ピックアッププレイヤー 2023-vol.02 〜MF26 永長鷹虎選手
テキスト/林 遼平 写真:大堀 優(オフィシャル)
それまでいかに無名であっても、一度、花が開けば誰からも注目されるような存在となる。
ただ、そこに至るには並大抵の努力では物足りない。他の誰よりもサッカーに対して努力してきたものに、その瞬間は訪れるのである。
高校年代まで無名だった永長鷹虎もそうだった。
「誰よりもサッカーをしてきた自信があった」からこそ、今、永長は川崎フロンターレにいるのだ。
2003年、永長は兵庫県で生まれた。4兄弟の四男として育った少年は、ラガーマンだった父親の影響でラグビーに連れて行ってもらうこともあったようだが、「怖すぎて絶対にやりたくない」と拒否。兄弟全員がサッカーをやっていたこともあり、ボールをひたすらに蹴る道を選んだ。
兄が所属しているチームについていってはプレーを眺めていた少年は、幼稚園の年少からスクールに通い始める。そして、ACアスロンというクラブでプレー。ここでのトレーニングがドリブルを武器にする起源となる。
「ドリブルをひたすらやるチームでした。もう練習が嫌になるくらいずっとコーンを使ったドリブル。試合中のドリブルは好きだったんですけど、練習のドリブルはあまり好きではなかったですね(苦笑)。でも、あの時の練習がすごく今につながっていると思います」
ちなみに小さい頃、憧れていたのは、当時、青森山田高校で選手権を席巻していた柴崎岳。「何しても上手い選手だなと。それまで真剣にサッカーを見ていたわけではなかったので、柴崎選手のプレーを見て衝撃を受けたことを覚えています」と、そこからサッカーへの興味もさらに湧いたという。
加えて、永長少年をサッカーによりのめり込ませたのは親友の存在だ。
「同じチームの2歳上に家も近くてすごくサッカーが好きな友達がいました。彼と朝、学校に行く前に公園に行って1対1をしたり、学校から帰ってきたらすぐまたボールを持って公園に行って夜までサッカーする。そんな日々がずっと続いていました。僕もサッカーは好きでやっていましたけど、彼は僕よりも好きですごく誘ってくれた。うまかったので、ちょっと嫌だった時もありましたけど(苦笑)。あの日々は大きかったですし、彼は今でも憧れている存在です」
中学に上がると、ACアスロンでコーチを務めていた指導者が新たに作ったクラブ、リガールJPCに加入した。一度セレクションを受けに行き、ドリブルに関しては自分の力が通用することもわかったため、あえて他のチームを選ぶ必要もなかった。
しかし、創立1年目のチームとあってリーグ戦は4部からのスタート。先輩もおらず、対戦相手も「正直、あまり強くなかった」こともあり、いかにして上手くなるかを考える必要に迫られた。
「自分が成長するとなったら試合も大事ですけど、練習や自主練のところだと思って、その時間は特に大事にしていました。ただ、あまり苦手なことを克服するのが得意ではなく、苦手なところから結構逃げていたところがあって。好きなことはひたすら自主練するけど、今考えると、逆に自分の中の課題に向き合えていなかったなと思います」
少しでも気を抜いてしまえば、練習する時間も減ってしまうような状況だ。それでも永長少年は、このクラブチームだからできることがあると前を向いた。だからこそ、中学3年間の日々をこう振り返っている。
「個を磨くところは、小学校に引き続き中学校でもやり続けられる環境があったことは大きかったと思います。それを許してくれたコーチもいました。逆にそういうチームでなかったら、周りと比べてすごく背の低かった自分は埋もれていたと思うので、ここで良かったと思いますね」
また、リガールに入ったことが大きな出会いをもたらすことになる。それが興国高校の内野智章監督だ。大阪府の興国高校サッカー部は、プロを目指す若き才能が数多く集まり、近年は毎年のように多くのJリーガーを輩出している強豪校だ。
そんなチームの指揮官がクラブの練習に月1でクリニックに来る。そこで行われるトレーニングが永長少年の興味を引いた。高校年代と言えば、どうしてもフィジカルやスピードが優先されるところが多い。一方で、興国高校は足元の技術や個の力を最大限尊重してくれるチームだった。その上で強度もある。すぐにこの高校に行きたいとコーチに伝えると、毎週水曜日に行われる練習会に行ってこいと勧められた。
結果、週に1回行われる練習会に参加し続け、興国高校に進学することに決めた。練習会に出ていたこともあってレベルの高さは承知の上だった。むしろ同級生と一緒にピッチに立つと、「余裕があることも感じていた」と言う。
ただ、ここで一つの壁にぶつかることになる。何事もスムーズに進んでいたサッカー人生で、初めてメンタル的に厳しい時期がやってきた。その理由は2つ。戦術と背番号だ。
「入ってすぐは1年生チームで出させてもらって活躍もできたんですけど、体も成長してきた中、だんだん戦術がいろいろ入ってきた。自分は戦術をこれまで全く学んでこなかったので、最初は監督の言っていることが全然入ってこなくて焦りました。何を言っているんやと(笑)。逆にチームメートは理解していいポジショニングを取ったりしていて、これをできるようにならないと試合に出られないのかとなって嫌になりましたね」
今まではドリブルや足元の技術など、個に特化してプレーしてきたが、ここからは試合に出るために戦術的な要素が求められる。そこになかなかついていけなかった。加えて、興国高校のエース番号の一つである13番をもらったことも焦りにつながった。
「興国高校は毎年13番と14番が入れ替わる形になっていて、どちらかの背番号をその代のエースが付ける感じなんです。1歳上の14番は、今はサガン鳥栖でプレーされている樺山さん(樺山諒乃介選手)で、その下の僕らの代のエースナンバーである13番を僕がもらいました。だから、戦術的なことができず、あまり試合に出られないことが多くなった時、『この番号をもらっているのにプロにならなかったらやばい』というプレッシャーがありました。毎年、13番と14番をもらっている人のほとんどがプロになっているのに、オレで途切れるかもしれないと。その時に結構メンタルに来るんだなと思いました」
初めての挫折。場合によっては腐ってしまってもおかしくなかった。だが、永長の頭の中にサッカーを「辞める」という言葉はなかった。
「シンプルにサッカーが好きだったし、誰よりもサッカーはしてきたという自信がありました。それにサッカーを嫌いになったところで、嫌いになって何をするのかと言われたら何もできないなと。だから、やるしかないなと思いましたね」
サッカーへの思いはより強くなった。
そんな永長を内野監督も期待していたのだろう。時折、職員室に呼んでは戦術的なことを叩き込んだ。その時間は10分程度ではなく2〜3時間ほど。職員室の先生はだんだん帰路につき、気になった校長先生がお茶を渡しにきてくれることもあったという。そういった状況に対して「こんなに教えてくれているのに、何もできない自分が悔しいという気持ちがありました」と振り返る。
また、家族からのサポートにも助けられていた。毎朝5時に家を出る息子のために、母親は早起きをして朝食やおにぎりなどを用意。体が小さいこともありお肉を食べる必要性があったため、毎朝焼肉を作ってくれた。
そういったサポートを徹底してくれた両親、自分に期待していろいろなことを教えてくれる監督。そんな人々の思いを感じ、高校3年生になり寮に入ることが決まったことで、改めて永長の中で目指すべき目標を定めた。
「家族もこれだけやってくれていて、監督も自分に期待してくれてることを考えた時に、そこから本気で絶対にプロにならないといけないなと思い始めました」
高校3年生になってインサイドハーフやトップ下などさまざまなポジションをこなしたことで、「どこでドリブルして、どこでボールをはたけばいいか」を学んだ。そして、いろいろな技術を手にした永長は、ついに右サイドというポジションに落ち着くようになる。
「一番自分の強みが出ていたし、得点に絡むことが多かった。自分はここで活躍しないといけない、ここで勝負するんだという思いになりました」
そして、怪我人が出たこともありピッチに立つ時間が多くなると、ここで才能が花を開くことになる。試合に出ては結果を残してアピール。徐々にスタメンに定着するまでになった。
するとある日、鹿児島県の強豪・神村学園と静岡県の強豪チームである静岡学園と、試合を行うタイミングがあった。そこには数多くのスカウトが集結。新たな才能を発掘するため、多くの視線がピッチに注がれていた。
そこで永長は結果で自身の力を証明する。
「ここでアピールしないとプロ入りに行くのは無理だと思っていたので、何が何でも目に止まるようなアピールをしてやろうという思いはありました。チームも勝ちましたし、すごく目立ったわけではないかもしれませんけど、見てくれていた人は声をかけてくれましたね。そこからプリンスリーグがあった中で、毎週、向島さん(向島建スカウト)たちが見に来てくれて、その時にはだいぶ自分自身も自信をもってプレーすることができるようになってきた。そこで結構オファーのお話をいただけるようになって、フロンターレから来た時は即決で行きたいと決めました」
数カ月前まで三者面談で「行く大学がないかもしれないぞ」と話していた中でのオファー。最初は「間違いかと思った」と笑ったが、両親が喜ぶ姿を見て改めてプロへ行くんだと実感した。それも日本トップの川崎フロンターレに加入するとあって、気持ちは舞い上がった。
「やはり見ていても楽しいサッカーをするし、YouTubeで練習風景を見ていて、こんなサッカーを僕もしたいという気持ちが強かった。それにこのチームに入ったら絶対にうまくなれるなと。オファーをもらったにはここに行きたいと決めました」
プロ入りを決めた後、世代別の日本代表にも呼ばれて結果を残した。最終的に高校サッカー選手権大会は全国大会まで行けず、悔しい終わり方になってしまったが、高校3年間が自分にもたらしたものは大きいと永長は語っている。
「自分は中2ぐらいから行っていたので、言ってしまえば5年間くらい興国にお世話になっています。その中で、自分が活躍できたのはたぶん1年間もなかったんですけど、それでも僕を支えてくれた監督、家族、一緒に戦ってくれた仲間に感謝したいです。それと、小学校や中学校の時に比べてドリブルだけでなく、戦術やパスの大事さ、どこでドリブルを使って、どこでパスを出すのかなど、高校に行ってすごく選択肢が広がったと思いますし、ドリブル以外の大事さを興国に行って気づかせてもらったと思います」
2022年、永長はついにプロの世界に飛び込んだ。高校時代に練習参加こそあったが、毎日、フロンターレの選手たちとトレーニングをすることは、うれしさと共に難しさを感じることにつながった。
「みんな上手いのはわかっていましたけど、動画で見るよりやってみるとスピードがやばいなと。初めのボール回しだけで息が上がるぐらいきつくて、『こんなところに入って大丈夫なのか』と思う気持ちも正直すごくありました」
特に衝撃を受けたのは脇坂泰斗と大島僚太だった。
「脇坂さんは全部足元にボールが止まるし、置きたいところに置ける。かつ周りも見えているのですごくうまいなと思いました。大島さんはほとんどボールを見てなくて、自分が動いている時もずっと目が合うんです。こんなにボールを見ずに運べるのは、ずっと顔が上がってるからだろうなと感じましたね」
止める、蹴るの練習にしても高校時代から取り入れていたが、プロのレベルは想定した以上。全くボールが止まっていないことを痛感してレベルの差を感じ、このままではダメだと自分に言い聞かせた。
「今のままでは1試合も出られないなと思いましたね。自分の長所を出せる時もあるのですが、逆にワンタッチのところも苦手だし、守備のところでも強度が低い。そういうところは厳しいぞと思っていました。ただ、これがやはり日本のトップなんだとすごく感じたし、ここでもっと活躍できたらこれから先もっと海外の人にも注目されるんだろうなって思って、練習のところから意識しながらやっていこうと頑張っています」
そんな永長に出番がやってきたのは、天皇杯2回戦の札幌大学戦だ。その約1カ月前に行われたAFCチャンピオンズリーグでベンチ入りを果たし、「スタジアムでの試合というだけでも興奮した。こういうスタジアムの中で応援されながらサッカーしたいという気持ちがとても強くなった」と語っていた永長のデビュー戦。等々力陸上競技場での一戦は「もしチャンスがあったら絶対に点を決めてやろうと考えていました」
前半を4-0で折り返し、後半のスタートからピッチに立った。これがプロ初出場となった永長は後半20分、ペナルティエリア内中央で知念慶が粘って右へつないだボールを左足で流し込み、いきなり初ゴールを挙げた。
「ここで結果を残さないとこの先、出番はないなと思っていた。試合に出たら絶対決められる自信もあったので、結果的に得点できて良かったと思います」
デビュー戦で初ゴールを記録。ホーム等々力陸上競技場で決めたことで、多くのサポーターに永長鷹虎の名前を覚えてもらう一撃となった。
その後は、同ポジションの強力なライバルである家長昭博らの壁が高く、なかなかピッチに立てないままプロ1年目のリーグ戦の出場はゼロに終わった。悔しさの残る1年になったが、それでもここで立ち止まっているわけにはいかない。今年こそはもっとピッチに立つ時間を増やそうと努力を続けている。
「自分の特長を出すことだけでも大変なのに、そこから自分が苦手な守備などが入ってくると、やはり頭がパンパンになるところがありました。出ている選手は強度も高いし、取り切る力もあるので、そこが自分も上がってくると、もっと良さも生きてくると思うし、味方からの信頼も違ってくると思っています。そこは課題ですし、伸ばしていくしかないですね」
再びサッカーに対して真摯に向き合い、誰よりも努力を続けることで自信をつける。そうすることでフロンターレでも、才能の花を開かせようとしている。
「昨季はJリーグでデビューできなかったですし、目に付くような活躍が全然できなかった。逆に1年間通して自分が通用するところであったり、自分が苦手だった課題も明白になったと思う。今年はそれを生かして、出場機会を与えてもらえるように、まずはチームメートの信頼を得たり、監督の信頼を得られるように練習からアピールしていきたいと思います。将来的には三笘選手のように海外からオファーが来るような選手になりたいですが、まずはフロンターレでJリーグに出て結果を残すことを目指していきたいと思います」
今年こそはフロンターレの一員としてしっかりと試合に出場し、一つでも多くの勝利に貢献する。永長は新たな思いを胸に、2年目のシーズンに挑んでいく。
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[えいなが・たかとら]
左足を駆使した繊細なボールタッチと独特な間合いのドリブル突破が最大の武器のサイドアタッカー。トリッキーな動きで対面する相手を翻弄し、サイドから切れ込みフィニッシュワークに絡む。ルーキーイヤーの昨シーズンはリーグ戦での出場はなかったが、天皇杯2回戦でデビュー。等々力でプロ初ゴールを記録した。年代別日本代表で国際大会を経験。日本を代表するドリブラーに成長してもらいたい。
2003年4月7日、兵庫県神戸市生まれニックネーム:たかとら、たかまーる