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SEASON 2013 / 
vol.06

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もっと繊細に、もっと大胆に

實藤友紀郎 DF15/Yamakoshi,Kyotaro

テキスト/隠岐満里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Oki,Marina photo by Ohori,Suguru (Official)

17歳でトップデビューを果たし、各年代の代表にも選ばれるなどその名を馳せた山本真希。長年在籍した清水を離れ、札幌、そして今季川崎フロンターレに加入。山本真希の軌跡を辿るとともに、その選手像に迫る。

プロローグ

 2013年3月9日、等々力改修工事に伴い、2013年の川崎フロンターレホーム開幕戦は、国立競技場を舞台に開催された。

 ベンチ入りしていた山本真希は、試合前、ロッカールームで前節でJ1通算100試合出場を記念したお祝いがあることを聞かされた。そして、その準備に出ると、妻と愛娘の姿が目に入った。サプライズでのお祝いの演出には、とても驚いたが、自身の記録の記念とともにフロンターレでの門出の記念にもなり、うれしかった。

「サポーターの皆さんにも声をかけてもらったし、これからフロンターレで試合に出続けてチームの勝利に貢献したいと思う。まずはトレーニングからしっかりアピールして、自分の特徴をどんどん出していきたい」

原点

 山本真希は、わずか17歳7ヶ月、清水エスパルスユース在籍時代にトップデビューを果たした。清水エスパルスジュニアユース在籍時にはユースで試合に出場し、ユースに在籍してた高校2年の夏にはトップの練習にも合流するなど、同年代よりも一歩先を歩んできた。10代の頃は、年代別代表においても、1カテゴリー上に招集されるなどしてきた。だから、その鮮烈なデビューを覚えておられる方も多いことだろう。「静岡でサッカーやっててマサキのことを知らない人はいなかった」と語るのは、同じく静岡県出身で同い年にあたる杉山力裕だ。

 山本真希のそうした軌跡の原点を知るために、小学校時代に遡ってみたい。

 山本は、静岡県島田市に生まれ育った。島田市のなかでもとてものどかな環境にある田舎町で育ち、3つ上の兄や年齢関係なく同じ小学校の子どもたち同士で遊べるような雰囲気のなか、自然に遊びでボールに触れ、サッカーを自然と覚えた。

 全校生徒約200人というこじんまりとした規模の島田市立大津小学校を主体とした町のサッカークラブ・大津サッカー少年団の天野善旦監督のもとに、「地元のスイミングクラブですごい運動能力が高い子がいる」という噂とともに、山本がきた。少年団に入ってきた山本にボールを蹴らせたら、最初から左右両足で蹴れてしまったという。
「かなり、うまいな」と天野は感じた。

 島田市では小学3年生から学年ごとにリーグ戦があり、その結果次第ではカップ戦出場のシード権もかかってくるため、その大会に懸ける各チームの意気込みは相当なものだった。

 山本真希は、この大会で数々の記録と記憶を残した。ちなみに、当時の山本のポジションは、選抜である島田FCではフォワードだったが、大津サッカー少年団では、ずっとトップ下だった。

 そして、3年から6年までの間、毎年、得点王になるのである。しかも、5年生の時には人数の関係で、5年生だけでなくひとつ上の6年生のリーグ戦にも出場し、そこでも得点王になる。

「ひとつ上の学年に入っても目立ちましたね」と天野は振り返る。

 真希の際立ったエピソードは、それに留まらない。

 低学年の時は、ひとりで全部のプレーが完結できてしまうレベルで、自陣ゴール前でボールを持ち、そのままひとりでボールを運んでピッチを縦断し、ゴールしてしまったこともあった。

「漫画の世界ですよね」と天野は声を弾ませた。

 後ろから来たライナー性のボールを、そのままダイレクトでシュートしたこともあった。

「そんなこと、教えてないのに、できちゃった。運動能力でサッカーをしていた感じでしたね」(天野)

 1試合10得点をひとりで取ったことも、2〜3回あった。キックオフの笛がなり、そのままゴールに入ったキックオフゴールも3回狙って、2回ゴールの枠に飛び、そのうち1回は本当に入ってしまった。

 小学5年生の試合での出来事も天野にとっては忘れられない。

 それは、静岡県で優勝するような強豪チームと1回戦で当たった時のこと、山本が放った30mのミドルシュートは、ゴールポストを直撃して、跳ね返ってきた。それを相手に拾われて、カウンターでゴールを割られ、結果的に負けてしまった。

 だが、天野には、その負けたという事実よりも、山本が放ったシュートがポストに当たった「ゴーン」という聞いたことがないような鈍い音が記憶に残っている。ちなみに、山本自身はそれらのエピソードの半分ぐらいしか覚えていないという。

MF6 MASAKI 山本真希

 こうした記録の数々は当然ながら技術に裏打ちされているエピソードだと思うが、サッカーが盛んな静岡県において技術的に巧い子は山本の他にもいた。だが、圧倒的に違っていたものがあった。

 それは、フィジカルの強靭さだったという。体の強さという意味でも抜きん出ていたし、何よりも、どんなに走っても試合が終わるまで走りきれる無尽蔵なスタミナがあったのだ。おそらくその理由のひとつにあるのは、水泳の経験だろう。島田市の選抜・島田FCにも参加するようになった小学4年で両立をやめ、サッカー1本になるまで、山本は水泳選手としても活躍し、市の大会で優勝までしている。当時のコーチから、ひとりだけ1500mを泳ぐように言われ、水の中で苦しくて泣きながらも50分かけて泳ぎきったこともある。

「マサキの運動能力は、巧さを凌駕するぐらいにありました。前半走り回って、後半はダメだろうと思っていても、後半はさらに走りまわれるぐらいに心肺機能が強かった。他の子がヘトヘトになっているなか、ひとりでボールを扱って試合をできちゃうぐらいに運動能力には長けていましたね。暑い夏場でも、さらに動けちゃう感じでした。たぶん、マサキはどんなスポーツをやっていても、成功したんじゃないかなと思います」

 こうしたエピソードの数々を聞くと、天才肌のように聞こえてしまう。だが、天野は山本が誰よりもサッカーが好きで、いつもボールを蹴っていたことを知っていた。集団登校だった小学校時代、家を出る時間までの間、リフティングを毎朝100回やっていたことを、山本の父から聞いたことがあった。

「本人はそれを練習のつもりでもなく、遊びのつもりで毎日癖のようにやっていたみたいですね。とにかく、マサキはサッカーが大好きでしたから」
 山本自身の記憶のなかにも、父が家の前にゴールネットを張ってくれ、GK役の父を相手にシュート練習を一緒にした思い出がある。

 そんな小学生時代を過ごし、ほどなくして、そんな山本のもとに清水エスパルスの下部組織から声がかかり、島田市から1時間かけて清水まで通う日々が始まった。

壁と自信

 清水エスパルス下部組織に所属していた当初から、各年代別の代表の中心選手として山本はプレーしてきたし、ひとつ上のカテゴリーの代表にも選出されていた。2005年のFIFAワールドユース選手権では、ひとつ上のカテゴリーながらも最終候補に名を連ねた。U-18日本代表でともにプレーしたことがある田中裕介は、振り返る。

「マサキは1学年下で、サイドバックとボランチとして試合に出ました。学年は下だったけど中心でやっているぐらいに落ち着いていましたね」

 高校2年の夏には、トップチームの練習に合流。当時の石崎監督(石崎信弘)のもと、ハードなフィジカルトレーニングにも取り組み、翌年、ユース在籍時の17歳7ヵ月、トップの試合でデビューを果たす。だが、こうして順調にきていた山本だったが、プロに入り、最初の壁にぶつかることになる。2006年2007年と、わずか公式戦での試合出場は1試合にとどまった。

「最初はデビューして何試合かは出て、その後は出られなくなってしまったので、プロ選手は体格も違うし、そういう差を感じました」
 それまで感覚やセンスで、本人いわく「勢いまかせで」プレーしてきたが、トップチームで試合に出るためには、チームのやっていることを理解し、それを表現するプレーを習得する必要が、まだまだあった。

 エスパルスでの出場機会がなかった山本は、同年代の活躍もあり、予選突破に貢献した中心選手だったものの、2007年ワールドユース本線では最終選考で外れ、本大会出場は叶わなかった。だが、本人の受けとめ方は、冷静だった。

「悔しさはなかったです。選ばれてる人たちはチームで試合に出ていて、自分はベンチすら入れていなかった。まったく試合勘もなかった。みんなが本大会に行っているときは、地道にチームで練習して、いつか越えてやろうという気持ちでした」(山本)

 当時、試合に出られない山本に手を差し伸べたのは、コーチの田坂和昭(現:大分トリニータ監督)だった。
 練習試合やサテライトの試合のビデオ映像をもとに、修正点を細かく、田坂は山本に教えていった。
 当時、エスパルスでGKコーチを務めていた浦上壮史は、その姿を見ていた。

「あの頃の若手は、マサキもそうだし、岡崎とかみんな、田坂に全部教えてもらってた。健太さん(長谷川健太監督)のサッカーはこうだから、この時はもっと切り替えを早く、ここはポジショニングがこう、とか頭で考えさせて理解できるように教えてた。当時、田坂が言っていたのは、もちろんエスパルスで試合に出ることが一番大事だけど、それだけはなくて、どの監督にも使われ、どこにいっても試合に出られるような選手にしたいと言ってた。だから、腐りそうになった時には、絶対に腐るんじゃない。絶対にチャンスは来るから、その時に結果を出すために頑張ろう、といつも励ましていた」(浦上)

 山本は、当時を振り返り、思うように自分の良さが出せていなかったと語る。
「例えば、前を向けても後ろに出しちゃったり。そうすると、田坂さんに『お前はキックが特徴なんだから、簡単に後ろじゃなくて前にどんどんプレーしろ』と言われました。だから、試合で消極的なパスを出してしまったら、『これは、後で言われるな』と思って、次は前向こうって意識でやっていました」

 当時、エスパルスの中盤には伊東、兵働、藤本、また、後に小野が加わるなどタレント揃いであり、そこに割って入るにはもともと持っているポテンシャルに加えて、チームの戦術を理解したうえで貢献できるプレーもできる必要があった。

 山本は、あの2年間があったから、今の自分があると振り返る。
「練習が終わった後にビデオを観る日々は、非常に貴重な時間だったなと思います。ディフェンスができなければ試合に出られなかったので、細かく修正してもらって、そのうえで、自分の良さを引き出してもらいました」

 実は、今ではまったくそうした姿は想像できないのだが、中学、高校時代の山本は、よく試合中に審判に文句を言って、イエローカードをもらうこともあったという。西部洋平も「17、18歳頃のほうが、今よりギラギラした雰囲気を出していましたね。そういう荒さももっていたけど、今は安定したと思う」と振り返る。だが、プロに入り、先輩の姿をみて、そういうことも学んでいった。

「やっぱりテルさん(伊東輝悦=現ヴァンフォーレ甲府)とか、文句ひとつ言わないですからね。文句でイエローもらったりなんて無駄じゃないですか。そういうことに気付きました」

 そうして、プレーの面でも精神面でも安定し、「修行」期間を終えた頃、2008年シーズンがやってきた。

「田坂は、2008年頃には、若手はもう誰が出ても大丈夫ですと健太さんに伝えていたと思う。これじゃ試合に出られないよ、というところからスタートして、細かく修正していって、それだけじゃなくて、いいプレーもみせて、『お前のよさはここにあるんだから』と伝え続けて、自信をつけさせていった」(浦上)

  山本にとって、ターニングポイントとなる試合、それは2008年ヤマザキナビスコカップ準決勝対ガンバ大阪戦だった。出場停止だった兵働に代わり、スタメンのチャンスを得た山本は、この準決勝の2戦(1stレグ、2ndレグ)で、ふっきれたかのように自分のプレーを出しきることができた。1st.レグでは、山本が放ったシュートが枝村に当たる形でゴールが決まり、引き分けに。岡崎とともに2トップとしてスタメン出場をしていた矢島は振り返る。

「あれは、ほぼ、マサキのゴールやった。俺はマサキと同期だけど、ちょっと前まで高校生だったのかとは思えないぐらいうまかった。とにかくえぐいシュートだったから、高校レベルのGKではとめられなかっただろうと思った。あの頃のマサキは、試合中、よくシュートを打っていたし、いつ入るか、という空気がぷんぷん漂っていた」

 そして、迎えた2ndレグ、長谷川監督は前の試合同様に、若手をそのまま起用した。そして、開始3分のこと、約30mの距離からの右足で振りぬいたミドルシュートが、強烈にゴール右隅に決まった。山本にとっての、プロ入り初ゴールであり、これがチームを勝利へと導いた。「距離は遠かったけど、緊張をほぐすためにも、とりあえず打っちゃえと思ったら、入っちゃいました。うぉーっっていう感じでしたね。あの試合は、思うようにプレーできました」(山本)

 田坂との日々が実った瞬間だった。 
 山本が取り戻したのは、「自信」だった。

 そして、そのために「どんな時も腐らずやろう。絶対に腐っちゃダメだって自分に言い聞かせて、試合に出るためには練習でアピールするしかない、ここでやらなきゃ先に進めないと思ってやってました。紅白戦でも、トップとやる時、絶対に負けたくないという気持ちをもってプレーしていました」と、山本が振り返る日々がそこにはあった。

「田坂さんには、本当に感謝しています」(山本)

移籍

 2012年、山本はジュニアユース時代から12年間お世話になった清水エスパルスからコンサドーレ札幌に移籍をする。その前年に長年清水で7番をつけていた伊東輝悦が甲府に移籍をしていた。その伊東がつけていた7番を自ら欲しいと申し出たのは、山本だった。

「テルさんのことは尊敬していましたし、その番号を他の人につけてほしくないと思って、テルさんの後を継ぐような選手になりたいと思って伝えました」と、山本は言う。そこには決意があった。だが、その年、山本はサイドバックとしてプレーすることが多かった。試合の流れも変えられるし、どのポジションに入っても、そつなくこなせる山本だったからこそ、計算ができる選手として、様々なポジションで使われることもあった。試合に出たかった山本は与えられたポジションで、それでも試合に出られる喜びもまた感じていた。

「選手は与えられたポジションをこなすしか出来ないので、そこで100%のプレーをして、できるだけ自分の良さを出せたらと思っていました。でも、サイドバックで試合に出たときは、ぜんぜんダメでしたね。その時は、しんどかったですね」

 長い時間をかけて考えた。そして、ひとつの思いが膨らんだ。
「このままじゃいけない」
 そんな山本のもとに、札幌からオファーが届き、そして、移籍をチャレンジととらえ、決断した。

 札幌の石崎監督は、山本が高校2年のユースに在籍してた時にエスパルスの練習に参加していた時の監督だったため、久しぶりの再会となった。
「J1に上がってすぐに落とすわけにはいかない。しっかりハードワークをすることが大事。自分の良さを出しつつ、チームのために戦いたい」と、山本は考えてチームに合流した。

 初めての移籍は、ともに清水から移籍した高木純平と石崎監督をのぞいて、知り合いはいなかったため、最初は人見知りをしてしまったが、ピッチに立てばプレーがある。それに、札幌はシーズン前のキャンプ期間が長いため、そこで十分にコミュニケーションを取ることができた。

 山本は、2節、3節と勝利にこそは結びつかなかったが、2試合連続で先制ゴールを決める活躍をした。そうした幸先の良いスタートを切ったのだが、4節、エスパルスとの対戦で、試合途中で負傷し、離脱してしまう。山本にとっては長年いたチームとの対戦である。

「すごく楽しみだったし、試合中、紅白戦をしているみたいな不思議な感覚もあった。そして、とにかく勝ちたいという気負いもあった」(山本)

 ところが、負傷退場し、そこから約2ヵ月チームを離脱してしまう。結果的に、2012年、札幌は1年でJ2降格が決定してしまう。
「なかなか勝てなかったことは、辛かったです」

 奇しくも札幌のJ2降格が決まったのは、川崎フロンターレと対戦した等々力での一戦だった。

 後に、山本のもとにそのフロンターレからオファーが届く。オファーの中で、最も遅い話だったために、悩んだが、運命にも感じられた。
「昨年1年試合に出てチャレンジしたなかで、フロンターレというレベルが高いチームでどれだけやれるかチャレンジしたかったですし、風間さんのサッカーは個人がうまくなるという話も聞いていたので、レベルアップができるんじゃないかと。あと…」
 といって、こう続けた。
「ケンゴさんと、やりたかった」

 J2降格が決まってしまったフロンターレ戦で、とにかく守備に追われてしまうなか、最も手こずった相手が中村憲剛で、それは予想以上のものだった。

「上手すぎる、というか。淡々と、というか、いや、違いますね。そうじゃなくて、そのタイミングでパスを出すのかっていう感覚が違いました。しかも両足蹴れるので、対戦した時は、どうしたらいいのかっていう感じでした」

 2013年、川崎フロンターレでの山本真希の新しい挑戦が始まった。

インパクト

MF6 MASAKI 山本真希

 山本の武器というと真っ先に思い浮かぶのが、強烈なミドルシュートなどのキックにある。
 そのシュートは「音」も違うし、「威力」も違うのだと周囲は証言する。

 フロンターレのGK杉山力裕は、静岡学園出身だが、山本が高校時代、エスパルスで寮生活を送り、静岡学園に通っていたため、同級生に当たる。実は、杉山は、中学時代、何度も山本と対戦したことがあった。

「僕が所属していたキューズは創部間もないクラブだったんですけど、県大会の決勝というと、エスパルスのジュニアユースと当たって、そこでマサキにやられて負けていたんですよ。マサキは当時すでにユースにいっていたから、普段、マサキがいないで対戦した時は、僅差でいい勝負ができていたんです。でも、決勝となるとマサキが戻ってきて、そうなるともう4対0とか5対0とか、チームとしても負けていたけど、それ以上にマサキにやられていたという印象しか残っていませんね」(杉山)

 何より、杉山にとって強烈な印象だったのは、そのシュート力だった。
「絶対にプロにいくなと思っていたし、ひとりだけ図抜けていたスーパースターでした。体格も今と同じで、ヒゲが生えているかどうかの違いぐらいで(笑)。とにかく、シュートが凄かった。分かっていても、とめられなかった。そういう印象は今でも変わらなくて、今でもシュートの練習しているとひとりだけ次元が違う。球の威力、スピード、ミドルシュートが入る気がしますね」(杉山)

 前述の浦上もまた、GKの目線から山本のシュートについて語っていた。
「インパクトがうまいんだと思う。あれはもう、GKにとってイヤだと思う。2010年の大宮戦で、角度のないところからマサキが思い切り決めたことがあって、『マサキ、すげぇな』って思ったことがある。どこからでも狙えるのもマサキの凄さだった」(浦上)

 山本の小学生時代に指導をした天野が、こんなことを言っていた。
「GKのパントキックの練習を当時、キックの練習として取り入れていましたが、マサキが一番、インステップに当てるインパクトが巧かったですね。その練習は今の子どもたちにもやっていますが、いまだにマサキが一番巧かったなと思うので、やっぱりそこは異質だったんでしょうね」(天野)

 山本のことを語る時、そばで見ていた人たちの証言は、小学生時代からプロ選手になるまで一貫して変わらなかった。

「おとなしいけど、しっかりしている」
「内に秘めた闘志はすごくもっている」
「頑張れる」

 浦上は、普段は穏やかな山本が、試合や練習中にチームメイトに「そこ、いけるぞ!」と、闘志むき出しに鼓舞する姿を何度も見た。
「マサキは、内に秘めたところがあるけど、戦える選手ですからね」(浦上)

 確かに山本は、自分のことを語る時、ほとんどが謙虚な言葉が連なることが多かった。
 そして、いつも「チームに貢献しつつ、自分の特徴を出していきたい」と結んだ。

 だが、シュートについて聞いた時だけは、こうキッパリと言った。
「自信、あります」

 やはり、武器であり最大の特徴であるミドルシュートを常に狙っているのだろう。

 山本本人も、その一撃を心待ちにしている。
 私たちもまた、その一撃を見たいと願っている。

 山本真希のミドルシュートが、見たい。

<追記/エピローグ>
 2013年5月3日等々力の夜、山本が放ったミドルシュートがゴールネットを揺らした。

マッチデー

   

profile
[やまもと・まさき]

コンサドーレ札幌から完全移籍で加入したMF。技術と運動量をバランス良く兼ね備えており、ボランチだけではなくサイドハーフやサイドバックまでこなす柔軟性を持つ。清水エスパルス時代はユース在籍中にトップチームデビューを果たすなど、その才能は折り紙つきだ。

1987年8月24日/静岡県
島田市生まれ
176cm/70kg
ニックネーム:マサキ

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