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  • ピックアッププレイヤー 2020-vol.13 / 三笘 薫選手

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恵みある人生を

MF18/三笘薫選手

カオルの運命

テキスト/井上信太郎(スポーツ報知) 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Inoue Shintaro photo by Ohori Suguru (Official)

「運命」という言葉は、軽々しく使うべきではないと思っている。だが、この男とフロンターレの関係を知れば知るほど、この二文字以外にふさわしい言葉が見つからない。

 「本当ですよね。偶然、偶然がつながって、フロンターレに入って。もしフロンターレ以外に入っていたらどうだったんだろう…… いや、やっぱり考えられないですね」

三笘薫×フロンターレ。

 この切っては切り離せない両者の出会いまで、時を戻そう。3歳上の兄がサッカーをやっていたことがきっかけで、6歳から自然とボールを蹴るようになった。「友達と一緒に公園でサッカーをする時間が何よりも楽しかった」という少年は、小学2年生になると、地元のさぎぬまSCに入団。並行して東京ヴェルディのスクールにも通っていた。そんな時、両親がフロンターレU-12のセレクションを見つけてきてくれた。だが頭には「?」が浮かんだ。

「フロンターレのことはそんなに知らなかったですね。近くにJクラブがあるなとは知っていましたけど、当時はあまりJリーグも見ていなくて、フロンターレのセレクションがあると言われてもピンとこなくて…。ヴェルディのセレクションがあったらヴェルディに行っていたと思うんですけど、あの時はなかったんです。本当に偶然受けて、偶然受かったという感じですね」

 小学3年生になる直前の2006年1月に行われたセレクションは、フロンターレにとっても大きな命運を握っていた。この年からジュニア(U-12)を創設するため、新小学3、4年生を対象にした初めてのセレクション。クラブとしてはどれだけの子たちが受けに来てくれるか不安があったという。ふたを開けてみれば、後にトップチームに上がる板倉滉や、現在は町田でプレーする岡田優希ら多くの逸材が参加。結果は、むしろ大成功だったと言っていい。

 だが、数人は獲ろうと決めていた1学年下の3年生で、頭を悩ませた存在がいた。ひょろっとした足の速い少年だった。当時U-12の監督だった高崎康嗣氏(現専修大監督)はこう振り返る。

「薫を獲るかはうーんという感じだった。もっと仕掛ければいいのになというシーンでも、前に蹴って『ワー』みたいな。4年生に混ざってやる子をピックアップしていたから、上についていけるかなと。躊躇したんだけど、地元の鷺沼の子だし、最後は獲ろうとなった。いざ始まってみたら、こりゃとんでもない逸材だったなと」

 1つ上の代には、板倉や岡田、さらには1年遅れで入団してきた三好康児ら、強烈な個性が集まっていた。その個性派集団の中でも5年生になる頃には、トップ下、もしくはボランチで、6年生にまじってスタメンで出るようになっていた。

「プロになった選手も多いですし、食らいついていく感じでしたね。ほぼ同期ぐらいに仲良かったですし、小学生なので上下関係とかもなかったので、滉とか康児とか呼び捨てにしてました。今は絶対にできないですけど(笑)。でも常に1個上とやっていたのは大きかったですね」

 最高学年の6年生では主将を任された。全日本少年サッカー大会では、準決勝で名古屋に2年連続でPKにて敗戦。チームを優勝させることができなかった悔しさから、西が丘で泣きじゃくった。それぐらい責任感の強い子だった。

 U-12時代の指導は今でも原点となっている。高崎監督に口酸っぱく言われたのは「どのポジションでもゴールを意識してプレーしろ」ということだった。

「前を見る姿勢だったり、ゴールから逆算しての立ち位置やボールの置き所だったり。全てゴールから考えていましたね。めちゃくちゃ厳しくて怖かったですけど、サッカーの原点、基礎を作れたのは大きかったですし、今にも生きていると思います」

 ジュニアユースでは、ボランチを務めることが多かった。憧れもポルトガル代表FWクリスティアーノ・ロナウドから、次第にスペイン代表MFイニエスタに変化していった。「当時は本当めちゃくちゃガリガリでした」と笑うように、いまみたいなスピードはなく、ドリブルやパスなどの技術に長けた「うまい子」だった。

 転機が訪れたのは、ユースに上がった高校2年の時。ポジションが空いていたことから、左サイドハーフに挑戦することになった。「サイドでも試合に出られるなら出たい」とお試し感覚で始めたが、これがサッカー人生を変える出会いになった。中盤センターの360度見なければいけないプレッシャーから解放され、自由を得た鳥のように、左サイドで潜在能力を開化させていった。

「実際、視野が180度になったので、めちゃめちゃやりやすかったですね。昔からドリブルは得意でしたし、自然と回数は増えましたけど、それまでボランチをやっていたので、中に入ってもプレーできた。最初からドリブルしながらも、視野を確保して冷静にプレーできていたと思います。徐々に楽しさも増えていきましたね」

 努力することすらも楽しかった。当時はユースの練習は午後6時から始まり、終わるのは8時過ぎ。そこから自主練習を行い、最後は食事をとって、練習場を出るのは10時。練習場から40分ほどの距離にある自宅に帰るのは、いつも11時前後だったという。「きつかったですね」と言いつつも、充実感で満たされていた。

「ドリブルを磨くために、練習後に同期の島崎竜(現在はアメリカでプレー)と一緒に1対1をずっとやっていました。いつも帰る時間は遅かったですけど、すぐに食事を出してくれたり、朝も早くお弁当を作ってくれたりしていたので、両親は大変だったと思います。でも遊びたい気持ちもなかったですし、サッカーをやるならそこしかなかった。高校生は疲れを感じないので、本当に楽しかったですね」

三笘 薫選手

 3年時には10番を背負い、ドリブルにもますます磨きがかかっていた。クラブも当然のように、トップチームへの昇格を打診した。フロンターレのユニホームを着て活躍する姿を思い描いていた。だが、三笘が選んだのは筑波大への進学──。周囲の多くは「トップに行った方がいい」と薦めたが、それでも決断は揺らがなかった。

「トップに上がったときに活躍できるイメージがなかったんです。(1学年上の三好)康児くんは当時からすごかったのに、1年目はほとんど試合に出られなかった。康児くんに比べたら自分はまだまだでしたし、自分の武器や能力の低さを実感していました。だから大学で試合を経験した方が成長できると思いましたし、自信をつけるためにも行こうと。人間的な部分で大人になりきれていないところもありましたし、そういったところを含めて大学で一回り大きくなろうと考えていました」

 筑波大を選んだのには理由があった。都会から離れてサッカーに打ち込める環境。授業を通じて運動に必要な知識を学べること。そして、色んな競技のスペシャリストがいること。ここで眠っていたもうひとつの才能が開花することになる。

 筑波大のサッカー部では、陸上専門の先生が手伝いで走り方のアドバイスを受けることができた。体の使い方や技術を覚えることで、それまでは武器だと思っていなかったスピードが徐々に上がっていくのが自分でも分かった。運動生理学や栄養学についても、授業以外にも独自で本を読むなど、積極的に学んだ。篠田洋介フィジカルコーチが「大学のトレーニングの成果だと思いますが、華奢に見えて基礎筋力があって体幹も強い。それがストップ&ダッシュなどの爆発力につながっている」と評価するように、プロでも通用する武器を手に入れた。

 そんな三笘の名を全国区にした試合がある。2年時の6月、天皇杯2回戦の仙台戦。前半6分にハーフウェーライン手前でボールを受けると、2人の間を急激な加速で突破。そのままスルスルと持ち上がり、最後はペナルティーエリアから強烈なシュートをたたき込んだ。60メートルの独走ゴール。後半にも冷静なシュートで決勝点を挙げ、J1クラブを3-2で倒すジャイアントキリングの立役者となった。

「今でもあれは絶対できないですよ。前に行こうと思っていたら、先輩が道を作ってくれて、DFがあまりこなかったので、気付いたらペナルティーエリアにいましたね。あの試合で自信も増えましたけど、まわりの目線が自分の実力より上になった。もうプロサッカー選手になるのは当たり前でしょという感じで見られて、当時はちょっと苦しいところもありました。でもいま思えば、周りの目が厳しい方が、追いつこうと頑張りますし、成長を考えれば良かったと思いますね」

 衝撃を与えた試合から半年後、大きなチャンスが舞い降りる。17年12月、森保一監督が率いる東京五輪代表の立ち上げとなったU-20日本代表のタイ遠征(M-150カップ)のメンバーに選出された。世代別代表を含めて、初めての日本代表入りだった。選出前、関東大学リーグの筑波大の試合を視察した森保監督は、三笘のプレーを見てすぐに「スペシャルな選手だ」と感じたという。

「オフ・ザ・ボールの動きで相手を外せる選手は多いですけど、オン・ザ・ボールの状態でドリブルで仕掛けられる選手は日本には少ない。動きにムダがなく、柔らかくて、スーッと抜けていく。その特長を国際試合で見てみたいなと思い、招集しました」

 初戦のU-23タイ代表戦では、1トップの後ろのシャドーの左で先発した。このときシャドーの右でコンビを組んだのが、後にフロンターレでチームメートになる旗手怜央(順大)だ。大会を通じて2試合に先発。結果は無得点だったが、海外のチーム相手に何度もドリブル突破を仕掛けるなど、上々の「代表デビュー」だった。試合以外でも大きな自信を手にした。この遠征メンバー23人のうち大学生は5人だけで大半はJリーガー。プロというものさしで、自身の実力を測ることができた。

「意外と代表って近くにあるんだなと感じましたね。プロの選手が多かったので、プロの選手のレベルも確かめられたし、全然できるなとも感じられました。そこを知ることができたのは大きかったですし、代表に入るチャンスはあるなと。怜央とは大学選抜でもやっていましたし、やりやすさはもちろんありましたよ。あの時に怜央がフロンターレに行こうとしていたのかは分からないですけど、今思うとすごいですよね」

 この頃には、押しも押されもせぬ大学サッカー界のトップランナーへと成長した。次なるステップは、もうJリーグしかなかった。フロンターレも迷うことなく、3年生だった2018年7月に入団内定を出した。この時、旗手の内定も同じタイミングで発表された。

「自分の中ではフロンターレに入団するのは義務というか、筑波に行くと決めたときから自分に課していたこと。達成感よりも安堵感が強かったですね。でも内定が決まった後の試合で、大きなミスをやらかしたんですけど、いま思えばちょっと浮ついていたのかもしれない(笑)。怜央もフロンターレに来ることになって、いいライバルができたのもそうですし、何より同期が増えたのがうれしかったです」

 今年1月の新体制発表会。1,100人のサポーターが集まる前で、「ただいま」と第一声を発した。親元を離れた息子が、一回りたくましくなって帰ってきた──。4年前にはなかったプロで戦う自信と覚悟を携えて。

「ただいま、はずっと考えていました(笑)。ジュニアから見てくれている人は少ないかもしれないですけど、ユースから、一度大学に行って、帰ってきて。その過程を見てくれている人もいたと思いますし、恩を返したいと素直に思いました。でも大学で活躍したかよりも、大学でやってきたことを示さないといけないという気持ちが強かったですね。危機感は強く持っていました」

 即戦力として期待された通り、初めて臨んだキャンプから自身の力をアピールした。シーズン初戦となった2月16日のルヴァン杯・清水戦で途中出場すると、22日の鳥栖とのリーグ開幕戦でも後半20分から出場し、J1デビューを果たした。

 順調に進んでいるように見えたが、新型コロナウイルスにより、リーグは中断。チームも活動休止を余儀なくされた。6月からチーム練習は再開したが、直後に足首を痛めて離脱することになった。再開後は、最も得意とする左ウイングのポジションでは、長谷川竜也が得点を量産。思い描いていた状況とは違っていた。

「すごく焦っていましたね。竜也くんが、4、5点決めていて、これは復帰してもまずは出られない状況だなと。すごく焦っていたんですけど、トレーナーさんが本当によくしてくれて、いいメニューを作ってくれました。復帰したときに、良い状態で入れたのが大きかったですね」

  7月18日の横浜FC戦で復帰を果たし、迎えた等々力での同26日の湘南戦。後半13分から出場すると、1-1の同33分に待ちに待った瞬間が訪れる。相手のトラップミスからボールを奪うと、ドリブルで持ち運び、最後はDFとの駆け引きから股を抜くシュートで決勝点となるゴールネットを揺らした。ジュニアの頃から夢にまで見た等々力のピッチでのJ1初ゴール。喜びを爆発させても罰は当たらないはずだが、ヒーローインタビューでは、なぜか口から出るのは反省点ばかり……。

「そりゃ、そうですよ。初ゴールは頭になかったですね。あの試合は得点以外、何もやっていなかったので。試合途中でやばいなと思っていました。自分でも思い出せないぐらいミスをしていたので。ヒーローインタビューに行きたくないなと思っていました(笑)。あのゴールがなかったら、おそらく次の試合のメンバーから外れていたと思います。自分を救ってくれたゴールです」

 ここからの活躍はご存じの通り。「自分でも不思議な感覚」と驚くように、公式戦5試合連続ゴールをはじめ、得点を量産。リーグ戦での得点は2ケタを超えた。大学時代と同じように、「三笘シフト」を敷いてくる相手も出てきた。いまやJリーグで最も勢いに乗っている選手と言っても差し支えないだろう。

 以前は遠くに見えていた東京五輪も、コロナ禍により1年延期になったことで、大きくチャンスは広がったように見える。「枠が少ないので厳しい戦いだと感じていますけど、こいつもいたなと認知してもらえるようにはなったと思います。でも……」と続ける。

「フロンターレは毎日の競争が本当に激しいので、結果を残さないとすぐに試合に出られなくなる。クラブで出られなくても、五輪に出られるというのは絶対ない。五輪は二の次というか、考える余裕がないですね。結果を出し続けて、それがつながればいいなと思います」

 シーズンは終盤戦に突入する。歴史的な快進撃でリーグ優勝を決めたチームの中でさえ、存在感はどんどん大きなものになっている。フロンターレで活躍するために、あえて選んだ回り道。その成果をいま、存分にJの舞台で発揮している。

 いま一度、聞いた。「あの時、トップに上がらなかった選択は間違っていなかったと思うか」──。

「間違っていなかったと思っていますし、間違っていないと言えるために、4年間頑張ってきましたから。ジュニアからユースまでの経験はもちろん大きかったですけど、大学での経験が今の自分の半分以上を占めていると思うので、その成果が出ているのは良かったと思います。ただ、23歳の段階でプロ1年目というのは、遅いのは実感しています。でも大学からJリーグに入っても、世界で活躍している選手もいる。あの選択をして良かったなと思えるサッカー人生にしないといけないと思っています」

 あの時、ジュニアのセレクションに出会わなかったら。あの時、左サイドが空いていなかったら。あの時、筑波大に行っていなかったら──。これまでの出会いを、チャンスを、そして選択を、全て力に変えてきたからこそ、今がある。

 三笘薫×フロンターレ。

 運命によって引き寄せられた壮大な物語は、これからも続いていく。

profile
[みとま・かおる]

筑波大学から新加入。瞬発力とテクニックを融合させた変幻自在のドリブル突破、対戦相手の意表を突くラストパスが特徴のファンタジスタ。川崎フロンターレ・アカデミー出身。1年目からその突破力でゲームチェンジャーの資質を華々しく開花させた。東京五輪に出場するU-23日本代表にもコンスタントに選出されており2021年にも期待がかかる

1997年5月20日、神奈川県川崎市生まれ
ニックネーム:カオル

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