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SEASON 2014 / 
vol.10

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MF18/Kanakubo,Jun

Where there is a will, there is a way

MF18/金久保 順

テキスト/いしかわごう 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Ishikawa,Go photo by Ohori,Suguru (Official)

順はセンスの塊──小学生時代を知る小林悠は、彼のプレースタイルをそう表現する。
今季、大宮アルディージャからの期限付き移籍で川崎フロンターレにやってきた金久保順。
そのルーツと、胸に抱える想いに迫った。

2014年1月11日、ミューザ川崎で行われた新体制発表。川崎フロンターレの一員となった金久保順は、集まったサポーターを前にしてこう告げた。
「僕はフロンターレに本当に魅力を感じています。Jリーグで一番魅力があるのはフロンターレだと思っています」
 サポーター受けを狙ってお世辞を並べるほど器用なタイプではない。これはフットボーラーとして生きてきた男の、純然たる本音だった。自分の表現したいプレーとチームの目指すスタイル、それが一致していたクラブが川崎フロンターレだったのである。それも、ずっと前から。

「大宮の頃からフロンターレの試合を観ながら、『こういうチームでプレーしてみたいな』と思っていましたから。今はそれが現実になっているので、嬉しいですよ。もしかしたら、自分は思っていることが叶うタイプなのかもしれないですね」

 そう話す口元からは、ほんの少しの笑みがこぼれていた。

 金久保順は茨城県の猿島郡境町で生まれ育った。
現在の人口は約25000人。本人曰く「超田舎。遊ぶところが何もない」とのことで、自宅からの景色は畑と田んぼだけが延々と続く世界だった。徒歩ではなく通学バスに乗って小学校に通っていたというのだから、おおよその察しがつくというものだ。

 サッカーとの出会い方も、実に田舎らしい。
「隣町に住んでいた従兄弟の庭に、芝生とゴールがあったんですよ。親が作ったゴールとサッカーできるスペースがあって、子どもにはちょうどいいぐらいの広さでした。そこでしょっちゅうボールを蹴ってましたね。田舎は家も広いので(笑)、家の中でもずっとサッカーボールに触れてました。そういう意味では、よい環境だったかもしれません」

 毎日サッカーボールを蹴っていた少年は、10歳になると小学校のサッカー少年団と境町のサッカークラブに入った。サッカー少年の王道コースである。サッカーの楽しみ方やプレーの原点も、この時期に見いだしたものだ。

「攻めるのが好きでしたね。特にパスが好きで、ボールを持って楽しくやりたかった。自分がゴールを決めるよりも、それをお膳立てするのが好きな子どもでしたね。味方にパスして最後は誰かに決めてもらうのがよかった」

 実はフロンターレには、小学生時代の金久保順を知る人物がいる。同学年の小林悠である。小林の出身は東京都の町田。場所柄を考えるとさしたる接点などなさそうだが、クラブのコーチ同士の仲が良く、互いの交流が盛んだったのだという。週末にバスで遠征を行い、日帰りではなく宿泊するなど、ちょっとしたフェスティバルのような雰囲気だったそうである。小林が金久保家に泊まっていたこともあったとのことで、当時の光景を懐かしそうに振り返る。


MF34/パウリーニョ

 

「まわりは本当に田んぼと畑だらけでしたよ。その思い出しかないぐらい。あそこから順のような天才が生まれるんですね(笑)。順は昔から中盤で、ものすごくうまかった。今と同じようなプレースタイルだし、そういう意味では、昔と変わってないです。ただあのときの境町は、順だけのワンマンチームだったので弱かった。あとは境町の監督がすごく怖かったのも覚えています。歴然たる実力差があるので仕方ないのに、負けて物凄く怒られていたのは小学生ながらに可哀想だったなぁ」

 最後は金久保本人とはあまり関係ない話題になっていたが、この頃すでにプレースタイルの輪郭があったのは確かなようである。あれから約15年の時を経て、現在の二人は同じユニフォームをまとってプレーしている。プロの選手としての金久保を小林はどう評価しているのだろうか。

「あのときと変わらずにうまいな、ですね。うまい選手が持っている独特のものってあるじゃないですか。自分の中では僚太(大島僚太)がキラリと光るプレーをするなという選手だったのですが、順のプレーにもそれを感じるんです。オーストラリアでのACL・ウェスタンシドニー戦で、順が胸トラップからシュートを打った場面があったんですけど、あのセンスが順なんですよ。『あぁ、昔の順のままでちゃんと成長してきたんだな』と試合中にひとりで感動していたぐらい(笑)。本当にセンスの塊。一緒にやれるのは嬉しいし、フロンターレのサッカーに合っている選手だと思ってます」

 話を少年時代に戻そう。
小林悠も絶賛するほど抜群のサッカーセンスを持つ金久保だったが、中学生になってからの雲行きは少し怪しくなっていた。中学に進学すると、サッカーを続ける選択肢は学校の部活動のみ。サッカー部の顧問はいうと、ほぼ素人同然。サッカーがうまくなる環境は望めなかった。中学生という多感な時期と重なることも無関係ではないだろう。小学生時代の仲間のサッカー熱は冷めていき、やめていった者も少なくなかったようだ。金久保自身はサッカーを続けていたが、両親と衝突することもあったそうである。

「母親とはよく『サッカーを辞める・辞めない』でぶつかってましたね。最終的には、父親から『自分で決めろ。でも母親には迷惑をかけるな』と言われて、サッカーを続けることを決断しました。やると決めてからは、最後はみんなで県大会に出る為に頑張ろうと団結しました。夏の総体では頑張って県大会に出ましたよ。サッカーを辞めた友達も戻って来たんですけど、茶髪はダメなので顧問の先生からスプレーで髪を黒に染められて出場してました」

 小学生時代の仲間達が戻って来て、一致団結して県大会出場切符を勝ち取ってしまう。なんだかまるでスポ根漫画のような筋書きだが、県大会は一回戦で敗退した。中学卒業後には水戸短大附属高校(現:水戸啓明高等学校サッカー部)に進学すると、巻田清一監督のもとでイチから徹底的に鍛えられた。「巻田監督がいなかったら、今の自分はいない」とまで言い切るのだから、この進路と出会いは金久保にとって転機になったということだろう。

「それまでは、どちらかといえば好き勝手にやっている性格だったんですよ。でも『攻撃だけやっていればいいわけじゃない。お前のチームじゃないんだぞ』と巻田監督に怒られました。当時はなにくそと思いながらやってましたね。試合ではずっと使ってもらっていたし、練習もストイックにやってましたよ」

 サッカーに全力で打ち込んだが、高校選手権出場には届かなかった。1年生のときは県予選の決勝戦で負け、2年生のときは準決勝で敗退した。そして3年生のとき。優勝候補と目されていたが、決勝戦で鹿島学園と2-2で延長戦までもつれた死闘の末に敗れた。

 高校卒業後、プロの誘いがなかったわけではないが、巻田監督の勧めで流通経済大学に進学している。最初は藤本淳吾(横浜Fマリノス)に憧れて筑波大学への進学を希望したが、実力ではなく学力の問題であえなく断念したというのが、彼らしい。

「巻田監督から『プロに行ってもいいだろうけど、高卒で潰れてしまう選手もいるので、お前は大学に行った方がいい。大学4年間の後でもプロになるのは遅くないんじゃないか』と言われて、『そうですね。じゃあ、大学に行きます』と言って決めました。流通経済大学のレベルが高かったのも知ってましたから。自分はわりと人の意見に左右されるんですよ。芯が強そうですか?いや、芯はないっすよ(笑)。信頼している人の言葉を信じて、流れに身を任せるタイプです」

 流通経済大学は大学サッカー界を牽引する名門である。特に金久保が在籍していた2006年から2009年といえば、関東大学リーグ3度優勝するなど、まさに黄金期。同じ87年組だけでも、宇賀神友弥(浦和レッズ)、千明聖典(ファジアーノ岡山)、船山貴之(松本山雅FC)と何人ものJリーガーがいるほどだ。

 この時期の流通経済大学といえば、JFLに参戦したことでも話題になった。当時は大学リーグとJFLや地域社会人リーグの二重登録が可能だったためだが、1軍相当のチームが関東大学リーグ、2軍相当がJFLに出場するという仕組みで、良質な選手たちを実戦で育て上げている。金久保は大学1年生のときはJFLに出場し、19試合に出場。大学生でありながら、全国各地を飛び回りつつ、元Jリーガーもいる社会人との真剣勝負の場でもまれる経験を積んだ。

「みんな当たり前のようにキャリーバック引いて移動してましたから、遠征慣れした大学生でしたね(笑)。試合で相手に気後れすることはなかったです。『プロになろうとしている選手が、社会人に負けてどうすんだ?負けられないな』と思って試合をしていましたから。それに元Jリーガーに負けていたら、Jリーグにはいけないでしょう。胸を借りるという気持ちではなかったですね」

 3年生になると、トップチームのレギュラーとして定着。順風満帆なキャリアだが、大学3年生の時に行ったイタリア遠征でのこと。アンジェロ・ドッセーナ国際ユース大会でACミランのユースと対戦した際、相手の10番のうまさに、金久保は打ちのめされたというのだ。

「あれは人生で初めて受けた衝撃ですね。坊主で左利きで背もでかい選手なんですが、トップ下で異常にうまかった。結局、その選手が大会のMVPも取ったんです。その後、すぐにトップチームにあがったと思うのだけど、ミランにはカカがいたので出場機会がなくて、どこかのクラブに移籍していったと思います。もう名前も覚えていない選手ですが、あれは衝撃でした。コーチからも『あそこからお前は変わった』と言われたほどです」

 金久保に衝撃を与えたその選手とは、プレースタイルや経歴から調べると、おそらくダヴィデ・ディ・ジェンナーロだと思われる。ACミランのユースからトップに昇格しているが定着できず、その後はクラブを渡り歩き、現在はセリエBのUSチッタ・ディ・パレルモでプレーしている。欧州トップリーグにおける競争の過酷さがうかがい知れるエピソードだ。

 大学の3年と4年では関東大学リーグを連覇。特に王者として臨む4年の代では、「流経は去年より弱くなった」との烙印を押されない為にも全員が奮起した。前期は一敗もせず、圧倒的な力で連覇を果たしている。主力である金久保のもとにはJリーグクラブからもいくつかの誘いがきたが、早い段階で打診を受けていた大宮アルディージャに入団することをあっさりと決めた。

 大宮では2010年から3シーズンプレーしている。
入団早々に成績不振で監督交代の事態となったが、1年目は19試合、2年目は10試合、3年目は16試合とまずまずの出場機会を掴んだ。ただ出場時間はなかなか増えず、自分が思い描いていたようなシーズンは過ごせていなかった。どこか心にモヤモヤした何かを抱えながらプレーしていた金久保は、2013年シーズンを迎えるにあたって、フロントに「外に出たい」と移籍を直訴。環境を変えて、心の中にかかったもやを振り払いたかった。

「何かきっかけが欲しかったんです。J2のカテゴリーでプレーすることに多少の抵抗はありましたが、イチからやるつもりで決断しました。もう気持ち的にはルーキーでしたよ」

 初めての移籍先は、J2のアビスパ福岡になった。
新監督であるプシュニク監督は、相手を研究して自分たちのフォーメーションも変えることすらも厭わない戦い方を選択するタイプだった。そして選手は、とことんハードワークを要求された。そんな指揮官の方針に驚きはしたが、これも自分を変える良いきっかけだと捉えて、金久保はタフにプレーし続けた。怪我はあったが、リーグ戦28試合に出場。サッカー選手として納得のシーズンを過ごした。最初は不安だった福岡での生活にも家族はすっかり馴染み、金久保自身も福岡に永住してもいいぐらいの居心地だったという。ただこのシーズンの福岡は、ピッチ外で大きな問題を抱えていた。資金繰りに関するニュースが流れるなど、深刻な経営危機に陥っていたのである。所属元である大宮アルディージャ復帰という選択肢もあった中、金久保のもとに届いたのが、J1の川崎フロンターレからのオファーだった。

「福岡では自分が中心となってやらなくてはいけないと思ったし、そこにやりがいを感じましたね。怪我もあったので満足とまではいきませんでしたが、大宮のときのようなモヤモヤはなくなりました。監督(プシュニク監督)からも直々に『来年も残ってくれ』と言われていました・・・でもフロンターレからオファーが来たら、フロンターレでやりますよ。優勝を狙えるクラブでもプレーしたかった」

 2014年、金久保順の川崎フロンターレでの日々が始まった。
ボールを扱うテクニックとセンスには自信があったが、他の新加入選手同様、風間監督のスタイルに慣れるのは苦労した。狭いエリアであっても、一瞬で相手を外して、味方からのボールを受ける。そのボールは相手から取られない場所に正確に置く。あるいは味方が相手を外した瞬間を見逃さず、パスをつける。そのパスは、味方の足元に寸分の狂いもなく強いキックで出す。しかもこれはあくまで入門編。チーム全体のテンポについていくためには、そのプレーを実行に移すための状況判断、思考スピードをさらに高めなければならない。体得するのは容易ではなかったが、それでも貪欲に取り組んでいると、少しずつ何かを掴み始めたのだろう。その最中の4月には、こんな風に話していた。

「動きにしても、相手を外して、ボールをもらう前にいろいろと考えてしまって、そこでボールを受けた後に『アレ?』ってなってしまう。まだ頭でっかちなんでしょうね。でも楽しいです。自分は福岡から来たから、普段の練習でやっていることが福岡とは真逆なんですよ。あっちでは相手を研究してどう勝つかでした。でもフロンターレはそうじゃない。自分たちのやることをやって勝とうとしているから、やりがいはありますよね。面白いです」

 そうした姿勢は指揮官も評価していた。
筑波大からやってきた谷口彰悟は例外としても、今季の新加入組の中では比較的早くフィットした金久保の理由をこう述べている。

「ウチに来た選手というのは、新しいことに縛られてしまうことがあるが、順の場合は、まずやってみる。それがうまくいかなくても、自分で考えてやっていける。止まっている時間が少ない選手ですね。実はそれが一番大事なことで、それをできる選手というのは伸びていく。技術や判断、まだまだ伸びシロがある選手だと思います」

 今シーズン、「金久保が流れを変えた」と評された試合がある。4月11日に行われたリーグ第7節の柏レイソル戦だ。

 1点ビハインドで迎えた62分、途中交代でパウリーニョに代わって投入されると、金久保は相手の守備ブロックの間に顔を出しながら巧みにボールを引き出し続けた。「順があれだけボールを受けることで、何かが起きるような感じがした」とは、試合後の大久保嘉人の言葉だ。金久保がパスの中継点となることで、それまで分断されがちだったパスワークが徐々に循環し始めたのである。そしてまるで歯車に潤滑油が注がれたように、いつものリズムからチャンスが生まれ始めた。73分、ドリブルを仕掛けた森谷賢太郎が、中村憲剛のパスに飛び出した山本真希が鮮やかに決めて同点とした。試合は1-1で終わったが、金久保にとっては、ひとつの仕事を果たした試合となっている。

 その4日後に中国で行われたACL・貴州人和戦ではスタメンとして出場。37分には、右サイドの崩しから森谷賢太郎の折り返しにゴール前に飛び込んだ金久保がうまく潰れ役となり、こぼれ球を中村が一閃。これが貴重な決勝弾となった。少しずつチームの中での存在感を見せ始めた金久保は、その後のリーグ戦では交代カードを担うようになる。風間監督がベンチワークを積極的に行うタイプではないことを考えれば、評価されている選手であるのは確かだが、スタメンを勝ち取るまでには至っていない。パスワークの潤滑油となってチームを機能させることはできたが、大事なのは、さらに個人としてどんなプラスαを与えることができるか、にある。

「あのメンバーの中でプレーすることが難しいとは思わなかったです。それはフロンターレでサッカーしていく上では最低限のことですから。大事なのは、チームの流れに入って、個人としてどんなプラスαを出せるかだと思ってます。例えば嘉人さんなら点を取れる。悠も同じ。憲剛さんなら決定的なパスを出す・・・と、それぞれありますよね。
 じゃあ、自分は何なのか。流れには入っているかもしれないけど、その間を取り持っているだけで、決定的な仕事はそんなにしていない。柏戦もインパクトは特にないですし、決定的なパスを出したわけではない。結局、『うわっ』っていうプレーをしないと印象には残らないですよね。チームの流れを崩さないようにしたうえで、自分の良さを出さないといけない」

 金久保のいる中盤は、チームにおいてもその技術と感覚をより問われるポジションである。顔ぶれをみても、大黒柱の中村憲剛を筆頭に、成長著しい若手の大島僚太と森谷賢太郎、さらに昨年の主軸である山本真希と技巧派がズラリと揃う。スタメンクラスの選手はみな高いレベルで互いの感覚を共有し、独特のリズムでパスを奏でている。あのスタメンの中のテンポに入っていけるレベルだが、そのうえで自分なりの武器を見せないと、この中盤で抜きん出ることはできないだろう。このチームでの自分の居場所をどう見いだしていくべきか。現在の金久保は、その武器を真剣に探し続けている最中といえる。ただ真剣に向き合っているからこそ、最後は少し茶目っ気を見せながらこう笑った。

「でもひょっとしたら、それを出さないことが自分の持ち味になるのかもしれませんね」

 7月15日、ワールドカップによる中断期間を経てリーグ戦が再開した。そのキンチョウスタジアムでのセレッソ大阪戦、0-1で迎えた後半開始から、金久保順はピッチに登場している。

「意識していたのは距離感ですね。ボールに触ることと、近くにいる選手のサポート。その繰り返しでチームのリズムは取り返せると思っていました」

 金久保の言葉通りだった。後半になると劣勢だった前半から一転してフロンターレがリズムを握り始める。選手個々が本来の姿を取り戻したことでパスワークが機能。左サイドに入った金久保も、流動的な位置取りで味方のボール回しを循環させていく。60分には小林悠が倒されて得たPKを大久保嘉人が決めて同点。ここでフロンターレは攻撃の手を緩めず、運動量の落ちた相手を攻め立てる。ボールを握りながら、狭い局面で細かくパスをつなぎながら、セレッソのゴール前へとボールを動かし続けた。

 そして76分、逆転弾が生まれる。
高い位置でシュートパスを丁寧につなぎながら、ゴールに迫っていく味方のボール回しを見守っていると、次の瞬間には、何かを予感したかのように、金久保は中盤の底から前線に飛び出した。

「タイミングをうかがっていたんです。後ろに残っていたのは僕1人だったので、一瞬、前に出て行っていいかどうかは迷いましたが、思い切っていきました」

 ペナルティエリアの手前に飛び出した金久保は、大島のパスの受け手になろうとしたが、背後にいる相手選手の姿が視界に入っていたので、スルーして味方につなげようとした。だがスルーしたボールは相手選手の足に当たった。跳ね返ってきたボールは、次の瞬間、自分の目の前に転がってきていた。

「ボールが戻ってきたので、パスの選択肢はなかったですね。あとはシュートを打つだけでした。普段ならば、ファーサイドに巻くシュートのイメージなのですが、良い感じでニアに打ててよかったです」

 左足を素早く振り抜くと、低い弾道のシュートは、飛びつく相手GKの手をすり抜けてゴールネットに突き刺さっていった。喜びを爆発させるタイプではないが、後ろから駆け寄って来た中村憲剛に抱きつかれると、集まって来たチームメートたちにももみくちゃにされた。試合はこのまま終了。金久保の移籍後ゴールは貴重な決勝弾となり、チームは3位に浮上した。

 中断期間中、チームの中での自分の武器を探し、「印象よりも結果」を熱望していた金久保順は、再開初戦で決勝弾という最高の結果を得ることができた。フロンターレというチームに、個人としてどんなプラスαを与えることができるか。その答えも自分なりに掴みかけているのではないかと思ったが、本人の返答はつれなかった。

「まだわからないですね。ゴールは早く欲しいと思っていましたが、このゴールはたまたま入っただけ。これが自分のきっかけになったと思えるようなゴールになれば良いですけど。この試合はみんな勝ちたいと思っていたし、自分の結果よりも勝つことが重要でした。大事なのは、あくまで次ですから」

 冒頭に紹介した新体制発表での挨拶。金久保はJリーグで一番魅力があるのがフロンターレであること、そしてだからこそ、その証が欲しいと口にした。
「Jリーグで一番魅力があるのはフロンターレだと思っています。それを証明するためにもタイトルを獲ることが一番手っ取り早いと思うので、タイトルを獲るためのひとつのピースとして、チームに貢献できるよう頑張りたいと思います」

 金久保順という存在が、今季の川崎フロンターレにどんなプラスαをもたらすことができるのか。その答えは、まだわからない。だが彼がクラブにタイトルをもたらすピースとなったとき、それも自ずと見えてくるに違いない。

マッチデー

   

profile
[かなくぼ・じゅん]

所属元の大宮アルディージャから期限付き移籍でフロンターレに加入。ワンアクションで相手のプレッシャーをかわすアイディアと、周りを使ったコンビネーションでゴール前に入り込んでいくプレーが特徴的なMFだ。試合のリズムを変えるチームのアクセントとして、再びJ1の舞台にチャレンジする。

1987年7月26日、茨城県
猿島郡境町生まれ
ニックネーム:ジュン

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