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ピックアッププレイヤー〜GK27 丹野 研太選手

献身

献身

テキスト/隠岐麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Oki Marina photo by Ohori Suguru (Official)

献身とは自分の利益を顧みないで、他者または物事のために自己の力を尽すこと──。
自分を客観視して、チームが良い方向に進むために今の自分にできることを精いっぱいやる。
そういう愚直さと熱さを持ちながら、ひたむきに、今日も丹野はGKとして生き切っている。

パリ・サンジェルマンのユニフォームで登校

 丹野研太は、宮城県仙台市に生まれ育った。3歳上の兄の影響で小さい頃からサッカーで遊ぶようになり、小学生に入ると地元のスポーツ少年団に入る。4年生のときに仙台市内で引っ越しをし、そこでできた友人たちもサッカーをしていたため、よりサッカー漬けの毎日を送るようになったことを記憶している。

「サッカーが盛んな地域だったので、周りにサッカーをやってる子が多くて仲良くなってというのが大きかったですね」

 GKをやるようになったのは、小学6年の時だった。コーチに言われて大会でGKを務めることになり、やってみたら、シュートを止められたことが楽しかった。それまでは守備的なポジションのフィールドプレーヤーをしていたが、違和感なくGKとしてスタートが切れた。

「身長はある程度大きい方でしたけど、ものすごく身体能力が高かったわけじゃなく、前は足が速い子がだいたいやりますよね。そういうタイプではなかったし、もしかしたら性格的にも向いていると思われていたのかもしれないです」

 小学生時代の丹野は、“サッカー大好き少年”という感じで、私服はいつでもユニフォーム。パリ・サンジェルマンのレプリカユニフォームを着て学校に行っていた。フランスワールドカップもあり、丹野は川口能活のファンになり、憧れを抱いた。

「同じグローブを買ってもらいましたね。毎試合20本近くシュートを打たれながらも止めて、目立っていましたからね」

 ちょうどその頃、少年団と並行してフットサル場でも集まってサッカーをやるようになっていた。そこにいたのが香川真司も所属していたことでも注目を集めたFCみやぎバルセロナのコーチ陣で、中学からはその2期生として所属することになった。個人を育てることに重きを置いた育成方針だったが、大会においても全国大会に進むなど、チームとしての強さもその注目を集めた理由だった。

「サッカーだけじゃなく人間的にもいろいろ教えてもらったことが多かったです。自主性をもってやることを求められたし、勝つためのミーティングを自分たちでしたり、高校の時に中学生と一緒に練習をすることもあったし、教える場面もありました。今思うと、途中から大所帯になって、監督、コーチ数名以外は大学生やボランティアの方もいて、みんなが熱量高く、一生懸命やってくれました。ここで過ごしたことは僕にとって転機になったと思います」

 中学から高校にかけての6年間は、学校が終わって帰宅して荷物を置くと、自転車で練習場へ。夕方から練習をして、22時頃に帰宅。そういう日々のなかで、中学3年の時はクラブユースサッカー選手権大会に出場を果たす。

「全国大会に行こうということは、東北の田舎でやっている僕らにとって高いモチベーションになりました。中3の時は、アキがいたガンバと予選で当たって引き分け、最後は決勝トーナメントでレッズと対戦して負けました。アキは覚えているかわからないけど、僕らは必死でしたね。地元にいたらそういうクラブとは対戦できないし、経験がなかったから、そのひとつひとつが成長過程において大きなものだったし、自信にもつながっていきました」

 少しずつ戦うフィールドが広がっていったことで、その先に目標として「プロ」を思い描いていたのだろうか。

「まだなかったですね。フィールドプレーヤーでは東北の選抜に入っている選手もいたので、選ばれていない自分はまだまだそういう選手ではないと思っていたし、自分のなかではプロは遠いところかなと思っていました。卒業したら大学に行くんだろうなと思って高校を選びました」

丹野研太 GK27-丹野研太選手

仙台から全国、プロへ

 チャンスは突然に舞い込んだ。

 高校1年の時、全国大会でプレーしていた丹野がスタッフの目にとまり、U-16日本代表に選出されたのだ。

「電話が来て知らせを聞いて、えっ?って感じでビックリしました」

 ひとり、仙台空港からまだ見ぬ世界へと飛び込む丹野は、緊張感でいっぱいだった。

「ほとんど皆が関東、関西のJの有名クラブ、有名高校の集まりで、緊張した数日を過ごして、最後の方だけちょっと試合に出してもらいました。そこから選ばれるようになり、U-17ワールドカップのアジア予選は、GKが2名登録で、3人目のバックアップメンバーでした」

 そういう世界を経験したことで、丹野の気持ちのなかに、「また呼ばれて活躍したい」「プロになりたい」という目標や気持ちが自然と生まれていった。

「そこからは代表の活動は負けて終わってしまったんですけど、国体やナショナルトレセンなどいろんな機会をもらったなかで、アピールし、Jクラブの練習に参加させてもらえるようになりました」

 数チームに参加する機会を得た丹野が最初に練習参加したのがセレッソ大阪だった。高校2年の冬、仙台から大阪へ行き、寮に泊まって練習に5日間参加した。

「森島さん、西澤さん、嘉人さんもいて、テレビで観ている人たちがそこにはいて、緊張しましたね。GKのレベルも全てが違った。いくつかのチームに参加させてもらったなかでオファーを頂いたりなかったりしましたが、そのなかで最初に参加し、フィーリングもよかったセレッソに決めました」

 とはいえ、最初は戸惑うこと、不安が多かった。

「基本的に実力が足りてないしフィジカルもまだまだだったので、シュートも入っちゃうし、ミスも出る。東北から来た僕には初めての関西で、口が達者な人が多かったので、普通の喋りでも少しきつく感じたり、叱咤激励をプレッシャーと感じてしまっていました」

 そんな丹野にとって、人生観を考えさせられるキッカケとなる出来事があった。それは、2003年、地域リーグでJFLを目指すV・ファーレン長崎からのオファーで期限付き移籍を半年間経験したことだ。そこで目にしたのはJとは雲泥の差がある環境のなかでサッカーに向き合うかつてJリーグで活躍していた選手たちの姿だった。

「当時元アビスパを中心にメンバーが集まっていて、ここで成功しなければチームとしても個人としても来年サッカーを続けられるかわからない、というなかでサッカーで生きていく大変さはすごく学びましたし、Jのクラブとは違う厳しい環境で、一生懸命やるということはすごく勉強になりました。土での練習、マイクロバスでの遠征、荷物の準備、若手だったら当然やるのですが、原田武男さん(横浜F、C大阪、川崎F、福岡他で活躍)とか30代のベテラン選手がちゃんとやっていたのはすごいなと思って深く印象に残りました」

その後、セレッソに復帰したが、チームは2008年からの2年間はJ2リーグを戦っていた。丹野自身は、セレッソでの出番は2009年シーズンの最終節の終了間際のわずか1分に終わっていた。そんななか、2011年シーズン途中で大分からオファーがくる。

「その頃セレッソでは、なれてセカンドGK、J1に復帰してからは、また3番手に戻り、このままじゃダメだなと感じていた時でした。試合に出て経験をしないと(選手を)続けられないという気持ちもありました」

巡ってきた大一番のチャンス

 そして、初めてJ1昇格プレーオフ制度が導入された2012年、経営再建中だった大分トリニータがリーグ戦6位からの下克上で、J1昇格を果たすというエポックメイキングな出来事があった。

 丹野はリーグ戦ラスト2試合目となった第41節モンテディオ山形戦で、それまでGKを務めていた清水圭介の体調不良により、試合当日の朝、急遽出場が決まった。

 山形戦に完封勝利をし、責務を果たしたと思っていた丹野は、思いがけずリーグ最終戦でもゴールマウスに立つことを田坂監督より託された。

 結果的に、丹野はリーグ戦2節と、プレーオフ2試合、すべて完封し、大分トリニータは、J1昇格を果たした。

「山形戦は突然出場することになりましたが、普通だったら、最終節は元に戻すところを、そのまま使ってもらったのはすごい決断だなと思いました。ほぼ試合経験もないなかでの大舞台だったので、いろんなことを感じながら試合に出ました。個人的な気持ちももちろんありましたが、その年大分はチームとして夏ぐらいから募金活動をしたり、経営再建の目途が立たないとプレーオフにも出られない状況だったので、大きな思いをみんなで背負いながらやってきました。個人的には、このチャンスに対して結果を残せるかどうかは自分のサッカー人生にとっても大きなことだと思っていたので、自分に対するプレッシャーもありました。結果的に、チームとしてもまとまることができ、掴みとれたと思います」

 いつか来るかもしれないチャンスを見据えて今日一日を頑張ろう。

 今日来たチャンスを自分のモノにするために、これまでやってきたトレーニングと自分を信じよう。

 そのふたつがなければ、このような舞台で自分の力を発揮することはできないのではないだろうか──。

「そうですね。いつチャンスが来るかはわからない。逆に一回の体調不良で、出られなくなることもある。当時はそこまで深く考えていたわけではないですけど、結局は常に一生懸命やることが大事。あとは、その当時もそういう心境でしたが…」と言って、少し間を置いてから言葉を選ぶように続けた。

「なんて言うんだろうな。出ているGKの不幸を願うっていうのは、逆の立場になったときにそう思われているのかなと感じることも嫌なことだから、そういう考えはもたない。自分のなかでそれが確立できたと思います」

 2013年は大分トリニータでJ1も経験、結果的にトリニータは1年でJ2降格をするが、丹野にとっては完全移籍した大分で非常に濃い2年半の月日を過ごせた。

 2014年にセレッソ大阪に復帰した丹野は、そこから2019年まで6年の月日を再びセレッソで過ごすことになる。セレッソの若手の台頭が注目を集め、ワールドクラスのフォルランが加入するなどのトピックがあった一方で、J2降格もあった。J2での2年間は「チームとしてすごく苦しい期間だった」と丹野も振り返るが、そうした苦しみを経てJ1の舞台に戻り、2017年にはルヴァン杯と天皇杯の2冠を獲った。フロンターレと決勝を争ったルヴァン杯、準決勝までゴールを守りセレッソの快進撃を支えたのは丹野だった。

「6年の間には、ジンヒョンが負傷していた時に試合に出させてもらったり、J2時代は絶対にJ1に戻らなければいけないというモチベーションでした。いろいろな経験をしましたが、とくに2017年のルヴァンは、ジンヒョンが代表で不在のなか、無敗で決勝まで行く過程で、ひとつひとつ勝ち上がって行くということは自信になりました」

新たなチャレンジとGKとして生きること

 2020年、丹野はフロンターレに移籍した。それは長年セレッソで過ごしてきた経緯や年齢的なものも考えると、大きなチャレンジに挑んだというように映る。

「セレッソで長い間やってきて、この後の自分のサッカー人生をどうするんだ、というのはありましたし、セレッソとも話し合いながら、チャレンジしたいという気持ちで外に出ようと決心しました。いろんな選択肢も頂きながら、フロンターレからオファーをもらい、またタイトルを狙えるビッグクラブでチャレンジするということをやってみたいと思いました」

 2020シーズン、結果的にリーグ戦はチョン・ソンリョンが圧倒的な存在感でフル出場を果たした。丹野、安藤両選手がベンチ入りをしていくなかで、丹野にチャンスが訪れたのは8月5日に行われたルヴァンカップ第2節鹿島アントラーズ戦だった。この試合フロンターレは3対2で勝利したが、試合後に丹野が残したコメントは本人の人間性を物語っていると感じた。

「移籍してきて、サッカーのやり方、考え方も大きく変わった中でチャレンジしてきた。GKトレーニングもかなりハードにやって、手応えのあった中でチャンスをもらえたので、自信を持ってやれた部分はあった。いろんな思いがある中で試合をやって勝ちを掴めたのは自信になる。34歳になるが、まだまだ成長したい思いも強い。もっと活躍したい思いも強い。これを自信にして、もっと良いパフォーマンス、良い選手、良い人間になれればと思う」

 急な出番でいかに自分を出せるか。そのチャンスの時が、こうしてまた訪れた。

「これまである程度長いキャリアを経てフロンターレに今季加入し、出番がいつ来るかが見えない時期もあったので、一発目が来たときは自分のサッカー人生において大事なゲームになると感じていました」

 いつになるかわからない。でも、来たときに掴まないといけない。そういう1日、90分である。

「監督や新吉さんからは普段通りに、と言われていましたし、それをやれるのが自分の持ち味でもある、と。あとはもう自分次第。これだけトレーニングをやってきて、自信を持ってやれることが大事。今までもそういう局面が何度かあってそれを経て今があると思っているので、そこは自分で掴めるようにと思っています。そのために1日1日全力で取り組むのはベースにありますけど、元から何もやらなくても自信満々でいけるタイプじゃないし、性格もそうだし、それだけのことをやって、周りにもみてもらって、一緒に戦ってくれるというのがあると思っています」

 菊池新吉GKコーチは、2020シーズンを戦うに当たり、フロンターレが攻撃的に戦うなかでGKの役割について鬼木監督からの方向性の示唆もあり、押し込む時間帯が長く守備のラインが高くなるなか、背後のケアのGKの関わりやクロスボールやCKに対するチャレンジなどをテーマに特にキャンプから重点的に取り組んできた。その輪に新たに加わった丹野について、話を聞かせてもらった。

「同じ東北出身ということもあり、彼が若い頃から存在は知っていました。印象としては、ベテランらしく安定しているということ。波がないことはGKにとって一番いいことですが、安定してアベレージが高いパフォーマンスをみせてくれる。鹿島戦でも期待通りのプレーをしてくれましたし、チャンスを活かしたと思います」

 GKは、ひとつしかポジションがない。そして、お互いが最大のライバルであり、最もわかりあえる存在でもある。そういう意味で、フロンターレのGKチームが、神々しくさえ見える時がある。それぞれが自分の役目を果たしながら、切磋琢磨し、次の試合に出ることを目指す。そして、メンバーが決まれば、自分の立場で出来うることに専心する。

 菊池コーチは言う。

「確かにGKグループは特殊なところですが、僕は、全員が怪我なくいいパフォーマンスを通年通してでき、そのなかでそれぞれが成長してもらえればという意識付けができればと心掛けています。

2020年はコロナのことでレギュレーションや日程も変更になり、トレーニングができる時間が例年より少なかったなかで、タンちゃんはベテランらしく、自分のルーティンがあるのでそれを必ずしっかりやっていて、そのうえでGKのトレーニングをしていました。自分をよく知っている選手ですね。そうじゃないと今の年齢までできないでしょうし、質の高いパフォーマンスを維持していると思います。

これだけ連戦が続くとサブGKというのは、非常にコンディション維持が難しいんですね。これだけ地方にも移動があって試合があり、戻ってきてという繰り返しで、サブGKはトレーニングもしないといけない。その厳しい条件のなかで、コンディションを落とさず維持していたのは、自分の体を知っているからだなと思いました」

 同じGKチームの安藤駿介にとっては、2020年は悔しい1年になった。途中までは丹野とサブGKが交代する起用だったが、夏以降は、丹野がベンチに入ったことで、悔しい気持ちに蓋をして、日々のトレーニングをしてきたことだろう。それでもGKチームの一員として、チームに長く在籍している自負やチームへの愛情から自分にできることは何か、という視点で考えてきた。

「いい競争をするなかで、GKの気持ちはGKにしかわからない部分もあり、みんなの気持ちを理解しながら、ピッチに出たらしっかりやろう。そういう感じなんですよね。自分としては、もちろん試合に絡むことを増やしたかったシーズンなので悔しさを抱きながらやってきました。でも、そういう自分の感情は出したくないですし、自分の気持ちをコントロールするのは難しい部分もありました。

GKの練習は新吉さんが、怪我なくみんながいい状態で試合にピークに持っていけるよう逆算してやってくれています。それに集中をするだけ。自分の悔しさは自分に向けたものであって、悔しいからって人に当たってはいけない。ソンリョンが抜きんでているのは、周知の事実であり、それを自分が越えなければいけない。きっとタンちゃんもそういう気持ちだと思います。簡単に超えられる壁でもないこともわかっています。

GKはアクシデントで変わる場合が多いけど、そういう急な出番であっても、自分の力を出せる準備をすること。だからGKは落ち着いている人が多いと個人的には思っているし、自分の力を出し切るために自信も日々つけていかないといけない。だから、お互いのことを何か思うような次元では物事を考えないというか。極端な話、J1リーグで18チームあれば、出られるGKは18人。それ以外の選手は多かれ少なかれ同じ気持ちでいると思います。でも、そういう気持ちは胸にしまっていい練習ができるように集中する。ブレずにやっていく。そういう気持ちでこのチームで長くやってきて、やりがいもフロンターレにしかないと思っているんです」(安藤)

 そういう安藤の思いを最も身近に感じて共感できるのもまた、同じGKチームのメンバーなのだろう。「自分が出られない時に、出ているGKの不幸を思うようなことはしない。そういう自分を確立した。」そう語っていた丹野と重なるものがあったからだ。ある意味で、自分の感情よりも上のレベルで「GKとしての自分」がコントロールしているのかもしれない。だから、GKチームが時に神々しくさえ見えるのだろう。

 コロナ禍のなか、ピッチレベルの選手たちの声がよく聞こえてくることが話題になり、フロンターレにおいては登里享平のコーチングや味方を叱咤激励する声が話題になった。もうひとり、フロンターレの選手たちをベンチから鼓舞する声が頻繁に聞こえていたのが丹野だった。

「今のは、枠に飛んでいたら、入っていたぞ」と、ポジティブな励ましを常にかけ続けた。そのことは丹野というサッカー選手が生きていくうえで、欠かせないものにもなっている。

「大分時代に、田坂監督から、お前の良さはポジティブな声をかけられることだって言われて、そういうことを求めてくれたり感じてくれる人がいるんだっていうのは自分のなかで感じるところがありました。自分のよさがそこならば、それを出してチームに貢献しようとハッキリと自覚したのがその時だったかもしれないです。それによって周りが最大限力を出してくれる雰囲気だったり、チームがいい方向に向かうというように意識はしています」

 そうした献身の気持ちはどこからきているのだろうか? と聞いてみると、少し考えたあとこんな風に話してくれた。

「それも僕自身が生き残っていく生き方、という風に今は思えるかもしれないですね。また、ソンリョンさんを見ていても、僕が思っていた以上に彼がレベルアップしているのを間近で見て、自分より年は少し上ですが、そういうソンリョンさんが成長している姿は自分も勇気や刺激をもらっているし、どん欲にやらなきゃと思わされます。この先どうなるかはまだわからないですが、自分ももっと成長できると思っています。

フロンターレで、ソンリョンさん、ケンゴさんもそうですが、ここにこなかったら味わえなかったこともありますし、若手選手がこれだけ活躍してすごいなと感じる部分もあります。自分がそれをただ見るのではなくて、うまく取り入れていかないともったいない。長くやってきましたけど、僕はずっとトップでやってきた選手ではないし、いろいろな経験をして少しずつ階段をのぼってきたので、チャレンジする気持ちを失わずに自分のためにもチームのためにも常にやっていきたいです」

 2020年11月25日、史上最速でJ1リーグ優勝を掴んだフロンターレイレブンのなかで、丹野も笑顔が弾けていた。5対0でガンバ大阪に勝利した等々力で、仲間のゴールが決まるたびにピッチサイドから大きなガッツポーズを送っていた。

 2020シーズンは、クラブとして初の2冠を達成したフロンターレ。

 迎える2021シーズン、丹野にとってもまた新たなチャレンジの日々が始まる。

profile
[たんの・けんた]

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2005年にプロの世界に入り、地域リーグ、J2、J1とさまざまなカテゴリー、さまざまなチームで経験を積んできたGK。昨シーズンよりフロンターレに加入。2020年はカップ戦1試合の出場だったが、ベンチから大きな声をかけてチームを鼓舞し続けた。今シーズンより家長昭博とともに日本人最年長選手となるが、長いキャリアで培ったものをピッチで体現してもらいたい。

1986年8月30日、 宮城県仙台市生まれニックネーム:タンちゃん

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