。

「シンはそもそもポテンシャルが高いですが、以前は感覚ではわかるけど、本能の領域ではできていなかったと思います。時間がしっかり取れるときは、基礎、応用、次の試合に向けて起こりそうなシチュエーションでのトレーニングができていたので、それを体現してゴールを決めていました。それが彼のすごいところだと思います。

 シンは頭がよくて、ちゃんと考えてできるし、さらに続ける力もある。1年前には、ポストプレーでの体の使い方もサンドバックを使って細かく練習しました。そういうこともちゃんと覚えている。最初の頃は試合でも意識しすぎてうまくいかないこともあったし、トライアンドエラーを繰り返してすり合わせていきました。でも、今年は、ゴールを決めている場面はとくに本能的にできるようになってきたと思います。

 たとえば悠は、経験値もあるし、ポイントを伝えれば、自分自身で本能的にできる選手です。大前提として、そういう手本となる存在がいてくれたことがシンにとって恵まれていたことは間違いないです。シュート練習ひとつとっても手本がいつもいてくれますから。

 そのうえで、シンも本能でできるフェーズに少し入ってきたのかなと思います。シーズン終盤には、彼の理解や納得感の部分で必要であればサポートはしましたけど、本能的にできるようになってきていることに関しては、逆に邪魔をしないように意識して接していました」

 その話を聞いて、6月29日J1第21節サンフレッチェ広島戦を観に来た後、山田の成長ぶりについて桐蔭横浜大学の安武亨監督がこんな風に言っていたことを思い出した。

「以前は自分でなんとかしようとしていましたけど、それが整理されてここは自分で行く、ここはパスをするという風にプレーを選択できるようになりましたね。技術に関しても、フロンターレの育成時代に努力して植え付けたものが使いこなせていない部分もあったのが、5年、10年と時間が経って、ベースとなっていた基礎技術をシンプルに出せるようになったんじゃないでしょうか。その技術が今、大人になって判断ができるようになり、持っていたものが出てきたように感じます」

左足とヘディング

 利き足の右足でのシュートを得意としてきた山田は、学生時代は左足やヘディングでのシュートはあまりしてこなかったという。

 だから、2024年の19ゴールのうち左足「5」ヘディング「7」という数字は、この2年間のトレーニングの賜物に他ならない。

 戸田コーチとトレーニングをやり始めた最初の頃は、左足でのシュートがゴールまで届かないこともあったという。当たり所が悪く、枠内に飛ばずふかしてしまうことも多かった。

 それを知れば、11月30日J1第37節東京ヴェルディ戦の後半アディショナルタイムに、左足で豪快に決めたハットトリックとなる3点目のゴールは、意味合いがまた違って見えるだろう。しかも、そのとき右足のふくらはぎは攣っていたという。

 ヘディングに関しては、2024年から新たに戸田コーチと集中して取り組んできたことだ。

 軽くて透明な中に赤い芯が入っている特殊なサッカーボールを用意し、芯を捉える練習から始めたが、最初はなかなかうまくいかなかった。

「彼は自分でもできるまで重点的に取り組むし、それで結果が出るのもすごいところですよね」(戸田コーチ)

 山田も「ヘディングで獲れたことは、うれしかったですね」とトレーニングの成果が出たことを喜んだ。

やり続ける力

 戸田コーチが最初に山田とトレーニングをしたのは、まだ大学生の頃に練習参加をしたときだった。

「何日か練習参加したときに、シュートに関連する練習メニューを教えたんですね。僕自身は、強制するのは好きじゃないので、自分でいいと思ったらやってみて、と伝えました。そうしたら、しばらく経ってから再び練習参加に来たときに、ものすごくうまくなっていた。これは、本気で取り組んだんだろうなというのがわかるぐらいに変化がありました。

 シンは、人前でふざけたりイジられたりノリがいい雰囲気に見えて、それも彼自身だと思いますけど、サッカーに関しては、ちゃんと自分でよく考えて理解して納得した上でプレーできるんです」

 実際、山田は大学でも自主的にそのトレーニングに取り組んでいたという。

「身体の使い方とかシュートへの持って行き方など、ただ教えてもらうだけじゃなく、しっかり説明もしてくれたのですごく納得がいったし、必要だなと思ったので、大学に戻っても日向汰とかと一緒にやっていました」

 基礎からやり続けるということについては、コンディショニングを担当する木ノ島直哉トレーナーもこんなことを言っていた。

「シンはスクワットとかデッドリフトとかベーシックメニューをしっかりやるんですよね。しっかりした重さで筋肉に負荷を与える。シンプルなことが大事だというものが彼のなかにあるんでしょうね。(谷口)彰悟と(田中)碧、(旗手)怜央もそういうタイプでした。碧、怜央、大聖もそうでしたけど、若い選手でやりすぎるぐらいにやり込む選手もいて、シンと日向汰もそういうタイプですね。

 印象的だったのは、まだシンが大学生のときに、アカデミー時代を知っているトレーナーの関さん経由で何気なくどんなメニューをやっているのか聞いたんです。ざっくりした答えでよかったんですけど、長文で正式なメニュー名と何セットやっているのかが送られてきました。だから、出会う前は、ものすごく真面目なキャラなんだろうと思っていました(笑)。彼がこの先、活躍したら、やっぱりそうだよなと言えるぐらいにはやっていますね」

 戸田コーチは、2023年、また違った佇まいでサッカーに向き合っていた頃の山田新の姿も目に焼き付いているという。

「試合に出られないときの悔しさとか苦しいときの立ち居振る舞いは、コーチと選手の関係ですけど、すごいなと思っていました。生きる姿勢みたいなことにリスペクトするところがありました。

 大聖とシンのふたりは、一緒にシュート練習などをしていましたけど、ふたりとも負けず嫌いで、どんなことでも楽しみながら競っていました。大聖がメンバーに入ってシンが入っていないときに、よくふたりで残って一緒にグラウンドを走ったりしていましたけど、そういう苦しいときに人の価値がわかると言われますよね。彼の言動や立ち居振る舞いに“価値”があると思わせてくれました。

 試合に出たくても選ばれない悔しさやストレスをエネルギーにして、トレーニングに取り組み、限界までやれる。今自分にはこれが足りないからと整理して取り組んで、しっかり修正する能力もある。シンから終わりにしましょうと言われたことがなかったし、そこへのエネルギーが普通ではなかったです。

 だから、2024年に結果が出たから言うのではなくて、この男は点を取り始めたらこうなるんだろうなと思わされていました。それに、僕が上から見てそう思っているわけじゃなく、コーチという仕事柄、なんとか前向きになるようにと思って選手には接しますけど、自分もシンに成長させてもらったし、結果を出していく姿にも、苦しいときにやり続けるシンからも逆に刺激をもらっていたんですよね」

 試合に出られないときに悔しさを心に持ちながらも、自分を信じる気持ちを失わず、自分の足りていないと感じる部分にも向き合って、ひたすらトレーニングに取り組む姿を見て、伴走してきたコーチから、「シンは、何かを成し遂げるだろう」という信頼を得られていたことは、本人にとって励みにもなっていただろう。

 山田が高校1、2年生の頃、U-18で自主トレを一緒にやっていた長橋康弘U-18コーチ(当時/2025年からトップチームコーチ)も、以前にこう話していた。

「U-18は1年生から3年生までが一緒に競争するため、なかなか試合に出られない1、2年生が多くなるのですが、その時期に一番必要なことはあきらめずに頑張ることです。簡単なことではないですが、シンはそれを普通にやっていました。いつも向上心を持って自主トレにも取り組んでいたし、自分に足りないところを受け入れて、できない自分を許していなかったし、追い込む努力ができました。一方で、スピードやチームのために献身的に頑張ることができるなど明確な武器もあり、そういう自分のよさに気づいていないのかなと感じることもあり、『シンより速く走れる選手はいないし、何回も行けるから、相手が先にバテてたな』など褒める言葉をかけるようにしていました。みんなから応援され、愛される選手です。そういう人間性があるから、シンならプロになれると私も信じることができました」

 ちなみに山田は「ミツさんとヤスさん(長橋)は、“サッカーおたく”というか、探求心がすごいところが、ちょっと同じ匂いがする(笑)」と言っていた。

 アカデミー時代、練習がオフの日は、家に帰るとボールを持って公園に行き、練習をしていたという。周りがうまく、自分はやれていないと感じる部分もあったし、自分の能力や特徴を自分自身が活かせないのはもったいない。うまくなった方がサッカーは楽しいし、もっと自分はやれると信じる気持ちもあった。だから、“頑張っていた”というより“行かなきゃダメだよな”と思っていたし、たとえ気分が乗らない日があっても、とりあえず行動して、やり続けた。

 ポテンシャルがあり、できるまでやり続けたら、そのポテンシャルと掛け合わせてクオリティが突き抜けていく、という成長の仕方なのだろうか。 

 

 私たちは、“できた”部分を試合という場で見せてもらうが、一緒に過ごしたコーチたちがそのプロセスに“価値”を感じているというのは、尊いことに感じられた。

期待に応えたい

 フロンターレの歴史においても刻まれるであろう一戦となった2024年12月8日J1リーグ最終節アビスパ福岡戦。

 チームの状態もよく、山田自身も、いいメンタリティでシーズン終盤を過ごすことができていたという。

 目標である20ゴール、さらに言えば、得点王も不可能ではない目標と捉え、強い気持ちを持って試合に挑んだ。

 

 最終戦前日、トレーニングが終わって夕刻になり、戸田コーチから山田にLINEが届いた。

 普段から選手たちと一緒に映像を観ることはあったが、試合前日ということもあり、時間を取らせず、本人のペースで観てもらった方がいいと考えたからだ。

「明日はどうしてもチームとして最多得点をとって終わりたいので、8点以上必要(*1)。

ストライカーとして、チームのために点をとってください。

この映像から見てほしいのは、オルンガ(*2)の力の抜け方。

3クォーターという言葉を思い出してほしいんだけど、自分の能力を100%出すには75%の力でやるという原理。

シンには、右足、左足、頭、すべてにおいて積み上げたものがしっかりあるから、もう技術的には持っているので、自信を持って75%の力でやること!

そこを意識してみて。

もうひとつ。

オルンガも人間なので、シンにできないはずはないと思っています。

大学のときから知り合ってオレは見てるけど、シンのコツコツ積み上げた継続の力はとてつもないパワーだと思うので、思いっきり楽しんで点を取って!

それでは楽しみにしてます。

よい準備を!」

映像の最後には、「継続は力なり!」というメッセージがあった。

山田は、こう返信した。

「お疲れ様です!

ありがとうございます。

みつさんが積み上げてくれたものを発揮してチームのために8点以上取ります!

楽しみましょう!」

*1)試合前の時点で年間チーム最多得点のサンフレッチェ広島と8点差
*2)2019年のJ2最終節で8得点をあげ、Jリーグ1試合最多得点記録を持つ

 戸田コーチが、「8点」を掲げたのには理由があった。わずかながらに可能性が出てきた得点王という個人タイトルに意識が向きそうになるところで、ゴールはチームのためのものという原点を忘れずに、そのうえで得点王にもチャレンジしてほしかったからだ。

 チームは3対1で勝利し、75分に小林からキャプテンマークを引き継いだ山田は懸命にゴールを狙ったが、個人の結果としてゴールは生まれなかった。

 90分+1分に神田奏真と交代し、鬼木監督、戸田コーチらと握手をしてベンチに座ると、涙が止まらなかった。

「悔しかったです。

 本当にミツさんは自分にすごく力を注いでくれていたし、時間もそうだし、寄り添って一緒にやってくれていたので、(個人年間)20得点もいけなかったし、8点も取れなかったし、1点も取れなかったので、悔しいし、申し訳ない気持ちでした。

 本当にミツさんには、いろいろ考えてやってもらって、どうやったら成長するか、いろんな工夫とか伝え方とか、メニューもいろいろ考えてやってくれていました。

 そういう素晴らしさを証明するのは選手しかいないので、それを最後にできなかったことが悔しくて申し訳ない気持ちがありました」

 2023年7月8日、ホーム等々力での初ゴールを登里享平からのクロスに飛び込んで決められたのも、戸田コーチと、大関友翔や松長根悠仁と一緒に練習してきた形だった。そのときも、こんなことを言っていた。

「いまミツさんとか、メディカルスタッフはじめ、みんながすごく期待してくれているというかやってくれている。今までの指導者の方もそうですけど、みんな自分以上に本気で向き合ってくれて、その期待に応えないといけないという気持ちにさせられますし、裏切れない気持ちになります」

 アカデミーを卒団するときも、サポーターへの最後の挨拶で、試合でチャンスを決め切れず、サポーターを落胆させてしまったと感じたときでも、また次の試合で期待してくれていることに頑張って応えようと思った、と感謝を伝えていたという。

 ストライカーは、決めればヒーローだが、外すことも受け入れながら、また切り替えて次に決められるようにというメンタリティを持って、日々戦っている仕事だ。

 そういうなかで、外してしまっても自分に期待してくれる気持ちに応えたい。ゴールを決めて喜んでもらえることが自分もうれしい。そういう気持ちがとても大きいのだろう。

「そうですね。外しても、みんながなんか…、そういう日もあるよって言ってくれたり、なんていうか、みんな頑張ってくれているっていったら言い方が変かもしれないですけど、いろんな人たちが、ゴールのために動いてくれていて、最後のところは自分の仕事だから。いろんな声もかけてくれるし、みんなの心の中まではわからないけど、期待してくれているのを感じるから」

 だからこそ──。

「期待に応えたいのもあるし、喜ばせたいのもあるかもしれない。

 中継の映像とか、チームで俯瞰で撮っている映像があるんですけど、自分のゴールシーンを観るときは、そこだけじゃなくて、その後も観るんです。誰がどういう反応をしているのかな(笑)とか、選手もサポーターも喜んでいたりするので。

 ゴールを決めたときが一番うれしいですけど、周りの人が喜んでいる。サポーターもそうだけど、選手とかスタッフとかもそうだし、みんなが喜んでいるのを観るのが好きです。なんか、それは昔からそうだったかもしれないです。大学時代とかも、(監督の)安武さんのガッツポーズがかわいくて、好きでした。飛び跳ねて喜んでいるなぁって」

 2024年11月30日、味の素スタジアムでの東京ヴェルディ戦。プロ選手となり初めてハットトリックを決めると、左胸のエンブレムを叩きながらサポーターの元へ走っていった。

 山田は、等々力入りする際など、自分が通る道にエンブレムがあることに気づいたら、踏まないように避けて通るようにしている。

「エンブレムってそういうものじゃないですか? そこは、やっぱりアカデミー育ちなので」

 試合後、ヒーローインタビューを終えてからひとりサポーターの元へ。

「シン、シン、シンシンシンシン」とリードし、大好きなチャントを歌ってもらった。

 Gゾーンをはじめ、試合後のお立ち台にはこの2年間だけでなく、アカデミー時代からも数えきれないほど立ってきたが、自分の応援歌をそこで一緒に歌ってもらうのは、意外にも初めてのことだった。

「いつもバラバラをやっていたので(笑)、やっと歌ってもらえました。よかったです」

 自分の能力を信じて、努力し続ける先には、きっと無限の可能性が広がっている。

profile
[やまだ・しん]

プロフィールページへ

一瞬でスペースに抜け出す瞬発力、しぶとく抜け出すパワフルさが持ち味のFW。プロ2年目の2024シーズンはリーグ戦全38試合に出場し、日本人最多タイとなる19ゴールを記録。スタメンでも途中出場でも持ち前の力強いプレーで貢献し、Jリーグアウォーズでは優秀選手賞を受賞した。人の心を動かすひたむきさや、全力でピッチを駆け回る姿でチームを引っ張ってほしい。

2000年5月30日、神奈川県横浜市生まれニックネーム:シン

PAGE TOP

サイトマップ