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ピックアッププレイヤー 2024-vol.03 / FW11 小林 悠選手

信じる

テキスト/隠岐 麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Oki Marina photo by Ohori Suguru (Official)

小林悠は、ゴールを決めると「生きている」と実感するのだという。

心の支えである家族、応援してくれる人たちへの感謝の気持ち、悔しさすら自分のエネルギーに変えて全力を尽くしてきた。

ゴールを決めた瞬間、小林の感情が溢れ出し、スタジアムの空気が一変する。

それは、私たちにとっても応援することの幸せを感じられる、かけがえのない瞬間だ。

これが、パパだぞ

 その選手がピッチにいると、身体が勝手に動いた。そういう無意識レベルの“感覚”まで、互いに持てているからだ。

 0対0のスコアが動いたのは、試合終了間際の後半アディショナルタイム、90+4分のこと。
 マルシーニョからのパスが強く、少しズレたことで、右足を瞬時に伸ばしてボールを止めた大島僚太は、自らシュートを打つ選択を変えた。

 オフィシャルフォトグラファーの大堀優も、それを理解して、ファインダーで狙う先を小林悠に切り替えた。

 小林がヘディングで捉えたボールは、ファーサイドのゴール右に吸い込まれた。
 倒れ込みながらも、最後まで、その視線はボールを捉えていた。
 11番のユニフォームを脱いで、スタンドのサポーターに見せつけた。

 

「マナト見たか! ユイト、フウト見たか! これが、パパだぞ」

 

 小林にとって、5試合ぶりのベンチ入りだった。
 ともにベンチスタートだった大島には、いつものように「出せよ」と試合前から伝えていた。

 試合に出たい。ゴールを決めてチームを勝たせたい──。
 そのためには、集中を最高レベルにまであげなくてはならない。

 試合前に、大好きなパパがゴールを取れないと泣く次男の動画を観て、気持ちを作った。
 ハーフタイムにも、また観た。
 「無理にでも」気持ちを作って準備していた。

 

 小林悠のJ1リーグ初ゴールは2011年5月3日だった。

 偶然にも、大島僚太の初ゴールは、その1年後の5月3日だった。

 10年以上の年月を経て、2023年5月3日、J1リーグ第11節京都サンガF.C.戦で、ふたりで決めた終了間際の決勝ゴール。

 小林にとっては、これが2023年初ゴールだった。

“フロンターレの顔になる”

 

 2009年1月、フロンターレスカウトの向島建は、羽田空港にいた。

 拓殖大学3年生の小林悠をクラブのキャンプ地である宮崎県綾町に連れて行くためだ。

「フロンターレ、どう?」

 エスカレーターで移動しながら、向島はあくまで自然に、一番聞きたかった質問をした。

「声をかけてもらって光栄です。自分も町田出身で近いですし、びっくりしたし、うれしかったです」

 小林の表情を見て、ホッとした。

「フロンターレのサッカーやクラブの雰囲気がある程度確立されているなかで、迷わずうちでやりたいという意志があるのかは大事なことだと思っています。それがチームに貢献してくれるかの重要な要素になるし、そういう選手に来てもらいたいと思っています」(向島)

 小林は、他クラブからのオファーもあったなか、練習に参加し、クラブの雰囲気やレベルの高さを感じて、フロンターレ加入を決断している。

 その結果、大学4年の5月、その年のプロ内定1号という早さで加入が発表された。

 向島が初めて小林のプレーを観たのは、小林が大学1年生の時だった。

 偶然にも、2008年に青山学院大学から加入する当時大学3年生の田坂祐介に初めて声をかけたのが、駒沢第2球技場で行われた関東大学サッカーリーグ2部青山学院大対拓殖大の試合後のことで、その試合に出ていたのが小林だった。1年生で新人賞、3年時には22試合19得点を挙げ、関東2部リーグで得点王を獲得している小林のプレーは定期的に観ていた。

 プロを目指していた小林も、同じ2部リーグから田坂がフロンターレに加入したことには刺激を受けたし、選抜にも選ばれるようになり、大学3年の夏休み期間にはJFA・Jリーグ特別指定選手として、水戸ホーリーホックの木山隆之監督(当時)から声がかかり、J2リーグで5試合に出場するなど、貴重な経験も積むことができていた。

「3年生の頃は、本当に恐い選手で、ヘディングも強いし、身体的なバネがあって、相手を剥がして振り切れるようなゴール前で危険な選手になっていました。最終的にはリストアップした選手のなかで、フロンターレのスタイルや、自分のなかのイメージでいろんな得点のバリエーションができると考えて、悠に決めました」(向島)

 2010年にフロンターレに加入した時、小林は新体制発表会見の場で、こんな挨拶をしている。

「今自分は、右膝前十字靭帯断裂という大きなケガをしていて復帰が5月から6月になってしまうと思うんですが、こんな自分を獲ってくれたフロンターレのスカウトの方々、スタッフの方々、フロントの方々に感謝の気持ちでいっぱいです。必ずプレーでチームのために貢献したいと思っています。そして、いつかフロンターレの顔になるような選手になりたいと思っています」

 伏し目がちな表情とは対照的な発言内容のギャップから、印象に残っているファン・サポーターもいるだろう。

 小林はフロンターレに内定した後、目標にしていたユニバーシアードの大会直前に左足第五中足骨を骨折。初めての手術をし、リハビリをして拓殖大を関東1部に昇格させることをモチベーションにやっていこうと切り替えて迎えた復帰戦で、右膝の前十字靭帯断裂という大ケガを負ってしまう。

 向島は、末長の事務所にいた時にかかってきた小林からの電話を今でも覚えているという。

「電話の向こうの悠は、契約を心配して涙声だったと思います。選手にケガはつきものですし、そういう可能性も含めて選手にオファーを出しているし、一度出したオファーは絶対。それぐらいその選手の人生に責任があると思っています。だから、『大丈夫だから、しっかり治して』と伝えました」

 小林は、自分に巡ってきた「運」や「環境」をポジティブに捉えられる性格だ。その環境でベストを尽くし、幸せを感じられる力がありながら、なおかつ環境に甘んじず生きてきた。母の働きかけで進学し、太田宏介らとともに麻布大学附属渕野辺高校で選手権に出たことも、フロンターレアカデミーのセレクションに落ちたことも、高校を卒業するタイミングで社会人としてサッカーをやる可能性があったことも、高校時代にひとつ上の憧れだったキャプテンや幼なじみの小野寺達也がいる拓殖大学に進学したいと思ったことも…。一見、バラバラに見える点がつながって、小林悠の人生となって、フロンターレに加入し、目標としていたプロサッカー選手になった。

 もちろん、その過程では、家族となる奥様との出会いが最大の「運命」だったことは言うまでもないだろう。

「偶然は計画されている」という意味の理論がある。偶然に起きたように見える出来事を主体的にとらえて行動をしていくことが、自分のキャリアをプラスにしていくというものだ。

 小林はまさにそれを体現している。

「フロンターレの顔」になると誓った小林は、2017年、キャプテン就任の年にフロンターレとして初めてのタイトルを獲得、さらに個人としても得点王とMVPを受賞した。

 ちなみに、2016年に初めてのベストイレブンを受賞した時、小林はこんなコメントを残している。

「ベストイレブンの受賞、本当に光栄に思います。
この賞はチームメイトやサポーター、いつも支えてくれる家族のおかげだと思っています。
来年は、得点王になって、またこの場所に帰ってきたいと思います。
自分が得点王をとることでチームのタイトルも近づくと思うので、それを成し遂げられるように日々努力したいと思います」

 小林は、いいと思ったことは何でもトライして、自分に合うと思ったことはブレずに続けてきた。

 寝室の見えるところに自分で書いた目標を貼るなど言語化することも、大学時代、お世話になったメンタルトレーナーから教えてもらい、続けてきたことだ。

 アウェイで泊まったホテルを出発する前には、ベッドも含めて部屋をきれいに整え、「ありがとうございます」とメモを置くことも、ずっと続けている。

「素直さと“くそ負けず嫌い”」(小林)な性格が、自分を成長させてきた。

 なりたい自分になるため、目標を叶える努力をずっとしてきた。

FW11/小林 悠選手 FW11/小林 悠選手

フォワードとして生きる意味

 小林がストライカーになったのは、大学1年のことだった。練習試合で、監督から「やってみないか?」と言われたことがキッカケだった。

“ゴールを決めること”が自分の役割だとハッキリしたことで、練習の時から、ゴールに対する集中力やそこへの向き合い方が変わっていったという。

「フォワードはゴールという結果で評価されるから、ミッドフィルダーをやっていた時と、シュートの価値が全然違うと感じました。悔しいと思うレベルが変わり、これが試合だったら、俺が外して負けるのかと思って、自分に対しての責任をどんどん背負うようになっていきました。プロになってからも、練習中に(チームメイトに)『お前、今のシュート、本当に、本当に狙ったのか?』って感じることも正直あります。自分は勝負どころとか、ラスト一本とかの集中力が本当に高いと自分でも思うし、その一本に懸けるパワーが違う。それは、試合で外してきた経験もあり、その重みを知っているからこそ、日頃の練習からそういう風に(集中を)持っていけるのかなと思います」(小林)

 小林の勝負強さは、自分がゴールを決めて勝たせるんだと信じる気持ちの強さと、大事な時に決めてきた自信によって培われたものだろう。

 2019年ルヴァンカップ決勝の2ゴール、2017年、10人になっても逆転してみせた仙台戦の2ゴールなど、たくさんのシーンが蘇ってくる。

 勝負強さは、母の日や奥様の誕生日など大事な日にも発揮され、ゴールを決めてきた。

「大学時代に、結婚する前の妻の両親が観に来てくれて、僕、初めてハットトリックを決めたんですよ」と笑った。

 そして、決められなかった悔しさや不安も乗り越えてきた。

 2018年、小林がPKを2回続けて失敗し、2試合とも引き分けたことがあった。

 それから間もない試合でPKになった場面で、家長昭博からは「フロンターレのエースはお前だ」と背中を押された。優勝争いをするなかで自分のせいで勝点を落としたのではないかと責任を感じる気持ちを、何でも話せる兄のような存在の中村憲剛に伝えたら、「これまで悠のゴールで何試合も勝たせてきたんだからそんなこと言うな」と救われた。「自分で乗り越えないといけない」とも言われた。

 周りの人たちの力も借りながら、最後は自分自身で乗り越えるしかない。

 PKを蹴り、ゴールを決めた。

研ぎ澄まされた感覚

 昨年までトップチームのコーチを務めていた吉田勇樹(U-15等々力コーチ)は、現役時代、小林がストイックに取り組む姿を間近で見てきた。引退した時に感じた「矢印をもっと自分に向けることができたんじゃないか」と後悔に似た気持ちを反面教師に、とくに若手選手たちに、「弱い自分から逃げない」大切さを伝えていきたいと2017年、コーチに就任した時に話していた。コーチとなってからも、小林の取り組みや姿勢がチームメイトに与える影響の大きさを感じていた。

「悠がメンバー外の時に、試合当日に練習をすることもありましたけど、そういう時もまったく変わらない姿勢を見せてくれる。どうしてもメンバーに続けて入れないとモチベーションが下がってしまう選手もいるので、悠の存在は、僕にとってありがたかったです。『その1本にこだわれているのか。練習からこだわらないと試合でできないでしょ』っていう話をしてくれたこともありました。彼のすごいところは、その話をして、実際に試合に出て、決めること。それは、説得力がありますよね」(吉田)

 2023年10月20日、J1第30節アビスパ福岡戦での劇的ゴールは記憶に新しいが、出番に飢えていた小林から、練習場で「残り数分でいいから出たい」と気持ちを聞くこともあったという。

 だから、山村和也からのロングフィードをトラップして抜け出し右足アウトサイドでゴールに流し込んだ小林の姿に、吉田は鳥肌が立った。

「一瞬の隙を逃さない研ぎ澄まされた感覚がすごい。“今”っていうタイミングで動いて、相手の逆を取る。やっぱりすげぇなって思いましたね。それに、顔つきがうわっと変わるじゃないですか。作ってるわけじゃなくて、心の底から出ているものだと思う。ギラギラ、メラメラ感が。悠は昔からそうでしたけど、もしかしたら最近は、今まで以上に1本の大事さを感じているかもしれないですね。途中出場となれば、なおさら。でも、悠のことは、僕は心配していないです。それはやっぱり普段の姿勢を見てるからですね。出られない試合があったとしても、不死鳥のように蘇ってきますから」(吉田)

 感覚を研ぎ澄ませることについて、小林はこんな話をしていた。

「頻繁にゴールを決めている時は、常に自信でぱんぱんな状態だし、仮に外してしまっても、またすぐチャンスが来るから、すぐ気持ちを高めることができていました。だけど、ここ数年は、その試合、その瞬間に結果を残さないといけないことが多くなってきて。そこで結果を残すために、日頃から悔しさを全部その一瞬のために持って行くんです。その試合が38分の1だとしても、僕にとっては、違う重みがある。今日、今この時に結果を残さないと、次はベンチに入れるかわからないっていう自分の追い込み方というか、試合への持って行き方がある。だから、あの時も(2023年5月3日京都戦)、わざわざハーフタイムに息子の動画を観てまで、感情を無理やりそっちに持って行くじゃないですけど、ここでやらなかったら、もうチャンスはないっていうぐらいに自分を追い込んで。だからこそ、決めた後、アドレナリンがすごいんです。その夜とかまったく寝られない。それぐらい興奮がすごい。だけど、それを知っているからこそ、また頑張れるというか。その作業の繰り返しだなって思います」

 

 後悔がないように突き詰めているのだろう。

 そう感じたが、「後悔がないように」という表現は、未来の自分のために使うことの方が多い。

 だが、小林の場合、“今この一瞬”すら後悔したくない。それが、研ぎ澄まされた感覚を生み、その姿がギラギラしていると私たちに映るのだろう。

フォワードのプレッシャーとリスペクト

 小林が2010年にフロンターレに加入した時、ジュニーニョを筆頭に、鄭大世、黒津勝、矢島卓郎、レナチーニョら錚々たるメンバーが揃っていた。最初こそ「出られるわけがないだろう」と思ったというが、2011年には「11」番を背負い、フロンターレが8連敗を喫した年に12ゴールを決めたことを皮切りに、昨年までのJ1リーグ139得点をすべてフロンターレで決めてきた。

 2018年、2連覇を達成する前に、自分を振り返ってこんな話をしていたことが印象に残っている。

 「俺はエリートじゃないし、リバウンドメンタリティですから。ケガもあったし、何度も挫折があって、すごく時間がかかったけど、心はその分鍛えられた。ケガをした時も前向きで、絶対に活躍してやるという志があったし、向上心は常に持っていました。若い時に試合に出られなかった時代も、練習とか練習試合で絶対にゴールを決めてやろうとか、俺が、俺が、と思っていました。俺、基本的に、“くそ負けず嫌い”ですから。みんな負けず嫌いだと思うけど、俺は“くそ負けず嫌い”。これが大事で、だから、ここまで成長できたと思います」

 ジュニーニョ、大久保嘉人の背中を見て、「大事な試合でゴールを決められる選手になりたい」と努力を続けてきた。

 試合に出るための競争がありながら、小林の言動からはいつも、同じフォワードの選手たちに対してのリスペクトを感じるし、小林自身もそう思われる存在であり続けてきた。

「若い頃は、誰が加入するのかとかすごく気にしていました。でも、外国籍選手でも誰が来ても一緒に練習するなかで、自分には自分の良さがあるし、なぜだか自分が勝てるという自信があるんです。でも、それとは別にフォワードの選手の苦労とかプレッシャーはすごくわかるから、そこはリスペクトですよね。僕はフォワードの味方だから、味方が『外した』とか言われることがあったら、『そのプレッシャーがわかるのかよ』って思っちゃいます。だから、若い選手の話も聞くようにしていますね。だけど、自分は負けないと思ってやっています」(小林)

 2019年にレアンドロ ダミアンが加入し、センターフォワードとしての出場時間が限られる場面もあったが、昨年、ダミアンが退団する際にも、お互いにリスペクトの気持ちを発信していたのが印象的だったし、大久保嘉人の引退に際しては、こう綴っていた。

“引退発表の日の朝に連絡をくれて、そのとき思ったことはまだやれるんじゃないかという思いと、フォワードというポジションは決めればヒーロー、決めなければ叩かれる特殊なポジションだから、ストレスとかもすごかっただろうし、本当にここまでよく最前線でずっとゴールを決めてこられたな。本当凄いな。お疲れ様でしたという思いでした。ヨシトさんと一緒に試合に出ると、自分も最強になった気がする不思議な選手でした”

「嘉人さんは、ああ見えて、ものすごく気を遣っていて試合前はテーピングの巻き方、スパイク、何個もの細かいルーティンがあった。すごいプレッシャーを背負って、それに打ち勝ってきた選手なので、めちゃくちゃストレスがあったと思います。フォワードは、そういう特別なポジションなんですよね。だからこそ、すごくリスペクトしています」

 裏返せば、自分自身もそれだけ戦ってきたということにもなるだろう。
「めちゃくちゃストレスはあります」と、苦笑した後、こんな話が続いた。

「長男が、シュートを外してからビビって、ボールを要求しなくなったんです。『お前、それならフォワードやめた方がいいぞ』って言いました。小3の子に。だけど、フォワードは何回外したっていいっていうメンタルじゃないと続かない。お客さんもいないなかで、練習で決定的な1本を外したからって、そんなことでビビってるなら中盤をやれって言いました」

 小林に話を聞いたのは2月半ばのことで、リハビリや調整時期を終えて、これから競争に入っていくというタイミングだったが、この時だけ、インタビュー中の柔和な表情が消えて、スイッチが入って目が鋭くなった。

 

 ストライカーである父を尊敬している結翔くんは、真剣に話を聞き、泣かなかったという。
「フォワードをやりたい」

 そう決意する息子に「じゃあ、何本外してもいいから1本決めろ」と小林は伝えた。

見本となる存在

「(チームのなかで)自分が一番成長して、うまくなったんじゃないか」とかつて言っていたように、風間八宏監督から指導を受けていた時代に、動き出しや相手を外してフリーになるタイミング、足元の技術などあらゆる面を向上させていった。それに加えて、練習中からパスの出し手とのコミュニケーションや要求を重ねて、自分がほしいタイミングを何度も確認して関係性を築き上げていった。

 そのプレースタイルは、やがて手本となるべき存在へとなっていった。

 フロンターレU-18監督の長橋康弘は、小林の名前を練習中によく出すのだという。

「“外す”というテーマの時に、一番名前を出させてもらう選手ですね。敵の近くで受ける際に、ボールを持つ味方に対して、どのタイミングで自分が敵と離れた時にもらうか。しかも、自分にボールが渡った時に打ちやすい状況を見計らって、ボールが来る前からポジショニングなどを常に考えてやっているのがわかりますよね。しかも、味方に優しい動き方をする。ほら、このタイミング! ほら、もう一回!って。自分がいくら敵を剥がしても、味方が出せる状況じゃないこともあるから、もう一回タイミングを作ってくれている。上背とかスピードが飛びぬけていなくても、動き出しとかボールが転がってくるタイミングを見極める力とか決定力など、おそらく小林選手自身が努力して身に付けたものなのだろうし、ゴールへの嗅覚、自分が1枚、2枚剥がすだけじゃなく、味方とのタイミングを合わせて受けてゴールに迫っていくところ。(アカデミーの選手)みんなに見てほしい選手だし、育成の視点からも、こういう選手が得点王にまでなるということは、可能性を広げてもらったと感謝しています」(長橋)

 吉田勇樹は、「実は近々、U-15の選手たちに悠の動き出しの映像を見せたいなと思っているんですよ。相手を外す動きとか、やっぱりお手本ですからね。フロンターレのフォワードである以上、外して受けるっていう動きをやっていかないといけないし。それに出し手からしても、わかりやすいから、すごくお手本になります」(吉田)

 アカデミー時代に「悠さんみたいにチームを勝たせるゴールを決められる選手になりたい」と憧れたという山田新は、実際に間近で1年プレーをして「練習からゴール前、シュートなど、ゴールを決めることについて今まで見てきた人と全然違うから気づきや発見をもらうことが多い」と感じたという。

 今年新加入の神田奏真も「テレビで観ているのと実際一緒にやるのでは違いました。ゴールに対しての意欲がすごくて、ずっと感じて動いているし、そのタイミングがすごい。常にポジションをとって、最短でゴールを狙うところは見習いたい」と話していた。

 小林が手本となっているのはプレー面だけではない。

 2010年、小林の加入と同時期にトップチームのコーチになり、それから14年間みてきた鬼木達監督もこんなことを言っていた。

「みんなの目標になっているのはすごいと思います。海外から来た選手も悠をリスペクトするし、若手もみんなそう。そうやって名前が出ることは、彼の人間性だし、毎日の練習を見てたら、そりゃそうだよなと思います。いつもエネルギーを持っているから。入ってきたあの頃から、変わらず真っすぐですよね」

 フロンターレ15年目を迎え、ベテランとしての立ち位置もありながら、自分自身にもこだわる必要がある。すべてのタイトルを知る数少ない存在として、それを伝えていく場面もあるだろう。

「ノボリ(登里享平)がいなくなったから余計に感じますけど、でも、僕は元々自分らしくずっとやってきて、それが悪いお手本になっているとは自分で思っていないから、これまで通り続けていけばいいのかなと思います。フロンターレが優勝してきたのは、練習から、意識が高い集団になっていったからだと思います。僕自身は、若い頃からケンゴさんとか慕う先輩を含めて、いいエネルギーがある人たちの中にいたいタイプだったので、自分自身が悔しい思いをしても、それをプラスのエネルギーにしていきたいと思ってやっています」

 2023年、小林がベンチにいながら出番がなく、引き分けたり負けた試合もあった。そういうとき、悔しさが募って、イライラする気持ちが溢れそうになった日もあるだろう。それでも、なんとか前を向いて、悔しさは練習でぶつけてきた。

 鬼木監督は、シーズン途中に交わした印象深い小林との会話があったという。

「メンバーに入れないとか、うまくいかない時に、悠は不貞腐れることはないけど、そういう表現をしてもいいんだぞ、と声をかけたことがありました。自分としては、それが彼のエネルギーになるんだったら、という意味でした。そしたら、悠が『そういうのは、カッコ悪いじゃないですか。やることはやらなきゃいけない』って言ったんですね。彼は、常に自分に矢印を向けられる選手。もともと悔しさはプレーで表現しているし、エネルギーやパッションを次に生かせるのはわかっていましたけど、それを聞いた時に、監督と選手の立場はあるけど、人として尊敬というか、かっこいいなと思いましたね」

 吉田勇樹は、「これだけ長い間やれてて数字で示せるのは日頃の行いと自己管理に尽きると思います」と言っていた。

 小林は朝早く来て、風呂に入って身体を温めたり、ストレッチに時間をかけるなど、準備をしっかりして練習に臨むのが日課だ。管理栄養士の資格を持つ奥様には美味しいだけでなく、栄養面のサポートをしてもらい、リフレッシュのための外食もできるよう、細かい体重の調整をしたり、睡眠にもこだわるなど体調管理にも努めてきた。

 ある日、いつものように朝早くクラブハウスで準備をしていると、入ってきた山根視来から言われたことがある。

「悠さんは、先輩だけど必ず自分から、『ミキ、おはよう』って言ってくれますよね。それってすごいことだなと思います」

 小林にとっては、それは当たり前の挨拶だった。

「普通のことすぎて何とも思わずやっていたことなんですけど、気づいて言ってくれるミキがすごいんですよ」と小林は言っていた。

 後日、小林の人間性についての話題になった時、今度は吉田から「悠さんがそうしてるから、俺もやるようになったんですよって、ミキから聞いたんです」と同じ話を聞いた。

 

 人にいい影響を与えられる小林らしいエピソードだった。

最高の瞬間

 

 小林は、「パスを出してくれる選手のおかげ」とよく感謝を口にする。

 かつて、中村憲剛に対しても物おじせずに要求をしていたエピソードは、よく知られている。ベテランとなった今も、ピッチで要求する姿勢は変わらないが、後輩とその後のコミュニケーションを意識してとるようにしている。

「相手の意見も聞いて、自分はこう思ってるって伝えます。たとえ意見がぶつかることがあっても、それでいいなと思います。若手に対しては、練習の時に強く要求したら、給水の時に、さっきはこうだったけど、どうだった? と聞きます。試合の時に、自分が出せって思うときは出してほしいから、『お前のなかではマークがついているから、出すタイミングじゃないと思ったかもしれないけど、俺はターンするイメージがあったから出してほしい』というような確認はするようにしています」(小林)

 そうして、パスの出し手と理解しあって得点につながることに、小林はチームスポーツならではの喜びを感じるという。試合後、こんな喜びを綴っていたことがある。

“サッカーをやっていて、ゴール以外にも最高の瞬間がある。それは自分が欲しいタイミングで最高のパスが来てゴールを決めた時。パスの出し手と受け手が同じ絵を描いた時。昨日はヤストからタツヤ(長谷川竜也)、タツヤから僕へのパスはそういう瞬間だったと思う”(2021年J1リーグ第21節横浜FC戦)

 そのシーンを思い出して、小林は笑顔でこう話してくれた。

「本当に思った通りになって決まるのは、なかなかないですからね。全部のイメージが重なって、全部のパスが通らないと、入らないなかで、ちゃんと全部が通って決まったゴールは最高です。そういう時、ゴールを3人分に分けてあげたいぐらいなんです。そうだよな。わかってたよ。ありがとなって。パスを出す選手はそういうプレーが好きだろうし、それで僕がゴールを決める。お互いに『ナイス、ナイス』って言い合えるのは最高です」(小林)

ゴールを決める悠さんにボールを届ける

 そして、2023年5月3日。

 大島僚太からのパスを小林悠が決め、ホイッスルがなり、大島が後ろから満面の笑みで小林に抱きつき、アドレナリン全開の小林の猛々しい表情をみたとき、観ている人たちも満たされた気持ちになっただろう。

「後付けかもしれないですけど、きっと悠さんだなと感じて出しました」

 大島僚太は、そのシーンのことを改めてこう振り返ってくれた。

「マルちゃんのパスがずれて、本当は自分で打とうかなと思っていたのが、ズレたおかげである意味自分の選択肢が、それ(悠さんへのパス)に変わった感じでした。あの時、京都のディフェンダーが見えていたわけじゃない。一応、顔は上げていた感じだけど、蹴るぐらいまで悠さんはバックステップをまだしてないし、試合後に聞かれて、『膨らむのが見えた』と言っていたかもしれませんが、動画で確かめた感じだと、見えていないはずなんです。だから、勝手にふわっと見えた人が悠さんだろう。きっと、悠さんなら膨らむだろうなって自分のなかでイメージが作られて、そういう選択になったんだなと思います。試合直後だったから、興奮して、ついそう言ってしまったのかなって」

 大島に見えていたものは、こういう絵だ。

「止めた瞬間、頭を上げて、白いものが見えた。悠さんの顔は太陽の光が眩しくて(見えなかったので)、白いものだけが見えて、蹴っていました。きっと、悠さんだろう」

 ゴールが決まった時の気持ちを振り返って言葉を続けた。

「届けられた喜びは、あの時は強かったかもしれません。自分がもがいていた部分もきっとあったし、悠さんにもそういう時間があったんじゃないかと思うなかで、悠さんに点を取ってもらえてよかったな。勝ってよかったな」

 大島から見た小林悠は、どんな風に見えて、どう感じているのかを聞かせてもらった。

「悠さんは、いつボールがきてもいい準備をしていると思うことが多々あるので、仮に目が合ってなかったとしても、ボールを届ければ、決めてくれるだろうと感じます」

 

 大島が感じている、その準備とは、どういうものなのだろうか。

「上から試合を観ている時も感じますが、常にゴールに向かっていて、バックステップしていても重心はゴールに向かっているし、ゴールを取るための姿勢、動きをしているのを感じます。だから、僕がここにいたら、こう動いているかなと予測をたくさんしておかないといけないと、試合でも練習でも感じています。例えば、悠さんに言われていて思うのは、シュートを打つ瞬間が一番ディフェンダーがふわっとするから、その背中にちょんと落としてくれればということもあって、それが会話通りになることは少ないと思いますが、それでも後で映像を見返すと、そういうことか、とわかることもよくあります。あの時(5月3日の京都戦)もそれに近いシーンだったのかなと思います」

 それは、練習や試合での繰り返しの作業により培ったものだろうし、チャレンジしてうまくいかないことも含めた成功体験や、「きっとこうなるだろう」という信頼関係による予測を摺り合わせて、イメージを共有してきた部分も大きいのだろう。

「変な感じなんですけどね。僕は元々アシストできるタイプじゃないし、キック自体もあんまりやってこなかった。ケンゴさんのプレーとかを見て、見様見真似で入りました。というのは、プロになる人たちはアシストやゴールを多くしてきたと思うんですけど、僕はそれだけの集団ではなく、アシストの手前とか、ここにこの人がいたからゴールが生まれるんじゃないかということも必要だと思っているタイプなので、今もアシストやゴールに強いこだわりがあるわけじゃないんです。ゴールが生まれる形が出そうだな、という手前の人であったりしたいというか。それでも、悠さんのところは見続けてきました」

 ギラギラした状態の小林を“獣感”と表現していて、それも大島らしかった。

「フォワードの人たちのマインドはある程度似ていると思いますけど、悠さんは勝たせようとする姿勢、点を取ってくれそうだなと感じさせてくれるところ、奮い立たせることに長けている。比較の話ではなくて、あらためて悠さんはそこがすごい。勝たせたいんだっていう気迫を一番感じる選手だなと感じます。僕は、ネガティブなところもあり、引っ張ってもらっているというか、あの人がいたら勝つんだろうなとか、やってくれるんじゃないかというワクワクする気持ちになります」

 ピッチ内で“相思相愛”な感じがすると伝えたら、大島は笑っていた。
 同じ感覚でプレーできるお互いの存在は、私たちが思う以上に、きっと大事なものなのだろう。

仲間

 2023年のことを「チームとして悔しい思いをした分、最後みんなで笑うことができて、本当によかった。また、個人的にも悔しい思いを乗り越えて努力を重ね、成長できたシーズンだったと思います。それはいつも自分を信じて応援してくれる家族、サポーターあってのことだと再確認した1年でもありました」と小林は自身の言葉で振り返っている。

 天皇杯決勝で小林が交代でピッチに入った時、「今日は小林悠がヒーローになる」と多くの人が思っただろうし、本人も当然そのつもりだった。だからこそ、負傷交代は無念だった。

 だが、悔しさを乗り越える時、いつもポジティブな気づきを得て、自分を震い立たせてきた。

 試合にメンバー入りできず、葛藤を抱えて等々力に来たときのことだ。

「ベンチ外の時って、いつも以上に11番を着ている人が目に入ってくるんですね。こんなに俺は信じてもらっているんだな。気持ちはへこんでるけど、明日からまた頑張ろう、やらなきゃって思えるんですよ」

 ある時、フロンターレ同期加入で、ライバルであり、チームが変わってもずっと刺激し合える同い年の楠神順平に、素直な気持ちをふと漏らしたことがあった。

「ベンチに入って何試合も出られなかった時に、順平に『うまくいかないわ』って言ったら、順平から、お前がそんなことを言うなって返信がきたんです。同い年でJ1でやりたくてもやれない選手もいるなかで、そこで悩めてることが幸せだぞって言ってくれて。うわぁ、本当にそうだなと思って。引退している選手もいるし、いろんなカテゴリーで頑張っている選手たちもいるのに、サッカーやれてるだけで幸せなのにって本当に思ったんですよ。だから、シーズンオフに(若手時代共に過ごした)ノボリ、杉山(力裕)、(吉田)勇樹も含めて会った時に、『順平、ありがとう』って何度も言っちゃいました」

 2023年の終わりは、変化も伴った。

 14年間という年月は、仮に小学校、中学校、高校とクラスメイトだったとして、さらに2年追加して二十歳まで共に過ごしたのと同じ長さだと思えば、相棒だった登里享平の移籍は寂しさが大きかっただろう。

 練習前に早く来て準備していた時間、お風呂から出ようとすると「コバくん」と呼ばれて、それからひとしきり話をしてきた登里や、朝の時間や食堂で一緒に賑やかに過ごしていた山根の不在を、シーズンの始まりこそ感じることもあったという。

「弟ふたりがいなくなったら、そりゃ寂しいですよ」

 それでも、自分のサッカー人生の決断をしたふたりだけでなく、ボールを一緒に蹴った仲間のことはみんな大切に思っている。

「フロンターレから出た人のことを悪く言われるのは、好きじゃないんです。それぞれがどれだけ悩んだかなんて分からないことだし、その人の人生だから。僕たちは一緒にボールを蹴ってきた仲間なので、それは一生崩れないです」

 今シーズン、千葉から神戸に移籍した“同志”のような存在の新井章太のことは、「あいつの選手としての経歴を知ると、可能性とかその後の努力とか、前向きさ、愚痴らないところ、すごい好きなんですよ。あいつの向上心とか負けず嫌いの加減とか似ているところもあるから、だから一緒にいるんだと思います」と話していたことがある。

 今年のプレシーズンマッチでメッシのシュートを止める新井の姿にも大きな刺激をもらった。

「章太の息子が感動して泣いてたらしいんですよ。すごいですよね」

なりたい自分になる

 そうして、また新しいシーズンが始まった。

 小林は、2016年以来の副キャプテンに就任した。

 チームの変化があるなかで、フロンターレにとっても、小林自身にとっても、託された意味を感じざるを得ない。また、2023年のプレーを見て、さらに突き抜けてほしいという期待を寄せられたことは、うれしかったという。

「オニさんに部屋に呼ばれた時、違う話なのかなと思っていたので、ビックリしました。でも、話を聞いて、やらせてくださいとその場で返事をしました」

「悠は、このクラブのいい時も苦しい時も知っていて、今シーズンについてはノボリや他の選手、スタッフも抜けたなかで、役職がなくても発信できる存在ですが、副キャプテンになることでより発信できれば、それはクラブとしても重要なことなのかなと思いました。自分自身、一回キャプテンをやったらもう一度(副キャプテン)というのはないかなと思っていたけど、それも違うかなと感じたし、ヤス(脇坂泰斗)を支える存在としても大きいんじゃないかと思いました。もちろん悠自身にもいつも期待しているし、ここからもうひと伸びしてほしいと思っています」(鬼木)

 小林は、ゴールを決めた時、「なりたい自分になれた」喜びが一番大きいのだという。

「もちろん、家族やサポーター、支えてくれている人がいるから毎日を頑張れているというのがあるけど、大事な場面で決めると、“こうなりたいという自分”になれることが一番かな。僕が決めるって信じて応援してくれる人たちもいるので」

 なりたい自分になる──。

 それは、もしかしたら誰もが求めていることだろう。

 小林悠の「なりたい自分」には、自分自身への期待や自分を信じてくれる人たちの想いに応えることも含まれている。

 だから、あきらめず、抗い、ギラついて、ゴールを決めたい。

《追記》

 一点の曇りもない気持ちで信じるためには、やりきったと思えるだけの準備や積み重ねてきた努力が必要だろう。

 自らの姿勢で示し、その溢れ出すエネルギーは、周囲に伝播していくほどの熱量を放ってきた。

 2024年4月28日、小林悠はJ1通算140ゴール目を決めてみせた。

 心からのリスペクトを込めて、おめでとう。私たちも信じて、待っています。

 悔しさは、次に向かうエネルギーに変えて。

 小林は、チームを勝たせるため、また貪欲にゴールを狙う──。

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[こばやし・ゆう]

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対戦相手の最終ライン付近で絶えず駆け引きしながら、一瞬の動き出しでゴール前に入り込むストライカー。目をギラつかせ、スタジアムの空気を変える熱い魂をもつ男は、さまざまなパターンからゴールネットを揺らすことができる。プロ入り15年目となる今シーズン。誰よりも強い得点に対するこだわりや執念を全面に出し、目標に掲げる二桁得点を達成する活躍を見せてほしい。

1987年9月23日、東京都町田市生まれニックネーム:ユウ

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