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ピックアッププレイヤー 2021-vol.09 〜MF3 塚川孝輝

その壁の向こうに

その壁の向こうに

テキスト/いしかわごう 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Ishikawa Go photo by Ohori Suguru (Official)

「お前、サッカー好きか?」

2020年2月。プロ4年目を迎えたキャンプ中の面談で、松本山雅FCの布啓一郎監督からそんな問いかけをされた。

 まるでサッカー漫画の1シーンのようだが、このときの塚川孝輝は即答出来なかった。以前ほどサッカーに対する情熱を持てなくなっている自分に心当たりがあったからである。

 長い沈黙が続いた。

「正直に言えよ」と促されると「……はい、好きじゃないかもしれません」と正直な思いを話し始めているうちに、目から自然と涙が流れていた。

 振り返ってみると、いつも壁にぶち当たってきた。

 そんな塚川孝輝が歩んできたサッカー人生を辿っていこう。

──

 サッカーとの出会いは幼稚園だ。

 3歳上の兄が入った少年サッカークラブにくっついていったのがきっかけだった。

 生まれ育ったのは広島県広島市。

 遊びといえば、地元の名所でもある黄金山付近での虫採りだったが、サッカーを始めてからはサッカーボール一筋になった。仁保少年サッカークラブに幼稚園から小学6年生まで所属。とにかく走るメニューが多かったが、チームは強かったので、ただただ楽しかった。

「純粋に勝った負けたとか、優勝したりしてみんなワイワイしてましたね。完全に身体能力でサッカーしてました。最初はよく周りを弾き飛ばしてシュートしてましたが、高学年になるにつれて、みんなに追いつかれて(笑)。ポジションは最初はFWで、高学年になるとボランチです」

 練習が休みの日には、近くの公園で父親も交えた3人でボールを蹴るのも日常だった。子供相手に本気を出す父親に、吹き飛ばされながら1対1をやっていたと当時を思い出して笑う。

 そんな特訓の甲斐もあってか、塚川は地元でも目立つ存在になっていく。小学6年生の時にはナショナルトレセンに呼ばれている。そして、セレクションを経て地元のJリーグクラブであるサンフレッチェ広島のジュニアユースに合格を果たす。順風満帆である。

 しかし、ここからプロの道に、とはならなかった。

 中1の時、思い切りシュートを打った際に膝に大怪我を負ってしまい、長期離脱となってしまったのだ。リハビリを終えて復帰するまでに要した期間は、約半年。身長が伸びて身体は大きくなったものの、周囲がどんどん技術的に上手くなっていた。結局、3年生になるまで試合に絡めない日々で、塚川の前に最初の壁が立ちふさがっていた。

 ジュニアユースの同期には、どうやっても敵わない存在もいた。

 野津田岳人(現 ヴァンフォーレ甲府)だ。地元では早くから有名だった選手で、小学生時代に受けたインパクトをこんな風に振り返る。

「僕らの世代では知らない人がいないぐらい有名でした。小学生4年ぐらいから知っていたんですけど、ボールを持ったら1人でゲームを決めていた。『うわっ。こいつ、すげぇな』って。あと、大会で自分は同じスパイクを履いていたんですよ。ディアドラの(ロベルト)バッジョモデルで水色のスパイクだったので、意識してました(笑)。ガクトは当時から1人だけ抜きんでてましたね」

 

 サンフレッチェ広島のジュニアユースでも野津田は完全に別格だったという。

 

 練習では紅白戦でマッチアップすることも多かったが、いわゆるチンチンにやられることが日常だった。その後、野津田はユースに昇格し、高2の時点でトップチームに2種登録。高3の時には、当時サンフレッチェ広島を率いていた森保一監督(日本代表監督)に抜擢されてJ1デビューを飾っている。瞬く間にプロの階段を駆け上がっていった。

MF3/塚川孝輝選手 MF3/塚川孝輝選手

 一方で塚川自身は、ユースに昇格することが出来なかった。

 セレクションが終わった後もユースの練習に呼んでもらうこともあったのだから、当落線上ではあったのだろう。しかし最終的には、昇格は見送られている。本人にとっては初めてぶつかった壁である。

「人生で初めての挫折ですね。もちろん、悔しかったのはあるんですけど、納得できないわけではなかった。切り替えましたね。じゃあ、高校で頑張ろうと思いました」

 自分の力が足りなかった事実にしっかり向き合い、高校サッカーで頑張ろうと決意していた。進学先は広島観音高校を選んだ。

「小学生の頃に憧れていた選手が広島観音に行ったのが大きいですね。あとは練習も独特だという噂を聞いて、ここでやってみたいと思って入りました」

 広島観音高校といえば、2006年にインターハイで初出場初優勝の全国制覇をする快挙を達成している名門だ。畑喜美夫監督による選手主体のボトムアップ式指導で一躍、有名になった時期でもある。

 噂通り、練習は独特だった。

 一般的に部活動といえば、朝練にはじまり、放課後も毎日練習に明け暮れるというイメージだが、広島観音の練習は週2~3回。グラウンドが一面しかなく、野球部との兼ね合いでハーフコートしか使えず、全員が一緒に練習できないという事情も大きいのだが、何より「量より質」だった。1日の練習がとにかくハードで、さらに練習メニューや出場メンバーも、基本的には選手が意見を出して監督の承諾をもらうという形で決まる方式だから、やはりユニークだ。

 こうした環境の中で、塚川は学年が変わるごとに、センターバック、ボランチ、フォワードと複数のポジションでプレーしていくようになる。どこでもできるユーティリティ性をつけていったのも、この時期である。3年次には先輩からの指名もあり、キャプテンを任されるまでになっている。ただそれが重荷になっていたと塚川は笑う。

「自分はキャプテンのキャラじゃないんですよ。『コウキは責任感をもって成長してくれる』とみんな言ってくれるけど、そういう思いになかなか応えられない(笑)」

 本人が認めているように、周囲が期待する「キャプテン像」とはかけ離れた振る舞いも多かった。模範になるどころか、問題児としてミーティングを開かれたこともあったほどだという。こんなエピソードを明かす。

「高校3年の時にFWをやっていたんですけど、やっぱり一番目立つじゃないですか。点を取る楽しさがあるし、点を取るだけで周りからもキャーキャー騒がれる(笑)。でもある日、センターバックがいないからコンバートされたんです。それがすごく嫌で、ハーフコートで紅白戦をやっていた時に、『なんで自分がセンターバックをやらないといけないんだ?』と思って、自分に来たボールを、とりあえず外に蹴ってクリアしまくったんです。もちろん、次の日の朝には監督に呼び出されましたよ。キャプテンだった自分のせいで、みんなが僕のことでミーティングをしたり…… 高校の時はガキだったと思います、本当に」

 らしくないキャプテンは高校卒業後、大学サッカー界の名門・流通経済大学に進学した。

 プロからの誘いもなかったため、本気でサッカーに取り組むのは高校でやめようと思っていたという。だが周囲が、塚川のポテンシャルを放っておかなかった。もっとも、本人は練習参加に足を運んでみたが、流通経済大学のレベルの高さに怖気付いてしまっていた。

「練習に参加したら、河本明人さん(南葛SC)や、中村慶太さん(清水エスパルス)、中山勇登さん(ザスパクサツ群馬)などすごい選手がたくさんいて、こんなにレベルが高いのかとびっくりしてしまった。だから最初はお断りしたんです。こんな4年間は無理だと思ったし、もっと楽しく過ごしたかった(笑)。でも、監督からは厳しいところに身を置いたほうがいいと言われ、両親も自分のしたいようにしなさいと言ってくれて…… 最終的には自分で行こうと決めました」

 大学サッカー界屈指の名門は、所属している部員数も大所帯だ。

 1学年だけ約60人ほどで、当時は230人ほどのサッカー部員がいた。塚川自身は4年生になってから試合に出られるようになれれば良いと考えていたが、早くから抜擢され、1年生の後期リーグから上級生とともに試合に出始めるようになる。

「一年生の後期からセンターバックで出るようになりました。ただ自分の転機は、大学2年だったと思ってます。細かったんですが、2年の時に筋トレをして身体が強くなりました。インカレと総理大臣杯で優勝。夏に日本一になった時は途中からでしたが、冬は全部の試合に出ました。そこが自分にとっての自信になりましたね」

 大学サッカーで結果を掴んできたことで、プロサッカー選手という自分の目標への距離感も変わってくる。当初は「プロになれたらいいな」という夢だったが、次第にその思いも「プロになりたい」という目標に変わっていった。

 実に順調に思える大学時代である。だが、浮き沈みは多かったようだ。例えば4年次にはキャプテンを務めたが、チームをうまくまとめられず、結果も出なかった。

 なにせ部員が約230人もいるような環境だ。

 ピッチ内外を見渡せば、毎日、何かしらの問題が起きていく。上下関係は厳しく、自分がキャプテンである以上、時に注意しなければいけないこともあったが、塚川は口で伝えるのは得意ではなかった。自分は人に注意できるような立派な人間なのかという葛藤を抱えて、自分を押し殺しながら演じていたことも多かったという。学んだことも多くあったが、やはり息苦かったのだろう。

 あるとき、中野雄二監督から「お前が変わればチームも変わるんだ」と言われた際には、友達に頼んで頭を五厘に刈ってもらった。とにかく、何かを変えようとした思いからである。

「気合いを入れたくて、坊主にしました(笑)。チームが勝てていないので、何か自分が行動を起こす。口で伝えるのは下手なんです。気合い見せないといけない思って、五厘にしました。言葉より行動で示したいんです」

 不器用で、まっすぐな塚川孝輝らしいエピソードだ。そんな紆余曲折あった大学時代を経て、熱心な誘いを受けたファジアーノ岡山でプロキャリアをスタートさせていく。2017年のことだ。

 プロ一年目で長澤徹監督と出会えたことも大きかった。

 卓越したサッカー理論を持ちながら、情にも厚い熱血漢として知られている人物である。現在フロンターレでヘッドコーチを務める戸田光洋コーチとも、この時からの付き合いになる。こうした指導者のもと、第2節のロアッソ熊本戦でデビューを飾ると、コンスタントに出場機会を掴み、ダブルボランチの一角として主力を担った。

 プロに入ってから気付かされたものは多くあった。

 例えばあるときに、チームメートから「試合中に、お前と目が合わないんだけど」と言われたことがあった。塚川本人からすれば「……えっ、目が合うってなに?」と思ったのだが、それだけ周りの状況や味方を観察せずに、サッカーをしていたということだ。そうした気づきや、大先輩である加地亮からのアドバイスを経ながら初年度はリーグ戦34試合に出場。2得点3アシストを挙げる堂々の活躍を見せている。

 3年目となる2019年には、J1に昇格した松本山雅FCに移籍を決断した。J2での2年間で自信をつけたことでJ1のレベルでどこまで通用するのか自分を試してみたくなったからだ。

 奇しくも、自身のJ1デビューは、3月のアルウィンで行われた川崎フロンターレ戦だった。だがリーグ二連覇中だったJリーグチャンピオンにはまるで歯が立たなかった。

「全然、ボールが取れなかったですね。一生、ボールを追いかけ回すのか?と思ったぐらい。シンプルに差を感じました」

 家長昭博にフィジカル勝負を挑んで弾き飛ばされたのも、今となっては良い思い出だ。

「自分も当たりの強さには自信があったので、アキさんと当たったんですよ…… 岩に当たったのかと思いました(笑)。赤子のように扱われた。こんな人がうじゃうじゃいるのがJ1なのかと驚きましたね」

 結局、松本山雅FCではリーグ戦でわずか3試合の出場に留まった。出場時間の合計は33分。自分の実力不足を認めた上で、チームのスタイルに合わせられなかったことが原因だったと本人は述懐する。

「全然ダメでした。自分の考え方が若かったのだと思います。監督は反町さんで、自分を取ってくれたということは自分の良さを評価してくれていました。だったら、自分のプレーを出せばいいと思っていたんです。でも自分のことしか出さず、反町さんがチームで要求したものに目を向けていなかった自分がいた。そこのギャップで使われなくなりました」

 夏にはJ2のFC岐阜に期限付き移籍を決断。現状を打破したかったからだ。とにかく、自分を必要としているチームに行きたかった。残留争いをしている岐阜の力になるつもりだったが、ここでもうまくいかなかった。出場機会は得たものの、結果がついてこない。最終的にJ2から降格する憂き目に遭っている。塚川自身、去年までは順調だったはずのキャリアが、この1年で急激な右肩下がりになっている感覚に襲われていた。

 翌年2020シーズン。

 J2で戦うことになった松本山雅FCに復帰したが、自問自答を繰り返す日々だったという。サッカー選手として、見えない大きな壁にぶち当たっている感覚だった。

「正直、サッカーが嫌いになっていました。満を持してJ1に行ったけど、カスリもしなかった。自分の価値は、このレベルなのか。じゃあ、何でサッカーしているのかな?自分がサッカーをしている意味はなんだ?・・・・そんなことまでずっと考えていました」

 そんな塚川の悩みを見抜いていたのが、2020年から就任した布啓一郎監督だった。両者はファジアーノ岡山時代に選手とコーチの間柄でもある。キャンプ中の面談で、指揮官からこんな質問を投げかけられた。

「お前、サッカー好きか?」

 冒頭で紹介したやり取りだ。

 正直に「……はい、好きじゃないかもしれません」と胸の内を明かして話し出すと、自然と目から涙が流れていた。

「お前、昔はサッカー好きだった。好きじゃないと、うまくなれないよな?」とサッカー選手として大事なことを説く布監督の言葉に、塚川は何かを思い出した。

「あの言葉でもう一回、原点に帰れました。先のことは一切考えないで、布監督を男にしたい。この人のために頑張ろう。そういう一心でサッカーをやろうと思ったんです」

 後日、布監督からチームの副キャプテンに任命されている。

 高校でも大学でも、そうした役職を担うのは苦手だったが、これを断ったら男じゃないと思って快諾した。信頼してくれた指揮官の期待にも応えたかったからだ。後輩をご飯に積極的に誘うなど、チームメートと過ごす時間を増やし、ピッチ内外でチーム全体に目を配る役割も意識的に行った。

 この年、自身のキャリアハイとなる9得点を記録。

 そのうち6点をヘディングゴールで記録するなど、武器であるエアバトルでの強さに磨きをかけている。「たまたまですよ」と謙遜するが、終了間際の決勝弾も3点挙げるなど勝負強さも光った。チームの成績は振るわなかったが、シーズン終盤に川崎フロンターレからオファーが飛び込んできた。

「オファーをもらったのは11月の終わりぐらいだったと思います。その前から興味があるという話は頂いていたんです。『まさかフロンターレさんが自分を?』と思いながら、でも(興味があるというのは)よくあることなので、普通の日々を過ごしていました」

 

 塚川が言うように、移籍市場で「興味がある」、「打診を受けた」はよくある話で、そこでオファーが来るかどうかは、また別の話である。だから、代理人からの電話で正式にオファーがきたと言われて、ただただ驚いた。J1のチャンピオンチームからの誘いなのだから、無理もないだろう。

「次の日に起きて、『あの話は、やっぱり夢だったんじゃないか?』って思ったぐらいです(笑)。実際、正式に(契約が)発表されるまで『本当なのか?』ってずっと思ってました」

 自分が通用するかどうかはわからない。でも、挑戦しようと決めた。

 こうして塚川はJリーグのチャンピオンチームの一員となった。

 川崎フロンターレのユニフォームに袖を通して、約半年が過ぎている。彼にとっては、一体どんなシーズンになっているのだろうか。

「そうですね……」

 そう呟いたまま、彼はじっと考え込み始めた。このやりとりは、ウズベキスタンでの集中開催されたACLに行く直前に行ったのだが、自分の状況に本人はまるで納得していない様子だった。しばし沈黙の後、言葉を紡ぎだす。

「……今、自分にできることをやってきた中で、やれることは増えてきたと思います。ただ今まではシンプルにできていた部分が、考えすぎることでできなくなるので、自分の中でもどかしさもあります。でも、これは成長の途中にある壁だと思ってます。もちろん、いつまでたってもお客さんというか、みんなに助けてもらうだけじゃダメですよね。自分ができることを増やしていかないと……」

 意識的なのか、無意識なのかはわからない。この時の彼は自分自身を「お客さん」という表現をした。

「お客さんだと毎試合思いますね。試合に出たからには違いを見せないといけないわけで、『今日は試合に出たけど、自分が何かチームのためにできたのかな?』って、毎回試合が終わった後に考えていますから」

 技術は簡単に上手くはならない。自分の課題に向き合いながら、チームメートにも認められる存在になりたい。悩みは尽きないが、ここが壁を越える踏ん張りどころだと自分に言い聞かせるように彼は言った。

「そういう壁を乗り越えるために来たんだから、何でナヨナヨしてんだろうなって、そういう自分にもムカついています。それに、悠さんには『悩んでいる時は自分が成長している時だから、悩んだっていいんだよ。成長しているということだから』って言われました。悩んでいることをネガティブにとらえる必要はないし、ポジティブでいいって。本当にすごいストライカーだなと」

 だからこそ、彼はウズベキスタンでは自分を奮い立たせていた。

 出番が巡ってきたのはACL第2節の北京FC戦の後半から。しかし、この試合でも自分の持ち味を出せないまま、タイムアップの笛を聞いている。翌日、鬼木監督から「自分の良さを出していい」と諭された。

「もっと思い切ってやればいいいのに、みんなに合わせようとしていました。難しく考えすぎている自分がいたと思います。そうしたら、試合の次の日に、鬼木監督が『自分らしいアンカーでいいから』と色々と話してくれたんです。

『ジョアンにはジョアンの良いところがあるんだから。合わせないといけないところはあるけれど、自分の良さを出していい』と。

 その言葉で自分の中でつっかかっていた部分が取れました。もっと自分自身を信じてあげてもいい。自分らしさって何だろうって思ったら、アンカーのポジションでも、ゴールを狙ってもいいよなって。初めてのアンカーで、自分もチャレンジしていく部分もある。失敗することもあるかもしれない。でも、縮こまっていても自分らしくない。その次の試合も途中から出たのですが、ゴールを狙いました。自分にしかできないアンカー像を作れたら良い。そう思ってやっていました」

 第3節と第4節は、ユナイテッド・シティFCとの連戦だった。出場機会を得た塚川は、何か吹っ切れたように攻守に積極的なプレーを見せている。彼の中で、再び何かが変わり始めていた。

 だがその矢先の第4節・ユナイテッド・シティFCで、セットプレーでのゴール前の競り合いから相手GKのパンチングを頭部に受けた。なんとかプレーを続けたが、結局、脳震盪の疑いとなり交代となった。

「泰斗から良いボールが来て、突っ込んだ矢先にああいう形になってしまいました。最初は問題なかったんですけど、手が痺れてきて、これはやばいと思ってオニさんに言いました。自分はあそこで逃げてしまうほど器用な選手ではないので、あのプレーは仕方がないと思ってます」

 帰国後に行った検査の結果、大事に至らなかったのは幸いだった。だがゼロックス・スーパーカップに続く今季2度目となる脳震盪のため、復帰には万全を期さなくてはならない。復帰まで時間を要すことになりそうだが、ここで焦りは禁物である。

 先が見えない状況だが、自分に言い聞かせるように彼は言った。

「自分にできることをやる。やるべきことはたくさんあるので、ピッチに戻る時に、何か変わったなと思われるようにしたいです。もちろん、肉体的にも強くなって戻ってきたい」

 ほんの1年半前、サッカーが嫌いになるほど苦悩していた男は、J1のチャンピオンチームでの競争の場に身を置いている。そして、いまだ逆境に向き合う日々の中にいる。それはこれまでのサッカー人生で最も高い壁かもしれない。でも、全てを乗り越えるためにここに来た。

「試合に出て、結果を出すことでみんなにも認められると思っています。そこが一番、わかりやすいですよね。そのためには、自分が積み上げていくものが正解だと思ってます。早く治してピッチに立って、チームのために貢献したい。ここにきた時に、自分は試合にすら関われないんじゃないかと思っていました。でも、こうやってチャンスをもらえていた中で、そのチャンスをくれているオニさんにも、結果で恩返ししたいと思っています」

 サッカー人生最大とも言える壁を乗り越えられるかどうかは、誰にもわからない。

 でも、ひとつだけ確かなことがある。それは、塚川孝輝というサッカー選手は、この壁にぶちあたったままでは決して終わらないということだ。

profile
[つかがわ・こうき]

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松本山雅FCより完全移籍で加入した大型MF。サイズがあり空中戦にも強く、フィールドのあらゆるポジションをこなすユーティリティプレーヤーでもある。昨シーズンは松本で持ち前のハードワークと対人戦の強さを武器に29試合に出場し9得点を記録。チームが苦しいときに勝負強さを発揮できる異色の選手として、その独特な感性をピッチで思う存分発揮してもらいたい。

1994年7月16日、広島県広島市生まれニックネーム:こうき

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