ピックアッププレイヤー 2025-vol.07 / DF35 丸山祐市選手
テキスト/林 遼平 写真:大堀 優(オフィシャル)
気がつけば36歳になっていた。
丸山祐市はこれまで様々な選択をしながら一歩ずつ前に進んできた。
その選択によって人生が変わり、その選択が今の丸山を形成している。誰とも違う道を歩んできたからこそ、
今もなおJ1リーグの舞台で活躍を続ける男の姿があるのだ。
サッカー人生の始まり
丸山のサッカー人生に歴史あり。そんなことを感じさせてもらったインタビューの最後、長く現役を続けてこられた秘訣を聞きたくなった。
その問いに丸山は苦笑いしながら思いの丈を口にした。
「自分もなんでここまでやれたんだろうなと思っていますよ。別にそこまで強くないというか、ディフェンスの特徴にしてもヘディングが強いとか、足が速いとか、強いとかいう特徴もない。謙遜ではなくて、最近よく思っているんです。それこそFC東京時代は自信を持って伸び伸びやれていたことはありますけど、いま思うと年齢を重ねてなんでこんなに長くできているのかなと。
でも思うのは、やはり準備という部分で、心の準備もそうだし、体の準備もそう。当たり前のことを当たり前に続けられていることが大きい。1、2年目にFC東京で腐っていた時に、湘南に行って心の重要性を覚えたことが今に至っているのかなと。そういうことが一つひとつ積み重なり、自然にできるようになったんだと思います」
この発言に至るまでにどんな過去があったのか。ひとつずつ紐解いていくことにしよう。
1989年生まれの丸山は、東京世田谷区で育った。
父親や祖父は野球好きだったようだが、物心ついた時にはサッカーボールを蹴っていたという。
「たまたま思い切り蹴ったらよかったのかもしれない」と笑って振り返るが、ボールを取り上げられると「幼稚園に行かない」と拗ねるほどサッカーが大好きな少年だった。
姉の影響でピアノや水泳を習っていた時もあるが、ちゃんと続けたのはサッカーだけだった。
ボールを離さない少年をサッカーの世界に導いたのは母親だ。たまたま通りかかった車にクラブチームの募集案内が貼ってあるのを発見すると、すぐに電話番号をメモ。そのクラブチームに電話をかけたことがきっかけでバディSCに加わることになった。
初めてのクラブチーム。物怖じしてもおかしくない状況だが、当時の丸山少年はどうだったのかと聞くと面白い答えが返ってきた。
「王様です。当時は性格が悪かったねとよく言われます。3-5-2システムのトップ下をやっていて、僕が出したボールに追いつけなかったことに対してめちゃくちゃキレてました(笑)」
バディに入ってからはサッカー三昧だった。水、土、日はバディのトレーニングに参加し、それ以外の時間は児童館や公園でボールを蹴り続ける日々。夢はもちろんサッカー選手になることだが、そういった目標よりもボールに触れている時間が楽しかった。
小さい頃に父親と一緒に行った日本代表の試合では中村俊輔が目に留まった。もともと両利きだったが、左足を武器にトップ下でプレーする中村のプレーを常に見ていた記憶があるという。
また、世界で活躍する選手ならリヴァウドが好きだった。ブラジル代表の10番でトップ下を担う左利きの選手。華麗なプレーだけでなく、得点も奪えてアシストもできる選手を嫌いになる理由はない。当時、TBSで放送されていた「スーパーサッカー」を見ながら憧れを抱いていた。
バディでは6年生のチームに現・湘南ベルマーレの奥埜博亮と飛び級で入り、初めて全国大会の舞台に立ったのがいい思い出だと振り返る。
ちなみにその頃からFC東京の深川スクールに通い始めたが、理由は火曜日にもサッカーができるから。両親が自然と好きなことをやらせてもらえる環境を作ってくれたこともあり、毎日が”サッカー”で埋め尽くされていた。
スクールに入ったことが次の進路を決めることになる。
小学生チームの練習に加わっていると、目を付けられてジュニアユースのトレーニングにも参加することに。すると、早々に内定をもらうことができ、FC東京U-15への扉を開くことになった。
思いがけない分岐点
これまで和気あいあいとみんなでサッカーをすることが好きだった丸山少年だが、FC東京U-15に入ると初めての挫折を味わうことになる。選りすぐりの中学生たちが集まるチームはレベルが高く、なかなか自分のポジションだったトップ下で起用してもらえず。徐々にポジションが後ろに下がっていったこともあり、「まだ力が足りない」と言われているようだった。
もちろん、その状況を素直に納得できる自分もいた。同じポジションに圧倒的な技術力を持った大竹洋平が在籍していたことや、周りと比べて身長や体重など体の成長が遅かったこともあり、他の選手を上回れていないことは明らかだった。だから、左サイドバックにコンバートされた時も決してネガティブな感情は生まれなかった。キックが得意だったこともあって「ゴールの数は違うかもしれないけど、クロスのところなどでアシストができたらいいな」と素早く切り替え。守備に関しては何もわからなかったが、とにかく新しいことにトライし続けた。
「結果的に今、プロになりましたけど、前のポジションでは長くできていないと思うし、プロになれたのも後ろのポジションになったからだと思います。気持ち的にはそこまで変わっていないですけど、ポジションが変わったことが一つ、今になって振り返ればいい方向に向かったのかなと思います」
しかし、懸命に努力を続けたものの定位置を掴めなかった。中学時代、最後の大会もベンチ外となり、同級生のプレーをスタンドで見守ることしかできず。結果、ユースにも上がることができなかった。
丸山はここで一つの決意を固めた。「目の前で活躍してる選手や同い年の選手に負けないように、絶対に高校に行って頑張ろうと思いました」。共に戦った仲間たちを見返したい。進学した國學院久我山高校での活躍を誓ったのである。
“ここからプロへの道が切り開かれた”
──といったサクセスストーリーを歩んでいくのかと思われたが、簡単に上手くいかないのが人生である。
高校2年生の時、身長が一気に伸びた中、体が急激な変化についていけず、バランスを崩した結果、前十字靭帯損傷の大怪我を負うことに。結局、1年後に復帰するも最後の都大会はベスト32止まり。「高校サッカー選手権に出て活躍したい」という夢を叶えることはできなかった。
中学時代はあまり試合に絡めず、高校時代も怪我によってピッチに立つ時間は少なかった。そうなると、次の選択肢は悩ましいところである。サッカーを続けるのか、それとも違う道を行くのか。最初に浮かんだのは「まずいい大学に行きたい」だった。
怪我でサッカーができない期間、少しでも未来へ繋げようと勉強を頑張っていた。単純な勉強はできなかったと言うが、必死にテスト勉強し、自身の成績を向上させた。そうして指定校推薦を勝ち取ることになり、明治大学へと進学することになった。
ただ、大学に入った当時、丸山の中ではプロになる気はなかったという。と言うのも、「どこからその情報を手に入れたのかわからないですけど、膝を一回、オペしている選手はプロになれるかもしれないけど通用しないみたいなことを誰かに言われたのがすごい頭に残ってて。もう、無理じゃんとなっていました」
だからこそ、プロのことなどは考えず、中学、高校とうまくいかなかったことを踏まえ、しっかりとした環境の中で大学サッカーを頑張りたいと考えることにした。
スポーツ推薦等ではなく、一般の生徒として入部した丸山は、少しずつ階段を登っていくことになる。1年生の時は前期に3試合程度トップチームでプレーしたが、その後はずっとBチームに。2年次は天皇杯に出場することになったが、夏にはBチームに落とされ、順風満帆とは言えなかった。だが、幸運だったのはBチームに落とされたタイミングでCBにコンバートされたこと。そこで今につながるCB像が形成されていくことになった。
「適正ポジションだったというか、例えばトップ下をやっていてゲームを作りたいんだったら、逆に今だったら後ろからボールを持って作れるなと。サイドバックだったら見える角度、景色というのがなかなか難しい中、真ん中なら両方とも見えるのですごくやりやすかった。ロングキックも真ん中の方が蹴りやすいというのもあったし、そういう部分でもなんだかんだ適正ポジションはここだったのかなと思います」
大学3年生になるとレギュラーに据えられて年間を通して活躍。関東大学1部リーグ制覇に大きく貢献するなど、確かな結果を残した。そこで本人としても「大学レベルでは通用する」と実感したという。
ただ、その一方でプロはどうかと問われると「全然ダメ」というのが本心だった。2年生の時に横浜F・マリノスの練習に参加しているのだが、その時に中澤佑二や中村俊輔と対峙して「レベルが違い過ぎる」と感じたのだとか。そういった刺激を受け、3年生で結果を残すに至ったのだが、プロでやっていける自信は微塵もなかった。
そのため大学リーグで優勝した後に練習参加の依頼が来ても、監督に「丸山はプロになりませんと言ってもらった」。プロサッカー選手ではなく、就職することを目標に就活を始めたのだ。
本人の中でも就職する気になっていた。だが、運命は丸山をサッカーの世界に引き込むことになる。
最も行きたかった会社の最終試験に落ちてしまったことで、「ずっと第一候補の会社を目指していた中で最後に弾かれたことがすごく悔しくて。これはサッカーをやらないとめっちゃ後悔するなと思った」。丸山はすぐに行動に移した。明治大の神川明彦監督に「すごく甘いのはわかっていますけど、駄目もとでプロサッカー選手を目指す方向でいいですか」と打ち明けに行った。すると、「その言葉を待ってたよみたいな感じで言ってもらった」。結局、ユニバーシアードサッカー日本代表での活躍もあり、その後に7つのクラブからオファーをもらい、もう一回チャレンジしたいという思いからFC東京に加入することになった。
ここの選択が違っていたらどうなっていたのだろう。改めて人生とは面白いものだと思わされる話である。
停滞から掴んだ転機
就職まで考えながら最終的にサッカーの道に進むことを決断した丸山。だが、やはりプロの世界はそんなに甘くはなかった。
「もうオレが思っていた通りでした。やばいなと。やっぱり全然実力が足りないなと感じました。それに加えて若さもあったので、『なんで使わないの』というプライドも邪魔をしていたと思います。だから、チャンスが来たときにいい準備ができていたかというと完璧ではなかったよねと。若い選手にそうなっちゃダメだよと言いたいけど、自分もそうだったので言えないですね(笑)」
最初の2年間、リーグ戦に限って言えば、3試合しか出場の機会を得られなかった。その時期、どんなことを考えながら日々、過ごしていたのかが気になった。理解はしていたとはいえ、全くチャンスを得られない状況は誰しもキツいのは明らか。そこでどんな考えを持っていたのか。
「やっぱり試合にほとんど絡んでいないと考えると、外に出て景色を変えなくてはいけないという思いも強くありましたし、逆に外に行ったら高いレベルでやれなくなるかもという思いもありました。もう終わっちゃうのかな、自分の人生は間違ってたかもなと思う時もあって、その精神的な弱さが、今思えばサッカーに対して一生懸命やってるつもりだけど、どこか中途半端に向き合ってる感じだったのかなと。100%でやっているつもりでも、結局、チームが負けても試合に出られないじゃんというマインドだったように思います」
悩んだ末、丸山は2014年に期限付きで湘南ベルマーレに移籍することを決断した。「僕自身、ここで駄目だったら本当に終わるぐらいの覚悟を持って行きました」。この移籍が丸山の未来を変えるターニングポイントとなった。
この年、湘南は衝撃的なシーズンを送ることになる。1年でのJ1復帰を目指す湘南は、曺貴裁監督の下、開幕14連勝という驚異的なスタートダッシュを披露すると、最終的には史上最多となる勝ち点101を奪取。J1昇格とJ2優勝を決めるに至った。丸山は開幕からスタメンの座を手にすると、現・リヴァプールの遠藤航らとともに最終ラインを形成。堅固な守備でリーグ最少失点を記録した。
「本当に運良くすごく強いチームの中で優勝を経験することができた。チームに恵まれたなと思います」
丸山にとって曺監督との出会いも大きかった。「毎回、どの監督がすごかったと聞かれたら、やはり曺さんが一番にパンと出てくる」と表現する中、どんなところに凄みがあったのか。
「監督ぽくないというか、先生とお父さんの間と言うんですかね。感情をうまくコントロールしてくれるし、チームのマネジメント力はすごく上手だった。とりあえず一生懸命やらなくちゃいけないなという思いになりました。ずっと見られているわけではないんですけど、チームが勝って浮かれてたらすごく怒るし、負けててなんかピリッとしてても逆にまだぬるいと言ったり、見てるところが人と違う感じがしました」
毎試合のようにメンバーが変わる状況もあり、少しでも気を抜けばスタメンから外される。そのためトレーニングから勝負の日々だった。そういった日常が、丸山を選手としても人間としても成長させることにつながった。
「今まで苦しかった分、あの1年間はほぼほぼハッピーなことばかりでした。サッカーの経験はもちろんそうですけど、サッカーの楽しさっていうのをまた改めて思い出させてくれたなと。やっぱりサッカーが好きだな、面白いな、楽しいなという思いにさせてくれる1年でもあったと思います」
再チャレンジと成長
湘南で素晴らしい時間を過ごした後、丸山は再び選択をすることになる。確実に出場機会があるであろう湘南に残留することも考えた。だが、居心地の良さもあり「ぬるま湯に浸かってしまうのではないか」という思い、そしてレベルの高い選手が揃うFC東京でチャレンジしたいという思いを踏まえ、FC東京への復帰を決めた。
2015年に復帰して以降は、少しずつチームの中心選手として立ち位置を確立。同年に希少な左利きのCBとして日本代表に選出されると、翌年にはクラブのフィールドプレイヤーにおいて唯一のリーグ戦全試合出場を果たすなど、一気に評価を高めることになった。
「心身ともにではないけど、ある程度、成長して戻って来られたのかなと。出られなくても腐らずしっかりやるというのは、やはり湘南の選手たちが黙々と真面目にやって、チャンスが来たらしっかり結果を残してというのを見てきた。そういうのもあって本当にいい準備が必要だなという思いがありました。チャンスを待ち続けた結果、コンスタントに試合に出れるようになった気がします」
AFCチャンピオンズリーグや日本代表での経験を経て、2018年の途中には「自分の力を発揮するのはここだという思い」で名古屋グランパスへ移籍。風間八宏監督やマッシモ・フィッカデンティ監督のもとで主力を担い、2020年にはリーグ最少失点を誇った最終ラインの一人として見事なパフォーマンスを披露した。
名古屋にはいい思い出も嫌な思い出もある。
2年目には「サッカーの価値を変えてくれた」とする風間監督にキャプテンに任命され、攻守にリーダーシップを発揮した。「そういう立場から逃げてきた人間だったけど、すごくいい経験をさせてもらった」と振り返るように、今までとは異なる経験が新たな成長に繋がったことは間違いない。一方で、2021年5月には右膝前十字靱帯を損傷。「すごくいい時期だったけど、一つの怪我で人生が変わった」というシーズンを棒に振る大怪我を負っている。
つねに死に物狂いで
そんな様々な出来事を経て、2023年のシーズン終わりに名古屋を契約満了で退団することが決まった。丸山はこの時期、出身でもある関東圏のクラブを中心にオファーを待っていたという。もし、このタイミングでオファーが来ていなかったら引退も覚悟していたそうだが、そこで手を差し伸べてくれたのがフロンターレだった。
「同年代の選手たちが引退していく中で、本当にJ1ならば喜んで行きますぐらいでしたけど、カテゴリーを下げてまでしがみつきたいという欲もなかった。だから、フロンターレからしたらオファーを出しただけかもしれないけど、僕からしたらすごく救ってくれたという思いがあるんです。そう考えれば、もう死に物狂いでやるしかないよなって思いましたね」
昨季はリーグ戦7試合に出場した。決して多くの試合に出場したわけではないが、出番を得た時にしっかりと結果を残すことができたのは、これまで培ってきた経験がなせるわざだろう。改めて、1年間フロンターレでプレーしたことで感じた思いを聞いてみた。
「怪我もあって長くプレーする期間がなかったので、そこまで味わえなかった部分もあります。だけど、(名古屋時代に共闘した)風間さんのときと攻撃の部分はすごく似ていたので、35歳になってもまだうまくなれるんだという感覚が戻ってきた感じがしました」
年齢を重ねてもまだまだ成長できる。その思いをさらに強めたのが小林悠や家長昭博といった年齢の近い選手たちの存在だ。
「ここまで年齢を重ねて残っている人たちにはある程度のルーティンだったり、プレーをするにあたっての準備をする重要性というものがある。僕ももともと準備をする方でしたけど、それが正解だったんだなと改めて思わせてくれた。逆にこの年齢でやれているということは、何かしらの理由があるんだなと思いましたね」
フロンターレに加入して1年、怪我もあって全てがうまくいっているわけではない。それでも、今季はAFCチャンピオンズリーグエリートで準優勝に貢献するなど、新たな経験を手にした。一度は引退すら考えた男は、ここからのキャリアをどう考えているのだろうか。
「やっぱりプロとしてプレーしている以上はタイトルを何かしら獲りたいですね。あとはできるだけ長くプレーしたいなと思っています。フロンターレには救ってもらったというか、僕にサッカーをできる場所を与えてくれた。フロンターレのために全力を注いで最後まで頑張りたいです。1試合1試合が最後の試合だと思って今でも心に決めてやっています。これからも死に物狂いでやっていきたいです」
フロンターレを「タイトルを取らなくてはいけないクラブ」と表した丸山。覚悟を持ってフロンターレでのプレーを選択した男は、その目標を達成するため、常に”準備の心”を持ち続けながら自身の全てをクラブに捧げていく。
profile
[まるやま・ゆういち]
経験に裏打ちされた落ち着いたプレーぶりと左足の正確なフィードが武器のセンターバック。コンビを組むセンターバックとのチャレンジ&カバーを徹底し、コーチングで周りを動かしチームを鼓舞する。2024シーズン、名古屋グランパスより完全移籍で加入。選手のやりくりが難しい時期のチームを支え、試合ではゴール前で体を張ってチームのピンチを救った。非常に頼りになる存在だ。
1989年6月16日、東京都世田谷区生まれニックネーム:マル