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ピックアッププレイヤー 2024-vol.02 / MF34 由井 航太選手

乗り越えられない壁はない

テキスト/いしかわ ごう 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Ishikawa Go (Official Writter) photo by Ohori Suguru (Official)

 ──由井航太にとって、忘れらない試合がある。

 高校2年生のときに出場した「高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグファイナル 2022」である。

 この年にプレミアリーグEASTを制した川崎フロンターレU-18は、U-18年代の日本一を懸けて、WESTの優勝チームであるサガン鳥栖U-18と国立競技場で戦っていた。

 前半終了間際に同点に追いつかれ、後半16分の失点で1-2と逆転を許す。

 そこからキックオフで再開されるまでのわずかな間、その失点シーンのリプレイがスタジアムのビジョンに流れており、気持ちを切り替えようとしていた由井の目に入った。気づけば、その映像を眺めていた。

 次の瞬間、キックオフの笛が鳴る。

 どこか集中力を欠いていたのだろう。中盤でコンビを組む大関友翔から自分のところにパスが回ってきたが、そのボールを大関にリターンするのか、それとも自分が受けてターンするのか、一瞬の判断に迷いが生まれた。大関へのリターンをキャンセルしたものの、躊躇した影響で足元のトラップがいつもより大きくなった。ボールを奪いに来ていた相手は、そこを見逃さなかった。

「失点のシーンがスクリーンに出ていたんです。それを見てて『いい崩しだな…』と思っていたら笛が鳴って試合が始まって。頭が動いていなくて… 最初は大関くんに落とそうとしたんですけど、無理だと思って判断を2回ぐらい変えてしまった。迷ってトラップミスして、それを奪われたんです」

 由井に対して詰めていたのは、現在ポルティモネンセ(ポルトガル)でプレーしている福井太智だった。ボールをかっさらわれ、そのままドリブルシュートを豪快に決められた。あっという間の追加点。失点の瞬間、由井は思わず顔を覆った。勝敗を大きく決定づける3点目だったからだ。

 その後、岡崎寅太郎のゴールで追撃するものの、試合は2-3で競り負けた。あと一歩のところで、川崎フロンターレU-18は日本一のタイトルを逃す結果となった。

 自分に対する悔しさ以上に、3年生に対する申し訳なさで、試合後の表彰式では涙が止まらなかった。この記憶を振り返る由井の表情には、いまだに苦いものが残る。

「先輩たちに申し訳ない。それしかないですね。タイトル取れなかったとかより、先輩たちを最後、笑顔で終わらせてあげられなかったことで、一番申し訳ない気持ちでした。1年間戦ってきてタイトルも取ったのに、こういう試合でああなっちゃうんだってのがすごく悔しかった」

 日本一をかけた舞台での、痛恨のボールロスト。

 それは、いまだに由井航太の脳裏に強く刻まれたものとなっている。

 しかし大事なのは、あの経験をその後のサッカー人生にどう活かすかだろう。

 チームを率いるフロンターレU-18の長橋康弘監督は「あの失点は、まさしく彼自身が改善しなければいけないポイントだったんです」と指摘し、「トライした結果でもある」と話している。

「リーグ戦の終盤にかけて、大関と由井はかなり分析されていました。対戦相手が分かっていた中で、それでも自分たちに矢印を向けながら、彼らはあそこのポジションでボールを受けようとし続けていました。そこで入ってくるボールを狩られて失点に繋がった。自陣からボールを繋ぐチームですし、ここを上手くなりたいと本人たちも思っていたので、そういう部分でトライした結果でもあります。なので、あの悔しさをこの先の成長に繋げていってほしいなと思っていましたね」

 乗り越えていくべき壁が生まれ、それを超えようと向き合っていく。

 プロサッカー選手として生きていくというのは、そういうことでもあるのだ。

MF34/由井 航太選手 MF34/由井 航太選手

 2005年、神奈川県横浜市で由井航太は生まれた。

 3人兄弟の次男。3つ上の兄と3つ下の弟がいる。自分がいつからサッカーボールを蹴り始めたのかは覚えていない。兄の影響で自然と始めていたからだ。それぐらい、サッカーは身近なものだった。

 幼稚園に入ると、鬼ごっこやかくれんぼなど普通の遊びもしつつ、地元の老舗である駒林サッカークラブでボールを蹴り始めている。練習は週に2回。土日に1日4時間だ。パスやドリブルなど基本的なことを徹底し、ただただ楽しくボールを追いかけていた。

「当時は全然思わなかったですけど、今思えば結構上手かったかなって思いますね」

 本人はそう淡々と振り返る。

 フロンターレアカデミーのセレクションを受けたのは小学2年生の時。横浜F・マリノスのスクールに入っていたが、セレクションはマリノスとフロンターレを受けて、受かったのがフロンターレだった。周りがほとんど3年生だった中で、数少ない2年生での合格者だった。

 ここから由井航太がフロンターレのユニフォームに袖を通していくキャリアが始まることになる。だがいざ入ってみると、フロンターレU-10は想像以上にハイレベルだった。

「ものすごくレベルが高いな、ちょっと難しいなって感じました。自分は小学2年生で合格して小学3年生で入ったんですが、周りは小学4年生。その中では上手くもなかったし、足も早くなかった。何も勝ってるところがなかったですし、全てが劣っていましたね。ただ割と楽観的で、『いつか上手くなるでしょ』ぐらいの気持ちでやってました。試合に出られない時期も別に苦じゃなかったです」

 アカデミーに通い始めてからは、等々力陸上競技場にも毎週のように足を運んで、フロンターレを応援に行った。ポジションはディフェンダーだったが、好きだったのはフォワード。当時アイドルだったのは、ストライカー・大久保嘉人やブラジル人ドリブラーであるレナト。風間八宏前監督が指揮していた時代だ。

 ディフェンスをやるようになったのは4年生の頃から。

 身長も高い方で体格も良かったので、目立つ存在ではあったのだろう。6年生になると、当時U-12の監督であった佐原秀樹から「守備の駆け引きがうまい」と評されてスタメンで出続け、メキメキと自信をつけていく。

「佐原監督は特に何も言わないんですよ。やることをやればいいよ、とそういう感じでした。ただし、それをやらないと、試合に出してもらえなかったです。だから自分が出るためにはやることをやるとか、戦うとか基本的なことをやらなきゃってのは思ってましたね」

 中学に入ると、ターニングポイントが訪れる。

 それまではセンターバックが多かったが、出場機会を得るためにボランチにコンバートされたのだ。ポジションが一列上がったことは、本人にもポジティブな変化だった。

 「中1ではあんまり試合に出てなかったんです。中2の終わりの頃にボランチを初めてやったんです。やり始めの1、2試合が良くて、それで監督やコーチからやれると評価されたみたいです。中3からもずっとやらせてもらったので、そこからですね」

 実は由井航太の1学年上には、二人の優れたセンターバックがいた。高井幸大と松長根悠仁である。両者はトップチームに昇格しているので、フロンターレサポーターにもお馴染みの選手だろう。

「1個上にナガネくんと高井くんがいて、センターバックだと全く出られなくて。そこと勝負するには自分はちょっと無理かなって思ってたので、ボランチにさせてもらったのはめちゃくちゃ感謝しています」

 ここら辺の経緯については、U-18の長橋康弘監督に詳しく聞かせてもらった。U-18時代に由井航太を指導しているが、U-15を長橋監督が指揮していた期間もある。当時から由井のボール奪取力は光るものがあったのだと振り返る。

「私が最初に指導したのは彼が中学2年生の時ですね。中学3年生になったタイミングで私がU-18に行ったので、3年生の時は直接は指導していないんですけれども、ボールを奪う守備でいうと人と違うものがありました。ボールをしっかりと取り切ることに関しては、『この子はこれが強みで生きていける選手なんだろうな』と思えるぐらい、中学生の頃から際立っていました。クラブに来るのは攻撃的な部分で得意な選手が多いですから。守備のところで特徴があるので、上(の学年)の試合で使っていました」

 センターバックだけではなくボランチを主戦場にして育てたのは、将来を見据えての起用でもあった。

「ボールをしっかり取れる長所と、それでいてボールをしっかり動かせる足元のテクニック。技術的な部分もあるという中で、将来的なことを考えると、ボランチで考えていった方がいいのかなというところでした。センターバックをやりながらも、いずれボランチにしていこうと考えていましたね」

 由井の最大の武器はボール奪取力であるが、一口にボールを奪うのが上手いと言っても、いくつかの要素がある。例えば単純に相手に身体をぶつけてボールを奪うのが上手いタイプもいれば、球際を作って間合いを詰めるのが上手いタイプもいる。相手のパスコースを読む駆け引きに優れたタイプもいるだろう。由井のボール奪取には、どういう上手さを感じ取ったのか。長橋はこう説明してくれた。

「まず、ボールを奪う前にどの辺にボールが来そうなのか、そういった予測の部分がありますね。ボールが来る前に、ここでボールを奪いたいから、今はこういうポジショニングを取っている、というのを非常に考えていると思います。選手たちには『ボールが移動している時にできるだけ寄せて、最初に狙うのはインターセプトだよ』ということを順を追って説明しているのですけれど、彼はこちらが何も言わずとも、自分がボールを取る前にどういう風に計画を立てようというところまで考えられる選手でした。これはすごい才能だなという印象がありました」

 由井航太本人にもボールを奪うコツを聞いてみた。いつものように、力みない口調で話す。

「相手を見て予測することで、自分はボールは取れてるかなと思います。シチュエーションはいろいろあると思うんですけど、球際でガシャッとなったり、球際でバチンと奪うのが好きですね。あとは気持ちっす(笑)」

 ボランチに取り組む中、中学3年の冬にはU-15日本代表候補として合宿にも呼ばれている。初めての年代別代表である。大きな自信になる出来事だと思うのだが、由井本人は戸惑うばかりだったと振り返る。

「周りのチームメイトにはもっとできる人がいるので、『なんで自分が選ばれているんだろう?』って思ってました。周りの選手がいいプレーをしたから自分が選ばれていたと思っていたので、申し訳なかったですね」

 中学を卒業し、高校生になった。

 3年間を過ごしたフロンターレU-18は、自分のサッカー人生が大きく前に進み始めている実感が湧いた日々だった。

「高1の時は試合には全然出られなかったんですよ。ベンチに入っててほぼ途中出場だったんですけど、高1の1年間ですごく成長したなって自分で思っていました。当時の3年生はものすごく上手かったし、高2もすごい選手がいっぱいいたので、そこで成長できて自信をつけることが出来ました」

 由井航太が高1の2021年。

 トップチームはJリーグで圧倒的な強さを誇る常勝クラブとして君臨していた時期だったが、U-18も自分たちの歴史を変える快進撃を見せている。

 チームは「高円宮杯 JFA U-18サッカープリンスリーグ2021関東」で初優勝。「プレミアリーグ2021プレーオフ」にて2回戦を勝利し、プレミアリーグに昇格を果たしたのだ。当時のチームを由井はこう振り返る。

「単純に強かったですね。プリンスの関東だったら負ける気はしなかった。プレミアに上げて当然ぐらいの強さでした。練習をやっていても、絶対に上手くなるなって思ったんで練習をずっとやってました。周りにも上手い選手がたくさんいたので、本当に毎日が刺激的でめっちゃ楽しかったですね。もうマジでみんな上手かったんで(笑)」

 高2になってからの舞台は最高峰のプレミアリーグだ。

 そこで由井はボランチとして主軸を担った。中盤でコンビを組んでいたのは、翌年にトップ昇格を果たすことになる3年生の大関友翔。このコンビはお互いの良さを補完し合う関係性だったと長橋監督は振り返る。

「高校2年生の時には中心で試合に出てもらっていましたし、ボランチで相棒となるのが大関でした。私自身、選手の長所や特徴がたくさん出る試合にしたいというのがあります。大関ができない守備の部分というのは由井が得意ですから。逆に由井が少し苦手としているゲームメーカー的な仕事というのは、大関ができるところ。大関も由井の守備力に助けられた部分があるんじゃないかなと思います。そして、その役割を任すことでさらに伸びて欲しいなという部分もあったので、よくやってくれたと思いますね」

 由井自身も、ボランチのプレーには確かな手応えを掴んでいた。そしてプロになるという夢が自分の中で現実味のある目標として捉え始めてきたのも、この高校2年生の時期だった。

「プレーに自信があったので、そのまま何にも考えずにいいプレーができるなって思っていました。何にも考えてない時の方がストレスなくできてるんで、きっとそれが良かったかなと思います。もしかしたらプロになれるかもという気持ちになったんで、そこから真剣に目指しました」

 この年の川崎フロンターレU-18も強かった。

 プレミアリーグ初参戦だったにもかかわらず、プレミアリーグEASTで優勝を決めている。当時のチームについては、長橋監督も「ものすごいスピードで成長していった」と唸ったほどである。

「選手たちは優勝を本気で狙っていたし、優勝を狙える選手たちだなということは練習を見ていても思っていました。本当に一試合一試合チャレンジしながら、なおかつ対戦相手から学びながら、日本で最高峰のリーグ戦で成長を続けられた選手たちだなという思いがありました。見ていてもものすごいスピードで成長していたな、という感じがします」

 昇格初年度でプレミアを制したのは快挙としか言いようがなかった。そのチームで高2ながら主軸の一人にいたことで由井航太は大きな注目を集めている。

「あの1年は、あっという間に過ぎた期間でした。自分の評価も、そこで高められたとすごく感じます。プレミアでもいいプレーをずっとしてたし、そこでU-17日本代表にも入れてもらいました。自分も周りもその時にやれるなって思ってたし、自信も持っていました。周りの監督やコーチが信頼してくれてたのも、すごく感じてました」

 しかし日本一には届かなかった。

 冒頭でも触れたサガン鳥栖とのプレミアリーグファイナルで、由井は自らのボールロストで失点を招いている。結果的に、それが決勝点となった。

 当時の由井航太は高校2年生。

 あの悔しい経験を彼自身がどう受け止めていくのか。翌年の奮起も含め、長橋監督はそうした振る舞いに目を配っていたという。

「本人は間違いなく自分がゲームを壊したと感じていたと思います。しかも3年生の最後の試合だった。その責任というものを本人が一番感じていたというのは見て取れたので、私はあえて言う必要もないと思いました。大事なのは、あの失敗を受けて彼がどういう風にこの先取り組んでいくんだろうということ。それをしっかり観察しようと決めました」

 これまでのサッカー人生での一番とも言える悔しさを味わった翌年。

 3年生になると、3月に2種登録選手としての登録が発表され、8月には由井航太のトップチーム内定がリリースされた。この年の唯一となるトップ昇格である。正式にプロサッカー選手となることが決まった。

「びっくりしました。自分は上がれないと思っていたので『マジか!?』って感じでした」

 傍目には順当な昇格だったように見えたが、由井本人には驚きだったという。実は3年生として過ごした去年は、本人にとって苦しみ続けた一年だったからだ。そのため、トップ昇格が決まってからも襲ってきたのは、恐怖や不安という感情だったという。

「去年は全然いいプレーが出来なかったんです。酷かった。正直、自分でもわからなくて。なんでこんなにできなくなっちゃったんだろうっていう。理由は今でもわからないです。6月から8月ぐらいはずっと怪我もしていました。プロに上がれると言われた時も怪我をしていて、全然練習に参加してなかった。だから、怖いなって思ってたんです。トップで活躍してる自分の姿もなかなか描けなかった」

 自信がなく、どこか不安や恐怖を抱えながら過ごした。

 ボールを一番狩り取れる選手であることは間違いない。しかし最上級生になった由井航太に求められるのは、自分からボールを受けて、ゲームをしっかり作るという作業だった。トレーニングからそこを彼に促していたものの、ミスをする自分が恥ずかしいのか、トライからも避けているように、監督の目には映っていた。

「トレーニングはミスする場所ですし、もっと言ったらU-18は育成なので。ファイナルで最高の経験をしたのだから、あのミスより恥ずかしい場面なんてないわけで、たくさんミスすればいいのに、どこか守りに入った部分を感じました。もしかしたら、彼の中で成長することから逃げていた部分があったのかもしれません。戦う相手は味方ではなくて自分自身。だからこの1年が変わってくれるきっかけ、もう一つ大きく成長するためのきっかけの1年になって欲しいというような思いでいました」(長橋)

 夏場に怪我から復帰した由井は、流通経済大柏高校戦から定位置のボランチではなくセンターバックのポジションで出場するようになっている。チーム事情があってのことだが、彼自身のパフォーマンスが他の選手より精彩を欠いていたのも事実だった。長橋がこの起用について話す。

「センターバックに怪我人が多く出てしまって、年代別代表で土屋櫂大も抜けることが多くて、どうやっていこうかなっていうチーム事情の結果ではありました。ただ由井と話をしたのは、ここでまたセンターバックをやることで、いずれボランチに戻った時にさらに磨きがかかった状態になる。また成長できた自分がいるっていうところをイメージしながらポジティブにやってもらえるのであれば、センターバックでどうだ?と。そういう話はした覚えがありますね。彼は『やります』と前向きに捉えてくれて、そこの部分でちょっとハマったかなというところもありました」

 自分が満足できるほどの手応えがあったわけではない。むしろ思うようにいかない自分に悩みながら過ごした期間でもあった。それでも前向きに取り組んだのは、長橋監督からの信頼を感じ取っていたからだ。由井が話す。

「うまくプレーできていないっていうのは、ヤスさんももちろん分かっていたと思います。特に何も言われてないです。それでも、信じて自分を使ってくれていたので、そこに応えなきゃっていうのを常に思ってました。ヤスさんは、厳しくは言わないですけど、こだわるところはすごいこだわってるし、やっぱり選手に信頼されるというか、あの人のために頑張ろうと思える人ですね」

 長橋は言葉を砕いて選手個人に寄り添って説明することは少ない。だが、それがなくとも選手はそのメッセージをしっかりと感じ取っている。両者には、深いところで繋がっている信頼感があることが、取材を通じて感じられた。

 2024年1月、由井航太のプロ生活が始まった。

 新体制発表会見では、トップチームと非公開で練習試合をした際に家長昭博から絶賛されたエピソードが紹介され、由井は壇上で照れ笑いを浮かべた。そしてサポーターの前でこう挨拶した。

「サポーターの皆さん、こんにちは。川崎フロンターレU-18から来ました由井航太です。

 小学3年生からお世話になったこのクラブでプロになることが出来てとても嬉しく思います。一日でも早く皆さんの前でプレーできるように日々の練習から努力します。応援よろしくお願いします」

 目標は試合に出ること。勝負したいポジションはボランチ。ただ何試合などという具体的で大きな目標は立てていない。とにかく毎日をがむしゃらに取り組むことしか考えてないからだ。

 今回の取材の最後、由井に対するこんな期待の言葉を長橋は話し始めてくれた。

「プロ1年目ってすごく大事だと私は思っています。試合に絡むのは難しい挑戦になると思うんですけれど、それを本気で目指して欲しい。学校を卒業して1年目で、自分の成長に対してかけられる時間がすごくあると感じると思うんですよね。その時間をどういう風に使っていくのか。しっかり考えて欲しいし、向き合ってほしい」

 かつては長橋も川崎フロンターレのユニフォームに袖を通して活躍したプロサッカー選手だった。だからこそ選手として過ごす時間がいかに尊く、そして限りあるものであるかもよくわかっている。その時間を無駄にしてほしくないのだ。

 「サッカーができる現役の時間がどのくらいあるかは、自分の努力次第です。もしかすると数年後には時間をかけられなくなる可能性もありますから。それに、今しかできない努力って必ずあると思うんですよね。そのかけた1年間が、具体的な数字だったり、結果には繋がらないかもしれないですけど、あの1年が自分を変えたって思える1年にして欲しい。内に秘める強い気持ちが彼にはあるので、やってくれるんじゃないかなと思っています」

 あの国立での悔しさも、プロになることが決まってから感じた恐怖や不安も、まだ完全に克服できたわけではない。だが、そんな思いを抱えながら進んでいくのがプロサッカー界で生きるということでもある。

 いつかそんな壁も乗り越えて、自分を認めることのできる日も来るのだろう。

 由井航太の冒険は、まだまだ始まったばかりだ。

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[ゆい・こうた]

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川崎フロンターレU-18からトップチーム昇格。主戦場となる中盤でボールを刈り取って攻撃につなげるMF。2023年のU-18プレミアリーグEASTの終盤戦はセンターバックでのプレーとなったが、空中戦と対人戦の強さを生かして安定感をもたらしていた。プロ1年目となる2024シーズンも中盤とDFでの活躍が期待されている。

2005年6月10日、神奈川県横浜市生まれニックネーム:ユイ

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