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  • ピックアッププレイヤー 2021-vol.02 / 中村憲剛

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ピックアッププレイヤー番外編〜中村憲剛

長い青春

フロンターレ、推し

テキスト/隠岐麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Oki Marina photo by Ohori Suguru (Official)

「もし35歳くらいの体でずっといられるなら一生フロンターレでプレイしたかった」
引退発表をした後にケンゴのブログに書かれていた一文だ。

それは、「もしも、ひとつだけ願いが叶うなら?」と聞かれたら、答えたような類のものだろう。

中村憲剛の引退は、永遠に続きそうに錯覚したふりをして、いつか必ず終わりが来ると分かっていながら、
私たちが向き合わないようにしてきたことだった。

そのことに本人も気づいていたから「みんなが後ろ向きのイメージで捉えないような引退がしたい」という思いが強かったのだろう。
しかしながら、目指したからといって、望んだ結果が出るとは限らない。

ケンゴの同志である加奈子夫人が長男・龍剛くんが納得できるようにと手紙に綴った言葉。
『物事は変化があるからこそ楽しく、終わりがあるからこそ美しい』

その言霊は、引退発表からの2ヵ月、多くの人の喪失感を救って、最後の日々が前向きに、濃密なものになるキッカケになったように思う。

あきらめず、変化を受け入れながらもブレずに継続してきたケンゴが見ていた先に、
こういうエンディングを迎えられたこと、その過程の積み重ねに対して最大限のリスペクトを送りたい。

40歳までの挑戦

「35歳の時は、40歳で引退する、というよりも、『40歳まで現役を目指す』という感じでした。『40』というのはひとつの大きな目標だったけど、もちろん契約の問題もあるし、自分がちゃんとフロンターレの戦力である状況で引退の時を迎えるというのは僕の悲願でした」

 復帰ゴールも、誕生日ゴールも目の当たりにし、40歳での引退を告げられたから、「なぜ今?」という疑問を多くの人が抱いた。

 しかし、40歳まで第一線で、しかもJ1で優勝をするクラブにまでなった史上最強と言われるフロンターレで、監督からもクラブからも戦力として引き留められる程に惜しまれる引き際は、目指した結果だと知ったら、その疑問は尊敬に変わる。それを現実のものにするまでには、一体どれ程の努力があったのか、ということに目を向けるべきだろう。

 35歳というのは、ベテラン選手にとってもひとつの節目だと言えるかもしれない。試合に徐々に出られなくなったり、怪我も増えたり、自分の気持ちがしんどくなったり、理由は様々あれど、続けたくても叶わず引退を決断しなければならない選手たちは実際に多い。しかし、そういう終わり方を中村憲剛が迎えることを、もうひとりの中村憲剛が望んでいなかった。

「そう。だから、それを全うできたことや自分が思っていた以上の終わり方をすることが本当に嬉しいし、逆に言えば、その覚悟を決めていたから今ここに立てたとも言えます。いつまでやるかわからない状態で40歳を迎えるのと、40歳をひとつの目安と決めて大事にしたことで自分の意識が全く違いましたから。実際に35歳までこの世界で生き残るのはすごいことだし、一回立ち止まる時期だとも思います。それぐらい大変なこと。ただ、元々変化していくことが怖くなかったというか、変化をしないと生き残れない選手だったから、絶対に変えてはいけない自分の芯や武器は不変だったけど、それ以外は容易に変化に対応していくことができました。それに俺、35歳の時、まだ何もタイトルを手にしていなかったですからね」

 それも、続きを望んだ大きな理由のひとつだろう。結果的に、ケンゴはサッカー人生で初めて遠い先の目標(引退)を決めていたこの時から、MVP、リーグ初優勝、連覇、ルヴァン杯優勝と手にすることになっていく。

 プライベートでは、35歳の時に加奈子夫人が第三子を妊娠中、絶対安静の状態が長く続くなか、初めて家事をしながらサッカーをする毎日を送ったケンゴは、「遅ればせながら自立した」出来事だったと語ったことがある。そういう意識の変化もサッカー選手としてプラスに働いた部分もあったのかもしれない。そうケンゴも加奈子夫人も感じるものがあった。そして、第三子が生まれた2016年シーズン、ケンゴはMVPを獲得した。

 2017年には、阿部浩之と家長昭博の移籍加入があり、「目が覚めるぐらいの刺激を受けた」と後に振り返っている。「最強の刺客」が加わったフロンターレであっても、自分がゆるやかに下降線を辿るのではなく、どうやって自分自身の価値を見出して、競争に打ち勝って試合に出ていくか。当たり前のように“ケンゴが中心”のフロンターレに見えていたその裏側では、本人はそのポジションを死守するために、考え抜いて、自分を変化させて、勝ち取ってきた努力の賜物だった。

「試合に出るために、どれだけ頭をフル回転させて、どれだけ生き残る術を探してきたか。そこで勝ち残ることで選手として成長できたし、生き残ることで価値も見いだせた。『中村憲剛は負けてはいけない』と思っていました。そう思うことで自分もぐんと上向きにいった部分も大きかったので、クラブには感謝しています」

 ケンゴ自身、選手としてさらにバージョンアップしていく過程で、選手晩年でタイトルという欲しかったものを回収していくこととなった。

 そして、前十字靭帯断裂の大怪我からの復帰。

「2019年怪我をする前までは、実際にどう終わるのかハッキリ言って自分でもわからなかったので、この怪我を乗り越えて、皆さんの前でプレーする姿をまたみせて、引退するんだ。そういう道筋が決まったんだなと思いました」

 前半戦の不在を吹き飛ばすぐらいに復帰ゴールや誕生日ゴールなど強烈なインパクトをラストシーズンにも残したケンゴだが、長期離脱以外にも初めての経験をしたのだという。

「夏には、もう自分としては(復帰して)大丈夫と思ってから、なかなか声がかからず、もうそれは悔しかったですよ」と、表情いっぱいに悔しさを表す。確かにケンゴは当たり前のように試合に帯同してきたから、試合に出る選手を見送って、残って麻生グラウンドで練習をすることもなかった。 「その時期、原田、ゼイン、カイトたち若手ともずっと一緒に練習できたし、こういう悔しさを40歳になる年に味わえたことも自分の今後の人生にとっていい経験になったと思います」

中村憲剛 中村憲剛

“継承”の、その先へ

 ケンゴは、フロンターレのJ2時代を知る最後の現役選手だった。18年という年月は、生まれた子どもが高校を卒業するまでの期間と同じで、アルバムを埋め尽くす程にいろんな経験をしてきた道程は、フロンターレとケンゴにとっては壮大なる成長物語になっていた。

「18年前のあの頃から考えたら本当にクラブが大きくなりましたよね。毎年のようにタイトルが獲れるようになったなんて、本当にびっくりします。でもそれは、苦しい思いや悔しい気持ちをたくさんしてきた人たちがいたから。その歴史があったうえで、今の状況や環境があることは絶対に忘れちゃいけない。それこそ俺がフロンターレに入る前には一度J2に降格して、そこから再出発したクラブであり、地域に寄り添って川崎市の人たちと一緒になって作りあげてきた。その歴史を辿らないことでしか言えないこともある。今の強いフロンターレが当たり前の時代に入ってきたり、育ってきた選手たちや、強くなったフロンターレを応援してくれている方も当然いるでしょう。だからこそ、最後の砦として自分がそういうことも継承していなかきゃという思いでやってきたところもありました」

 2017年のJ1リーグ初優勝の時、15年分の苦しみから解放され溢れた涙は、自分の喜びでもあったし、それまで一緒にやってきて叶わなかった人たちの分まで泣いているように見えた。

 2009年、誰もが「もう取れるだろう」と思って取れなかったタイトル。雨の柏戦で、キャプテンだったケンゴが涙ぐみながら、「優勝したかったです。申し訳ない気持ちでいっぱいです」と答えていたこと。何度も2位を経験したから「もしかしたらまた2位になってしまうかもしれない」という恐怖心や緊張感は常にあっただろう。そういう重みがケンゴの双肩にかつての仲間たちの分も乗っていたからなおさらだ。

 初優勝を心から喜んでいた時、同時に、その先のフロンターレのことを杞憂し、自分が受け継いできたものを下の世代に早く継承していかなければタイムリミットになるという危機感もケンゴは抱えていた。

「そうなんです。でも、あれから数年が経って、当時、自分ひとりで持っていた荷物は、悠、ノボリ、ショウゴ、リョウタたちが背負ってくれたことで変わったかな。だからもうあんまり心配はしていない、みんながいる限りは。その下の世代に彼らがどう引き継いでいくかは、彼らの役割ですから」

 2013年、伊藤宏樹が引退した後の数年間は、どこか孤独を感じる部分もあり、後輩たちが育つのを待ちながら、風間監督の元、選手個人としてプレーに磨きをかけることで、サッカーの楽しさを再確認し、成長に心を砕いていた時間だった。長い間キャプテンとして、先頭で自分が引っ張っていくことを求められてきたし、それが自分の役目だと実践してきた。

 それから4年が経った2017年、キャプテンを引き継いだ悠と抱き合って泣いて喜びあえた。

 さらに3年が経った2020年──。
状況は、大きく変わった。

 2009年に加入したノボリは在籍12年目、安藤は11年目、2010年に加入した悠は在籍11年目、2011年に加入した大島は在籍10年目を迎えた。

 キャプテンは、悠から次のショウゴに引き継がれ、終わりが見えていたからか、ケンゴ自身のチームメイトに対する接し方も、「惜しみなく与える」方向にさらにシフトチェンジしていたように思う。自分がいなくなった後もフロンターレは、強さとフロンターレらしさを両立させてほしいという願いがあったからだろう。

 ケンゴをサッカーの先生として慕ってきたノボリは、12年目でベストイレブン初受賞という選手としての成長と評価をもってして、恩返しをしてくれた。

 交代出場で大島がキャプテンマークを自分に巻いてくれた時、「ちゃんと下につながっていることが確認できて、心おきなく先に行ける」とケンゴは感慨深かった。

 ケンゴから引退の話を直接伝えられた選手会長を務める安藤は、我慢しきれず途中から泣いてしまった。2011年、初出場した雨のガンバ大阪戦、ラストプレーでケンゴが決めたFK弾は、一生色あせないだろう。

 引退セレモニーでは、悠は涙ながらにケンゴへの感謝の気持ちを語った。兄のようだった伊藤宏樹が引退した後、7歳年下の悠がいつの間にか自分の弟のような存在になっていた。

 2010年にフロンターレに加入した時、悠は新体制発表会見の場で、伏し目がちにこんな挨拶をしていた。

「今自分は、右膝前十字靭帯断裂という大きな怪我をしていて復帰が5月から6月になってしまうと思うんですが、こんな自分を獲ってくれたフロンターレのスカウトの方々、スタッフの方々、フロントの方々に感謝の気持ちでいっぱいです。必ずプレーでチームのために貢献したいと思っています。そして、いつかフロンターレの顔になるような選手になりたいと思っています」

 2014年、ケンゴがW杯メンバーに選ばれなかった時、ACLで戦う韓国に向かう飛行機で、隣にいてくれたのは、悠だった。2016年に悠の移籍話が浮上した時、ケンゴが必死で止めたのはフロンターレの継承のために絶対にいてほしい存在だったからだ。

 レッズ戦で史上最多得点記録更新となる年間85得点目をケンゴと悠のホットラインで決められたこと、塗り替えられたその記録はもう14年前になる2006年、かつての仲間たちと成し遂げたものだったこと、そのどちらも感慨深い。

 等々力でJ1最速優勝を決めた時、駆け寄ってくる若手選手たちを見て、「(自分の)子供のようだった」と笑顔で話していたケンゴ。それは、彼らに対しても伝えるべきことやその姿勢を見せてきたという日々でもあったからだ。もはや一選手の枠には収まりきらない振る舞いの変化は、周りにもわかるぐらいだったように思う。

 フロンターレの継承という名のバトンをしっかりと手渡せたことをケンゴ自身が実感できたことは、この幸せな引退の大きな要素だろう。

「ノボリの存在は大きいと思うし、悠も、リョウタもアンドウも在籍10年を超える生え抜き選手がこれだけいるのはクラブとして大きな意味があると思います。それを俺が待っていた間はきつかったけど、ヒロキさんにとっての俺という存在を作ることは、自分の悲願でありクラブのためでもあったと思います。それが彼らであり、ショウゴだった。リョウタが俺にキャプテンマークを巻いてくれたけど、それは俺がヒロキさんにそうしたり、悠が俺に巻いてくれたことを見ていたからだと思う。悠はキャプテンになった時に、『負けた時に先頭を歩くのはこんなにきついんですね。それをケンゴさんは10年もやっていたんですね』って言っていて、俺は悠に『下を向くなよ。お前の立ち居振る舞いを全員が見るからな』って言った。今はショウゴがその背中を見て、キャプテンをやっているんだと思う。中軸となる選手たちがちゃんとつないでくれたと思います。こういうことを昨年とか一昨年は、まだ言えていなかったかもしれない。初めて怪我で長期離脱をして、俺がいない間に強いフロンターレを見せてくれて、その強さも、今年で終わっていいんだって思わせてくれた。2017年の初優勝からここまで、ちゃんとあいつらがフロンターレはこうあるべきっていうものを昇華させていってくれたと思います」

 後輩たちは、一緒に時を過ごし、一緒に戦ってきた仲間に対して思いやりのある行動が自然ととれる、チームメイト=仲間になっていた。

 気づいたら、彼らを同志と呼べる日が来て、いつの間にか自分を支えてくれる存在になっていたことが嬉しかった。

「自分を知っているオニさんの元で引退したい」

 チームの団結力や思いやりと強さの両立は、鬼木監督の人間性や導いてきたものも大きいだろう。

「オニさんが監督でいるチームで引退したかった」

 それもまた、ケンゴにとっての強い希望だった。

 ケンゴは中央大学4年の6月にフロンターレに2日間練習参加し、その年の秋に内定。2003年に大卒ルーキーとしてフロンターレに加入した。

 2004年にはケンゴがボランチにコンバートされたことで、キャプテンだった鬼木達と同じポジションになり、鬼木はどん欲に吸収し成長する後輩の姿を確認し、やがて2006年に引退をする。その後もフロンターレのコーチと選手として長い間一緒にやってきた鬼木が監督に就任したのは2017年。

「自分の終わりを決めていたなかでオニさんが監督になり、それまでの関係性が変わるかどうか心配したけど、変わらなかったんですね。だから、思ったことを言えたし、オニさんはごまかさない人だからいつも自分に向き合ってくれた。オニさんだから(ベテランになった)自分をうまく扱うことも使うこともできた部分が大きかったと思います。オニさん以外の人が監督に就任して、そのなかで引退していくという終わり方は自分のなかでは考えられなかった。そのことはオニさんにも伝えました」

 鬼木が2017年に就任してから、毎年、タイトルを獲得していくなかで、「目の前の試合に全力で戦うこと」「調子がいい選手を使う」などと公言し、本気で選手と向き合い、優勝をめざし、信頼関係が構築されていくチームの変化は目に見えるようだった。特筆すべきは、そうした競争と結果を出しながら、チームメイトの信頼関係の幹もまた太くなっていったことだろう。

 監督として勝つための覚悟を持って臨み、選手たちを誰よりもよく見て選んだ自分の決断に責任を持っていた。その一方で、真正面から向き合う心根は、チームに強さと優しさを兼ね備えた稀有な集団へと導いていったように思う。

 18年というケンゴの現役生活の間には、勝負の世界の常として毎年、出会いと別れを繰り返しててきたが、変わらなかったこともフロンターレにはあった。

「オニさんもそうだけど、クラブのスタッフや、周りで支えてくれた人が変わらなかったのは大きかった。だって、俺が新人の頃から知っているから、自分が自分でずっといられたのは大きかったですね」

 これは性格なのだろうが、ケンゴは、自分を理解してくれる人たちのなかで、のびのびとやることで自分の力を発揮できるとわかっている。もちろん、日本代表のように突然に場を与えられても、そのなかで自分が頑張ることで力を発揮していける精神力も持ち合わせているのだが。

「もちろん取り繕う必要なんてなかったけど、この年齢になると、さすがにロッカーでは年齢なりの振る舞いも必要。でも、クラブハウスのスタッフ部屋だったり、オニさんの前では、リラックスできた」

 ケンゴにすれば、自分ひとりではなく、そういう人たちと一緒に歩んだ18年だった。

「そうです。だからもう本当に感謝しかないです。周りあっての俺だから。監督、コーチ、チームメイト、フロンターレの事務所の広報、事業部、プロモーション部…、みんなのおかげで生かされたという気持ちでいっぱいだから、感謝の言葉しか出てこないんですよね」

中村憲剛とフロンターレの社会貢献活動

 この18年の間には、スタジアムがまだ数千人しか入らなかった時代もあり、動員数を増やそうとスタッフと選手が手を取り合って、地道に地域のイベントに大小問わず顔を出したり、商店街の協力を得てサポートショップ制度を作り地域とフロンターレを結び付けたり、工夫をこらしたスタジアムイベントの数々やファン感謝デーなども継続して取り組んできた。やがてそれは、フロンターレを語るうえで欠かせない特色になっていった。その輪の中に最初にケンゴが入った時は、「どのクラブもそうなのかと思っていた」という無知から来る部分も多少はあったが、何でも楽しんで一緒にやるという性格も手伝い、やがて「これはフロンターレ独特のものなんだ」と知ってからも、伊藤宏樹や寺田周平ら先輩たちが当たり前のようにしていたクラブを知ってもらうための活動を一緒になってやってきた。

 2003年開幕戦はビッグアーチでのアウェイ広島戦だったが、87分に交代出場でJ2リーグ初出場をしたケンゴは、12426人が集まった観客を見て「さすがJリーグ」だと興奮した。だが、ホーム等々力に戻ってくると現実は、3000~5000人程度しか埋まらなかったことも多く、広島、新潟と三つ巴でJ1昇格争いをし、ラスト3試合で注目されるようになると、メディアの露出が少しずつだが増え、観客数がぐんと伸びることをケンゴは肌で感じていた。

「入ってすぐに、勝って注目されると動員が増え、負けると減るんだなってことに気づきました。でも、だからといって地域密着活動やイベントに出なくていいかというと、それも違うということも知りました。負けたら動員がちょっと減るけど、変わらず来てくれる人たちも一定数いたんです。クラブの考えは後者の人たちをいかに増やすかだったし、『川崎の人たちが楽しくなかったら、何がプロサッカー選手だ』ってスタッフが言っていたのも説得力があって納得できたんですよね。そうやって、地道にいろいろな活動をやってきましたが、全てはみんなでフロンターレが優勝するため、強くなるため、愛されるためという目的を果たすため、同じベクトルに向かってやってきました。それは、この後も続けていってほしいし、前のめりでやってくれるような存在の選手も出てきてほしいですね」

 今、手にできているものは過去の積み重ねで得られた現状である。ケンゴは決して現状に不満があるわけではなく、むしろ、その先の未来のフロンターレのために「今」すべきことは何かをみんなに考えてほしいということを伝えたいのだ。

「今は魅力あるサッカーを見せられて、優勝する強さがあり、黙っていてもチケットは完売しています。もちろん時代の変化もあるので、昔と同じようなことはやらなくてもいいとは思います。ただ、気持ちや熱量みたいなものは選手やスタッフには、変わらずに持っていてほしい。自分たちの立場をうまく活用して、もっと知恵を絞って面白いことをやっていってほしいです。それは、サポーターや応援してくれるスポンサーの皆さんにも言えることだと思います。ずっと勝ち続ける保証はないし、どこかでノンタイトルの年も来ることがあるでしょう。その時に、それでも応援してくれる人がどれだけいるか。今の努力がその時に結果として出るのは過去の歴史からも分かっています。結果が出なかった時に、あの時にやっておけばよかったでは遅いんですよね。フロンターレのエンブレムをつける意味を選手もサポーターも川崎市の人たちも、スポンサーの皆さんも理解して、ひとりひとりがどう行動するか、だと思うんです。願わくば、温かい空気はそのままに、常勝軍団として、今の状態が続いてほしいし、それはみんなの努力次第だと俺は思います」

 ここまでケンゴが前のめりに発言できるのは、フロンターレの活動を通して、自分の言動が社会貢献や地域貢献に結びついたり、より多くの人に影響を与えることに気づいたからだ。

 最初は純粋に「自分を知ってくれて応援してくれる人が増えていく」というスポーツ選手としての喜びを感じられたことが入口だった。

「時代もあると思いますけど、入った当時はただの学生からプロになって、やがて中村憲剛として認知されて、応援してもらい、自分が成長する喜びを知ったんですよね」

 その後、ケンゴはチームの「顔」としてフロンターレの露出を中心選手として担っていくことになる。その頃、むしろクラブとして地道な広報活動は、選手の中では伊藤宏樹が担うことが多かった。宏樹引退後、チームリーダーとしての責任以外にも、クラブのためにどういう発信をすべきかということを能動的に行動するようになったことで、ケンゴ自身が社会貢献活動に自分が果たせる役割のようなものをより深く考えるようになる。2015年に始めたtwitterは、やがて試合後、最速で更新をすることがサポーターの楽しみにまで昇華していったのはその一例だろう。

「そうですね。以前は自分ではやっているつもりだったけど今思うと、自分都合のタイミングや内容の発信に留まっていたなと思います。ヒロキさんが引退してから、本当の意味でクラブのことを考えて発信するようになりました」

 怪我をした時には、自分が発信することで、同じ怪我をした人が希望が持てるように。

 子どもの頃から負けず嫌いでサッカーが大好きだった自分が、自分の可能性に蓋をせず、あきらめずにサッカーがうまくなるために頑張ったことで、プロ選手になったというバックボーンを知ってもらい、希望や夢を与えること。

 選手の自分が発信をすることで、よい影響を与えられ、誰かを元気にし、勇気づけられること。

 自分がクラブや企業、同じ志を持つ人たちと協力することで、大きな取り組みに発展する可能性があること。

 その結果、有意義な社会貢献活動や地域貢献活動に結び付けられること。

 そういう影響も視野に入れて、発信することの意義も選手として感じられたこと。

「そういうことをフロンターレで自分が教えてもらい、実際に行動していくことで、本当にここ数年で人間として成長できたと思います。もちろん自分にまだ足りないところはあるけど、いろんな人たちの気持ちを想像して発信することができるようになったなと思います」

 初優勝した時に、フロンターレを離れたところでも、「おめでとう」とたくさんの声をもらい、それに感謝していたケンゴは、それから3年経って引退を迎えるに当たり、発表してから訪れたアウェイ各地でも、アウェイクラブの選手・スタッフだけでなくサポーターからも拍手で労われ、自らも感謝を伝えられたことは選手冥利に尽きる出来事だったという。

「鹿島、大分、清水、鳥栖など、アウェイのスタジアムで本来はやるべきことではないことだけど、皆さんにあのように迎えてもらい、本当に自分がJリーガーとして18年間やってきたことが肯定されたような気持ちになりました」

 そういう境地にまで到達できたからこそ、ケンゴはこれからのことに思いを馳せている。

「だから俺は還元したいんです。フロンターレにもJリーグにも日本サッカー協会にも。俺がやってきたことは、みんなにも絶対にできる。もちろんいろんな要素があわさって偶然できたこともあったかもしれない。だけど」と言って、胸をポンポンと強く叩いた。

「俺はここだと思う。気持ちだと思う。熱量だと思う。それを言い続けていきたいですね」

Jリーグ、Jリーガーの可能性

 自分が何かをやることで、自分を知ってくれる人が増えて、それで等々力にひとり、ふたりと観客が増えたり、フロンターレや自分を好きになってくれるファンやサポーターが増えていく。露出を惜しまず協力する度に、その輪が広がっていくことを実感しながら、選手として自分にできることの意味やその影響力を知った。クラブが取り組んできた地域密着、ファンを楽しませるイベント、プロモーション活動、企画の表現の中心には、常にケンゴというフロンターレのシンボルがいた。だからこそ、その経験からJリーグや選手の可能性を信じているのだとケンゴは言う。

「正直に言えば、Jリーグ、Jクラブ、Jリーガーとしてもっとやれることがあるんじゃないかって思うんです。責任は大きいけど、その分いいことをすれば世の中のため、人のためになる。地元企業がJクラブやJリーガーを使って地域の人たちに元気と勇気を分け与えることもできる。今はもう、選手がサッカーだけやっていればいいという時代は終わったと思います。これだけネット環境が普及しSNSも盛んになった状況で、もっと何かを周囲と協力して成し遂げることもできるはず。いま、世界中でコロナ禍のなか、もしかしたらスポンサーも支援を続けるのは厳しくなるかもしれない。だからこそ今、クラブは存続させていくために努力をしなければいけないと思います。厳しい言葉に聞こえてしまうかもしれないけど、実際に自分がやってきたことだから、絶対にできると思うんです」

 近年では、発達障害の子どもたちがサッカーに触れ合うための取り組みをフロンターレが行い、その取り組みは2020年5月にJリーグシャレン!アウォーズ「Jリーグチェアマン特別賞」の受賞にもつながっている。

「Jリーグとしてもシャレン!という社会貢献活動の動きが始まりましたが、俺は社会貢献や地域貢献活動をすることはプラスでしかないと思うし、選手としてプレーを評価されることはもちろん優先順位は高いけれど、プレー以外でも価値を認めてもらえることの喜びも知ってほしいし、自分が何か行動することで喜んでくれる人がいるということも知ってほしいと思うんです。とくに2020年はコロナ禍で世界中で大変な状況でしたけど、Jリーグは感染対策も徹底し、老若男女問わずサッカーが楽しめている。それは、日本の誇れる文化ですよね。コロナという未曽有の危機に直面して、今までと同じようにやっていればいいということは絶対にないし、それを行動に移すのはクラブであり、選手だろうと思います。自分たちの存在価値をサッカー以外でも示していかないといけない時代だからこそ、今後それがすごく問われると思います」

 クラブとともに発信することを続けてきた異色の選手が、コロナ禍の特別なシーズンを経験できたことは、後に残すものの意味合いが付加されたのではないかと思う。

「緊急事態宣言の渦中、サッカーをやっていない俺って存在は何なんだろうって本当に何度も思いました。だけど、手洗い動画を子どもたちと撮ったり、クラブの発信に自分も乗って何かやってみる。やらないより絶対やったほうがいい。絶対。オンラインでサポーターと交流出来た時は、本当に嬉しかったし、みんなが嬉しそうなのも表情から伝わってきました。それも自分がサッカー選手なんだって実感させてくれる出来事でした。そのことは、俺だけじゃなく、選手みんなが感じていたと思う。やれば反響があって、反響があれば人の目に触れ、誰がどこで見てくれているかわからないですよね。プロスポーツは、ファン、スポンサーがいて成り立つものだけど、そういう人たちの存在を今年は改めて感じるシーズンでした。俺は、無観客試合をスタンドから観たけど、寂しさがありました。やっぱりスポーツは応援してくれる人がいないと成り立たないんだなって再確認したし、それを自分が現役最後の年に改めてこういう形で実感できたことは大きかったです。だから本当に感謝の言葉しか出てこないです。再開できたこと、Jの全日程が完結できたことは本当にすごいことだと思うし、簡単なことじゃなかったと思う。みんなが我慢したことも多かっただろうし、医療従事者の方の頑張りもそう。そういうことが積み重なって、引退セレモニーまでやらせてもらったことも、本当に感謝しかないです」

ハッピーエンド

 最後の試合でピッチに立てなかったことは選手としてもちろん悔しかっただろうが、アップをしたりストレッチをしたり、勝利のためにチームメイトを鼓舞する姿は、どこか2003年ルーキーイヤーに全力でアップする18年前の姿と重なるものがあった。

 2021年1月1日、ホイッスルが鳴って、フロンターレは初めて天皇杯を手にし、選手たちが願ったようにケンゴはフロンターレの歴史で最初に天皇杯を掲げた選手になった。

 フロンターレ史上初めて2冠を成し遂げた2020シーズンの選手たちは、皆が話していたように、試合に出ている選手、出ていない選手、全員がチームがめざす方向に向かってブレずに戦ってきたからこそ掴み取れたものだ。

 プレッシャー以上の勝ちたい気持ちとそれだけの理由、目指した優勝を自分たちで掴みとれるだけの強さがチームに備わっていた。

 優勝した嬉しさと、それ以上に「これで終わっちゃうんだ」という寂しさが溢れてくる感情、あのピッチでの空間は、ケンゴ引退を含めてこのチームで過ごす最後の時間を噛みしめつつ、かけがえのないものだっただろう。

 

 小学生の時にアカデミーに入った碧少年は、二十歳のチームメイトとなってケンゴに抱きしめられ泣いていた。きっと、ケンゴの心境は父親のようなものなんだろうな、と映って見えた。

 決勝ゴールを決めた三笘も、ケンゴが小学生の時から知っているアカデミー出身者だ。ケンゴが長く選手を続けたからこそ一緒のチームで戦うことができた。

「アキが寂しそうなんだよね」と、ちょっと照れて、でも嬉しそうに話していたケンゴ。ふたりもまた抱き合って顔を離すと、ユニフォームで顔を拭う家長の姿が見えた。家長の存在もまた、ケンゴの選手生活の最後を刺激的なものにしてくれた。

守護神・ソンリョンとも年長者同士、この5年間で信頼関係が太くなっていった。

 ノボリは鎖骨の骨折で出られない悔しさもあっただろうが、三笘のゴールが入るとスタンドから立って片手でガッツポーズを送り、試合後はケンゴの最後の舞台が思い出に残るものにしようと、ピッチに降りていろんな選手やスタッフがケンゴとのツーショット写真が撮れるようにと、自分の寂しさを隠すようにユーモアも忘れず場を仕切っていた。もちろん自分自身も隣で写真に収まって思い出を作りながら。その様子を見て、目には涙が滲んでも、マスクの中は笑顔になれたサポーターも多かっただろう。

 大島僚太は、天皇杯の優勝インタビューで、メディアからケンゴについて問われると、涙が出てきてしまったが、それでもケンゴへの感謝と喪失感を包み隠さず話していた。負けず嫌いな彼らしさやチームを引っ張る覚悟もきちんと伝える姿は立派だった。

「ケンゴさんがいなくなることが信じられない。それぐらいたくさんのことを教えてもらった。あれだけ愛されるサッカー選手はいないと思うし、僕もケンゴさんを愛していたひとりだと思う。ケンゴさんのことを思い出すと悲しくなると思います。今後、負ければケンゴさんのことを言われることもあると思うので、そこは『なにくそ!』と思って、自分が引っ張っていく覚悟を持って戦っていきたい」(大島)

 こんなにも自分のことで、泣いてくれた選手たちの気持ちがケンゴは心から嬉しかったはずだ。それは、自分が伊藤宏樹引退の時に流した涙の量とその意味を知っているからだ。

「みんながボロボロ泣くから、もらっちゃいました。心から嬉しかったです。こんなに幸せなサッカー選手はいないと思います。自分が18年やってきたことは、すべてがフロンターレじゃないともらえなかったこと。こんな幸せなラストを迎えられて本当に嬉しく思います」

『物事は終わりがいつか来るから美しくおめでたい』

 サポーター代表の長男・龍剛くんが読んだ手紙の一文には、そう書いてあった。

 中村憲剛の引退をみんなで共有してきた2ヵ月間──。

 眼前には、ただただ美しい光景が広がっていた。

 後悔がないように生きたい、と私たちは思う。

 後悔とは未来の自分が過去をふりかえったときに感じる感情だ。

 中村憲剛には、後悔が今ないだろう。

 なぜなら、その時、その時、自分がしてきた選択が自分やフロンターレにとって後悔のないものにするために、今を全力で頑張ってきたからだ。

「俺は天才じゃないし、子どもの頃から身体も小さかったから、どうやって生き残るか、どれだけ意識して濃密な時間を過ごすかを考えてやってきました。もちろん紆余曲折もあったし、俺だって怠惰な1日を過ごしてしまったこともあるけど、自分の可能性に蓋をしなかった。もしかしたら、たった1秒の自分の考えや行動で未来は変わってくるかもしれない。今の苦境なんてちょっと進んだら変えられる。だけど、自分で変えられないと思ったら前に進まない。ただ、そのためには頭をフル回転して考えることが必要。人間は、考えることができるんだから」

 フロンターレ選手としてのケンゴのプレーは、もう見られない。

 もっと見ていたい。

 そう思う気持ちは減るものではないし、寂しい気持ちになるのは当たり前だろう。

 だって、私たちは中村憲剛とフロンターレの長い青春を一緒に生きてきたのだから。

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[なかむら・けんご]

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フロンターレひと筋で18年。ハイレベルな基本技術をベースに、つねに相手が嫌がるプレー、相手が嫌がるポジショニングを狙いチャンスを演出するファンタジスタは、チームメイト、サポーターのみならず、多くのファンを魅了し続けた。2019シーズン11月に全治7ヶ月の大ケガを負ったが、2020年夏に見事復活を遂げ、フロンターレ初の1シーズンダブルタイトル獲得を牽引した。2021年元日の天皇杯優勝で最後のシーズンを終え、文字通りクラブの象徴的としてあり続け、そのキャリアにピリオドを打った。

1980年10月31日、東京都小平市生まれニックネーム:ケンゴ

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