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  • ピックアッププレイヤー 2016-vol.12 / 大塚翔平選手

KAWASAKI FRONTALE FAN ZONEF-SPOT

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SEASON 2016 / 
vol.12

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Otsuka,Shohei

情熱を内に秘めながら

FW27/大塚翔平

テキスト/いしかわ ごう 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Ishikawa,Go photo by Ohori,Suguru (Official)

 2015年12月某日。
大塚翔平は、千葉のフクダ電子アリーナで開催されていたJPFA(日本プロサッカー選手会)トライアウトの場にいた。

 トライアウトとは、所属クラブから戦力外通告を受けたJPFA会員の選手を対象に行われる選考会の場だ。参加選手は2日間合わせて90名。所属していたギラヴァンツ北九州から契約更新しない旨を通知されていた大塚は、複雑な思いを抱えながら、ここに足を運んでいた。

「北九州ではシーズン終盤にほとんど試合に出ていなかったので、そうだろうなと思っていました。他のチームからの話もない立場でしたけど、正直に言うと、トライアウトには行きたくなかったんです。悔しいという思いもありますし、なによりああいうセレクションの場が苦手で…あそこに自分が行ってもちゃんとプレーできるのか。そういう不安もありました」

 二の足を踏んでいる彼の背中を押したのは、夫人の一言だった。

「これであかんかったら、サッカーにも踏ん切りつくんちゃうの?」

 この一言に大塚はハッとさせられたという。

「そうだな。確かに、トライアウトに行ってどこも話がなかったら、そっちのほうがスッキリするな、と。なにより、サッカーに対してあきらめもつく。もし自分が独身だったら、トライアウトにいく勇気もなかったと思います。不安でしたけど、あの一言でどこか吹っ切れていました」

 トライアウトでの種目は、7対7のミニゲームと、11対11の紅白戦だ。人数が多い為、アピールできる時間はわずかだと言っていい。視察していた関係者によると、トライアウトの場での大塚翔平の技術はかなり際立っていたそうである。ただ大塚本人には手応えがなかった。

「いや、良い感触はなかったですね。7対7で良かったイメージはないですし、11対11もそんなに良かったとは思わなかったです。でも全力ではやり切りました。自分のできることはやったので、気持ちとしてはスッキリしていました」

 ──もし、このトライアウトでダメだったら、サッカーをあきらめよう。そんな気持ちでトライアウトをやり終えたわずか3時間後、携帯電話の着信が鳴った。契約している代理人からの連絡だった。

「代理人から『明日から川崎フロンターレの練習にいってくれ』と言われたんです。ビックリしましたね」

 12月といえば、多くのチームはシーズンオフに入っている。かつてジェフ千葉に2シーズン半所属していた彼は、千葉での知り合いに会う予定を立てていたが、それらはもちろんキャンセルし、すぐに翌日から川崎の練習に参加する準備をした。

FW27/大塚翔平

 川崎に親しい選手はいない…いや、一人だけ思い当たる選手がいた。小学生時代に大阪選抜で一緒だった登里享平だ。ただし長らく連絡を取っておらず、現在の連絡先は知らない。そこで北九州の同僚である風間宏希に連絡を取り、少し緊張しながら本人に電話をかけてみた。

 一方、登里のもとには、登録されていない番号からの着信が表示されていた。不審に思って最初は出なかったが、あまりに何度もかかってくるので、「…誰やろ?」と思って出てみた。

 「…大塚翔平やけど」

 声の主は、そう告げた。

「おおっ!ショウヘイ!?」と、旧友からの思わぬ連絡に登里は驚いた。翌日から練習参加する旨を聞くと、新百合ケ丘駅まで車で迎えにいき、選手寮まで送り届けた。2010年の中国・広州アジア大会の時以来となる再会だった。ケガで離脱中だった登里は、あいにくグラウンドで一緒に練習できなかったが、彼の入団を心から願っていた。

「ショウヘイのプレースタイルは、フロンターレに合っていると思っていました。J2だと、どうしても気持ちの面や激しいプレー、球際の強さだったりが大事になるけど、ショウヘイはうまいので。練習試合で久しぶりにプレーを見たんですけど、なんとかアピールして欲しいという思いで見ていましたね」

 練習参加は二日間だった。二日目には桐蔭横浜大学との練習試合も組まれていた。大学生が相手とはいえ、大塚は好アシストを見せてアピールした。

「フロンターレのサッカーは何試合か見ていて面白いなと思っていました。北九州で宏希とやっていて、だいたいのことは聞いていました。練習生で参加したとき、自分がパスを出したい時に、味方がその場所に立っていてくれる。そしてパスを出せば、また戻って来る。あれは今までにはなかった感覚でした。相手は大学生でしたけど、これだけパスをつないで、相手を崩すチームがあったんだ、と。J1で正確性が一番高いチームだというのはわかっていましたけど、練習に入ってみて衝撃がありました」

 練習参加は二日間だけだったが、純粋にサッカーが楽しく、まるで1~2週間いたような充実した感覚に満たされた。合否云々よりもそういう感覚を楽しめたのだ。そして数日後には、来季の契約を結ぶ旨の連絡が来た。

「嬉しかったですね。またあのクラブでサッカーができるんだ。そういう楽しみに満ち溢れていました」

 こうして大塚翔平は、川崎フロンターレの一員になった。

 大塚翔平のルーツを探っていこう。

大阪府出身だが、生まれは福井県である。両親が福井県出身で、実家に帰った時に福井の病院で生まれた。父親の仕事の関係で、その後はずっと大阪で育っている。

 子供のころは、体の大きい少年だったという。

「幼稚園から小学6年生までずっとデカかったですね。朝礼で並ぶじゃないですか。絶対に一番後ろでした。球技は万能でしたね。サッカー、野球、ドッジボールをよくやってました。足も早かったです」

 3歳年上の兄がサッカーをしていたので、それでサッカーを見に行くようになった。幼少期にちょうどJリーグが開幕し、当時のアイドルはカズこと三浦知良。その憧れは、今も変わっていない。兄と同じサッカーチームに入りたかったが、小学生からしか入団できなかったため、幼稚園児でも入れる地元のサッカー少年団「大阪東淀川FC」に入り、そこで小学6年生まで過ごしている。ここで磨いた技術が大塚翔平の原点となっている。

「コーンを置いてのドリブルとか、リフティングとか技術系の練習が多かったですね。みんなうまかったので僕も負けられなかった。お互いに高めあいながら、練習してました。チームはすごく強かったです。大阪府には三つの大きな大会があるんですけど、そのうち二つで優勝しました。僕らの代がはじめて優勝したんですけど、仲も良くて良い関係でした」

 転機となったのは、小学4年生のときにやってきたガンバユース出身経歴を持つ辻彰久コーチだという。辻コーチの元で、ボールを繋ぐ技術を叩き込まれたのだが、その徹底ぶりは、「試合中のクリア禁止」を命令されるほどで、適当にロングボールを蹴るのは厳禁。もし、蹴った場合は、すぐに交代させられるか、雷を落とされるかの二択だったという。身長が高く、足も早かった当時の大塚は、ボールをスペースに蹴ってそのまま独走してゴールを決めるというプレーを得意としていたが、辻コーチから「そういうプレーはやめろ」と厳しく言われた。

 理由は明確で、上のレベルに行くに従い、そういったプレーが通用しなくなるからである。小学生時代の能力やサイズによるアドバンテージは、年齢が上がっていくにつれて縮まっていき、そこに頼っていた選手は、必ず頭打ちになる。それを見越した上での指導だったのだ。

「あれは大きかったですね。ガンバのサッカーを知ってますし、上に行けばいくほど技術がないと追いつかれてしまうことを辻さんに教えて貰いました。あのときはステップ練習をよくしていました。自分は身長が大きかったので、デカい選手はしっかりやらないと、なかなか身につかない技術だったと思います。あのときにやっておいてよかったと思います」

 なお、登里享平と出会ったのもこの時期である。「ノボリ」のあだ名で親しまれている自分のことをチームで唯一「キョウヘイ」と呼ぶ大塚との思い出を、独自のユーモアを交えて面白おかしく振り返る。

「ショウヘイに最初に会ったのは、大阪府のトレセン選考会ですね。6年生のときです。でかかったですよ。あのときで168センチだから、今の自分と一緒。今は足が遅いといじられまくっているけど、あのときは足も速いし、高さもある。東淀川は強くて、その中でもワントップのショウヘイは衝撃的でした。今でいうイブラヒモビッチですよ(笑)。あいつはそのままガンバいって、才能を開花させて、年代別の代表にも入って活躍してました。自分は香川県に行って、ナショナルトレセンで四国選抜として入ったときに、久しぶりに会ったのかな。そのときに、あいつから話しかけてくれたんですよ。『キョウヘイ!』と言われて嬉しかった。いいやつでした。身体能力は昔に比べるとイメージが違うけど、技術、うまさは昔と変わらず一級品ですね。猫背やから小さく見えるけど、今も178センチあります。プレーはあのままで、足が遅くなっただけです(笑)」

 セレクションを経て、中学からはガンバ大阪のジュニアユースに入る。
当時はトップチームに西野監督が就任し、下部組織からは家長昭博や丹羽大輝などアカデミーも充実し始めた時期である。そんな中、年代別代表にも選ばれ続けていた大塚のキャリアは順風満帆だった。2007年にはU-17W杯韓国大会のメンバーに選出。城福浩監督のもと、柿谷曜一朗、齋藤学などが顔を連ねる中、大塚はグループリーグの全3試合に出場している。

「1試合は途中からですが、2試合はスタメンでした。城福さんもパスサッカーをやるので、そういうサッカーに自分も合いました。まわりもうまかったですね。海外のチームと対戦すると、フィジカルで勝てなかったので、相手を外すタイミングを意識するようにしていました。ただ何もできなかったので悔しい思い出だけですね。全然ダメだなと、悔しい気持ちだけです」

 その後、高校3年生のときには、翌シーズンのトップ昇格が決まった。
とはいえ、当時のガンバ大阪は黄金期。2008年シーズンにはACLで優勝を達成し、クラブW杯にも出場していた時期である。そんなトップチームに自分が入って出場機会が得られるのか。昇格を見送り、大学進学も考えたほどだったという。そして実際に入ってみると、トップチームのレベルの高さは想像以上だった。それもキャンプ初日の練習で目の当たりにする。

「ガンバは毎年2月にグアムキャンプをやっているんですけど、その初日に紅白戦をやるんですよ。自分はサブ組に入って出たんですけど、全くボールが取れなかった。いや、ちょっとこれはレベルが違いすぎるなと。あれは衝撃的でした。グアムの暑さもあって体力がキツかったのもあるんですが、初日の練習では何もできなかった。もう目の前が真っ暗になりました。練習を終わってみんなでご飯を食べているときも落ち込んでいたら、山口さん(山口智)が『最初はそんなもんだから。俺もそうやったし』と声をかけてくれて…それで気が楽になりましたが」

 シーズンが始まると、当然のように試合には出れれず、練習試合や練習でチャンスをもらえるようにアピールするしかなかった。まわりにレベルの高い選手がいたので、それを見てレベルアップしようという気持ちで練習に取り組み続ける日々だった。

「小学生からずっとFWでしたし、昔は意識をしなくても点を取れていました。でもプロになってからレベルがあがって、試合にも出れなくて、点を取るのってこんなに難しいんだと思いました。それでこのままじゃだめだな、と」

 当時のガンバ大阪にいたFW陣の顔ぶれは、レアンドロ、チョ・ジェジン、ルーカス、播戸竜二、山崎雅人、平井将生…7番手だった大塚は、主戦場をサイドハーフにしてプレーを磨き続けるようになる。当時、お手本にしていたのは二川孝広だった。

「基本的にサイドに張ってドリブルをするポジションですが、ガンバでは中でボールを受けるプレーが求められていました。特にフタさんの存在は大きかったですね。コーチにもよく動きを見ているように言われて、1試合を通じてずっと見ていたこともありました。ポジション取りが抜群にうまくて、なぜかフリーになっている。どうして相手は潰しにいかないのかな?と思ってみていると、ちょうどいいところに、ふらっと動いてフリーになっているんです。高い位置を取っているサイドバックが裏を狙えるような位置にいるし、相手のセンターバックが食いついてきたら、ワンタッチでかわせるような絶妙な場所にいる。ケンゴさんも、そんな感じですよね」

2009年リーグ戦1試合出場
2010年リーグ戦4試合出場
2011年リーグ戦1試合出場

数字が物語るように3シーズンでのリーグ戦の出場機会は数えるほどだ。そして4年目の2012年のシーズン半ばには、出場機会を求めてJ2のジェフ千葉に移籍。自分の中では大きな決断だったが、不安はなかった。大阪以外の場所に行ける良い機会だと捉えて、新天地に活躍の場を移した。

 ジェフではコンスタントに出場機会を掴み、2012年と2013年にはJ1昇格プレーオフにも出場している。だが、いずれも敗退している。

「プレーオフの雰囲気は独特でした。もう二度と出たくないです(苦笑)。かかっているものが大きすぎました。夏場に勝てない時期もあったんですが、良いサッカーをしていて、木山監督も自分を我慢強く使ってくれた。チームは終盤負けなしでプレーオフに出て、横浜FCに4-0で勝ってチーム状態も良かったんです。でも決勝で大分にラスト2分で決められて…引き分けでもよかったんですけど、逆にそれが難しかったのかもしれません。その次の年は、徳島ヴォルティスとの準決勝でしたが、体が思うように動かなくて、ほぼ何も出来なかった。思い出したくないような出来でした。J1昇格できなかった悔しさはありますが、自分は年間通じて試合に出ていなかったので、そういう経験を積めた3年でしたね」

 そして2015年にギラヴァンツ北九州で一年間プレーしたのち、トライアウトからの練習参加を経てフロンターレに加入した。久しぶりのJ1でのプレーとなったが、シーズン序盤はほとんどと言っていいほど、出番が巡ってこなかった。緻密な技術と独特のリズムがあると言われている風間監督のサッカーでは、そのテンポに入っていけない選手が起用されることはない。そして、そこの集団に入っていくことは容易ではない。

 印象的だったのは、3月のナビスコカップ・アビスパ福岡戦の前日練習の光景だ。
この試合ではいわゆる控え組中心のメンバー編成で臨む準備をしており、長谷川竜也と三好康児の両サイド、大塚翔平のワントップなどの前線の顔ぶれを試すフォーメーションも組まれていた。

 しかしその練習途中に大塚はスタメン組から外され、試合でもベンチスタートとなっている。長谷川竜也や三好康児などの若手からはチャンスをモノにしようとする気概が伝わっていたのに比べて、大塚にはその意識があまり感じられない。やや淡白な印象があり、もう少しギラギラ感を出しても良いのではないか。見ていて気になるところだった。

「昔からそう言われます。自分では気持ちを出してやっているつもりなんですけど、まわりからはそう見られないですね。自分では一生懸命にやっているつもりなんですが…ヨシトさんにもよく言われてますし、ユウさんにも『頑張ってるの?』って言われます(苦笑)。あの福岡戦、スタートで出るチャンスをつかめなかったのは悔しかったです。でもそれを気にするよりも、(ベンチ入りの)18人に入ったので、それに向けて切り替えていました」

 この福岡戦では後半から出場し、フロンターレでの公式戦初出場を果たしている。森本貴幸と縦関係を作りながら、相手のブロックの間でボールを受ける役目や、スペースメーキングを精力的にこなしたが、得点は生まれなかった。試合は敗れ、その後は、カップ戦のメンバー外になることも多く、試合に絡む気配がない時期が続いた。

 だが大塚の強みは、そういう状況でも黙々と試合に出る準備を続けることができることなのだろう。彼は自分の置かれている立場を受け止めながら、自分の実力が足りないと自覚し、チャンスをもらえるようにと前向きに捉えて練習に励み続けた。

「やっているサッカーとスタイルは、自分にあっていました。あとはスピードですね。それにとまどったところはあります。自分のミスが多かったので、試合に出れないのはそうだろうなと思っていました。でもどこかでチャンスがくると信じていて、練習もしっかりやっていました」

 傍目には見えにくいが、彼は内に秘める情熱を燃やし続けた。控え組中心のカップ戦でベンチ外になっても、そこで腐ることなく一人で残って筋トレに励み続けていた大塚の姿をチームメートたちも目撃している。そしてチャンスが巡ってきたのは、5月末のナビスコカップのベガルタ仙台戦だった。

「グループリーグ突破は厳しい状況で、メンバーも出ていない選手が中心でした。自分たちもやれるというのを見せるチャンスだったし、見せてやろうぜという気持ちでやりました。そこで全力でやって、ダメだったら仕方がない。そういう気持ちで2ゴールを挙げれてよかったです」

 FWはゴールを決めると状況が一変するものだ。この仙台戦で2ゴールを挙げて勝利に導くと、リーグ戦でもベンチ入り。途中交代で流れを変える役割を担うと、狭いエリアでもボールを受ける技術を発揮して攻撃陣を循環。ファーストステージの優勝争い大一番となったアビスパ福岡戦では、腰痛による欠場余儀なくされた中村憲剛の代役としてスタメン出場を果たした。その後、大宮アルディージャ戦で6年ぶりとなるJ1でのゴールを決めると、一気にレギュラーとして定着。攻撃陣の潤滑油として欠かせない存在になりつつある。

 ピッチ外では勝利後のウォーターファイトでは集中的に水をかけられるなど、チームのイジられキャラとして愛されている。そんな大塚の姿に、千葉時代を知るGK高木駿はこんな証言をする。

「今が人生で一番イジられているんじゃないですか(笑)。千葉のときも、最初は怖いし、誰とも喋らなくて、イジれない感じだったのが、自分が入るちょっと前に少しずつイジられ始めたみたいです。フロンターレに来てからも最初はそうだったんですけど、みんなに引き出してもらって、だいぶ生き生きしてきました」

 大塚がようやく輝けるチームにたどり着いたことにも、高木は素直に喜んでいる。

「ショウヘイは才能があるし、めちゃくちゃうまい。でも、それだけ…そういう印象は確かにありました。下のカテゴリーのチームだと、もっといろんな仕事が求められますから。それにショウヘイは気持ちを見せるタイプではないので、そういうのもスタッフには好かれなかったりもすることもある。でも、あいつはああいうプレーが全てですから。そういう選手が一番必要とされているチームにきて活躍出来ている。ショウヘイがチームに与えている影響は大きいと思いますよ。あれだけ難しい短いパスも、決してミスらない。派手に見えないし、わかりにくいけど、キープレイヤーになっていると思っています。ショウヘイ、ここに来てよかったなと言ってます(笑)。前のチームを知っている自分からするとやっぱり嬉しいですよ」

 J2のクラブで戦力外になり、トライアウトを経て加入した選手が、J1で優勝争いをしているチームのレギュラーになって活躍する──そんな成り上がりのストーリーに、メディアは「苦労人」というフレーズを使いたがるが、本人は「苦労はそんなにしていないかな」と苦笑いする。「むしろエリートですよね?」と水を向けると、「いや、エリートだとも思わないですけど。確かに、昔はアンダーの代表に選ばれていましたが、オリンピックも選ばれてないですからエリートだとも思わないですね。ただ苦労はそんなにしていないかな…なんすかね」

 では、どこを目指しているのか。最後に野望を聞いてみた。

「野望ですか…考えたことはないですね。風間監督がよく言うんですけど、目に見えないものを追うよりも、目に見えるものをしっかり追って、それに向かって頑張ろうと思っています。例えば、今日の練習が終わったら明日の練習にしっかり備えること。そして次の試合に出れるように。そこでチャンスをもらえたら、自分がチームを助けるプレーをして結果を出す。川崎に来て、目の前のことしか考えなくなったと思います。もちろん、『代表に入りたい』、『もっと点を取りたい』という気持ちはあります。それよりも、ここで試合で出続けることでしか次はないと思っています。目の前のことしか考えられない立場だと思ってます」

 野望を語るときでも、決して語気を強めることなく、その口調は相変わらず淡々としている。

 自分が自分であるために。

情熱を内に秘めながら目に見える結果を求め続けていく力強さを、大塚翔平は持ち続けている。

   

profile
[おおつか・しょうへい]

ギラヴァンツ北九州から完全移籍で加入したテクニシャン。正確な基本技術と視野の広さを生かし、攻撃のリズムを作る。昨シーズン、練習生として参加した練習試合でアシストを連発。パスワークで周りの選手の特徴を生かしながら自分の持ち味を発揮するプレースタイルはフロンターレにうってつけの人材。その才能をフロンターレで開花させてもらいたい。

1990年4月11日/大阪府
大阪市生まれ
ニックネーム:ショウヘイ

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