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  • ピックアッププレイヤー 2016-vol.17 / 通訳/金明豪

KAWASAKI FRONTALE FAN ZONEF-SPOT

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SEASON 2016 / 
vol.17

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Kim,Myongho

人間力

interpreter/Kim,Myongho

テキスト/隠岐麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Oki,Marina photo by Ohori,Suguru (Official)

 スタジアムに入ると、通訳の金明豪には、ルーティンがある。
 昨年、横浜FCに在籍していた時に、ある時やってみたら、試合に勝ったため、それからのゲン担ぎになった。
 ピッチに入って、ホーム側のグラウンドのハーフウェイラインとゴールの間ぐらいに右手をついて1、2秒「今日もお願いします」。それから、ペナルティエリアをチェックしてからゴールポストに行き、タッチしてソンリョン始めGK陣のために「今日もお願いします」と。
「恥ずかしいですね。いつも、芝生チェックしてるだけですよっていう感じでやっていたので」と、キムは笑った。

interpreter/Kim,Myongho

川崎に生まれて

 生まれも育ちも川崎市。両親と4人の兄弟がいる末っ子だ。とはいえ、姉が10歳、兄が9歳、7歳と年が離れていたため、可愛がられて育ったというよりも、「親がたくさんいた」ような感覚だったという。
 サッカーを始めたのは7歳上の兄の影響もあり、川崎朝鮮小中級学校のサッカー部に入った。小学生時代にやったポジションはGK。背は当時から高かったが、スピードもあったためキムとしてはフィールドプレイヤーをやってみたかったという。そのため中学時代はフィールドプレイヤーをやることになったが、神奈川朝鮮高校時代は、先輩から言われて再びGKになった。高3では、キャプテンを務めた。高校入学時、すでに180cmあった身長は、高校3年間で9cm伸びた。
 キムが中学3年の時に、Jリーグが開幕した。高校から歩いて行ける距離だった三ツ沢球技場によく試合を観にいき、当時、横浜マリノスのファンだった。
「部屋に井原さんのポスターを飾っていました。GKをやるようになってから川口選手のことも好きでした」
 一気にサッカーが華やかで盛り上がり、憧れや夢を抱き、多くのサッカー部の少年がそう思うようにJリーガーになりたいとは思ったが、当時は在日Jリーガーがまだほとんどいなかったこともあり、現実的な夢にまでは至らなかったという。
 とはいえ、高校3年になると進路をどうするか、ということを決めなければならない。キムは、かなり迷ってしまったと振り返る。
「トレーナーになろうかなと思ったこともありました。学校の先生は大学に行きなさい、という意見でした。本当は在日の企業に就職が決まっていたんですよ。会計の仕事だったんですけどね。在日の蹴球団のテストも受けに行ったんですけど、『無給だったら…』って言われて、親にも迷惑かけられないし仕事しながらやろうか、どうしようかって…。結局は、就職をやめて、あまり自分の意志もないまま大学に進学しました。ずっともやもやしていましたし、いろんな人の意見を聞きすぎちゃって、軸がなかったです」
 紆余曲折、自分の意志で決めたわけではなかった大学生活は長く続かず、1年で中退してしまう。その後、居酒屋でアルバイトをしていたキムは、誘われて建築関係の仕事に就くことになった。
「いわゆる、ガテン系です」
 だが、結果的に横浜FCに通訳として入るまでの9年間の長きに渡って、その仕事を続けることになる。電気系の工事現場で、徐々に仕事を覚えて、最終的には年上の人も束ねて現場を任されたり、高所作業者10m未満、職長免許などの資格も取って、日々、仕事に励んでいた。
 そんなキムが、まったく縁がなかったJリーグの世界に飛び込むことになる。

一度きりの人生だから

 2007年夏、神奈川の在日サッカー団のキャプテンをやっていたキムのもとに、横浜FCで通訳を探している。まじめで仕事をすぐやめられて運転ができる人を紹介してほしい、というオファーが在日の先輩を通じて舞い込んできた。
「それで、後輩をひとり紹介しました。でも、その後、考えて、以前にあった後悔があったから、面接だけでも僕も受けられないか、と先輩にお願いをしました」

 キムには、ある後悔があった。それは、それより数年前に柏レイソルに韓国人選手がシーズン途中で加入する際に、通訳の面接を受けないか?との誘いを断ってしまったことだった。
「半年契約で1週間以内に来てくれ、と言われてすぐに対応できなかった以上に、正直に言うと、ビビってしまったんですよね。僕の場合、在日の教育は受けてきましたけど、韓国に行ったこともないし、在日で教わる言葉とネイティブの発音は微妙に違うだろうから、大丈夫かなっていう心配もあって」

 横浜FCからの話が来た時に思ったことは、「あの時、本当はやりたかったのにビビって断ってしまったから、面接を受けるだけ受けてみたい」ということだった。自分の心の声に耳を傾けてみると、正直な気持ちが湧き出てくるのを抑えられなかった。2002年のワールドカップの時期に清水エスパルスに韓国のスター、アンジョンファンが在籍した時の韓国語の通訳が、キムの先輩に当たる人だった。
「そういうサッカーへの携わり方があるんだなぁ。うらやましいなぁって思っていました」

考えてみれば、学生時代から社会人に至るまで、人生で自分から掴みに行ったことがなかったキムの、横浜FCに面接に行くという決断は、初めて自分から手を挙げた意志だったのかもしれない。そのキムの気持ちがわかったのだろう。9年間お世話になった会社の社長に伝えると、すぐに退職の手続きをしてくれ、「いつでも戻ってきていいんだぞ」と快く送り出してくれた。
「本当、そうですね。獲りにいきました、自分から。最初は半年契約だったので親にも反対されたし、給料もダウンになるし、不安定な仕事ですからね。でも、自分がやりたいことを人生でやってみたいって思ったんです。飛び込んでみるものですね」

 面接の結果、キムは横浜FCでの採用が決まった。
 29歳で新たな人生が幕を開けた。

 チャレンジしたまでは良かったが、180度まったく違う仕事に就いたキムは、最初の半年は「記憶にないぐらい」生活が激変したという。初めての通訳という仕事、横浜FCでは通訳だけでなくホペイロの仕事も兼任していたのでその仕事を覚えること、また、当時の横浜FCは日本を代表する選手たちが勢ぞろいしていた。三浦知良選手は言うまでもなく、小村徳男、久保竜彦、奥大介、山口素弘、三浦淳宏、山田卓也…、そして監督は高木琢也氏が務めていた。
「どうしよ…と思いました(笑)。全く初めての通訳の仕事で、韓国人選手が3人いて、しゃべれるかどうか不安しか最初はなかったですね」

 当時、横浜FCのブラジル人通訳だった中山和也(現フロンターレ通訳)とは、年も同じ、通訳の先輩としていろいろ教わりながら、自分の時間は作らない程、韓国人選手と一緒にいることからスタートしたという。ところが、通訳という仕事は言葉を訳して伝える、ある意味、特殊な技術が必要とされる仕事である。そこで最初の壁にぶつかることとなった。
「最初はメモを取ろうと思っても全くできなかったです。聞く、書く、しゃべるっていう三つのことが出来ない。メモをしても日本語と韓国語が混ざっちゃうし、同時通訳をする場合も、頭にインプットして、整理して伝えるのも難しかったです。伝えるタイミングとかゴンちゃん(中山通訳)に教えてもらっていましたね」

 通訳という仕事が初めてであるということもそうだが、もうひとつキムにとっては、Jリーグのチームで仕事をし、自分がかつて観ていた選手たちが間近にいる、という環境もまた、緊張させるに十分な要素だった。そんななか、とくに横浜FCのみならず日本サッカー界のレジェンドである、三浦知良には、ずいぶんと助けてもらったとキムは振り返る。
「一番最初にカズさんに話しかけられたことは、ハッキリと覚えています。『おい、キンちゃん。キムなのかキンなのか、どっちだ』って言われて、『キンでいいです』『わかった』って。超緊張しましたね。とにかく、カズさんは、すごくフランクな方で、あとは、自分もブラジルや海外でプレーしていたから、気持ちがわかるんだ、といって、韓国人選手たちにも話しかけてくれたりフォローしてくれましたね」

新たなチャレンジ

 そうして、日々がむしゃらな日々を送り、だんだんと通訳のコツも掴み、最初はホペイロのような仕事をしていたキムは、副務になり、横浜FCでの最後の年には主務を任せられるようにもなってきた。つまり、それだけの信頼をチームから得ていたということだろう。

 そんなキムの元に、フロンターレが初めての韓国人選手を獲得するという話が聞こえ、やがて韓国人通訳としてキムがリストアップされることになる。フロンターレから横浜FCにもその打診があり、キムは様々なことを考えた。気づけば、10人以上の韓国人選手の通訳を経験し、日本で一番、韓国人選手を担当した通訳に成長していた。
「僕は川崎出身で、フロンターレは20周年の節目の年、環境を変えてJ1でチャレンジしたいと思いました。とはいえ、横浜FCでは8年半もお世話になったので、本当に悩みました。お世話になった横浜FCの社長と強化部長に挨拶をした時は、泣いてしまいました。本当にお世話になりました」

 2016年、フロンターレは韓国代表GKチョン・ソンリョンを獲得した。同時に、通訳をキムが務めることとなった。
 それからのことは、皆様もご存知のとおりである。ソンリョンが、寡黙な感じで落ち着いた声で話し、その横で頷きながら訳している姿をご覧になっているだろう。
 キムから見た、ソンリョンはどんな人なのだろう?
「ソンリョンのことは、有名だったので知っていましたが、来る前から“すごくいい人”だとは聞いていました。実際にしゃべってみたら、すぐにいい人だなと思いました。存在自体が大きい人ですが、トップクラスの選手だけあって、どんな時でも落ち着いていますし、とにかく温厚です。あとは、気前がいいですね。よく選手たちと一緒に食事に出かけていますが、来日してすぐの頃から、チームメイトたちと食事に行きたいと希望していました。あとは、そうですね。とにかくおっとりしています。しゃべりだすタイミングがけっこうゆっくりで、間があります。なんてしゃべればいい?って聞かれることもあります。でも…」

 といって、キムが続けた。

「僕がフロンターレに来て感じたことは、J1のチームだけあって、取材がたくさんあるんだなということだったのですが、ソンリョンは絶対にそういうのを断らないし喜んでやってくれます。おそらく、そういうことは自分の使命だと思っているんじゃないかと思います。イベントでも何でも、面倒くさそうな態度や言葉を僕にさえ言ったことがありませんし、フロンターレというチームはファンを大事にしていて、ファンのために何かをやることが素晴らしいことだと思っているんですよね」

二人三脚

 韓国は、儒教の国であり先輩を敬う文化があり、今年38歳になるキムは、ソンリョン含めて選手より年上であることがほとんどであり、韓国人選手からは“兄さん”という意味にあたる「ヒョン」と敬意を込めて呼ばれている。ソンリョンも「ヒョン」とキムのことを呼んでいる。ある意味では、近しい間柄となり、通訳以上の関係性を築いている面もあるだろう。
「そうですね。それはあるかもしれないですね。でも、だからといって甘やかすことはないですね。例えば、今までに韓国に帰りたいっていう選手がいたら、説得することもあったし、そう思うなら帰ればいい、と突き放すこともありました。選手の性格ももちろん関係しますし、対応は人それぞれですけどね。でも、選手たちにとって頼れる人間は僕しかいないんだ、という気持ちでいつもやっています」

実際に、ソンリョンからは3人の小さい子どもたちがいるということもあり、24時間携帯はマナーモードにせず持っていてほしいとリクエストを受けており、寝る時も枕元に必ず置いて備えているという。
 人間関係を築くという信頼感がなければできないことであろうが、そうした関係を築きながら、通訳という仕事に対してもキムなりのやり方やルールを少しずつ作っていった。
「最初の頃は、韓国人選手が言ったことことをそのまま訳してしまって、例えばチーム事情として伝える必要がないことも含まれていたことを、取材している記者さんに教えていただいたこともありました。そういう基本的なことから覚えていきました。ある時は、監督が選手に対して、試合中に『浮ついた気持ちでやっているから代えるぞ』と言ったことがありました。僕は、それをそのまま訳してしまったら、選手の性格を考えると感情的になって誤解してしまうんじゃないかと思い、『最後まで集中だぞ』と伝えました。もちろん、その後に、コーチに対して正直に伝えました。あとは、ソンリョンともそうですが、単なる言葉を伝える伝書鳩のような役割はしないように気をつけています。込み入った話を又聞きのように聞くのはよくないと思いますし、あくまで僕は通訳であってソンリョン対誰かという関係性なので、顔を合わせて話した方がいいことを伝言で処理しないようにはしますね。表情を見なければ伝わらないこともあるし、重みも違いますからね。ソンリョンはないですけど、例えば、ケンカをする時なんかももちろん直接顔を合わせなきゃダメですよね」

 韓国人選手たちと、“家族”のような関係だというキム通訳。そんなキムだからこそ、選手が嬉しい時は一緒に喜び、悲しい時には一緒に悲しんできた。

 今年、ソンリョンが大宮戦での負傷で戦線離脱を余儀なくされてからも、二人三脚でどうしたら、早くチームに復帰できるかを一緒に考えて共に行動をしてきた。

「こんなに長くかかるとは思わなかったですね。波があって、痛い日と大丈夫な日の差が大きかったです。それにソンリョンは、表情に痛みなどが出にくいタイプなので、汲み取ることには慎重になりました。ソンリョンもストレスたまってたと思うから話を聞いたり、治った事例を聞いたりして、一歩ずつ階段をあがる感じで少しずつ前向きに、という日々でした」

 11月12日。
 天皇杯対浦和レッズ戦のピッチに、ソンリョンは立っていた。
 キムは、今年の開幕戦と同じぐらいに極度に緊張してその姿を見ていたという。
 PK戦が始まる頃には、その緊張がピークに達して、ベンチ裏で目を瞑っている間に、ベンチ前では円陣が組まれており、スタッフに呼ばれて慌ててその輪に加わった。
「みんなには、泣いてたって言われました。痛みを押してソンリョンが出ていたのも知っているし、勝ちたい気持ちが強くて。PK戦が終わって、抱きつきにいきましたね。ソンリョンは、まだちょっと早いかもしれないけど、“時が来た”という表現でこの試合を迎えていました」

 試合前、ソンリョンは、韓国語を直訳すると、「このチームに『犠牲』になる時が来た」とメディアに話した。それをキムは、「このチームのために力になる時が来た」と日本語訳をした。
「日本だと、『犠牲』という言葉は重くてマイナスのイメージなんですが、韓国語の意味だとどちらかというと、尽くすというニュアンスなんですね。それを犠牲と直訳してしまうと、誤解されてしまうと思ったので、ソンリョンが伝えようとしている意図をきちんと訳すための日本語を使いました。もちろん時には犠牲と訳す場合もありますけどね」

 キムにとって初めてのフロンターレでのシーズンも残りあとわずか。
 残すタイトルひとつを獲るために、二人三脚の日々は、まだ続く。

   

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